聞きたくはないが無理やりに
劇場で騒ぎがあった翌日。アルフレッドは、庭の片隅で麦わら帽子をかぶりハサミを握っていた。朝から空は晴れていて、陽射しは穏やかだった。
今日は家庭教師が来る日。そのためイレイナは一日中部屋にこもり、礼儀作法や学問の授業を受ける。
イレイナが部屋から出てこない日は、アルフレッドの仕事は半ば宙ぶらりんになるので、そのたびに老執事が別の仕事をあてがってくる。今朝も、いつもと変わらない声で「庭師の仕事を手伝え」と言われた。
(昨日のこと、報告受けていないのか……いや、そんなはずないよな)
庭師の男が、ふとこちらを振り返る。
「ふらついているけど、体調悪いのかい?」
「いえ、大丈夫です」
「そうかなぁ。まぁ大丈夫なら続けよう」
庭師の指示に従い、背丈の伸びた枝を切り、枯れ葉を取り除いていく。手は機械的に動いているが、頭の中は別の場所にあった。
昨日、広場で起きたイレイナの“暴走”。
スパイとして今後の任務を有利に進めるため、イレイナの内面を知っておきたい。
そう思って問いかけたはずが、気づけば従者が主に抱きつくという、今後の潜入にあきらかに不利な状況に追い込まれていた。
イレイナの能力に逆らえず抱きついたその直後、護衛たちが飛び出してきた。アルフレッドの体は、乱暴と言っていいほどの勢いでイレイナから引きはがされた。
(隠密なのに、あんな勢いで姿出して大丈夫なのかよ……)
そう思ったが、護衛たちの目を見て納得する。ありありと殺意が浮かんでいた。
(うちのお嬢様に抱き着くなんて一族郎党皆殺しって勢いだった)
この一か月の潜入で、アルフレッドはリオネット家の家族構成を把握している。
当主として表に立つポステム。
病に伏し、ほとんど姿を見せない当主夫人。
そして、その二人のあいだに生まれた、たった一人の子供イレイナ。
子供はただでさえ可愛いものだが、一人っ子ならなおさらだ。リオネット家に仕える者は皆、イレイナを宝物のように扱っている。
そんな娘が、最近入ってきた従者にたぶらかされている。そう見えたら、怒りを覚えるのも当然だろう。
「午前中はこのあたりで終わりだね」
庭師が作業の手を止め、道具を片づけ始めた。
「わかりました」
この屋敷では、午前と午後の間にまとめて昼休憩がとられる。まずポステムとイレイナが食事をとり、その後に使用人たちの食事だ。
アルフレッドも、手についた土を払って水場でよく手を洗い、食堂へ向かおうとした。
「アルフレッドくん。いいかな」
背後から名前を呼ばれ、思わず足が止まる。
振り向けば、そこにはポステムが立っていた。その後ろには、昨日広場で見た隠密護衛の女性が控えている。
「私はまだお昼をとっていないんだ。イレイナは食事マナーの勉強で一緒に食べることができないからね」
ポステムは、いつもの柔らかい笑みを浮かべていた。
「だから今日は、アルフレッドくんに付き合ってもらおうかと思うんだ」
「……わかりました」
「それは良かった。中庭に用意してあるから、アルフレッドくんが手入れした作品を見ながら食べよう」
そう言って、ポステムはすでに用意されていたらしいテーブルの方へと歩き出した。アルフレッドも、それに続く。
中庭の中央には、白いクロスをかけた丸テーブルが置かれていた。その周りに椅子が二脚。ポステムが椅子に近づくと、背後の女性が音もなく椅子を引いた。
当主が腰を下ろすのを待ってから、アルフレッドも自分の椅子に座る。もちろん、自分の椅子は自分で引いた。
「一緒に食べるのだから、同じものを用意させたよ」
テーブルの上を見て、アルフレッドは目を丸くした。この世界に転生してから見た中で、最も豪華な食事だった。
香りだけで空腹が強くなるような肉料理、彩り鮮やかな前菜、湯気を立てるスープ、焼きたてのパン。
「ありがとうございます」
「こんなに豪華な食事は、そうそう食べられないよ。そうだろ?」
ポステムが笑みを深める。その隣で、グラスに飲み物を注いでいた護衛の女性が、静かに口を開いた。
「そうでございます。使用人がこのように豪華な食事を楽しむことはほとんどありません。最後の昼食と思って、味わって召し上がるとよろしいでしょう」
「……」
「確かに、それくらいの思いだったらよく味わえるね」
ポステムはニコニコ顔のままフォークとナイフを手に取り、優雅に食事を始める。
アルフレッドもそれに倣い、ぎこちない笑みと、ぎこちないフォーク使いで食事を始める。
ソースがたっぷりかかったローストビーフを一切れ口に運び、ゆっくりと咀嚼して飲み込む。
「とてもおいしいです」
「まだまだこんなものではないよ。料理人が気合を込めた逸品があるんだ」
ポステムは楽しげに続ける。
「今回は何がおすすめだったかな?」
「はい、エビのアヒージョになります。さらに生きのよいエビが五尾ほど入っているため、それは飛びぬけて美味とのことです」
護衛の女性が、テーブルの一角を指し示した。
そこには、香草と油の香りが強く立ちのぼる小鍋が置かれている。殻つきのエビが煮えたぎる油の中で、赤く色づいていた。数えてみれば、十尾は入っている。その料理は、アルフレッドの席側にだけ置かれていた。
「御当主様はこちらの料理をお食べにならないのですか?」
アルフレッドが思わず尋ねると、ポステムは軽く首を振った。
「あぁ、君が食べるのを見たいんだ。料理人が言うには、死ぬほど美味しいらしいからね」
