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ドゥームズデイクロックス  作者: tatsukichi_ohta
9/24

09:白銀鎗来襲

 パースリーは、農業の街ファジッカ、その市街と広大な栽培地区とを隔てる壁の上に立ち、遠く芽吹く小麦たちを眺めていた。


 タイムも隣で同じ景色を眺めている。連れて来た人攫(ひとさら)いたちの処遇に、二人して思いを馳せている。姉弟の悩ましさが伝わっているのだろう。見守るトルソーも縮こまって見えた。

 ここに牡丹(ぼたん)はいない。


 ――因果応報とは、よく言うものね。

 善い結果を招きたくば、善い行動を心掛けよと、パースリーは常々、自らに言い聞かせている。父母も、叔母(おば)もよく口にしていた言葉だ。しかし、善悪とは往々にして判然としないもの。先日、姉弟が降した決断を、精霊は是と見るのか否と見るのか。それは、分かりようもない。

 タイムの言った通り、人攫いを草原に打ち捨てたまま、去るべきではなかった。被害者の無念、遺族の苦しみは、明白な罰を経て癒されなければならない。獣に罪人の身を捧げれば、その行為は(まさ)しく私刑であり、法を軽んじることにもなる。弟の判断は、実に賢明だ。

 けれども、そうしたおかげで男を五人も引きずる羽目になり、トルソーには負担を掛けた。移動に余計な時間を要したせいで、ドニへかなりの利を与えたとも思う。


 ――私は、しっかりと未来を見据えて、決断を降せたのかな……?

 降せた、とは言えようもない。日を追う毎に後悔が強まっているのだから、情けなかった。タイムの美しい決意は、あれからずっと翳りを見せていないのに、姉はこの様なのだ。

 背中を(つつ)かれて、パースリーは自嘲から醒める。振り向けば、トルソーが街を指差していた。

 タイムが目配せをする。姉弟は二人並んで、街に通じる石階段を降りた。


 ファジッカはサルティナ(こく)で一、二を争う穀倉地帯の中心で、乾季には小麦作、雨季には米作と、年中、土の営みと共にある。

 商業盛んなカナート程華やかではないが、賑やかさにおいては勝るとも劣らない。質実剛健の風貌を持つファジッカの住人たちは、道を往来しているだけで、活き活きとした大地の律動を感じさせてくれる。

 農具鍛冶が鳴らす快い(かね)()。昼時につき、食事処は大忙しだ。使役動物が楽にすれ違えるよう整えられた幅広の道には、手掴みで食せる一皿――ではなく一葉料理(いちようりょうり)がずらっと並ぶ。

 雑多な生活臭に、人獣(じんじゅう)入り混じった体臭、濃い土の香りも相まって格別の開放感があった。


 パースリーは五感を大いに広げて、ファジッカの風俗を記憶に刻み付ける。タイムには申し訳ないが、この瞬間だけは、人攫いに関することを綺麗さっぱり忘れたかった。

 本来ならば、もっと、(くつろ)げるはずだったのだ。絵葉書に記された、あの大粉挽風車(だいこなひきふうしゃ)にも立ち寄らせてもらうつもりだった。遠景のみならず、内部までつぶさに鑑賞するつもりだった。

 しかしながら、ドニの脅威を思えば、早々に発つ必要がある。タイムの案に同調したことで、僅かでも観光を、などと言える雰囲気ではなくなってしまった。口惜(くちお)しくて堪らない。


 国境の街、シングへの行程は半分を過ぎた。なのに、不自由の影は相も変わらず付き纏ってくる。楽しい日々が暗転する様を、どうしても想像してしまう。一刻も早く永遠の自由を手にしたいのに、何故か、人攫いなどに足を引っ張られている。

 パースリーは、ちらとタイムの方を見た。弟は、その視線に気付かなかったようだ。

 ――自ら足を差し出した、ということでも、あるけど……。


 作りかけの農具が沢山並べられた工房の脇を通り、煉瓦造りのファジッカ庁舎に到着した一行は、質素な応接間で牡丹と合流した。

 姉弟が長椅子に腰掛けると、(うれ)いを帯びた笑みを見せて、彼女が問う。

「どうだったかい? 壁からの眺めは」

「自信満々に勧めるだけあって、確かに、胸のすく景色だったわ」

 まず、パースリーが嘘を()いた。実際素晴らしい景観だったが、胸のつかえは取れていない。

「ちょっと気が楽になったよ」タイムのそれは、恐らく本心だ。「勧めてくれて、ありがとう」


「そうか。それは良かった」

 相槌打つ牡丹の表情は、煮え切らない。それは、姉弟の心模様をそのまま転写しているからだと、パースリーは理解している。

「……それで、あの男たちについてだけど」早くも、本題が切り出された。「悪質な犯罪者集団の一員だそうだ。サルティナ北部の広くに目撃情報があり、けれども実態は全く掴めず、よしんば構成員を捕らえても、上に繋がらない。中々に狡猾(こうかつ)な組織のようだね」

