第14話 戻るという選択肢
港湾都市リオネルの夜は、王都よりも騒がしい。
酒場の灯り、船の汽笛、荷下ろしの掛け声。人の欲と計算が、そのまま音になって街を満たしている。
私は宿の小さな執務室で、結晶板を前に座っていた。
契約の進捗、物流の遅延、保険の発動履歴。数字は、まだ予定通りだ。ぎりぎりで、だが。
扉が叩かれた。
「……入れ」
現れたのは、見知らぬ男だった。
港の人間にしては身なりが整いすぎている。軍人でも、商人でもない。だが――王宮の匂いがした。
「非公式の使いです」
男は、そう前置きしてから名を名乗った。
王宮書記官。国王直属の連絡役。
「話は、短く」
私は椅子から立たない。
「王国は、安定しつつある」
彼は、用意してきた文言を読み上げるように言った。
「市場は落ち着き、民心も回復傾向にある。陛下は……あなたの力を、再び必要としている」
予想通りの言葉だった。
私は、黙って続きを促す。
「戻れば、地位は保証される。条約管理官として、以前以上の権限を――」
「それは」
私は、男の言葉を遮った。
「解決ではありません」
男が、わずかに眉を動かす。
「……交渉の余地は?」
「あります」
私は即答した。
「ですが、それは“戻る”ことではありません」
机の上の結晶板に、指先で触れる。
淡い光が走り、現在の契約一覧が浮かび上がる。
「今の私は、契約主体です。王国の一部ではない。ここに戻れば、私は再び“担保”になる」
男は、口を閉ざした。
理解したのか、それとも理解を拒んだのか――判断はつかない。
「王国が必要としているのは、私ではありません」
私は続ける。
「“壊れた信用を修復する責任を引き受ける誰か”です」
男の喉が、わずかに鳴った。
「……それは、あなたでは?」
「違います」
私は、はっきりと首を振る。
「信用を壊したのは、私ではない。だから、私が無償で修復する理由もありません」
沈黙。
港の外で、船の汽笛が鳴る。
「条件を提示します」
私は言った。
「王国が、正式に“契約違反”を認めること。責任の所在を文書で明確にすること。そして――」
一拍、置く。
「その上で、王国は“対等な契約者”として交渉の席につくこと」
男は、苦い顔をした。
「それは……政治的に」
「不可能ですか?」
問いは、静かだった。
「……いいえ」
男は、ゆっくりと首を振る。
「ただし、王太子殿下が納得するかどうか……」
「それは、王国の問題です」
私は即座に言った。
「契約は、感情の調整装置ではありません」
男は、それ以上何も言えなかった。
深く一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まったあと、カイルが息を吐いた。
「……戻る気は、ないんですね」
「戻るという言葉が示す場所が、もう違います」
私は、結晶板を見つめる。
「私は今、席についています。条件付きですが」
外では、夜の仕事が続いている。
誰かが積み、誰かが運び、誰かが数える。
王国は、まだ“戻れる”と思っている。
だがそれは、過去に戻ることだ。
私は、前を見る。
契約は、常に未来にしか書けない。
次に王国と向き合うとき――
それは、同じ高さの席でだ。




