第2話 公開の場で
鐘の余韻が消えたあとも、王宮の大広間は沈黙に縛られていた。
先ほどまで舞っていた音楽も、笑い声も、誰かの咳払いすらない。ただ、人の気配だけが重く滞留している。
私は、その中心から少し外れた場所に立っていた。
立場としては、もはや王太子の婚約者ではない。だが、かといって“無関係な令嬢”でもない。どちらにも属さない半端な位置が、妙に足元を冷やした。
「……アリア=エル=レグニス」
国王陛下が、私を呼ぶ。
その声には、威厳よりも疲労が混じっていた。数分の間に、陛下の背はわずかに丸くなったように見える。
「先ほどの発言……条約第十二条とやらは、事実か」
「事実です、陛下」
私は即答した。曖昧にする理由がない。
条約は感情では曲がらない。確認されれば、確認された通りに答える。それが管理者の責務だ。
「北方穀物優遇通商条約、第三改訂版。南方港湾通行協定、第二付属文書。いずれも、王太子殿下と私の婚約を、担保条件として明記しております」
ざわり、と小さな波が広がる。
“明記してある”という事実は、逃げ道を一つ潰す。解釈の余地を残さない言葉だ。
宰相ベルトランが、一歩前に出た。
彼の額には、はっきりと汗が浮かんでいる。
「……アリア嬢。その条項は、確かに存在する。だが、即時停止というのは――」
「条約文言通りです、宰相閣下」
私は遮る形になったが、声は低く抑えた。
感情的に聞こえれば、それだけで“私的報復”という誤解を生む。
「担保の消失が確認された時点で、猶予期間なく効力を停止すると。これは、王国側が一方的に婚約を破棄した場合を想定した条項です」
「なぜ、そんな……」
宰相の言葉は途中で消えた。
なぜそんな条項を入れたのか。答えは単純だ。信頼を金に換えるため。王国が約束を破った場合、こちらが損をしないため。
だが、それを今ここで説明する意味はない。
「……レオンハルト」
国王陛下が、王太子殿下の名を呼んだ。
殿下は、まだ状況を飲み込めていない顔をしている。先ほどの勢いは消え、代わりに苛立ちと困惑が入り混じった表情だった。
「父上、こんなのは脅しです。彼女が……」
「違います、殿下」
私は、殿下の言葉を否定する。
強い語調ではない。ただ、事実として否定する。
「私は、何も“脅して”おりません。条約は、私が話さなくても発動します。北方の商会も、南方の港湾都市も、既に動いているでしょう」
その瞬間、また一人、伝令が駆け込んできた。
今度は息が切れ、言葉も乱れている。
「財務官閣下! 市場からの報告です! 穀物先物が急騰、商人たちが買い控えを――」
財務官が呻くような声を漏らした。
私は、視線を伏せる。見なくても分かる光景だ。数字は嘘をつかない。信用が揺らげば、必ず値札に現れる。
殿下の隣にいた少女――マリアが、小さく首を振った。
「そんな……愛を選んだだけなのに……」
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
否定するのは簡単だ。だが、彼女自身が悪意を持っていないことも、また事実だった。
私は、彼女を見る。
敵意はない。ただ、理解の差があるだけだ。
「愛を選ぶこと自体を、私は否定しません」
マリアが、縋るように私を見上げる。
「ですが――」
私は、続ける。
「愛は契約を無効にしません。契約は、愛が消えても残ります。今回、問題になっているのは、感情ではなく“署名”です」
広間に、重い沈黙が落ちた。
誰もが、ようやく同じ場所を見始めている。婚約破棄という“物語”の裏にあった、現実の構造を。
国王陛下が、深く息を吐いた。
「……今夜の舞踏会は、ここまでとする」
その宣言に、安堵と不安が入り混じったざわめきが起こる。
貴族たちは、三々五々に退き始めた。皆、急いでいる。屋敷に戻り、手紙を書き、使者を走らせ、自分だけは巻き込まれない位置を探すために。
私は、その様子を静かに見送った。
ほどなくして、近衛兵が私の前に立つ。
「アリア=エル=レグニス。陛下より、別室での聴取を命じられました」
「承知しました」
私は頷く。
抵抗する理由はない。聴取は、形式だ。だがその形式が、後々の責任の所在を決める。
歩きながら、胸元の結晶に指先が触れた。
冷たい。いつも通りだ。
今夜、私は何かを“失った”のだろうか。
婚約? 立場? 未来?
いいえ、と私は心の中で答える。
失ったのは、王国の側だ。私は、ただ契約の外に立っただけ。
廊下の奥で、扉が開く音がした。
次に始まるのは、感情の話ではない。
責任の話だ。
私は背筋を伸ばし、光の落ちない通路を進んだ。