 タイムの瞳から光が失せる。弟の掌には、未だ霊魂の重みが生々しく残っているのだと分かり、パースリーは改めて、弟の持つ高い共感性に敬服した。


「彼らは過酷な尋問を受ける。それでも、組織に関する詳細な情報は得られないだろう。五人を待つ未来は、集団の罪を肩代わりさせられるか、見せしめか。多分、重ねた罪以上の断罪となる。死は(まぬが)れないと思うよ」

 法による判断を願った姉弟の行動は、少しばかり捻じ曲がった結果を導いた。公正明大でなければ、私刑と何が違うのか、とパースリーは憤る。一方で、理解出来なくもないのだ。法と情の狭間でやきもきしていると、牡丹が机に置かれた袋を手に取り、タイムの前に立った。

「それと、これを。謝礼金と報奨金だ」


 言われて、タイムは目を見開く。牡丹の頭ほどに膨らんだ薄手の綿袋は、その内に溜める硬貨の形を――重量を、包み隠さず(あら)わにしていた。

「――受け取りたくない。そんなの」

 粗雑に、冷淡に、弟が拒んだ。


「受け取る義務が有る。これは遺族への慰み。決別へと導く呼び水なんだ。君自ら降した決断の、結末を全て受け入れてくれ。……良いとこ取りは、無しだよ」

 死を換金する。タイムにとって、これ程(おぞ)ましいことは無いだろう。怖れてもいるのだろう。ただそれだけの心情だと分かるから、パースリーは、弟を我儘(わがまま)と断じることが出来ない。

「私が(あらた)めるわ。いいでしょう? 私も、タイムと一緒に決断したんだもの」


「良くないよ」助けは無情にも一蹴された。「甘やかしてはいけない。これは、最も受け取りたくない者が手にするべき金だ。手にして、次も同じ判断を降すのか。タイムの真を問う金だ」

 しばしの間、タイムは牡丹と睨み合う。そして、泣きそうな顔して涙は見せず、膝を立て、両手で包むように綿袋を受け取った。

 受け取って、一筋だけの涙を流した。

「それでいい。よく頑張ったね、タイム」


 牡丹が席に戻ってしばらくは、皆が皆ありのままに静寂を受け入れて、何かを考えていた。

「……いいかな?」牡丹が断りを入れると、時は動き出す。「これを見てほしい」

 彼女は懐から紙片を取り出し、タイムへ手渡した。パースリーは、紙を開く弟の手元をじっと眺める。それは、少し前に見せてもらった、密書の写しだった。

爛爛(らんらん)……さんが、カランの手下から奪ったもの、だったよね?」

「さんは要らないよ。爛爛がやきもきするからね。――もう一枚、これも見て」


 今度はパースリーが受け取り、紙面を確認した。そこに描かれていたのは、蛇を模った(しるし)

「五人の人攫い全員に刻まれていた、刺青(いれずみ)だよ。構成員の結束を促すものだろう」

「あ」タイムが、手に持つ紙片のある一点を指差して言う。「ほら、姉さん。これ……」

 人攫いの刺青は、カランの密書に押された小さな朱印と、ほぼ同一の形をしていた。


 両者の関係性は明白である。牡丹は敢えて解説を控え、解答を待っているように見えた。

 上等の儲け話。今回は選抜しろ。その文面はあまりに粗野で、国主お抱えの商人がしたためたものとは思えなかった。しかし、商人の方が裏の顔であるならば、しっくりとくる。

「カランが、あいつらの親玉なのかもしれない。そういうことね?」

「うん。その可能性は高そうだ」


 仮定を口にすると、別の疑問が浮かんでくる。

「じゃあ、あの五人もカランの命令で?」

「いや、偶然だろう。彼らは、そういう素振りを微塵(みじん)も見せなかった」

「これ、庁舎の人に伝えないと」

 タイムが提案した。何も言えないパースリーの向かい側で、牡丹は首を横に振る。


「出来ないよ。そうすれば、僕らは参考人としてファジッカに留まらざるを得なくなる。数日か、十数日か、今から消費するには厳しい。ドニは今にも――」

 そこで、彼女の声が途切れた。端麗な顔から表情という表情が失われる。一瞬にして事切れたかのようで、しかし瞳は煌々(こうこう)と輝いていて。非人間的な落差が、パースリーを恐怖させた。


