聞こえているか
広場の一角に、大きな天幕が張られていた。本来なら、笑い声と音楽が満ちるはずの場所だった。しかし今は、沈黙だけがその場を覆っていた。
その天幕の中央に、椅子が一つ置かれている。老執事はそこに腰かけ、背筋を伸ばしたまま、じっと何かを待っていた。目は天幕の入口を一度も外さない。
一人の護衛が、意を決したように前へ進み出る。
「執事長、屋敷に戻るわけにはいかぬのですか? ポステム様は命に別状はありません。ここにいることはリスクでしかないと思いますが」
進言の言葉は慎重だったが、その奥には焦りがにじんでいた。老執事は護衛の方を見ようともせず、ゆっくりと口を開いた。
「……お嬢様は必ずここに戻る。ここにだ」
短い言葉だった。それ以上の説明はなかった。
老執事はそれきり口を閉ざし、同じように天幕の入口を見続ける。護衛はそれ以上何も言えず、唇をかみしめる。
ポステムは喉を切られ、瀕死の状態に追い込まれた。命は取り留めたと聞かされているが、まだ油断できる状況ではない。
その上、イレイナは連れ去られている。
護衛たちは皆、自分たちが無能と罵られ、その烙印を押されたまま死ぬ覚悟を決めていた。しかしそれでも最後に果たせる仕事があるなら全力で遂行する。
そんな思いで、一人の護衛が再び口を開く。
「今我々は全力で捜索していますが、何分街は広大です。どれほどの時間が掛かるかわかりません」
「私が待っているのは、お前たちではない」
老執事は視線を動かさずに答えた。
「では、一体……」
問いかけに、答えは返らなかった。
「執事長!」
ちょうどそのとき、天幕の外から慌ただしい足音と声が飛び込んできた。兵士が勢いよく布をかき分け、天幕の中に駆け込む。
「黒装束を着た何者かが、イレイナお嬢様を抱えております!」
「来たか!」
老執事は、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、そのまま外へと歩み出た。
外では、数人の兵士が囲むようにして、黒ずくめの人影を取り囲んでいた。
顔の半分以上を覆った黒装束。目元だけが覗いている。その腕の中には、ぐったりと眠るイレイナが抱えられていた。
「おぉ……よくやった。お嬢様をこちらに」
「ハイ」
老執事が言うと、黒装束は近づき、イレイナを丁寧に差し出す。
老執事はその体をそっと抱き取り、細心の注意を払って脈と呼吸を確かめた。
外傷はない。服も乱されていない。
ただの気絶。そう判断すると、老執事は深く息を吐き、腹の底から声を張り上げた。
「撤収だ! 屋敷に戻る!」
「「「はっ!」」」
兵士たちが一斉に動き始める。
老執事はその光景を横目で見ながら、黒装束の人物へと向き直った。
「……アルフレッドと戦闘したか?」
「イイエ」
「では、他の者との戦闘になったか?」
「ハイ」
「アルフレッドは、他の者と戦闘していたか?」
「ハイ」
問答は短く、それでいて必要な情報だけが抜き取られていく。老執事はさらに二、三の質問を重ねると、最後に「下がれ」と一言だけ告げた。
黒装束は一礼し、物陰へと溶けるように姿を消した。
「……」
老執事はその場に立ち尽くし、わずかな間考えを巡らせる。
「……あのクソガキめ」
ポツリとこぼした言葉は誰にも聞かれなかった。
「執事長、撤収の準備が整いました」
兵士の声で思考が中断される。老執事はうなずき、腕の中のイレイナを少し抱え直した。
「行くぞ。屋敷に戻る」
そうして一行は、沈んだ広場を後にした。
祭りで騒ぎが起こってから、半日後。
街は、見かけ上はいつも通りの夜を迎えていた。屋台の明かりは消え、人々は家に戻り、今はほとんどの民が眠りについている。
その静寂の中、リオネット家の屋敷近くの暗がりに、男たちが集まっていた。全員が武器を身に着け、声もなく腰を下ろしている。
しばらくして、数人がふと何かを感じ取り、一方向へ顔を向けた。
「皆揃ってるのか?」
光のない路地裏から、景色がゆらりと歪む。空気がねじれ、そこから一人の男の姿が現れた。
「遅いぞ」
