第4話 条約第十二条
王宮を出るまでに、さほど時間はかからなかった。
別室での聴取が終わった時点で、私の処遇は既に決まっていたからだ。引き留めも、形式的な慰留もない。あるのは、静かな距離の取り方だけ。
廊下を歩く私の背後で、扉が閉まる音がした。
それは、王宮という一つの契約圏から、私が切り離された合図だった。
荷は少ない。
身の回りの品と、文書箱が一つ。中には条約の写しと、契約魔法の発動履歴を刻んだ結晶板が収められている。どれも私にとっては、宝石より価値がある。
「アリア様」
中庭に出たところで、聞き慣れた声がした。
振り返ると、宰相ベルトランが一人で立っていた。儀礼用の外套を羽織っているが、顔色は冴えない。
「お見送り、という立場ではないのですが……少し、話をさせてください」
「どうぞ」
私は足を止めた。
ここでの会話は、公式ではない。だからこそ、本音が出る。
宰相は、周囲を一度見回してから、低い声で言った。
「条約第十二条……あれほど苛烈な条項を、なぜ王家は受け入れたのか。今になって、皆が同じことを考えている」
「答えは簡単です」
私は即座に返す。
「当時、王国はそれだけ切迫していたからです」
宰相の眉がわずかに動く。
「北方の不作、南方の関税問題、傭兵団の更新……どれか一つ欠けても、国は傾いていました。だから王家は、最も信用度の高い担保を差し出した」
「……婚約、か」
「はい」
私は頷いた。
「婚約は、未来を約束する契約です。個人の感情を超えた“継続性”を示すには、最適でした」
宰相は、しばらく黙り込んだ。
そして、苦々しく笑う。
「それを、恋愛の一言で壊した」
「壊したのではありません」
私は訂正する。
「契約通りに、終わらせただけです」
宰相は深く息を吐いた。
「……国は、どうなる」
それは質問というより、確認だった。
私は、視線を夜空へ向ける。まだ舞踏会の灯りが、窓越しに漏れている。
「短期的には混乱します。穀物価格は上がり、港湾税で商人が逃げ、傭兵の穴を正規軍で埋めることになるでしょう」
「長期的には?」
「信用が落ちます」
たった一言。
だが、それ以上の説明はいらない。
宰相は、目を閉じた。
この国の未来を、頭の中で計算しているのだろう。どれほど努力しても、どれほど誠実に振る舞っても、一度落ちた信用を元に戻すには時間がかかる。
「……それでも、戻る気はないのか」
私は、少しだけ宰相を見る。
そこには政治家としての顔ではなく、年老いた男の疲れがあった。
「戻る、という選択肢はありません」
はっきりと言った。
「私は、既に契約の外に立っています。今さら戻れば、それは『例外』になります。例外は、次の裏切りを呼ぶ」
宰相は、何も言い返せなかった。
その時、結晶板が微かに熱を持った。
文書箱の中から、淡い光が漏れる。
――発動確認。
私は、箱を開く。
結晶板の表面に、文字が浮かび上がっていた。
《北方穀物優遇通商条約:効力停止 確認》
《南方港湾通行協定:失効 確認》
そして、三行目。
《傭兵団長期雇用契約:解除手続き開始》
宰相が、喉を鳴らした。
「……本当に、動いている」
「はい」
私は箱を閉じる。
「これが、条約第十二条です」
もはや誰かの意思では止まらない。
契約とは、そういうものだ。一度走り出せば、行き着くところまで進む。
遠くで、鐘が鳴った。
今度は舞踏会のものではない。時刻を告げる、実務の鐘だ。
私は宰相に一礼する。
「お話は、以上です」
宰相は、しばらく動けずにいた。
だが、やがて深く頭を下げた。王宮で、私に頭を下げた人間は、これが初めてかもしれない。
「……幸運を」
「契約に、幸運は必要ありません」
そう返して、私は歩き出した。
門の向こうには、王都の夜が広がっている。
そこはもう、王家の契約圏ではない。
私は初めて、ほんの少しだけ息を吸い込んだ。
冷たい夜気が、肺を満たす。
条約第十二条は、発動した。
そして今、次の条文を誰と結ぶか――それを選ぶのは、私だ。