「どうしたの、牡丹?」

 尋ねた途端、その顔つきは険しく変わり、架空戦記の女将軍を思わせる剛直な唇から、

「――早過ぎる。ドニだ。ドニが来た!」

 竜の来襲が告げられる。

「トルソーは足止めを。僕らは裏口から!」

 突然の事態ながらも、パースリーの意識は素早く順応した。呆けるタイムの手を取り、牡丹の指示に従って、庁舎を後にする。


 外へ出てすぐに、牡丹が零した。

「まずい。これでは時間が足りない。だが……」

 声には焦燥と、焦燥の中にあって最善を求める泥臭い意思が混在している。

「過小評価していた。今のドニは、僕の知らないドニだ」

 |独《ひと《り(ごと)か解説か。こんなにも危うげに浮き沈む牡丹は、今までに見たことがない。


「そんな、トルソー……!」

 急に目を剥き、回頭した牡丹は、来た道へ。パースリーも振り返ろうとした。

「北へ逃げて」彼女が言い終えるより早く、タイムに手首を掴まれる。「大粉挽風車で会おう。さあ、走れ!」

 力一杯、腕を引かれた。痛い。痛みが、判断を正してくれる。

 ――時間なんて、少しも残されていなかったんだ……!

 パースリーは、嘆きを力に変えて地を蹴った。捕まったなら、在るべき自由は。観るべき風景は。ドニの脅威は、誰の予想をも超えていたのだ。大切な時間を人攫いに捧げてしまったことが。そもアグリッパの身を案じたことが。悔やんではならない。でも、悔やまれてならない。


 それからは全力で走り続けた。沢山の浅はかな視線を振り払って、タイムと共に逃げ続けた。

 息は上がり切っていない。まだ、先へ行けると思っていた。しかし、旅の疲労か、或は怖れが(たた)ったのか、脚の方が言うことを聞かなくなってしまう。

 パースリーは立ち止まり、タイムへ願った。

「ごめん……ちょっと、休ませて」

「姉さん、もしかすると、じっとしていた方が……いいのかもしれない」

 タイムの額も汗だらけ。肩はしきりに上下しており、厳しい疲れが伝わってくる。


 二人、路地裏の壁に背を預けた。

「ドニも、遠くの生物が検知出来るなら、走っていた方が……目立つのかも」

 普段なら明察と評せる弟の発言も、今は、正しいのか正しくないのか、熟考の結果なのか、いい加減な気休めなのか、分からない。耳をすませば、不安に苛まれる二人の呼吸は、全く同じように乱れている。ひっきりなしに鳴る鼓動が(わずら)わしい。

 沈黙の中で、牡丹の安否を思った。代わる代わる頭を占める楽観と諦観。均衡は焦りと共に失われていく。嫌なのに、諦観の方へと傾いていく。


 

〈……!〉

 両耳が違和感を覚えた。壁の裏側から聞こえるぼやけ声。正体不明の騒音に胸が跳ねる。

 危険だ。パースリーは、勘働(かんばたら)きに突き動かされてタイムの手を引き、壁から離れる。

 刹那の差だった。轟音と共に煉瓦が弾け、たった今離れた壁から、機械の腕が突き出る。パースリーも知る白銀(しろがね)の煌き。しかしその形は、記憶していたドニの腕より一回り大きく、より禍々しい。人を容易(たやす)く引き裂くという異大陸の熊、グリズリーの腕。そんな威容であった。


「……捕らえるつもりだったが、中々にやる」

 堂々たるバスバリトンは、間違いなくドニの声。

〈過小評価していた。今のドニは、僕の知らないドニだ〉

 パースリーはようやく、牡丹の言葉が意味するところを知った。改造、または換装。機械は時折、自らの身体をより良いものに改めるという。


 腕が、壁の中へ消えた。同時に、蜘蛛の巣状の亀裂が壁面を走る。崩落の前に走り出そうと、パースリーはタイムの手を引っ張った。だが、何故か、弟は微動だにしない。

「タイム……! 何してるの!」

 焦れて、叫んで、逃げようと訴える。なのに、タイムは振り返り、この非常時にそぐわないにこりとした笑みを見せて、パースリーの手を振り解いた。弟の癖に、牡丹と重なる勇敢な横顔、後姿。彼はまもなく駆け出し、正に今、壁の中から姿を見せたドニ目掛けて、突貫する。


 パースリーの頭は真っ白になった。タイムの行動が、タイムが選ぶはずのない行動だったから。けれども、そうする弟の瞳は思いやりに溢れ、どこか悔しげで、いつものタイムそのままで。ああ、そうか。自分は後を託されたのだ、と思い知る。

 勇ましく拳を振り上げて、ドニへ殴りかかろうとしたタイムは、渾身の一撃を難無く(かわ)された後、当然呆気なく、巨大な腕によって拘束された。ドニは肥大化した両足を揃え、堂々と張った胸の前で、弟を吊るし上げる。

「――無謀だな」銀の鋭利な指先が、タイムのうなじに沈んだ。「タイム。その首を裂きたくなければ、暴れるな」


 果たして、弟が恐怖を受け止め、姉が十全に思い巡らす布陣となった。

 パースリーは自らに使命を課す。タイムに報いよ。弟の行動は、無謀と侮られるべきものではない。それを証明出来るのは姉だけだ。反抗の火種に油を注ぎ、脳髄(のうずい)を燃え上がらせろ、と。

