第16話 契約者としての現実
港湾都市リオネルの朝は早い。
陽が海面に触れる前から、港はもう動いている。縄の軋む音、木箱の角が擦れる音、掛け声、潮と油の匂い。王都の朝のように「始まりの儀式」はない。始まっているから始まるのだ。
私は評議会の会議棟――その裏手にある実務室へ通されていた。
豪奢な会議室とは違い、ここは書類と棚と机だけの部屋だ。窓辺には乾いたインクの匂いが残り、床には昨日の紙屑がまだ一片落ちている。都市の“心臓”は、こういう場所にある。
「……これが、あなたの席です」
案内役の若い職員が、気まずそうに言った。
机は大きくない。椅子も質素だ。だが、それでいい。契約者としての価値は家具の豪華さでは決まらない。
「十分です」
私は外套を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。
机の上には三つの束が置かれている。
一つ目は、昨夜署名した短期契約の写し。
二つ目は、履行計画――港の物流をどこからどこへ流すかの実務表。
三つ目は、苦情と事故報告の一次窓口に回る紙。
最後の束が、いちばん重い。
「これ、全部……今日中に?」
隣でカイルが目を丸くした。
彼もここ数日、ほとんど眠れていない。真面目な人間は、眠れないと目に出る。
「今日中に、優先順位だけ決める」
私は紙束を揃えながら答える。
「全部を片付ける必要はありません。今日“燃えるもの”を見落とさないことが必要です」
「燃える、ですか」
「港は火種が多いでしょう」
冗談ではない。事実だ。
私は結晶板を取り出し、机の端に置く。
淡い光が走り、契約名と締切、履行条件が浮かび上がった。リオネルの者たちはまだこの仕組みに慣れていない。だが慣れないことは、武器にもなる。相手が油断するからだ。
最初に目を通したのは、事故報告の束だった。
――荷役中の転落事故。
――積荷の破損。
――通関の遅延。
どれも、よくある。
だが、よくあるからこそ、放置すると大きくなる。
「……これ」
カイルが一枚を指差した。
「保険組合からの照会です。『責任範囲が不明確な積荷がある』って」
私はその紙を受け取り、目を走らせた。
東方商会からの香料。高価で、濡れると価値が落ちる。しかも輸送途中に一度、別倉庫へ回されている。
「責任範囲が曖昧」
私は短く呟いた。
「つまり、事故が起きた時に誰も払いたくない」
「払いたくない、って……」
「人はそういうものです」
私は結晶板の一覧から該当の契約条項を呼び出す。
契約は成立したばかりだ。まだ整っていない部分がある。整っていない部分は、必ず争点になる。
「カイル。この香料の移送経路、全部追って。誰の倉庫を通った?」
「はい。ええと……」
カイルは慌てて書類をめくる。
彼は数字には強いが、現場の動線はまだ弱い。ここが、私が最初に“現実”として突きつけたかった部分でもある。
机の前に、別の職員が来た。
中年の男で、手には封の切られた紙。
「アリア様。評議会から。優先事項です」
私は受け取り、目を読む。
《本日中に、港湾税の“暫定改定案”を提示せよ》
……早い。
三か月契約の初日に、もう“顔”を求めてくる。商人の都市は、結果を急ぐ。
「暫定改定、ですか」
私は紙を机に置いた。
「税の数字をいじると、必ず反発が出ます」
「はい。既に反発が出ています」
男は淡々と言った。
「『王国の穴埋めを港が背負うのか』と」
私は一瞬、呼吸を止める。
その言葉は正しい。港は王国ではない。王国の失敗を港が肩代わりする義理もない。
そして――その反発は、私に向く。
“王国の匂い”。
昨日の評議会の言葉が、胸の内で静かに鳴った。
「分かりました」
私は立ち上がった。
「まず、現場を見ます。税は紙の上だけで決めると、必ず崩れる」
男は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「案内します」
港へ出ると、潮風が強かった。
人々は忙しく動き、こちらを見ても立ち止まらない。王都のように“敬意”のために動きが止まることはない。ここでは時間が貨幣だからだ。
「アリア様!」
荷役場の責任者らしい男が、手を拭いながら駆け寄ってきた。
「税の話ですか? 勘弁してくださいよ。今だってギリギリなんです。港の連中は港で食ってんだ。王国の――」
「王国の話はしません」
私は遮った。
「今日の話は“港の生存”です」
男の口が、止まる。
「生存……?」
「税は、港を殺すためにあるのではない。港を維持するためにある」
私は荷の流れを目で追った。
積み上がる箱、走る人足、遠くで並ぶ船。ここは都市の胃袋だ。詰まれば、都市が死ぬ。
「今、港で詰まっているのはどこです?」
男は反射的に答えた。
「通関です。王国向けだった便が東方へ回ってる。手続きが合わない。倉庫が足りない」
私は頷く。
「つまり、税を上げても下げても、今は痛みが出る。だったら“税率”ではなく“徴収の仕方”を変える」
「……どうやって?」
「混雑する時間帯だけ、徴収を遅らせる」
男が目を見開く。
「遅らせる? 税を取らないってことですか?」
「取ります。取るが、詰まりが解消してから取る」
私は港の入り口の門を指した。
「今、港は“流れの速度”で死にかけています。税率の議論は、その後です」
男はしばらく黙り、やがて小さく笑った。
「……なるほど。王国の役人みたいなこと言わないんですね」
私はその言葉を、胸の内で受け止めた。
嬉しいというより、痛い。私はまだ疑われている。だが、今の一言は“疑いが薄くなる瞬間”でもある。
実務室へ戻ると、カイルが青い顔で待っていた。
「アリアさん……香料の件、途中の倉庫が一つ、記録にないです」
「記録にない?」
「はい。帳簿に載ってない。……つまり」
カイルが言いかけて止める。
言わなくても分かる。
「横流しか、隠し倉庫か」
私は静かに言った。
初日から、来た。
契約を試す最短の方法――“曖昧さ”を突いてくる者が必ずいる。
私は椅子に座り直し、結晶板を叩いた。
契約履行の項目が、淡く光る。
三か月契約の初日。
私はまだ何も勝ち取っていない。
だが、勝ち取るための現実は――
もう、目の前に山積みになっている。