男の到着と同時に、周囲の者たちは立ち上がる。そのうちの一人が愚痴をこぼした。
「全力で追ってくるリオネット家の奴らを撒いてきたんだぞ。これでも早い方だ」
「それで、作戦は?」
別の男が、本題をうながすように問いかける。
「当主には致命傷を負わせた。だが、肝心要の娘が取り返された。だから作戦は片手落ちだ」
「なら中止か?」
「……増援を呼んだ手前、何か情報はつかまなきゃならない」
男は眉間に皺を寄せ、短く答えた。作戦を畳むには、既に多くを動かしすぎている。
何も得られずに引き下がるわけにはいかない。
「なら、潜入か?」
「いや、数人が別で潜入。俺たちは囮役だな」
「まぁなんでもいい。早くやって早く帰ろう」
軽口を叩きながらも、鋭いまなざしをリオネット家に向ける。
男たちはその場で二組に分かれ、一組は裏手から、もう一組は正面から、リオネット家の屋敷へと忍び込んでいった。
やがて、屋敷の方角から、小さな戦闘音が漏れ始める。
剣と剣がぶつかる音。足音。短い怒号。
その音を、少し離れた民家の屋根の上から聞きながら、アルフレッドは静かに立ち上がった。
視線の先には、別棟の屋敷――リオネット家当主夫人がいるとされる場所。
アルフレッドは音を立てず屋根から降り、夫人のや屋敷へと向かっていった。
『止まれ!』
「聞こえねーよ!」
リオネット家の本邸正面では、護衛たちとスパイたちが激しく斬り結んでいた。
護衛の数は多い。
だが、相手の技量も高く、一方的に押し切ることができていない。
攻防は均衡し、膠着状態が続いていた。
「声に頼りすぎだな、お前らは」
『黙れ!』
護衛の一人が、鋭く命令の声を放つ。しかし、スパイたちの動きは一向に止まらない。
「こいつら全員、対策済みだ!」
別の護衛が叫んだ。
リオネット家の護衛の中には、本家や分家の血を引く者が混じっている。
彼らは“神通持ち”の能力者、声で人を操る能力を持っていた
命令の言葉一つで、敵の動きを縛り、味方の連携を補助する。
その力を前提に、護衛隊の戦い方は組み上げられている。
だが、相手がその能力への対策として、鼓膜を自ら破っていた場合、その前提はあっさり崩れ去る。
連携は寸断され、護衛たちの表情には焦りが色濃く浮かび始める。
スパイの一人が、口の端をつり上げた。
「――あまり舐めないでもらいたい」
その一言に、護衛もスパイも動きを止め、自然と距離が開いた。
「リオネット家当主。もう喋るのか」
暗がりから姿を現したのは、ポステムだった。喉に手を当て、片側に老執事を従えている。
「だいぶ無理をした」
ポステムはかすれた声で答えた。
まだ喉の傷は完全には癒えていない。
言葉を発するだけでも痛みが走り、呼吸も楽ではないはずだ。
「当主がなぜ来た? 今のお前では役に立つまい」
スパイは問いかけながらも、内心では時間が稼げればそれでいいと考えていた。
彼らの役目は囮。言葉でも剣でも、リオネット家の注意を自分たちに釘付けにできるなら、それは成功の一部だ。
だが、ポステムの方は雑談に付き合う気はないようだった。
「お前らは、私たちのことを甘く見すぎている」
ポステムは喉にあてていた手を、そっと離した。
その指先で、鼻から垂れた血を拭う。
逆にスパイたちは自分の喉を抑えたい衝動に駆られるが、動かすことはできない。
驚愕で目を見開くことしかできない。
「無事帰れると思うなよ」
静かに告げられたその言葉と同時に、目に見えない何かが空気を震わせた。
次の瞬間、スパイたちの体から力が抜けていく。足元がふらつき、膝が折れ、白目をむいて次々と倒れ込んだ。
最後まで意識を手放さなかったのは、昼間ポステムの首を斬り裂いた男だった。
「な、ん……」
彼は、自分の喉が見えない鎖で締め上げられているように感じていた。
呼吸ができない。声も出ない。
何が起きているのか理解できないまま、視界が暗く染まっていく。
そのまま、彼もまた地面に崩れ落ちた。
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