 まずは感情の(おもむ)くままに、悠然と構えるドニを睨みつけた。

「パースリー。貴様も、分を弁えられないのか」

 白銀鎗(はくぎんそう)が見せた最初の反応は、失望。悪くない。侮られるのは弱者の利だ。少し気が楽になったパースリーは、不遜な表情を維持しつつ、熟考する。


 セージのような蛮勇も、武術の心得もない。タイムのような臆病さもなく、特段気が回るわけでもない。そんな自分が、強大なドニを相手にして出来ることとは、何か。

 戦い方の模索。それは、自らを見つめ直す行為でもあった。考えるほどに、選択肢の少なさを痛感させられる。安穏(あんのん)と生きてきた過去を直視させられる。生育不良だ。光無き屋敷の中、劣等感という堆肥すらも撒かれずに日々を過ごした自分の中には、煌めく何かが育まれていない。パースリーはその事実に落胆し、悲嘆もして、結局、化粧じみた声で人を誘導する、使い古したやり方を武器にして戦うしかないのだと、悟った。


 まずは状況の整理を始める。

「……ふん。さて、坊ちゃんをここに呼んでもらおうか」

 セージはこの村に居る。それが、アグリッパを通して誘導されたドニの認識だ。セージの不在を知られたなら、取れる選択肢が更に減ってしまう。避けねばならない。

「牡丹がいないと、通信出来ないわ」


「そうか。まあいい、奴は直にやって来る」

 ドニは、牡丹がここに来ると確信している。即ち、牡丹は壊されていない。姉弟の確保を優先したのか、牡丹に使い道を残したのか。とにかく、移動能力すら奪っていないようだ。

 ドニは、牡丹を感知した素振りを見せていない。牡丹は何らかの策を講じるため、時間を必要としていた。ならば、負けたことにかこつけて、遠くで時を測っているのかもしれない。


 人質がいる以上、ドニが(しび)れを切らせば、それ以上の時間を稼げなくなる。彼が牡丹を呼びつけるか、或はタイムが傷つけられただけでも、そうなるのだろうと思えた。命の危機に対する鋭敏な嗅覚を、牡丹ら姉妹は有しているのだから。

 長く時を稼ぐには、何より先に、牡丹から交渉相手たる役割を剥奪(はくだつ)せねばならない。牡丹と交渉する価値無し、とドニの認識を改めさせる。姉弟を助けに来る必要無し、と牡丹へ秘密裏に伝える。この二つを成し遂げる必要があった。


 パースリーは具体的な方策を探して頭を搾り、搾り切り、果てに即断実行が肝要と気づく。

「……いいえ。牡丹は、来ないわ」

 これ見よがしに(うつむ)き、呟くと、ドニが怪訝(けげん)そうな声で尋ねてきた。

「どういう意味だ?」

「意味ですって……? 牡丹はもう逃げてる! そういう意味よ!」

 パースリーは無念を(かた)る。()ねながら叫ぶ。姉弟を人質に取った程度で、全てが思い通りと考える、ドニの浅はかさを嗤いつつ、全力で。幼稚に振る舞うことも忘れない。


「だってあなた、トルソーも牡丹も小気味良く倒してここまで来たんでしょ? だからよ。悦に浸っているところ悪いけど、それは駄目なの!」

 自律機械の論理的思考に少しでも狂いが生じればと思い、情緒不安定な文章を紡いだ。

「私とタイムは無価値だから! あなたもそう思ってるんでしょ? セージにだけ価値があって、私たちは恩情に生かされる添え物だってこと。牡丹もそう思ってる。黒鶴(くろづる)も……!」

 惨めな子供を演じれば、本当に惨めな気分になれる。声もつられて、涙ぐむ。

「だから! 私たち……見捨てられちゃうでしょ? ……勝てる見込みが無いんだもの。もう今頃、セージだけ連れて、ファジッカから逃げてる……」


「……奴は、そういう機械には見えないが」

 ドニが、当たり前の疑義を呈した。

「戻って、確かめてみれば? もういないよ……」

 一抹の寂しさを滲ませつつ、パースリーが吐き棄てると、ドニはタイムを抱え直し、

「……いいだろう。掴まれ」

 そう言って、空席の腕を差し伸べる。パースリーは、たっぷりと怖がってみせてから拒絶し、ドニに無理矢理抱え上げられた。


 白銀の巨体が動き出す。彼は凍った水たまりの上を滑るように、ファジッカの大地を駆ける。その速度はトルソーの速駆けよりも上。揺れも全く無く、実に快適な乗り心地だった。

 ――どんな方法で、地面の上を滑走してるんだろう。車輪かな? それとも、空気?

