吊るされた男と逆さまの世界
扉を開けた瞬間、少女はふわりと浮かび上がった。
——いや、落ちている?
感覚がぐるりと反転する。
空が下に、大地が上に。
どこまでも落ちていくような、不思議な浮遊感に包まれる。
そして——
ザワァ……
風に揺れる木々の音が聞こえた。
少女は気がつくと、大きな一本の樹の枝に、逆さまに吊るされていた。
「……え?」
足首に絡みつく蔦が、彼女をゆるやかに支えている。
もがこうとしたが、体はまるで重力に逆らうように動かない。
腕を伸ばそうとしても、どこにもつかまるものはない。
「動けない……?」
目を凝らしてみると、まわりの景色が静止していた。
風の音が消え、雲も止まり、草の揺れすらない。
世界全体が「静止」していた。
「なぜ……? 私、ここからどうすればいいの?」
少女が焦りを覚えたそのとき——
「何もするな。」
静かな声が響いた。
視線を巡らせると、木の幹の向こうに、一人の男が立っていた。
長いローブをまとい、柔らかな光を放つ瞳。
彼は少女を見つめながら、穏やかに微笑んでいた。
「私は『吊るされた男』。」
「お前に、『待つこと』を教える者だ。」
「待つ……?」
少女は戸惑った。
「でも……私は、動きたい。進まなきゃ……!」
「なぜ?」
吊るされた男は静かに問いかける。
「動くことだけが、答えか?」
少女は言葉を失った。
——そう、今までずっと「進むこと」「選ぶこと」を続けてきた。
——でも、ここではそれができない。
——私は……何もできない?
「無理に動こうとすれば、余計に絡まるだけだ。」
吊るされた男は木に手を添え、ゆっくりと目を閉じる。
「動かないからこそ、見えるものがある。」
少女は、もう一度まわりを見渡した。
空も、大地も、すべてが逆さま。
でも、じっと目を凝らすと——
そこには、今まで見えなかったものがあった。
木々の間に、隠された小さな道。
川の流れが、ただの水ではなく、星々の軌跡でできていること。
雲の向こうに、見えないはずの何かが潜んでいること。
「……こんなもの、今まで気づかなかった。」
「気づけなかったのだ。」
吊るされた男は穏やかに言う。
「世界は、動いている時よりも、静かにしている時のほうが、多くのことを教えてくれる。」
少女はゆっくりと息を吐いた。
——私は、「何かしなきゃいけない」と思っていた。
——でも、本当は「何もしないこと」が必要な時もあるんだ。
その瞬間、彼女の心が静かに整うのを感じた。
すると、蔦がゆるやかにほどけ、少女の体がふわりと浮かぶ。
——もう、焦らなくていい。
少女はゆっくりと回転し、足が大地に触れる。
もとの重力に戻ったはずなのに、今までと違う世界が見えていた。
吊るされた男は、そっと少女に手を伸ばす。
「ようこそ。"新しい世界"へ。」
目の前に、次の扉が現れた。
少女は、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう。」
そして、扉へと向かう。
——見えているものがすべてではない。
止まることで、新しい視点を手にした少女は、さらなる深遠へと進む。