第10話 最初の交渉
港湾都市国家リオネルは、王都とはまるで空気が違った。
潮の匂い、荷の軋む音、叫ぶような商人の声。すべてが騒がしく、そして正直だ。ここでは、感情より先に価格が動き、立場より先に契約が交わされる。
私は、石造りの会議棟の一室に通されていた。
向かいの席には、港湾評議会の代表――リオネル=カーヴェン。年齢不詳の男で、商人特有の油断のなさを目に宿している。
「改めて言おう」
彼は、肘を机につきながら言った。
「あなたと話せて光栄だ、アリア=エル=レグニス嬢。昨夜から、あなたの名前は港中を駆け回っている」
「光栄です」
私は形式通りに応じる。
「ですが、私は現在、どの国家の代理人でもありません。個人として、契約主体として、ここにいます」
「分かっている」
リオネルは頷いた。
「だからこそ、だ。王国の看板が外れたあなたは――価値が読めない」
率直な言葉だった。
私は、机上に用意していた契約案を差し出す。
「こちらが、私の提案です」
彼は受け取り、目を走らせる。
穀物流通の再編、港湾税の調整、傭兵輸送の優先権。条件は明確で、数字も現実的だ。譲歩と利益の配分も、論理的に整理してある。
沈黙。
長い沈黙。
私は、その時間を“検討”だと判断した。
だが、それが最初の読み違いだった。
「……悪くない」
リオネルは、ゆっくりと書類を置いた。
「むしろ、かなり良い。理屈だけなら、すぐにでも署名できる」
私は頷く。
「では――」
「だが」
彼は、人差し指で机を叩いた。
「我々は、あなたを信用していない」
言葉は穏やかだが、はっきりしている。
カイルが、わずかに身じろぎした。
「それは……」
私は、言葉を選ぶ。
「契約内容をご確認いただければ、履行不能な条件は一つもありません」
「分かっている」
リオネルは、私を見る。
「信用の話をしている。契約の話ではない」
部屋の空気が、わずかに変わった。
私は、ここで初めて気づく。これは“条件交渉”ではない。“人間の評価”だ。
「あなたは、王国の中枢にいた」
彼は続ける。
「そして、その王国は、たった一晩で契約を破った。事情は理解している。だが、市場は事情を情けとして扱わない」
私は、即座に反論できなかった。
論理では否定できないからだ。
「私自身は、契約を破っていません」
「承知している」
リオネルは、首を横に振る。
「だが外から見れば、あなたは“その構造の中にいた人間”だ。裏切られた側かどうかは、関係ない」
カイルが、堪えきれず口を開く。
「それは、あまりに……!」
私は、彼を手で制した。
感情的な反論は、評価を下げる。
だが、沈黙もまた、敗北に近い。
「……では」
私は、ゆっくりと言った。
「信用を得るために、何を求めますか」
リオネルの目が、わずかに細くなる。
それは、初めて“対等に話す準備ができた”という合図だった。
「短期契約だ」
彼は即答した。
「期間は三か月。解除条項は多め。違反が一つでもあれば、即終了」
厳しい条件だ。
実務的には、ほとんど綱渡りに近い。
「利益配分は?」
「こちらが六割」
カイルが、思わず息を呑む。
私は、条件を頭の中で整理する。
損だ。明らかに。だが――拒否すれば、次はない。
「……分かりました」
私がそう言うと、リオネルは少しだけ驚いた顔をした。
「即断だな」
「信用は、数字では測れない」
私は答える。
「ならば、行動で示すしかありません」
リオネルは、短く笑った。
「いいだろう。そういう人間は嫌いじゃない」
彼は、契約書を取り出す。
まだ、正式な署名ではない。だが、道は開いた。
会議室を出た後、カイルが低い声で言った。
「……危険すぎます」
「ええ」
私は頷いた。
「でも、これが“最初の席”です」
王国の看板があれば、もっと楽だっただろう。
だが、それはもうない。
代わりにあるのは、名前だけ。
そして、それをどう使うかは――私次第だ。
港の外で、船の汽笛が鳴った。
それは、新しい航路の始まりを告げる音のように聞こえた。