 好奇心が花開く。あまりに楽天的で、演技の障害になりかねないその想いを隠匿するのに、パースリーは腐心した。


 牡丹と別れた十字路を超えて、更に進むと、道に転がる長斧鎗(ハルバード)が目に入る。

 ドニは足を止め、(かたわ)らに立つ住人たちを問い質した。

紅色(くれないいろ)の自律機械がここにいただろう。奴はどこへ行った?」

 彼らは口を揃えて、北外郭の方へ去っていった、と返す。


「やっぱり、見捨てられたんだ……!」

 パースリーはここが正念場と思い定め、自ら獅子身中(しししんちゅう)の虫となるべく溢れんばかりの悲愴を声に纏わせ、(すが)るように囁いた。

「ねえ、ドニ。牡丹を探すの、手伝って? 両親に先立たれて、叔母様(おばさま)にも嫌われて……私たちにはもう、牡丹しか頼れる人がいないの。あなたがセージを奪ってくれれば、彼女も、私たち姉弟で我慢してくれるかもしれない……」


「……行く先に、心当たりがあるのか?」

 手応えを感じた。ドニは明らかに歩み寄る態度を見せている。

「セージとは庁舎で別れたわ。私たちが用事を済ませている間、黒鶴と一緒に大粉挽風車を見に行くと言ってた。牡丹はきっと、そこで合流するつもりなんだと思う」

 (あざむ)くには、虚偽に真実を混ぜ込め。ある偉人譚にそんな記述があった。だから、そうした。

「他には」

「ごめんなさい。ファジッカに来たのは初めてだから、よく、分からなくて……」


「……合流地点は、変更されているとみていいだろう。東か、西か。いや――」

 白銀甲冑(はくぎんかっちゅう)の奥に潜む光の目が、パースリーを睨みつけた。

「まずは、お前が吐いた言葉の真偽を確かめなくてはならない。庁舎へ向かう」

 毅然と告げて、ドニは走り出す。

 ――まずいわ。庁舎職員に問われては……!


 嘘がばれてしまう。自明の理だ。この街にセージと黒鶴はいないのだから、二人を見たと答える者もいない。パースリーは急いで、ドニの決定を覆そうと試みる。

「そんな、悠長な……! ちゃんと探して、お願いだから」

「脚の機能を粗方奪った。大した速度も出せまい」

「……そう。でも、どうかしら。黒鶴は牡丹すら見捨てて、逃げるかもしれない。セージを取り返したいなら、急ぐに越したことは無いと思う」

「見捨てるようなら、もう見捨てている。そうなれば、この場は諦めざるを得ない」


 思うよりも、ドニは冷静だ。国の宝器(ほうき)として頼もしいその性質が、今は邪魔で仕方ない。

「だが。そうであっても、牡丹の確保は有用だ。奴の秘める情報が、追跡の助けになるだろう」

 声は強迫的に響く。揺さぶられていると、パースリーは思った。

「牡丹を尋問するの?」

「解体して、情報だけを抜き取る方が早い」

 そこまで言えるドニが怖ろしくなる反面、興味も引かれる。冷酷に振る舞う彼は何故、姉弟を痛めつけて話を聞き出そうとしないのか。最も簡単で、確実な方法でもあるにも係わらず。


 庁舎に到着したドニは、慌てふためきながら歓迎の言葉を述べる職員を無視し、建物の隅々まで届きそうな大声で叫んだ。

「黒衣を纏った小型の自律機械。その主人の少年、二人を見た者はいるか!」

 瞬間、パースリーの全身から力が抜けた。終わったのだ。少しの時間すらも稼げなかった、己の無力が嘆かわしい。待ち受ける尋問の時を思うと、身が震えた。

 ある職員が、(うやうや)しく礼をしてから、ドニの前へと進む。

「そちらの方がたなら、昼頃でしたか。大粉挽風車へ向かいました」


 望外の返答。明確な嘘を耳にしたパースリーは、牡丹がそう言わせたのだろう、と直感した。

 〈北へ逃げて。大粉挽風車で会おう。さあ、走れ!〉

 自律機械がそう指示した以上、確実に北の大風車で待機している。だから、彼女が職員へ語らせた真実には、虚偽を覆いかぶせる必要があった。ドニの選択肢から、北を排除するために。

「ちょっと待って。あなた、赤い自律機械にそう言わされてない?」


 職員の、(ゆる)んだ頬が強張る。上手い演技だと、パースリーは感心した。

「私はもう一度、彼女に会わくちゃいけないの。どこへ向かったか、どうか、教えて……!」

「……正直に話せば、包まれた以上の報償をやる。貴様らもだ」

 ドニが職員全員を()め回して威圧すると、彼らは揃って頭を下げた。

「め、滅相もございません……包まれたなどと。実は、その……三人は東門へ……」


 それも、牡丹の仕組んだ嘘だ。パースリーはもう一度問い詰める。

「それ、本当なの? 嘘に嘘を重ねたら、後が酷いわよ?」

「ああ、申し訳ございません!」

 (ひざまず)き、大仰(おおぎょう)に謝罪する職員。パースリーには、まだ余裕があるように見えた。

「本当は、何も知らないんです。あの機械らと少年が、どこへ向かったかなんて……!」


 (おおよ)その事情は察せられる。彼が、国主の白銀鎗を前にここまで堂々と嘘を吐きとおせるのは、牡丹の呈した筋書きに沿って全てが進行しているからだろう。思うに、牡丹は庁舎に先回りして職員らに袖の下を渡し、ドニからも褒賞を受け取れると(うそぶ)いて抱き込んだ。