ポステムと護衛の視線が、じっとアルフレッドに向けられる。
その視線を受けながら、アルフレッドは十尾のうち一尾をフォークで刺し、口に入れた。
ゆっくりと味わい、飲み込む。
「どうだい?」
「身がぎっしりと詰まっておりまして、大変美味しいです。こちらが“当たり”のエビでしょうか」
「多分違うね。死ぬほどのおいしさだから、アルフレッドくんも思わず転げまわるんじゃないかな? もし転げても気にする必要はないよ。そんな粗相、アルフレッドくんは二度としないだろうからね」
「……」
二尾目のエビを口に入れる。
「粗相と言えば、昨日うちの娘に抱きついたそうだね」
ナイフの音が、皿の上でかすかに鳴る。
「その件につきましては、この場で謝罪させていただきたく――」
「いやいや、謝罪はいらないよ」
ポステムは、あくまで穏やかな声で遮る。
「イレイナが君にそうさせたのだろう? 反抗できないのは仕方ないよ」
三尾目のエビを口に入れる。特に問題なく飲み込める。
ふと顔を上げると、さっきまで笑っていたポステムが、いつの間にか真剣な目つきになっていた。
「美味しいかい?」
「はい、とても。当たりでしょうか」
「いや、違うね」
四尾目のエビにフォークを突き刺したところで、ポステムはふっと息を吐く。
「……これは、父親の独り言なのだけどね」
エビを口に運ぼうとした手が、そこで止まる。
「君が来たことに、感謝しているよ」
ポステムの声は、静かだった。
「イレイナはまだ幼くて、自分の能力とうまく折り合いがついていない。だから友達と呼べる存在がいなかった。周りにいるのは、大人ばかりだった」
「……」。
「でも君が来てから、イレイナの笑顔が増えたように思える。友達のように対等な関係ではないけれど、それでも得難い関係だ」
アルフレッドは、目だけでポステムを見た。ポステムもまた、まっすぐにアルフレッドを見つめている。
「得難いからこそ、アルフレッドくんとイレイナの今の関係を、あまり動かしたくないんだ。イレイナがなぜ君を気に入ったのか、私にはよくわからない。だからなおさらだ」
護衛としてポステムの背後に控える女性はピンと立ったまま微動だにしないのが見えた。
「だけどねぇ」
ポステムの声色が、ほんのわずかに低くなる。
「従者ごときがイレイナに抱きつくなんて、あってはならないことなんだ」
小鳥のさえずりも、木々の葉擦れも、耳に入ってこなくなる。
「イレイナは、私が選んだ“正しい男”と一緒に家庭を築いていかなければならない」
ポステムは、フォークの先を見つめながら続ける。
「それなのに、従者が抱きつく? しかもイレイナが能力を使って? ……そうじゃないだろ」
その言葉のあとの沈黙は、ひどく長く感じられた。
アルフレッドは、ゆっくりと四尾目のエビを口に入れる。
「おいしいか」
ポステムが穏やかに言う。
「私はお前に謝罪を求めない。私はお前に出て行けと言わない。ただ、この食事を終えれば何もかも元通りだ」
「……」
咀嚼して、喉を動かす。
何も起こらないアルフレッドを見て、ポステムは前のめりになっていた上体をゆっくりと椅子の背にもたせかけた。護衛の女性も胸に手を当て、ほっと息を吐く。
五尾目のエビをフォークで突き刺す。
「御当主様」
「なんだ?」
「私は、御当主様から暇を出されると思っておりました。それが当然だと思いました。そのため、最後の言葉を考えていたのです」
アルフレッドはポステムと視線を合わせる。
「しかし、御当主様が引き続き私を置いてくださるのであれば、その言葉は無駄になってしまいます。せっかくですので、聞いていただけますか?」
ポステムが、わずかに目を細める。
「……ぜひ聞こう。君の最後の言葉を」
アルフレッドは、ゆっくりとフォークを口元へ運ぶ。
「イレイナお嬢様の声が聞こえなくなり、残念です」
そう言って、そのままエビを口に押し込んだ。
噛みしめる。
そして静かに飲み込んだ。
「……感想を言えるか?」
ポステムが静かに問う。
「はい、美味しいです。これは当たりでしたね」
「……そうか」
それだけ言うと、ポステムはすっと席を立った。
「もう時間だろう。仕事に戻るといい。午後もしっかり働いてくれ、アルフレッドくん」
「かしこまりました」
アルフレッドは椅子から立ち上がり、去っていくポステムの背中に一礼する。護衛の女性が、歩き出す前にちらりとこちらを見た。
「運がよかったな」
短くそう言い残し、彼女もポステムの後を追っていった。二人の気配が十分離れたのを確認してから、アルフレッドはもう一度椅子にどさりと腰を下ろした。
額には、にじむどころか流れ落ちるほどの脂汗が浮かんでいる。彼は目を閉じ、全神経を内側に集中させた。
じりじりと焼けるような感覚が、胃と腸から全身に広がろうとしている。
「……っ」
奥歯を噛みしめ、全力で自分の能力を発動させる。毒を薄め、分解し、汗と共に押し出すように意識を集中させる。
汗と共に黒くねばついた液体が体外に排出されていく。
「確かに運がいい。俺がスパイじゃなかったら、最後のエビの毒で死んでいた」
ぽつりと独り言を漏らす。
(スパイじゃなかったら、そもそもここにはいなかったわけだけどな)
訓練で学んだ毒除去を行うたびに、熱い汗が頬を伝う。アルフレッドは大きくため息をつき、それから庭師が呼びに来るまでのあいだ、テーブルの席でじっと座り続けていた。
面白かったらいいね、ブックマークよろしくお願いします。




