第8話 応急処置
王都の朝は、忙しなく始まった。
普段より早く開く市場、慌ただしく走る役人、張り替えられる掲示板。そこに書かれた文字はどれも似通っている――臨時、特例、一時的。
それらは人々を安心させるための言葉だ。
だが、安心とは多くの場合、「考える時間を先延ばしにする」ための道具でもある。
「穀物は確保できました!」
財務省の一室で、若い官吏が声を張り上げた。
「東方の商会から、通常の三倍の価格ですが……必要量は押さえています!」
その報告に、部屋の空気がわずかに緩む。
財務官は深く息を吐き、宰相と視線を交わした。
「……背に腹は代えられん。市場への放出を急げ。買い占めが起きる前にだ」
「はい!」
数字は痛ましい。
だが、数字があるということは、“対処できている”という錯覚を与える。
同時刻、王宮の別の部屋では、王太子レオンハルトが鎧を身につけていた。
華美な式典用ではない、実戦を意識した軽装だ。
「殿下、本当に視察へ?」
側近が、やや不安げに尋ねる。
「当然だ」
王太子は胸を張る。
「傭兵が抜けたなら、王族が前に立つべきだろう。民に不安を与えるわけにはいかない」
その言葉は、正しい。
少なくとも、聞こえは。
城門の外では、徴兵されたばかりの若者たちが整列していた。
鎧はまだ新しく、手足の動きはぎこちない。
「諸君!」
王太子の声が響く。
「今、国は試されている。だが恐れることはない。我々には、守る力がある!」
若者たちは歓声を上げる。
歓声は、恐怖を覆い隠す。恐怖を感じないわけではない。ただ、声を上げている間は、考えずに済む。
王都の中央通りでは、穀物袋が荷車から降ろされ、市場に積まれていった。
人々が集まり、ざわめく。
「本当に来たぞ」
「値段は……高いが、あるだけマシだ」
商人たちは、慎重に様子を見ている。
売れる。だが、急ぎすぎない。次の入荷が保証されていないことを、彼らは知っている。
宰相は、王宮の高窓からその光景を見下ろしていた。
「……落ち着いているように見えますな」
背後で、老官僚が言う。
「ええ」
宰相は頷く。
「“今のところは”」
その言葉に、老官僚は苦く笑った。
「応急処置とは、よく言ったものです。血は止まったように見えるが……傷は塞がっていない」
宰相は答えなかった。
答えは同じだからだ。
昼過ぎ、王太子は視察を終えて戻ってきた。
顔には達成感が浮かんでいる。
「民の士気は高い。問題ない」
その報告に、国王陛下は小さく頷いた。
「そうか……」
その声には、わずかな安堵が滲んでいた。
それを否定できる者は、ここにはいない。
マリアは、控えめに微笑む。
「よかった……」
彼女にとって、それで十分だった。
今日一日が、無事に終わるなら。
だが、誰も見ていない場所で、別の数字が積み上がっている。
国庫から流れ出る金。
延命のために積み重ねられる、将来の負債。
王国は、確かに持ち直したように見えた。
少なくとも、表面上は。
だが応急処置とは、本来――
“これ以上動かせない”ことを前提に施すものだ。
国は、まだ動いている。
そして誰も、その代償を正確には数えていなかった。