〈生意気な子供が君らの嘘を暴こうとする。でも、焦らないで対応して。彼女は僕の仲間だ〉

 大方、こんなことを言って安心させた違いない。


 ありありと分かる。そして、分かられているから、そら恐ろしくなるのだ。牡丹の筋書きは、姉弟がドニと行動を共にし、かつ彼を(たばか)ろうという気概を持っていなければ成立しない。あまりに精確な予見である。或は、頭の中を覗き見られているかのような――。

「――他に知っていることは無い。それでいいな?」

「はい。偽言(ぎげん)を述べたことはお詫びいたします。しかし、それも強迫されて、仕方なく――」


 ドニと職員の問答は続いていたが、

「ドニさん。早く後を追わないと、牡丹たちが……」

 不安げにタイムが言うと、そこで打ち切られる。

 ――そうね。職員たちがぼろを出す前に、ここから去らないと。


 パースリーは、引き時をしっかり弁えた弟に感服しつつ、独り言を呟く。

「南はどうかしら。すれ違いになったとか……」

「無いな。すれ違えば分かる。だから、西だ」

 ドニが断言し、腕を伸ばす。パースリーは、今度は自分から近寄り、彼の腕に抱かれた。牡丹の仕掛けと、自らの嘘に翻弄されて正答を見失ったドニを、嘲笑(あざわら)いはしなかった。


 それから一行は、見つかるはずのない牡丹と黒鶴、セージを探して彷徨(さまよ)った。

 西門に至り、衛兵に尋ね、南門へ。ファジッカも一角(ひとかど)の広さを持つ街だから、時はあっという間に過ぎていく。

 南門に至り、衛兵に尋ね、しかし何の情報も得られなかったドニは、門前で立ち尽くした。

(はか)られたか」

 忌々しげに言い捨てて、彼はパースリーを荒々しく放り捨てる。褐色の腕が大地に擦れ、出来た傷からじわりと血が滲み出した。パースリーは痛みを堪えて上体を起こす。


「待って! 牡丹の嘘が嘘だったのかもしれない! なら、彼女は東門に――」

 更なる時間を稼ごうと、声を張り上げた。だが、必死に叫ぼうとも、ドニは意に介さない。彼は、ぎらつく白銀の腕に抱かれたたタイムの、血色の良い華奢な左腕を、もう片方の剛腕で鷲掴みにした。そして、逡巡(しゅんじゅん)と言える逡巡もなく、手折(たお)る。

「ああっ!」

 絶叫するタイム。彼の上腕が、人体の在り方を無視してくにゃっと曲がった。


「あ……」

 惨状を目の当たりにしたパースリーの頭から、全ての算段が消失する。

「牡丹はどこにいる」

 痛みに悶えるタイムの目は、未だ光を失っておらず、まだ耐えられると必死に訴えているようにも見えた。だからパースリーは、覚束(おぼつか)ない思考力で問答を引き伸ばす術を探す。


「ふん。ならば、今度は貴様の腕を折ろうか?」

 有難(ありがた)い提案だ。

「本当に知らないの!」迷わず叫び、腕を差し出す。「この腕に、尋ねてみればいい!」

 折れ。折って、謀られ続けてくれ。心からそう願う。これ以上タイムを傷つけたくない。危害を加えさせてはいけない。痛みも、(こころざし)も、姉弟で分かち合わねばならないのだ。


 だが、しかし。ドニはタイムの腕を離さない。

「――そういうことか。やはり、タイムの腕にしよう」

 抵抗を続けろと、パースリーの頭が主張した。けれども心が、弟の更なる苦痛を想像する。充分役目を果たせたじゃないか。そう囁かれては、もう、胆力を据えることが出来ない。

