第20話 安全という檻
浮島都市を離れた船の上で、私は海を見下ろしていた。
波は穏やかで、航路も安定している。クロイツ連邦の管理する水域だ。事故は起きにくく、起きたとしても原因と責任が即座に特定される。
――安全。
だが、その言葉が胸に引っかかって離れなかった。
「三日、ですか」
カイルが、甲板の手すりにもたれながら言った。
「国家に招かれて、考える時間を与えられるなんて……普通なら光栄ですよね」
「普通なら、そうでしょう」
私は答えた。
「でも、あれは猶予ではありません。確認期間です」
「確認?」
「私が、従順かどうか」
カイルは言葉を失った。
クロイツ連邦の契約は、完璧だ。
条文は明確、例外はなく、違反は即処罰。個人の感情が入り込む余地はない。だからこそ、国家としては安定する。
だが――。
「契約違反を“絶対に許さない”という条件」
私は、エレシアの声を思い出す。
「それは、公平ではあります。でも、公正ではありません」
「……違いが?」
「公平は、全員に同じ刃を向けることです」
私は、ゆっくりと言った。
「公正は、誰がなぜその刃を受けるのかを考えること」
船は、港湾都市リオネルへと近づいていた。
雑多な音、混じり合う匂い、人の気配。秩序は弱いが、息苦しさはない。
「クロイツに行けば、私は守られます」
私は続ける。
「失敗しても、判断は制度が引き受ける。私が矢面に立つ必要はない」
「……それって、楽ですよね」
「ええ」
私は、正直に頷いた。
「だから、檻です」
港に戻ると、実務室にはすでに新しい案件が積まれていた。
商会同士の輸送トラブル、通関の齟齬、小さな事故。どれも、誰かが判断しなければ止まらない案件だ。
私は、紙束の一番上を取る。
《積荷破損に伴う補償請求
原因:嵐
責任所在:未確定》
嵐。
自然災害は、最も便利な言い訳だ。
「……これ、クロイツなら」
カイルが言いかける。
「ええ」
私は頷く。
「即、免責か、即、請求です。議論はありません」
だが、ここでは違う。
誰が、どこで、何を判断したか。その積み重ねが、信用になる。
私は椅子に座り、結晶板を起動した。
「現場に行きます」
「また、ですか」
「はい」
私は迷いなく言う。
「私は、制度ではありません。今は、まだ」
港へ向かう途中、ふと視線を感じた。
遠く、石造りの建物の影に、一人の男が立っている。
外套の色は地味だが、立ち方が軽い。
港の人間にしては、目が鋭すぎる。
男は、こちらに気づくと、わずかに口角を上げた。
まるで、「ようやく気づいた」と言うように。
「……見られています」
カイルが、低く言った。
「ええ」
私は歩みを止めない。
「たぶん、次の席を用意する人です」
安全な檻。
自由な不安定。
三日の猶予の中で、世界はすでに次の手を打っている。
私が選ぶのは――
守られる席か、自分で立つ場所か。
答えは、まだ出ていない。
だが、考える材料は、十分すぎるほど揃い始めていた。




