第15話 婚約破棄は終わった
契約書の束が、机の上で静かに揃えられた。
港湾都市リオネルの印章、評議会の署名、そして――私の名。
アリア=エル=レグニス。
その文字を、私はもう一度だけ見下ろす。
婚約者として記されることのなくなった名前。王国の担保でも、象徴でもない。ただの契約主体としての名だ。
「これで、一区切りだな」
リオネル=カーヴェンが、椅子にもたれながら言った。
「三か月。短いが、君の価値を測るには十分だ」
「測られるのは、私だけではありません」
私は答える。
「契約は、常に双方を測ります」
彼は、口角を上げた。
「相変わらずだ」
会議室を出ると、夕暮れの港が広がっていた。
荷が動き、人が行き交い、金が音を立てて流れていく。世界は、何事もなかったかのように回っている。
だが、私は知っている。
名が一つ、確実に消えたことを。
結晶板を取り出し、契約一覧を呼び出す。
港湾都市、東方商会、保険組合――そこに、王国の名はない。
消えたのだ。
文書の上から、世界の座席表から。
カイルが、隣で小さく息を吐いた。
「……本当に、戻れなくなりましたね」
「ええ」
私は頷く。
「でも、それでいい」
戻れる場所があることと、戻るべき場所があることは違う。
王国は、後者ではなかった。
その頃、王都では――。
国王陛下が、宰相から差し出された一枚の紙を見つめていた。
港湾都市からの簡潔な通知。
《今後の取引は、個人契約者アリア=エル=レグニスを通す》
王太子レオンハルトは、苛立ちを隠さず言った。
「結局、彼女に頼るしかないのか」
宰相は、ゆっくりと首を振る。
「いいえ。頼っているのではありません」
彼は、はっきりと言った。
「我々は――席を失ったのです」
王太子は、言葉を失った。
マリアは、黙ってその様子を見つめている。安心も、希望も、もう簡単には口にできない。
港に戻り、私は立ち止まって海を見た。
波は規則正しく打ち寄せ、遠くで船が灯を点す。
婚約破棄は、確かに終わった。
泣くことも、縋ることもなく。
だが、それは終着点ではない。
ただの通過点だ。
世界は、契約でできている。
そして私は――ようやく、その世界に名前を刻んだ。
次に動くのは、信用だ。
王国ではない。
私自身が築く、私の信用。
私は歩き出す。
第1章は、ここで終わる。
けれど――
物語は、ここから本当に始まる。
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