第1話「舞踏会と婚約者」
婚約破棄は、恋の終わりだと思われている。
でも本当は――
契約の終わりだ。
それが、どれほどのものを連れて行くかを、
彼はまだ知らない。
王宮の大広間は、香と灯りと音楽で満ちていた。
天井から垂れる魔晶灯は星屑のように揺れ、磨き抜かれた床は踊る靴先を鏡のように映す。貴族たちの笑い声が波となって広がり、そこへ弦楽器の旋律が重なるたび、私は自分が一枚の絵の中に閉じ込められているように感じた。
アリア=エル=レグニス。
王太子殿下の婚約者――と、呼ばれる立場。
胸元に揺れる小さな青白い石は、レグニス家の証だ。条約文書の封蝋に混ぜられる粉末と同じ鉱脈から採れる結晶で、契約魔法の“鍵”となる。舞踏会に似合う装飾品ではない。けれど私にとっては、これ以上に正装たり得るものはなかった。
「アリア様、本日は……お美しいですわ」
隣に控える侍女が、やや強張った声で言った。
「ありがとう」
私は微笑みだけを返す。声を必要以上に弾ませない。視線を泳がせない。それだけで、多くの誤解は避けられる。社交とは、感情ではなく制御の技術だ――母から繰り返し教わった。
けれど今夜の空気は、制御してもなお指の隙間から零れ落ちる。
視線が刺さるのだ。いつもより、ずっと。
同情とも嘲りとも取れるそれが、私の背を撫で、袖を引き、足首を絡め取るようにまとわりつく。
理由は分かっていた。
分かっていながら、私は確認しない。噂は噂でしかない。確定させるのは、当事者の言葉か、文書の署名か、契約魔法の発動だけだ。
――王太子殿下が、今夜“何か”をする。
その“何か”が、私に向けられた刃であることも。
舞踏の輪が一段落し、音楽が休符に沈んだ瞬間、広間の空気が一斉に息を止めた。
中央の階段上、玉座の前へと進み出た人物がいたからだ。
レオンハルト王太子殿下。
金糸を織り込んだ礼服、整えられた金髪、そして――私を見ない瞳。
殿下の隣には、淡い色の簡素なドレスを纏った少女が立っていた。貴族の流行から数年遅れた仕立て。装飾も少ない。けれど、その頬は熱に染まり、瞳だけが妙に強い光を宿している。
彼女が誰か、私は知っている。知らぬふりが許されるほど、王宮は広くない。
貴族たちがざわめく。「平民の」「あれが」「噂の」――言葉の欠片が、薄い氷のように床へ落ちて割れた。
国王陛下が、咳払いを一つした。
それが合図だったのか、王太子殿下は大広間を見渡し、よく通る声で言った。
「皆に告げる。今宵、私は……重大な決断をした」
音楽が止まっているから、言葉は刃物のように響く。
私は階段の下、少し離れた位置で静かに立っていた。ここが、婚約者として適切な距離だと教えられてきた。王太子の一歩後ろ、しかし王の影には入らない。権威の装飾に見えつつ、同時に政治の歯車としての自分の位置を示す場所。
「私は、アリア=エル=レグニスとの婚約を破棄する」
ざわめきが爆ぜた。驚きの声、歓声にも似た息、嗤い。
まるで、誰かが待ち望んでいた祝砲のように。
私の心臓は、ただ一度だけ大きく打った。
それだけで、あとは静かだった。氷の湖面に石を投げられたのに、水底まで透明なまま――そんな感覚。
殿下は続ける。
「政略のための婚約は、もう古い。私は、愛を選ぶ。真実の愛を」
隣の少女が一歩前に出て、胸に手を当てた。唇が震え、涙が浮かんでいる。演技ではないのだろう。だからこそ始末が悪い。
「私は……レオン様を信じています。どんな立場でも、愛があれば……!」
その言葉に、貴族たちの笑いが混じる。愛があれば、で済むなら、条約は紙屑だ。国境は線でしかない。税は気分で払えばいい。
彼らは笑っているのではない。安心しているのだ。“自分たちは、愛などで動かない”と、互いに確認し合っている。
王太子殿下の視線が、ようやく私に向いた。
勝ち誇った色はない。むしろ、安堵に近い。重い荷物を下ろした人間の目だ。
「アリア。君には……理解してほしい」
理解。
その単語が、私の中でゆっくりと回転した。
