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見えたもの

 ポステムの体が石畳に崩れ落ちた瞬間、ゆがんだ風が元に戻るようにねじれた。


 ねじれは、やがて人の輪郭を帯びていく。正しい風景が見えるようになり、そこに人の姿が浮かび上がった。その姿は、以前アルフレッドが交渉の席で向き合った男――部下たちから「長」と呼ばれていた男だった。


「じゃあな」


 長は短くそう言い残すと、迷いなく人ごみの中へ駆け込んだ。群衆が割れ、すぐに姿は見えなくなる。


「追え!」


 老執事が即座に命じる。その声に、建物の影や屋根の上に潜んでいた隠密護衛たちが反応した。黒い影が音もなく飛び出し、長の消えた方角へ走り出す。


「くそっ、“神通持ち”か……」


 老執事は、倒れたポステムの首元に布を当て、必死に血を押さえていた。布は瞬く間に赤く染まり、指先の感触がじわりと生温かくなる。


 止血を施しながら、老執事の胸にはどうしようもない思いが渦巻いていた。


 この世界には、テイカーやバイカーと呼ばれる能力を持つ人間が大勢いる。その中でも、“神通持ち”と呼ばれる者は、わずか一割にも満たない。


 普通の能力者とは違う、想像外のもの。常識をねじ曲げ、理屈を飛び越える力。


 その力は、よく知られた名家の血筋から現れることが多い。リオネット家のように、代々続く家系がその代表だ。


 だからこそ、老執事は「想定」しなかった。いや、してはならないと思っていた。


 世のすべての“神通持ち”の能力を、誰かが把握していると胸を張って言える者はいない。リオネット家のように情報が広く知られている一族もあれば、何一つ外に出さない一族もいる。


 もし、未知の“神通持ち”まで想定しはじめれば、どれだけ警備を固めても「足りる」という感覚には永遠に届かない。


 だから、優先してきたのは別の脅威だった。


 遠くから命を狙うテイカーの射撃。


 身体能力を極端に高めたバイカーの突撃。


 目に見えて対処しやすい危険ばかりを、現実的な脅威として警戒してきた。さきほど、メイドがポステムに襲いかかった。だが、彼女は何の能力も持たない一般人だった。


「一般人だからこそ、メイドとして潜り込めたのか……そして、注意を引くための役目だった」


 ようやく駆けつけた医師にポステムの体を預けながら、老執事の胸に自責の念が重く沈む。


 もし、あのメイドがいなければ。もし、自分が“神通持ち”の介入を頭の片隅にでも置いていれば。


 自分の能力と経験を過信した結果が、この失態だと考えると、怒りが自分自身へ向かいそうになる。


 だが、その怒りは途中で止まった。


「……お嬢様はどこだ」


 老執事の顔色から血の気が引いた。




 街中を、アルフレッドは全力で走っていた。


 前かがみになって走るたび、背中にかけた荷の重みがずしりと腰にかかる。


 その荷は、ただの荷物ではない。


 意識を手刀で断たれたイレイナだった。


 乗り心地が悪いのか、不快気に顔をしかめるイレイナ。せめて頭を揺らさないよう片腕を背中に回して支えながら、アルフレッドはあらかじめ頭にたたき込んでいた道を思い出す。


 外壁を抜け、街の外へ出るための、もっとも人目につきにくい経路。街の出入りを管理する門の近くは、不自然なほど人が少なかった。祭りのせいで見回りが薄くなっているのか、それとも別の理由があるのか。


