第19話 国家という席
封蝋を割る音は、小さかった。
だが、その瞬間、空気が変わった。
紙は厚く、インクは深い。港湾都市の簡易文書とは明らかに違う。形式が整いすぎている文は、読む前から「国家」を名乗っていた。
私は、内容を静かに読み下す。
《クロイツ連邦女王エレシア=ヴァル=クロイツは、
個人契約者アリア=エル=レグニスに対し、
正式な会談の場を設ける意思を示す》
余計な修辞はない。
要件だけが、冷たく、正確に書かれている。
「……国家、ですか」
カイルが、喉を鳴らした。
「港ではなく、商会でもなく……」
「ええ」
私は紙を畳む。
「“席”が変わります」
クロイツ連邦。
契約絶対主義国家。契約違反は犯罪であり、感情は判断材料にならない。噂だけなら、王国よりもよほど冷たい国だ。
そして――安全だ。
安全すぎるほどに。
「会談は、明後日。場所は中立水域の浮島都市」
「……早いですね」
「決める時は、いつも早いものです」
国家は、個人よりも慎重だが、一度決めたら迷わない。
それは信用でもあり、檻でもある。
私は椅子から立ち、外套を手に取った。
「準備をしましょう、カイル。条件整理をします」
「受ける、んですか?」
彼の声には、迷いが混じっている。
「話は聞きます」
私は即答した。
「契約者として、席に呼ばれた以上、行かない理由はありません」
港に出ると、潮の匂いが強かった。
いつもと変わらない光景。だが、私の立つ位置だけが、少し高くなった気がする。
浮島都市は、三つの勢力が管理する中立地だ。
国家同士が直接顔を合わせるときに使われる、“摩擦を減らすための場所”。
そこに、私は個人として呼ばれている。
「……個人で、国家と交渉するなんて」
カイルが、半ば呆然と呟く。
「個人だからこそ、です」
私は港を見渡す。
「国家は、国家同士でしか本音を出しません。でも個人には――条件を出します」
条件。
それは、魅力的で、合理的で、そして危険だ。
翌日、準備は静かに進んだ。
過剰な護衛は付けない。クロイツ連邦は、相手の警戒心を嫌う。必要なのは、情報と覚悟だけだ。
浮島都市に着いたとき、空は曇っていた。
石と金属で組まれた都市は、どこか無機質で、感情の入り込む余地がない。
迎えに来たのは、一人の女だった。
背は高く、銀色の髪を後ろで束ね、軍装に近い服を着ている。年齢は分からない。表情も、ほとんど動かない。
「アリア=エル=レグニス」
彼女は、私の名を正確に呼んだ。
「私は、エレシア=ヴァル=クロイツ。クロイツ連邦の女王です」
国家の頂点。
だが、威圧はない。ただ、事実としてそこに立っている。
「お会いできて光栄です」
私は一礼した。
彼女は、形式的に頷く。
「単刀直入に言いましょう」
彼女は、歩きながら言った。
「あなたは、危険です」
私は、歩みを止めなかった。
「光栄な評価です」
「感情を理由に契約を破られ、なお冷静でいる個人は、国家にとって扱いづらい」
それは非難ではない。分析だ。
「ですが同時に、有用でもある」
広い会談室に入る。
椅子は二つだけ。対等な配置だ。
「条件を提示します」
エレシアは、迷いなく言った。
「あなたを、クロイツ連邦の専属契約管理官として迎える。身分、資金、権限を保証する」
破格だ。
港湾都市とは比べものにならない。
「その代わり」
彼女の目が、わずかに細くなる。
「あなたは、クロイツの契約違反を“絶対に”許さない」
絶対。
その言葉が、静かに落ちる。
「感情による例外は、一切認めない。相手が誰であろうと」
私は、息を吸った。
安全だ。完璧だ。揺らがない。
そして――逃げ場がない。
「考える時間をください」
私は言った。
エレシアは、首を振らなかった。
だが、肯定もしない。
「三日」
それだけ告げる。
「三日後、答えを」
会談は、それで終わった。
短く、正確で、余白のない時間。
浮島都市を出ると、風が強かった。
下に見える海は、深く、暗い。
「……安全そうですね」
カイルが言う。
「ええ」
私は頷く。
「だからこそ、怖い」
国家という席は、用意されている。
座れば、転げ落ちることはない。
だが一度座れば――
自分で立つことは、許されない。
私は、まだ立っていた。
三日という時間は、その事実を突きつけるためにある。