理解とは、同意ではない。理解とは、受け入れることでもない。理解とは、現象を正確に把握し、予測し、対処するための行為だ。
私はゆっくりと礼をした。
広間にいる誰よりも静かに、誰よりも丁寧に。過不足のない角度で頭を下げる。
「承知いたしました、殿下」
どよめきが一段高くなる。
泣かないのか、叫ばないのか、縋らないのか――そんな期待が、宙で行き場を失って落ちていく気配がした。
私が顔を上げると、王太子殿下は少しだけ眉を寄せた。想定よりも簡単に終わりすぎた、という顔。
平民の少女もまた、驚いたように私を見た。勝利の実感が追いつかないのだろう。
私は階段の下から、一歩だけ前に出る。
婚約者としてではなく、レグニス家の者として。条約管理官の後継として。
胸元の結晶が、魔晶灯の光を受けて淡く輝いた。
「ただし――」
声は大きくない。けれど、言葉は不思議とよく通った。
静まった広間で、私の一言がすべての耳へ届く。
「婚約破棄は可能です。王家の権限によって」
王太子殿下が、勝ち誇るように顎を上げた。そうだ、と言わんばかりに。
私は続ける。
「しかし、当婚約は『北方穀物優遇通商条約』および『南方港湾通行協定』の担保として、レグニス家が連署した準国家契約です。破棄に伴う清算は――条約第十二条に従います」
言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
笑っていた貴族の口が、ゆっくり閉じる。
宰相閣下が、紙のように白くなる。
財務官が、階段の手すりを掴んだまま動かない。
国王陛下だけが、数拍遅れて表情を歪めた。
王太子殿下は――初めて、理解できない顔をした。
「……条約、だと?」
「はい」
私は頷く。
それは“あなたの愛を否定する”頷きではない。“あなたの発言が契約構造のどこを破壊したか”を確認する頷きだ。
「条約第十二条。担保の消失により、優遇措置は即時停止。港湾通行税免除は失効。傭兵団の長期雇用契約は自動解除。魔獣防壁維持の加護契約も――王家側の契約違反として、停止します」
「ふざけるな! そんなもの、誰が――」
王太子殿下が声を荒げかけた、その時。
広間の扉が勢いよく開き、衛兵が駆け込んできた。
儀礼を無視して膝をつく。よほどの急報だ。
「陛下、宰相閣下! 北方より急使! 穀物船団が――我が国向けの出航を停止したとのこと!」
次いで別の伝令が飛び込む。
「南方港湾都市より通告! 本日付で通行協定の効力が停止、我が国の船は入港拒否――!」
ざわめきは、悲鳴に変わった。
王太子殿下の隣の少女が、青ざめて後ずさる。「そんな……」と唇が形作る。愛があれば、の言葉が宙で砕けた。
王太子殿下は、私を見た。
今度は勝者の目ではない。初めて“現実”を見た者の目だ。
「君が……やったのか」
「いいえ、殿下」
私は静かに首を振った。
「私は、何もしておりません。契約が――契約通りに動いただけです」
胸元の結晶が、もう一度だけ淡く光った。
契約魔法が目に見える形で発動したのではない。けれど、ここにいる誰もが“見てしまった”のだ。
恋愛の言葉が、条約の文字に踏み潰される瞬間を。
私は再び一礼する。
今度は、王太子殿下へではない。王国という仕組みに対して。
そして、次に来る仕事を頭の中で整理する。条約第十二条が動いたなら、明朝には必ず国境の値札が変わる。物流が滞り、金が逃げ、責任の所在を巡って争いが起きる。
――婚約は終わった。
だが、契約は始まったばかり。
私は背筋を伸ばし、静まり返った広間を見渡した。
誰も私に言葉を投げられない。慰めも、罵倒も。
それが、今夜の答えだった。
王宮の鐘が、遅れて一度だけ鳴った。
祝福の鐘ではない。弔鐘のように。
私の足元で、絵の中の床がきしむ音がした。
崩れるのは、婚約ではない。
“契約を軽んじた国”そのものだと、ようやく皆が気づき始めていた。
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