第17話 曖昧さという罠
記録にない倉庫。
その言葉は、港湾都市では一種の合言葉だった。
完全な違法を意味するとは限らない。むしろ多くの場合、それは「誰の責任か決められていない場所」を指す。商人たちはそこに荷を置き、問題が起きた時には全員が一歩ずつ距離を取る。
――曖昧さの集積地。
「場所は?」
私は椅子に座ったまま、カイルに問いかけた。
「旧第七码頭の裏です。今は使われていない倉庫群の一角に……」
「所有者は」
「帳簿上は、存在しません」
私は、結晶板を指でなぞる。
淡い光の中に、港湾契約の条文が浮かび上がった。
「所有者が存在しない、ではありません」
私は静かに言った。
「存在しない“ことにされている”だけです」
カイルが、唾を飲み込む。
「……どうします?」
「行きます」
「今から?」
「今からです」
曖昧さは、時間が経つほど強くなる。
人が増え、言い訳が増え、責任が拡散する前に潰す必要がある。
港の裏手は、昼間でも薄暗かった。
古い石造りの倉庫が並び、潮と埃の匂いが混じる。人通りは少ないが、完全に無人というわけでもない。視線は、確実にある。
「……ここです」
カイルが指差した建物は、外見だけ見れば普通の倉庫だった。
扉は閉じているが、鍵は新しい。最近まで使われていた証拠だ。
私は、扉の前で立ち止まる。
「中に、香料がありますね」
「……分かるんですか?」
「匂いで」
香料は隠せない。特に高級品ほど、強く主張する。
私は扉を叩いた。
強くはない。だが、迷いのない音で。
「契約管理者です」
中が、静まり返る。
「香料輸送に関する確認で来ました。開けてください」
数拍。
やがて、重い音を立てて扉が開いた。
現れたのは、中年の男だった。
作業着だが、手入れが行き届いている。現場の人間だが、現場“だけ”の人間ではない。
「……何の用だ」
警戒はしているが、完全に拒絶する態度ではない。
まだ、この状況を“交渉”だと思っている。
「東方商会の香料について」
私は一歩前に出る。
「この倉庫を経由していますね」
男は、口元を歪めた。
「証拠は?」
「必要ありません」
私は淡々と言った。
「この倉庫が、契約上“存在しない”こと自体が証拠です」
男の表情が、わずかに変わる。
「……嬢ちゃん、勘違いしてる。ここはグレーだ。黒じゃない」
「ええ」
私は頷いた。
「だから来ました」
男は、一瞬、言葉を失った。
「黒なら、摘発です。灰色なら――整理です」
私は倉庫の中を見渡す。
積まれた木箱。番号の揃わない札。どれもが「途中で責任を落とされた荷」だ。
「あなたがやっているのは、盗みではありません」
私は言う。
「責任を持たない輸送です」
男の目が、細くなる。
「……それが、何だっていう」
「契約上、最も嫌われる行為です」
私は、結晶板を掲げた。
「香料は高額です。事故が起きれば、誰かが払う。払う者が決まっていない荷は、保険が降りない」
男の喉が鳴る。
「つまり、このままでは――」
「あなたが、払うことになります」
沈黙。
倉庫の中で、潮の音だけが響いた。
「……脅しか?」
「いいえ」
私は首を振る。
「選択肢の提示です」
私は、指を一本立てた。
「一つ。この倉庫を正式に登録し、責任範囲を明確にする。その代わり、過去の分は問わない」
次に、二本目。
「二つ。今ここで契約違反として報告し、保険不履行と損害賠償に進む」
男は、視線を伏せた。
強がりは消えている。これは度胸の問題ではない。計算の問題だ。
「……三つ目は?」
彼が、低く聞いた。
「ありません」
私は即答した。
「曖昧さは、二択に弱い」
しばらくして、男は肩を落とした。
「……登録する」
私は頷く。
「賢明です」
倉庫を出た後、カイルが小さく息を吐いた。
「……怖いですね」
「曖昧さの方が、よほど怖いですよ」
私は歩きながら答えた。
「人は、責任が見えないと、どこまででも踏み込む」
港の音が、再び大きくなる。
人の流れが、戻ってくる。
初日の火種は、ひとつ消えた。
だが、これで終わりではない。
三か月契約は、曖昧さとの戦いだ。
そして――曖昧さは、必ず次の姿で現れる。




