第25話:宗谷の掟を覆す条件 ――デッドラインの設定――
大人たちが突きつける「奉公」という名の過酷な現実。
十歳になればバラバラにされる運命を覆すため、六歳の勘太が村の有力者たちを相手に、
少年たちの未来を賭けた大博打の交渉に挑みます。
宝暦十一年(一七六一年) (仲春) 蝦夷地・宗谷
沈黙が、重く場に居座る。
鉄造の荒い鼻息と、徳也が髭をなでる微かな音だけが聞こえた。
囲炉裏の中で爆ぜる薪の音が、重苦しい沈黙をさらに際立たせていた。
先ほど俺が叩きつけた「執行猶予」の提案。
それが、この部屋の温度を数度下げたかのように感じられる。
六歳の俺の身体は、大人たちの放つ威圧感にさらされ、本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしていた。
だが、俺は床を掴む指先に力を込め、視線を逸らさなかった。
「……一生かかって稼ぐ以上の実り、だと?」
鉄太の親父、鉄造が地を這うような低い声で繰り返した。
その拳は、膝の上で岩のように固く握りしめられている。
漁師として荒波を潜り抜け、巨大なクジラやトドと渡り合ってきた男の「拳」だ。
一撃で俺の頭など砕けるだろう。
「そうです。先程見てもらった、この一年の『商い筋』の証の、さらにその先だ」
俺は一歩も引かず、大人の胸元を睨み据える。
六歳の視界では、座っている彼らですら見上げるような巨壁だ。
だが、俺の背後には、震えながらも膝を突いて立ち上がろうとする鉄太と、
唇を血が滲むほど噛み締め、必死に算盤を弾くような目で床を見つめる朔弥がいる。
俺がここで折れれば、彼らの未来は「奉公」という名の、ただの安い労働力として消費される。
現代のブラック企業さえ生温い、人身売買に近い「掟」の世界。
そんなバカげた「サンクコスト」の押し付けを、俺は絶対に認めない。
「抜かすな、小僧。
俺たちがどれだけの時をかけて、その船を、その家を守ってきたと思っている。
ガキの火遊びと一緒にされては堪わん。
お前が並べたその木簡の文字に、北の海の冷たさが、
潮風で焼ける肌の痛みが刻まれているとでも言うのか」
鉄造の言葉は重い。
それは経験という名の暴力だ。
だが、俺には現代という未来から持ち帰った「武器」がある。
「だからこそ、その時間を『金』と『仕組み』で短縮して見せると言っているんだ!」
俺の声に、熱が混じる。
論理だけでは、この時代の人間は動かせない。
情熱と、それ以上の「利」が必要だ。
「あんたたちが命を懸けて海に出るその『尊さ』は否定しない。
だが、その命を削る時間を、俺たちは『商い』で買い戻してやる。
来年の春、二人が十歳になるまでに。
村の者が、我が子を奉公に出すのを惜しむほどの富をここに積む。
彼らがここを去る必要がないことを、俺は『金の重さ』で証明してやるんだ」
沈黙。
今度は、朔弥の父・徳也が静かに口を開いた。
村の寄り合いで知恵袋として知られる彼は、勘太が提出した書き付けを、穴が開くほど見つめていた。
「勘太。お前の言う『商い』とやらは、確かに面白い。
それに、この掛け合いもよく考えられている。
成功すればよし、失敗しても儂らに損はない……」
徳也の瞳が、俺の心の奥底を暴こうとするかのように鋭く光る。
この男、俺の提案が「ノーリスク・ハイリターン」な投資案件であることを見抜いた。
「おい、徳也! いいのか、そんな簡単に……」
鉄造が焦れたように声を荒らげる。
だが、徳也は好々爺然とした笑みを浮かべ、それを手で制した。
「……鉄造さん。あんたも聞いたろ?
うまくいけばあんただけじゃなく村全体のためになる話だ。
失敗したところで何も変わらん。
……まあ、子供のわがままに付き合うのは、俺たちの柄でもなくて、
少々しゃくかもしれんがな」
徳也の言葉は、鉄造の尖った神経を巧みに逸らした。
徳也は、囲炉裏の脇に転がっていた燃え残りの炭を、無造作に拾い上げた。
その仕草には、獲物の急所を定めるような冷徹な確信がある。
彼は、俺が並べた木簡の一枚を裏返すと、その乾いた木の肌に、三つの印を刻むように書きなぐった。
炭が削れる嫌な音が、静まり返った部屋に響く。
現代の感覚で言えば、それはスタートアップに突きつけられる
過酷な「投資条件」だ。
だが、この時代の宗谷において、
それは一度交わせば違えることのできない「死生を賭けた契約書」と同義だった。
「その『わがまま』を通すというなら、儂らが納得するだけの『仕上がり』を見せてもらう。
一つ。来年の春までに、新しい漁船をもう一隻、買い増せるだけの金を揃えなさい」
鉄造が頷く。
一隻の船は、家族数代の生活を支える莫大な資産だ。
「二つ。そのカニ殻の肥料とやらで、村の西にある『石だらけの荒れ地』を、
来秋までに本畑に変えてみせろ。
そこから、常の村の並みを上回る実りを出してみせるんだ。
口先だけではなく、村人の腹を、お前の泥臭い理で満たしてみせろ」
地域社会への貢献。
これを達成しなければ、どれだけ金を稼いでも村の中で孤立する。
徳也の狙いは鋭い。
「そして三つ目だ、勘太」
徳也の瞳が、さらに鋭さを増す。
「お前は、鉄太や朔弥をここに留め置きたいと言う。
