【閑話】井の中の蛙、大海の主を知る ――朔弥の独白――
いつもご愛読ありがとうございます。
鯨の「ゴミ」から最高の一杯を作り上げた勘太。
仲間たちがその味に酔いしれる中、ただ一人、震えている少年がいました。
「神童」と呼ばれ、己の知恵を誰よりも過信していた朔弥。
彼が初めて目撃した、五歳の幼児の「正体」とは。
今回は参謀・朔弥の視点から、勘太という怪物の深淵を描く閑話をお送りします。
宝暦十年(一七六〇年) (初春) 蝦夷地・宗谷
その一口が、俺のこれまでの「知力」という名の自負を、ものの見事に粉砕した。
乳白色に輝く、とろりとした汁。
鯨の骨から溢れ出した濃厚な脂と、カニの香ばしい旨味。
そこに潮の香りと野草の爽やかさが絶妙な塩梅で重なり合い、
冷え切った内臓を暴力的なまでの多幸感で満たしていく。
「……あめぇ。なんだこれ、本当にあのゴミから作ったのかよ」
鉄太が椀の底まで舐め回すようにして食らっている。
新入りのガキどもも同様だ。
さっきまで空腹と寒さで死にそうな顔をしていた連中が、
今は一様にだらしなく頬を緩め、
五歳の幼児――勘太を、まるで救世主か何かのように崇めるような目で見ている。
(……完敗だ。これじゃあ、あいつらはもう勘太の言いなりになるしかない)
俺は静かに椀を置いた。
「肉以上の価値があるものを掴ませる」と言った勘太の言葉は、嘘でも誇張でもなかった。
大人が血眼になって奪い合った赤身の肉よりも、
捨てられた骨から絞り出したこの汁の方が、はるかに人を動かす力を持っている。
俺は、この村の大人たちをずっと冷めた目で見てきた。
海が荒れれば神に祈り、腹が減れば運を呪う。
文字も読めず、目先の干し魚一匹のために取っ組み合いを始める。
この最果ての地では、知恵など腹の足しにもならないのだと、半分は諦めていた。
そして、己こそがこの村で唯一の「知恵者」だと、鼻にかけていたのだ。
大人が数えられぬ数を数え、公儀の触れ書きを一度で読み解く俺を、
村の衆は「神童」と持て囃した。
俺はいつか、こんな泥臭い漁村を飛び出し、
松前や箱館で名を馳せる人間なのだと、天狗になっていた。
だが、あいつ――勘太は、そんな俺の子供じみた自尊心を、出会った初日に粉々に打ち砕きやがった。
(……井の中の蛙、だったわけだ)
勘太の横顔を盗み見る。
あいつ本人の様子は、周囲の狂乱とは裏腹に、驚くほど冷えていた。
焚き火の端で、冷めた汁の椀を片手に、眉間に深い皺を刻んでいる。
「……これじゃ、だめだな。
せっかくのチャンスだってのに...」
ぽつりと、勘太の口から不機嫌そうな言葉が漏れた。
俺は気づかれないように、あいつの隣へ歩み寄った。
「勘太。みんな、あんたの料理に震えてるよ。……満足してないのか?」
「……朔弥か。ああ、味はこれでいい。だが、手間がかかりすぎだ」
勘太は独り言のように、またぶつぶつと呟き始めた。
(……これだけの人手を動かして、できたのが今日一日の腹を満たす汁だけかよ。
これじゃあ、ただの炊き出しだ。
せっかくの鯨を、ただ食って終わりなんて……。
いや、まだ骨があるし、皮もある。
やれることは……ある。)
俺の背筋を、冬の風とは違う冷たい緊張が走り抜けた。
この汁を「最高の出来」だと思っていたのは、俺たち凡人の考えに過ぎなかったのだ。
「いいか、朔弥。
これは、みんなを働かせるための『前祝い』だ。
俺が本当に欲しいのは、これじゃない」
勘太は空になった大鍋を指差した。
「あの底に残った脂のカスだ。
それから、まだ手をつけていない皮も半分あるな。
……あれを煮詰めて、きれいな『油』にする。
まずはこの村の大人たちに、
俺たちがただのガキじゃねえってことを認めさせるための道具にするんだ」
(油を……認めさせる道具に……?)
意味は、なんとなくわかる。
油を精製して見せれば、徳蔵さんたちも俺たちを「ままごと」とは呼べなくなる。
だが、五歳のガキが考える先にしては、あまりに冷めている。
こいつは、腹を空かせた仲間を喜ばせるために鯨を拾ったんじゃない。
この村で、自分たちの立場を揺るぎないものにするための「材料」として、鯨を見ているんだ。
「さらに、取り除いた骨だ。
粉々に砕いて、カニの殻と一緒に焼けば、最高の肥やしになる。
これを村の畑で試して成果を出せば、大人たちは俺たちの知恵を拝むようになる」
勘太の考えは、もはや宗谷の浜を飛び出していた。
今はまだ商売にするには早すぎる。
道具も場所も、村の外に売る伝手だってない。
だけど、こいつの頭の中には、
俺たちには見えない「数歩先の勝ち筋」がはっきりと見えているに違いない。
「……朔弥。
お前、『大きな仕事になる』って言ったな。
……俺の言う大きな仕事は、こんな汁を配って終わるようなもんじゃないぞ。
この小さな鯨一頭から、どれだけの『次』を引っ張り出すかだ」
勘太が、唇の端を吊り上げて笑った。
戦慄した。
俺は、自分がこの五歳の幼児と同じ土俵に立っていると思っていた。
知恵比べをすれば、こいつに並べると思っていた。
だが、見ている先が、あまりにも違いすぎる。
俺が「今日の飯」をどうするかを考えている間に、
こいつは「この成果を、どうやって次の大きな力に変えるか」を考えている。
「……化け物だな。お前」
俺の呟きに、勘太は「ひどいな、ただの五歳児だぞ」と軽口を叩いてみせたが、
その目は笑っていなかった。
喜ぶ子供たちの背後で、勘太の影は焚き火の火に照らされて、巨大な怪物のようにも見えた。
この小さな鯨から、こいつは一体どれだけの「次」を絞り出すつもりなのか。
俺は、震える手で空の椀を握りしめた。
怖い。
だが、それ以上に……こいつが描く未来を、この目で見たいという強烈な好奇心が、俺の心を離さなかった。
(……いいだろう、勘太。あんたの言う『企て』、最後まで付き合ってやるよ)
冬の星空の下、五歳の王とその参謀の、本当の意味での「共謀」が始まった瞬間だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
自分を「神童」だと思っていた朔弥にとって、勘太の視座はあまりにも高すぎました。
ただの炊き出しで終わらず、すべてを「次」への布石として計算する。
そんな勘太の背中に、朔弥が共鳴していく様子を楽しんでいただければ幸いです。
「朔弥の視点、面白かった!」
「この後の『企て』も気になる!」と思っていただけましたら、
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