第6話 一晩で起きたこと
夜が明ける前から、王都はざわついていた。
人々はまだ正確な事情を知らない。ただ「何かが起きた」という感覚だけが、街全体を覆っている。市場の扉が早く開き、商人たちの声がいつもより低い。値札が書き換えられ、袋の口がきつく縛られる音が増えていく。
私は、王都外縁にある小さな宿の一室で、結晶板を机に並べていた。
夜明け前にもかかわらず、板は休むことなく光を放ち、情報を書き換え続けている。
《北方穀物:王国向け出荷停止 確定》
《王都市場:小麦価格 二割上昇》
《傭兵団ヴァルクス:契約解除 完了》
一つ一つは、想定内だ。
むしろ、想定より穏やかですらある。最初は様子見。市場はいつだって、段階的に恐怖を織り込む。
私は、深く息を吸った。
怖くない、と言えば嘘になる。だが、恐怖は数字にできる。数字にできるものは、制御できる。
扉が、静かに叩かれた。
「アリア様。起きておられますか」
カイル=ドーンの声だった。
昨夜、港湾都市の使節と顔を合わせた直後、彼は自然に私の補佐役として隣に立っていた。王宮実務官僚の中でも、特に数字に強い若手だ。
「どうぞ」
彼は部屋に入るなり、息を整える間もなく言った。
「王宮から正式通達です。国外退去命令が……今朝付で発令されました」
「予想通りですね」
私がそう言うと、彼は一瞬、言葉に詰まった。
「……本当に、後悔しておられないのですか」
問いの形はしているが、確認だ。
泣いていないことが、彼にはまだ理解できていない。
「後悔は、選択肢が残っている時にするものです」
私は結晶板から視線を上げた。
「今回は、契約が完了しただけ。戻る余地はありません」
カイルは黙り込み、やがて小さく頷いた。
「……港湾都市リオネルから、正式な面会要請が来ています。今日中に」
「早いですね」
「商人ですから」
それから彼は、少し躊躇ってから続けた。
「王都では……殿下が荒れておられると」
私は反応しなかった。
知る必要がない情報だからだ。
「マリア嬢も、混乱しているようです。愛があれば、どうにかなると……」
「信じることは、悪いことではありません」
私は静かに言った。
「ただし、信じる相手と分野を間違えなければ、です」
窓の外から、ざわめきが聞こえてくる。
商人同士の口論、買い占めを巡る怒鳴り声、焦った足音。
それらはすべて、条約第十二条の“余波”だ。
誰かが命令したわけではない。誰かが怒鳴ったわけでもない。
ただ、信用が消えた。それだけの話。
「……王国は、持ち直せるでしょうか」
カイルが、ぽつりと呟く。
「短期的には、厳しいでしょう」
私は正直に答える。
「ですが、崩壊するかどうかは別です。責任を誰が引き受けるか次第」
「殿下が……?」
「いいえ」
私は首を振る。
「殿下は、愛を選びました。責任を選ぶかどうかは、これからです」
結晶板が、また一つ光った。
《港湾都市国家リオネル:正式交渉受諾》
私は立ち上がる。
椅子を引く音が、部屋に小さく響いた。
「行きましょう、カイル」
「はい」
彼は即座に応じた。
迷いは残っているが、覚悟は芽生え始めている。その変化が、少しだけ心強い。
扉を開ける前、私は一度だけ王都の方角を見た。
朝靄の向こうに、白い城の輪郭が浮かんでいる。
一晩で起きたことは、ほんの始まりだ。
婚約破棄は、既に過去の出来事になりつつある。
これから語られるのは――
誰が、どの契約を結び、どの責任を負うのか。
私は外套を羽織り、朝の空気の中へ踏み出した。
次の一手は、もう決まっている。
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