「……牡丹は、大粉挽風車で待っているはずです」


 タイムの、折られたばかりの細腕が再び捻り上げられた。

「ぎっ! う、くぅ!」

 苦悶の声。心臓を(のこ)で挽かれたような悲痛が、パースリーを襲う。

「――嘘じゃありません! 信じてください!」

 懇願は門に残響し、乾いたファジッカの土に吸われて、ふと消えた。繰り糸を切られた人形のように、かくんと、弟が俯く。その瞳は前髪に隠れ、無念に歪む口元しか見えない。

 本当に無念なのか。幻滅ではないか――。呆然自失と立ち尽くすパースリーの眼前で、ドニの掌がゆっくりと開く。彼はタイムの腕を手放し、丁寧に地面へと寝かせた。


「結局は、そこか……」

 そう(ひと)()ち、近くの衛兵を呼びつけたドニは、彼女から貰い受けた槍の柄を断ち切り、タイムのチュニックを引き裂いて、短くなった柄に裾の()を巻きつける。

「どうして……?」

 固定された腕を見つめながら、タイムが問いかける。

「私が、国主の白銀鎗だからだ」


 パースリーは、ドニが叔母(おば)の白銀鎗であると共に、両親の白銀鎗でもあったことに、今更ながら気づく。きっとそれが、(にわ)かに香り立つ温情の正体なのだ。

 ――ドニ。あなたは父さん、母さんと、どんな時間を過ごしたの?

 姉弟はまた、銀の腕に抱え上げられた。ドニは無言のまま、北へ駆ける。


 大粉挽風車に辿り着いたドニは、守兵とのやり取りもそこそこに、突入した。

「少し揺れるぞ」

 大風車の壁面に(しつら)えられた螺旋状(らせんじょう)の階段を、彼は颯爽(さっそう)と登っていく。

 銀の足が踏面(ふみづら)を蹴るたびに、土煙が舞った。むせ返る籾殻(もみがら)の匂いに、ごうごうと鳴る駆動音。風車の上層に人はいない。ただ一人、自らの手で自らを無私の施設へと作り変えた自律機械が、民衆の腹を満たすために、働き続けているだけだという。

 風車へ至ってからずっと、パースリーは、ただただドニの足元を見つめていた。憧れの景色に囲まれながらも、現実に目を向けられないでいた。今は、感動も何も出来ないだろうから。


 最上段。大きな歯車の下に、全身を歪ませたトルソーと、彼女に抱かれる牡丹の姿があった。

 朱色の瞳が一行に向けられる。同時に、トルソーの内からセージの声が聞こえた。

「随分と遅かったじゃないか、ドニ」

「坊ちゃん――。恥ずかしながら、私はまんまと遅滞戦術に()まってしまいました。ですから、単刀直入に申し上げます」

 パースリーは静かに床へ降ろされる。ドニの尖った五指(ごし)が、タイムの柔らかな頬を掴んだ。

「タイムの未来を思うなら、投降してください。さもなくば、彼の顔面を抉り取ります」


「――()めておけ。もう遅いよ」

 セージの言葉に続き、知らない少女の叫びが響き渡る。

「放して、放して!」

 (つんざ)く金切り声に、ドニの咆哮が重なった。

「お嬢様? お嬢様!」

 それらを纏めて掻き消す、別の女声。

「初めまして、ドニ様」


 声質は牡丹よりも鮮やかであり、独特の粘っこい(つや)がある。爛爛のものと察せられた。

「お分かりいただけますか? (わたくし)、あなたの主様(あるじさま)のほっぺたに、刃を当てておりますの」

「貴様……! お嬢様から離れ――」

「お黙りなさい!」ドニの怒り声を、恨みがましい声が遮る。「私もあなたと同じように、憤ってますのよ? これはセージの妹だからと、なんとか、衝動を抑えているのです……!」


「痛、痛い! 助けて! ああ、兄様(にいさま)、ドニ!」

 辛そうに二人の名を呼んだ後、妹の声は聞こえなくなった。

「酷いことしちゃ駄目だよ、爛爛……!」

 タイムが願う。応じる声はしおらしい。

「私の名前、憶えていただけたのですね?」


 当たり前だよ、と返した弟の顔は、笑っている。腕が痛むだろうに。爛爛に見えているかも分からないのに。

「――ああ、運命が恨めしい!」

 突如、彼女は声を張り上げ、場違いな艶声(つやごえ)を風車中に響き渡らせた。

「私も、あなたに名を問われたかったのです。私から名を教えたかったのです。それなのに、それだけなのに運命は、こんなに醜い出会いしか用意してくださらないなんて……!」

 下肢に纏わり付くような叫びだ。肉感的な色合いだ。爛爛の無念がいかに重く、いかに深いかをその恨み言から(うかが)い知ったパースリーは、妙な恥ずかしさを覚えた。


「あ」タイムが間の抜けた声を出す。「ドニ、さん……?」

 パースリーが急ぎ目をやると、弟は既にドニの手から解放されており、口を半開きにして白銀の巨躯を見上げていた。

「パースリー。何故、あの場に牡丹がいなかった?」

 ドニが向き直り、問い質す。パースリーは(いかづち)の視線を真正面から受け止めて、答えた。

「牡丹に、交渉に応じられては困るからです。だから、私たちを見捨てた、と不自然に(わめ)いて、本当に見捨ててもらいました。牡丹は、耳も察しも良いから」


「最初から騙されていたのか……」

「いえ。多分、もっと前から。……人間の子供だから非力なはずだと、国主の系譜だから愚直なはずだと、勝手な想像で自らを騙していたのではないですか? あなたが真に国主の白銀鎗であるならば、早くに気付けたはずです。タイムが、勝算ある戦いを挑んでいたことに」

