第3話 彼女は泣かなかった
別室は、王宮の中でも特に装飾の少ない部屋だった。
外交交渉や密談に使われるため、感情を刺激するものを極力排した空間。壁には地図、棚には封印された文書箱、窓は小さく、高い位置にある。
私は中央の椅子に座らされ、正面には国王陛下、宰相ベルトラン、財務官、そして数名の高位官僚が並んだ。
王太子殿下の姿はない。意図的だろう。感情的な衝突を避けるため――あるいは、彼を守るため。
「まず確認する」
国王陛下が、低い声で言った。
「先ほどの条約発動は……本当に止められないのか」
「はい、陛下」
私は即答する。
間を置けば、そこに“交渉の余地”が生まれる。それは今、最も避けるべきことだった。
「条約第十二条は、担保消失の事実が確認された時点で自動発動します。発動条件は既に満たされています。停止には――」
私は一瞬、言葉を区切る。
「新たな担保、もしくは再契約が必要です」
財務官が、思わず声を荒げた。
「そんなもの、今すぐ用意できるはずがないだろう!」
「その通りです」
私は肯定した。
否定しない。否定できない事実だからだ。
部屋の空気が、さらに重くなる。
誰もが理解し始めていた。これは“怒鳴れば解決する問題”ではない、と。
宰相が、慎重に口を開いた。
「……アリア嬢。君は、婚約を破棄された被害者だ。我々としても、補償については――」
「不要です」
私の返答は短かった。
宰相が言葉を失う。
「補償を求めれば、それは私的感情による対価になります。今回の件は、国家間条約の履行問題です。個人補償を絡めるべきではありません」
それは、自分で自分の首を絞める発言でもあった。
だが、だからこそ信頼になる。感情を混ぜないという姿勢そのものが、次の交渉での価値になる。
国王陛下が、私をじっと見つめる。
その視線には、疑念と、恐れと、そして――理解しきれないものを見る戸惑いがあった。
「……お前は、怖くないのか」
唐突な問いだった。
「婚約を失い、王宮での立場も危うくなった。普通なら、泣いて縋ってもおかしくない」
私は少しだけ考える。
答えを探すためではない。言葉を選ぶために。
「怖くない、と言えば嘘になります」
私は正直に言った。
「ですが、それは“未来が不透明になること”への恐怖です。契約が履行されること自体は、怖くありません。予測できるからです」
財務官が、苦い顔で呟いた。
「……予測できないのは、我々の方か」
その通りだった。
沈黙が落ちる。
しばらくして、国王陛下が重く息を吐いた。
「今後の処遇についてだが……」
来る、と私は思った。
条約が動き、国が揺れた今、誰かを“原因”として切り離す必要がある。政治とは、そういうものだ。
「アリア=エル=レグニス。お前は、王国にとって重要な存在だ。だが同時に――危険でもある」
危険。
それは、褒め言葉だ。少なくとも、この場では。
「よって、当面の間、お前には王都を離れてもらう」
追放、という言葉は使われなかった。
だが意味は同じだ。
私は、ゆっくりと立ち上がり、礼をする。
「承知いたしました、陛下」
驚きはない。予測の範囲内だ。
むしろ、即断されたことに小さな安堵すら覚える。曖昧に引き留められる方が、よほど厄介だった。
宰相が、苦しげに言う。
「……非公式ながら、護衛と最低限の資金は用意する。これは――」
「結構です」
私は、再び遮った。
「それもまた、私的補償になります。必要なものは、自分で用意できます」
一瞬、官僚たちが言葉を失う。
彼らは気づいていないのだ。私が既に、“王国の外で生きる準備”を整えていることに。
部屋を出ると、長い廊下に静けさが戻っていた。
遠くで、誰かが泣いている声がする。侍女か、貴族の令嬢か、それとも――愛を信じた少女か。
私は、立ち止まらない。
泣かなかったから、強いのではない。
泣かなかったのは、泣く理由を“ここ”に置いていくと決めたからだ。
王宮の窓から差し込む光が、床に細い線を引いている。
その線を踏み越えながら、私は思考を切り替えた。
次に考えるべきは、感情ではない。
どの国が、どの都市が、どの商会が――
今の私と契約を結びたがるか。
婚約は終わった。
だが私は、まだ“契約の外”に出ただけに過ぎない。
本当の舞台は、ここからだ。
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