 ただ、アルフレッドにとっては好都合だった。


 すばやく門をくぐり抜けてから歩を緩めることなく、さらに走り続ける。


 十五分ほど進んだところで、周囲に木々が増え始めた。街の喧騒が消え、木が揺れ動く穏やかな音に代わる。やがて、背の高い木々が茂る森の中へと入っていく。


「お、来た来た」


 聞き覚えのない声が耳に届いたとき、アルフレッドは足を止めた。


「ちゃんとお嬢さん連れてるな」

「にしても、ほんとにガキとガキだな」

「ガキだから警戒されなかったんだよ」

「こんな奴がスパイだなんて、俺、子供嫌いになりそうだ」


 木々の間。そこには六人の大人たちがいた。


 アルフレッドは、そっと背中からイレイナを下ろす。彼女を近くの木にもたれかからせた。


 それから、ゆっくりと大人たちの方へ向き直った。


「おい、そんなとこ置かないで、こっちに渡せ」

「女の方が、このガキに惚れたんじゃねぇか?」

「確かに、わざわざあの家の方からガキを雇うか?」

「悲しいねぇ、惚れた男に売り渡されるなんてよ」

「おい、少し黙ってろ!」


 軽口をたたいていた三人を、一人の男が一喝する。その男はその中でリーダーとしての役割を持っているのか、先頭にたちアルフレッドに指示を出していた。


「お嬢さんを俺たちに渡す約束だろ?」

「早くこっちに渡してくれ」


 真面目そうな二人が、淡々と仕事を進めようとするように言う。リーダーらしき男は、じっとアルフレッドを観察していた。残りの三人は、興味なさそうに腕を組み、あたりを見回している。


「おい、なんとか言ったらどうだ」

「――お前たちは、一体何を言っているんだ」


 アルフレッドが口を開いた。その声音は静かで、森の空気にきれいに溶け込んでいく。


 リーダーと真面目そうな二人は、ぴくりと眉をひそめる。他の三人は、逆に興味深そうに口元をゆるめた。


「スパイ? 売り飛ばす? どれも何を言っているのかわからない」


 アルフレッドは、一人ひとりの顔を順に見ながら、言葉を続ける。


「俺は、お嬢様が危険にさらされると思ったから、街の外へ出たんだ。そこにたまたまお前たちがいた。……お前たちこそ、何者なんだ?」

「……本気で言ってるんだな」


 リーダーの目が細くなる。


「おいおい、面白くなってきたな!」

「やっぱり売り飛ばすのが惜しくなったか」

「一緒に駆け落ちでもしようってのか? 泣けるねぇ!」


 三人がどっと笑い声を上げた。森の静けさに、不調和な音が響く。


「お前たち、お嬢様を奪おうとする悪い奴だな。そんなことはさせない」


 アルフレッドは背中にかけていた二本の剣を引き抜いた。走っている間、この剣がイレイナの顔に何度か当たり不快そうに顔をしかめていた。


 それは、大人が使うのにちょうどいい長さと重さを持った剣だったが、アルフレッドの身体には明らかに大きすぎる。


 抜いた瞬間、重さに引かれて一歩よろめき、体勢を崩しかける。


「……」

「なんだ、戦うのか?」

「いいんじゃねぇか。退屈してたところだ」

「坊主、その剣は重いんじゃないかい?」


 先ほどまで雑談していた三人が、それぞれ腰の武器を抜いて前に出た。


 リーダーと他の二人は、少し下がった位置から様子を見ている。


「……本気で、約束を守らないんだな」


 リーダーの呟きには、苛立ちというより確認の響きがあった。


「だから、何を言っているのかわからない」


 アルフレッドの持つ剣が、重さに負けて垂れ下がる。


 剣先が地面に触れ、小さな音が鳴った。


 膝を軽く曲げ、腕に力を籠めて剣を持ち上げようとする。


 その様子は、たしかに「子供には荷が重い」という印象を周囲に与える。


「仕方ない。お前ら――」


 リーダーが、前に出た三人に命じようと口を開いた、そのときだった。


 髪が前方から吹く強い風でなびいた。


「——あと、四人」


 先ほどまでより、ずっと近い場所からアルフレッドの声がした。


 リーダーの視線が、自然と前方にいる男たちへ向く。


 二人の男が、自分たちの立っていた位置からほとんど動くこともなく、胸元に深く剣を突き立てられていた。


 血が、刃からゆっくりと滴り落ちる。


 さっきまで笑い声を上げていた口が、何かを言いかけた形のまま固まっていた。


 残る一人の表情から、色が消えていく。


 アルフレッドはそのすぐそばに立っていた。


 じっと観察するように男たちを見据え、その目は不思議なほど静かだった。


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