 今の言葉が、偉大な機械のどこかしらを傷付けてくれるよう、切に願う。


「タイム」ドニは彼を一瞥し、(おごそ)かに述べた。「お前にあの二人の面影は無いが、二人によく似た強勇を持っていた。――そして、パースリー」

 ドニの冷厳な眼差(まなざ)し。その向こうに両親の霊が並び立っているのだと、パースリーは心得る。

「お前は、二人が嫌いだった嘘を、知らない声音で平然と紡ぐ。――今日の軽視を深く恥じる。今日(こんにち)までの無知を心から侘びよう」

 言って、彼は背を向けた。

「坊ちゃん。私が牡丹の知覚範囲から消えたら、すぐにお嬢様を解放してください」


「約束する」要求に応じるセージの声は、何となく苛立たしげだった。「それより、俺に何も言わないのか? 妹を人質に取らせたんだぞ、俺は……!」

「――坊ちゃんは、より柔軟になられました。坊ちゃんの成長は私の喜びです」

 舌打ちを最後に、通信は途切れる。それからまもなく、ドニは風車から去っていった。


 ――やっと、姉に戻れる。

 パースリーは急いでタイムの元へ駆け寄り、膝を付いて顔を覗き込んだ。そして、(せき)が切れたように流れ出す心配を、推敲もせず、そのまま口にする。

「恐い思いをさせて、ごめんね……。頑張ったね。腕、大丈夫? 痛くない?」

「すごく痛いけど、大丈夫……。我慢出来るよ」


 牡丹がトルソーに運ばれて、やって来た。床に置かれた彼女は、座ったまま、尻を擦ってタイムに近付き、腫れあがった患部を優しく撫でる。

「綺麗に折れている。位置も良い。このまま固定しておけば、元通りに繋がるはずだ」

 その言葉に、パースリーは安堵した。が、気掛かりはまだある。牡丹の足はどうなのか。

「僕かい? 動きはしないが、見ての通り繋がっている。これならすぐに元通りさ」

 トルソーもべこべこに(ひず)んでいるが、何とか動けているらしい。それも、直に直るとのこと。


 安堵したパースリーは体裁すらも知らない振りして、はしたなく、尻からへたり込んだ。

「……凄いな、姉さん。どうにかしちゃったね」

「タイムのお陰よ。後は、そうね……。あの生真面目さに、助けられたかな」

 確かにね、と呟いて、タイムは折られた腕に目を落とし、ドニが施した処置を撫でる。

「それと、爛爛。助けてくれてありがとう」


 返事は無い。

「妹の非礼を許してくれ、タイム」牡丹が、心咎めた様子で語る。「結局、あのような姑息(こそく)な手に頼らざるを得なかった。僕たち姉妹もまた、ドニを軽視していたのさ。あまりにも無様で、恥ずかしい結末だ。直接手を汚した爛爛は、身悶えるほどに」

 タイムは痛ましい笑みを向けながら、訥々(とつとつ)と応えた。

「そんなこと……ないよ。無様だなんてさ。爛爛が落ち着いたら、伝えてほしいんだ。僕のために怒ってくれて、嬉しかった。あの声を、また聞きたいって――」


 それからは宿に戻り、パースリーの傷を消毒した後、今後について話し合った。

 タイムと牡丹、トルソーが傷を負ったことで、ファジッカに逗留(とうりゅう)する必要が生じた。その間、弟の希望もあり、カランと人攫いの情報を庁舎に提供することに決まる。

「大変な目にあったけど、これはこれで、良い結果だと思うよ」

 牡丹の処方した鎮痛剤が効いたようだ。語るタイムの表情は、大分柔らかい。

「僕はやっぱり、人攫いに関して、出来る限りのことをやりたい。切欠が出来て、ちょっとだけ、嬉しいんだ……」


 温かな意思に触れて、パースリーは思う。絶望的な状況に直面して、傷つき、それでも誰かのために高潔(こうけつ)でいようとするタイム。彼は(たが)えようもなく成長していた。

 しかし、(まばゆ)い希望を全身に浴びて尚、寒気は止まってくれない。弟を害された時の、全身から熱が失われていく感覚。弟を害されたのに、怒ることも出来なくなるほどの寒々しい恐怖を思い返すたび、心は、より重たい暗色(あんしょく)に染め上げられてゆく。

 あの夜下した判断の是非は、未だ分からない。

 巡り巡って一歩を踏み込んだことだけが確かであり、踏み込んだ先もまた、不安と不確実性の(とばり)に覆われていた。

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