第22話 優しい契約
三日目の朝は、静かだった。
港は動いているが、私の周囲だけが、嵐の前のように落ち着いている。選択を迫られる直前の時間は、いつもこうだ。外の世界が遠く感じられる。
実務室の机に、見慣れない封筒が置かれていた。
白い紙。過剰な装飾はなく、ただ一つ、柔らかな紋章が押されている。剣でも、王冠でもない。円環の中に、祈りの文字。
「……宗教国家ですね」
カイルが、小さく言った。
「ええ」
私は封を切る。
《誓約都市ルメリアより
アリア=エル=レグニス殿へ》
文面は、驚くほど穏やかだった。
責める言葉も、条件の羅列もない。ただ、理解と共感が並んでいる。
《あなたは裏切られました。
ですが、憎しみを選ばなかった》
《その在り方は、我らの教義に通じます》
私は、紙を静かに読み進める。
「……優しい」
カイルが、ぽつりと呟いた。
「ええ」
私は頷く。
「だからこそ、慎重にならなければなりません」
誓約都市ルメリア。
神への誓いを、契約以上に重く扱う国家。条文より誓詞、署名より祈り。違反すれば罰せられるのではない。“赦されない”。
私は、最後の一文を読む。
《あなたが望むなら、
我らはあなたを迎え入れます。
生涯にわたり、守りましょう》
生涯。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
「……生涯、ですか」
カイルが不安げに言う。
「解除条項は?」
「ありません」
私は、即答した。
「“誓い”には、期限がない」
港に出ると、白い衣をまとった一団が目に入った。
騒がしくない。押し付けがましくもない。ただ、人の流れに逆らわず、自然に立っている。
先頭にいた女性が、一礼した。
年若く見えるが、目は澄んでいて、強い。
「はじめまして。司祭長ルメリアです」
国名と同じ名。
それは偶然ではない。
「お会いできて光栄です」
私は礼を返す。
「あなたの噂は、遠くまで届いています。怒らず、奪わず、ただ離れた、と」
彼女は微笑む。
「それは、とても勇気のいる選択です」
「そうでしょうか」
「ええ」
彼女は、迷いなく言った。
「怒らないという選択は、信仰に近い」
港の片隅で、彼女は私と向き合った。
護衛も、威圧もない。代わりにあるのは、確信だ。
「私たちは、あなたを傷つけません」
司祭長は言う。
「判断を誤っても、支えます。迷っても、祈ります」
「……代わりに?」
「あなたは、私たちの“象徴”になります」
その言葉に、私は息を止めた。
「契約の天才として。
裏切られても壊れなかった者として」
象徴。
それは、守られる代わりに縛られる立場だ。
「あなたが何を選ぶかは、自由です」
司祭長は続ける。
「ですが、選んだ瞬間から――
戻る道はありません」
優しい声。
優しい条件。
だが、逃げ道は一切ない。
クロイツの白。
クラウスの灰。
そして、ルメリアの“光”。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……お話は、よく分かりました」
司祭長は、穏やかに頷く。
「三日の猶予は、今日までですね」
「ええ」
私は、港を見渡した。
人がいて、荷があり、揉め事があり、判断がある。
不完全で、不安定で、だからこそ――動いている。
その光景を、私は知ってしまった。
優しい契約は、私を守るだろう。
だが同時に、私から“選ぶ権利”を奪う。
答えは、もう――
形を持ち始めていた。




