第5話 王宮の沈黙
王都の夜は、いつもより騒がしかった。
舞踏会の余韻ではない。人の声が低く、速く、断片的に流れていく。噂が噂を呼び、言葉が言葉を追い越し、真実よりも早く恐怖だけが広がっていく。
王宮の外壁を離れたところで、私は一度だけ振り返った。
白い石で築かれた城は、灯りに照らされて相変わらず美しい。だが、その内部で起きていることを知っている者には、ひび割れた器のように見えるだろう。
馬車はまだ来ていない。
予定通りだ。こちらが動く前に、相手の出方を見る必要がある。
私は中庭の隅に立ち、文書箱を膝に置いた。
結晶板は静かだが、沈黙は安定を意味しない。嵐の前の、ただの空白だ。
その空白を最初に破ったのは、王宮の中だった。
「――もう一度確認しろ! 本当に、止められないのか!」
開いた窓から、怒声が漏れ聞こえてくる。
国王陛下の声だ。理性よりも焦りが勝ち始めている。
「陛下、既に各条約の実務部門が動いております。今から停止命令を出せば、違約の上塗りになります」
宰相の声が続く。
淡々としているが、その裏にある疲労は隠せていない。
「ならば、婚約破棄を無効に――」
「不可能です」
今度は、法務官の声だった。
「公開の場で宣言されました。王太子殿下ご自身の発言です。覆せば、王権そのものの信用が失われます」
沈黙。
その沈黙が、何を意味するのか私はよく知っている。
誰もが“最悪の選択肢”を理解し始めている時の音だ。
「……では、アリアを呼び戻せ」
国王陛下の声が、絞り出すように響く。
「条件を提示しろ。地位でも、金でも――」
「陛下」
宰相が、はっきりと遮った。
「彼女は既に、契約主体として王国から離れています。今ここで引き戻せば、それは“例外的圧力”と見なされます。交渉ではなく、懇願になります」
「それが、何だというのだ!」
怒声。
だが、それに応える者はいない。
王宮の沈黙は、外にまで染み出してきていた。
それは、誰もが理解したからだ。もう主導権は、ここにはない。
私は視線を文書箱へ戻す。
結晶板が、再び淡く光った。
《北方商会連合:再交渉要求 受信》
《港湾都市リオネル評議会:中立確認》
情報は、すでに流れている。
王国が契約を破ったという事実は、恐ろしいほどの速さで共有される。信頼は目に見えないが、失われる時はいつも派手だ。
足音が近づいた。
振り返ると、近衛兵ではない。見慣れない外套の男が一人、距離を保って立っていた。
「……アリア=エル=レグニス様」
丁寧な呼びかけ。
敬意を含んだ声色。
「私は、港湾都市国家リオネルの使節です。今夜の件につき、非公式ながら――お話を伺いたく」
来た。
思ったより、早い。
私は立ち上がり、男を見る。
王宮の壁の内側ではなく、外側で。ここが重要だ。
「非公式、という言葉は便利ですね」
「ええ。契約を結ぶ前段階としては」
男は、僅かに口角を上げた。
商人だ。政治家よりも、正直な種類の。
私は頷いた。
「分かりました。ですが一つだけ」
男の目が、わずかに細くなる。
「私は、今この瞬間、どの国家とも契約下にありません。つまり――」
「自由契約」
男が、言葉を継いだ。
「ええ」
私は答える。
「だからこそ、条件は私が提示します」
遠くで、また鐘が鳴った。
今度は王宮の中ではない。市壁の時鐘だ。王都全体に、均等に響く音。
その音を聞きながら、私は思った。
王宮は沈黙している。
だが世界は、もう動き始めている。
婚約破棄は、確かに終わった。
けれどそれは、終わりではない。
これは――
私が、契約主体として名を刻む、最初の夜だ。




