悪魔と沈む影
——美しい世界だった。
扉を抜けた先には、まるで夢のような光景が広がっていた。
紫の霧が立ち込める幻想の森。
木々には青い光を放つ花が咲き、足元には滑らかな黒い水面が広がっている。
空気は甘く、静かに音楽のような響きが流れていた。
「……ここは?」
少女は足を踏み出した。
驚くほど柔らかく、心地よい感触。
その時——
「ようこそ。」
低く、心地よい声が響いた。
振り向くと、そこには 美しい男 が立っていた。
深い赤い瞳、黒曜石のような髪、ゆったりと微笑む口元。
彼はゆっくりと歩み寄り、少女をじっと見つめる。
「君は、よく頑張ったね。」
「もう、苦しむ必要はないよ。」
少女の心が、揺らいだ。
「苦しむ必要が……ない?」
男はゆっくりと、指先を動かした。
気づけば、少女の手首に 細いロープ がかけられている。
「ここにいれば、悩まなくていい。
進まなくても、誰も君を責めない。
ただ、心地よいままでいればいいんだ。」
ロープはゆるく、簡単に外せそうだった。
でも、少女はすぐには手を動かさなかった。
——なぜ?
ふと、足元を見る。
黒い水面——そう思っていたものは、いつの間にか 足先がわずかに沈んでいた。
「……?」
確かに、最初は浅かった。
水は冷たくも熱くもなく、ただ心地よい。
「少しだけなら、いいよね?」
男の声が、囁くように耳に届く。
「ここで少しだけ休んでも、誰も怒らないよ。」
少女は、息をのんだ。
——そうだ、私はずっと進み続けてきた。
——ちょっとくらい休んでも……
気づけば、水がくるぶしまで上がっていた。
「……?」
——少しだけのつもりだったのに?
「大丈夫。何も考えなくていい。」
男は静かに微笑んだ。
「ここにいれば、安心できる。
もう、考えなくてもいい。
もう、迷わなくてもいい。」
少女のまぶたが、重くなっていく。
——考えるのをやめたら、楽になる?
「……そう、なのかな……?」
「そうさ。」
男は少女の肩に手を置く。
その瞬間、少女の背筋が ゾクリ と震えた。
——何かが違う。
胸の奥がざわめく。
足元の水が、さっきよりほんの少しだけ濃くなった気がする。
「……」
——私は、これからどこへ行くの?
——私は、ここで止まるの?
「……違う。」
少女は、自分の足元を見た。
ほんの少し沈んだ足先——でも、ここで動かなければ、もっと沈む。
「私は……楽になるためにここまで来たんじゃない!」
少女は力いっぱい、足を引き抜いた。
ザバッ!
すると、水が大きく波打ち、くるぶしまで上がっていた沼が、再び足先の位置に戻る。
男は、目を細めた。
「……なるほどね。」
彼が指を鳴らすと、幻想の森がゆっくりと崩れ始める。
「君は、まだ"考えること"を選ぶんだね。」
その声は、どこか寂しげだった。
世界が霧のように消えていく。
その先に、新たな扉 が現れた。
少女は、胸の奥で温かく脈打つ何かを感じながら、その扉へと歩き出した。
「私は、楽な道を選ばない。」
「私は、自分の意志で、生きていく。」
そして、扉の向こうへと進む。
——甘い誘惑の沼を超え、少女はさらなる真実へと向かう。