だが、二人の『才覚』がなければ回らぬような場所は、ただの独りよがりの遊び場だ。
もし二人が病に倒れれば、その瞬間に村の富は途絶え、残された者たちは路頭に迷う。
……そんな危うい場所に、倅らの命を預けるわけにはいかん」
彼は、炭の付いた指で俺を指差した。
「来年の春までに、たとえ二人がその場にいなくとも、他の誰かが代わりを務め、
滞りなく富が生まれる理を見せなさい。
個人の才に頼らず、仕組みで動く。
それができて初めて、お前たちの集まりを村の『生業』と認めよう」
俺の背中に冷たい汗が流れた。
三つ目の条件。
それは、俺が朔弥に指摘された「属人化の解消」という急所を、正確に突いたものだった。
老獪な徳也は、この事業が「勘太」という異常な子供一人の頭脳に依存しているリスクを
完全に見抜いている。
「……承知しました。来年の春、ここで答え合わせをしましょう」
俺が深く深く頭を下げると、男たちは無言で立ち上がった。
鉄造と徳也は、重い足取りで部屋を去った。
ガタ、ピシャリ。と建て付けの悪い引き戸が閉まり、冷たい隙間風が室内の熱を奪っていく。
残されたのは、嵐の後のような静寂と、課せられたあまりに巨大な、三つの条件だった。
「……やったな、勘太。鉄太の親父さんが怒鳴ったときは漏らしそうだったよ」
朔弥が、崩れ落ちるように座り込んだ。
その指先は、今もまだ小刻みに震えている。
だが、その瞳には、恐怖を上回るほどの高揚が伺えた。
「……ふん、情けねえな朔弥」
それまで仁王立ちで固まっていた鉄太が、ようやく肺に溜まった空気を吐き出すように肩を落とした。
見れば、その額からは大粒の汗が滴り、組んだ腕は、
父・鉄造の威圧感に対抗し続けたせいで真っ白に強張っている。
「俺なんて、親父が木簡を叩きつけた瞬間、心臓が止まったかと思ったぜ。
……あんな親父、見たことねえ。本気で俺を海へ放り込む目をしてやがった」
鉄太は自分の震える拳を、もう片方の手で力任せに抑え込んだ。
そして、鋭い眼光を俺に向ける。
「俺だって、親父があんな顔をするのは初めて見たぜ。
……なあ勘太、本当に大丈夫なんだろうな。
船一隻なんて、親父が一生かけてやっと手に入れたもんだぞ。
それをたった一年でなんて……」
鉄太は自分の震える拳を、もう片方の手で力任せに抑え込んだ。
絶望しているのではない。
ただ、突きつけられた数字の巨大さに、足がすくんでいるのだ。
「ああ。だが、親父さんたちは俺たちを『子供の遊び』だと笑わなかった。
……対等の掛け合いに応じたんだ。
それだけで、万に一つの勝ち筋が、確かな道筋へと変わったんだ」
俺がそう答えた時、部屋の隅で静かに湯飲みの茶を啜っていた家主が、ゆっくりと腰を上げた。
「……随分な大博白をぶち上げたな、勘太」
徳蔵さんだ。
彼は去りゆく二人を追うことなく、鋭い眼光を俺たちに向けた。
その顔には、呆れと、それを上回るほどの「期待」が混じった笑みが浮かんでいる。
「鉄造も徳也も、本気だぞ。
来年の春、ここに金が積まれていなけりゃ、この村にお前たちの居場所はねえ。
……わかってるな?」
「……承知しています、徳蔵さん。
場を設けていただき、ありがとうございました」
俺が深く頭を下げると、徳蔵さんは鼻で笑い、カチッ、カチッと火箸で囲炉裏の炭を整えた。
「礼は来年まで取っておけ。……さあ、ガキども。夜は長えぞ。
大口を叩いた以上、肚を括って算段でも練り直せ。
俺は奥で寝る。油が尽きるまで、好きに使え」
徳蔵さんのその突き放すような信頼が、今の俺たちには何よりの燃料だった。
「……船一隻分の金を稼ぐだけじゃなく、
誰かがいなくても回る仕組みづくりに荒れ地の開墾か。
さて、何から手を付けるか、面白くなってきたな」
口ではそう命じながら、俺の背中には冷たい汗が伝っていた。
徳也さんが突きつけてきた三つの難題。
今までの延長線上では、万に一つも届かない。
抜本的に、計画を練り直す必要がある。
ガリッ、ガリッ。
炭を走らせる音が、俺の心拍と同期する。
冷や汗が顎を伝い、木簡に一滴落ちた。
それと同時に、俺の口角は自然と吊り上がっていた。
面白い。
ただ金を稼ぐだけなら、前世の焼き直しでしかない。
だが、この時代、この宗谷で、六歳の身体ひとつで『組織の理』を確立し、
不毛の地を黄金の畑に変えてみせる。
コンサルタントとして、これほどやりがいのある案件が他にあるだろうか。
(……いいだろう。まとめて受けて立ってやるよ)
俺は、再び炭を力強く握り直した。
俺の人生で最も長く、最も熱い一年が、今ここから始まる。
俺たちの手の中には、まだ、折れそうな木簡しかない。
だが、一年後、これを本物の『金』へと変えてみせる。
「船一隻分の金」「荒れ地の開墾」「仕組み作り」。
突きつけられた三つの難題は、現代の経営再建でも音を上げるような過酷な条件でした。
しかし、勘太のコンサル魂に火がつきます。
次回、不毛の地を動かす「土壌ハッキング」が始まります!
「面白い!」「勘太の逆転劇に期待!」と思っていただけたら、
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