09:白銀鎗来襲
パースリーは、農業の街ファジッカ、その市街と広大な栽培地区とを隔てる壁の上に立ち、遠く芽吹く小麦たちを眺めていた。
タイムも隣で同じ景色を眺めている。連れて来た人攫いたちの処遇に、二人して思いを馳せている。姉弟の悩ましさが伝わっているのだろう。見守るトルソーも縮こまって見えた。
ここに牡丹はいない。
――因果応報とは、よく言うものね。
善い結果を招きたくば、善い行動を心掛けよと、パースリーは常々、自らに言い聞かせている。父母も、叔母もよく口にしていた言葉だ。しかし、善悪とは往々にして判然としないもの。先日、姉弟が降した決断を、精霊は是と見るのか否と見るのか。それは、分かりようもない。
タイムの言った通り、人攫いを草原に打ち捨てたまま、去るべきではなかった。被害者の無念、遺族の苦しみは、明白な罰を経て癒されなければならない。獣に罪人の身を捧げれば、その行為は正しく私刑であり、法を軽んじることにもなる。弟の判断は、実に賢明だ。
けれども、そうしたおかげで男を五人も引きずる羽目になり、トルソーには負担を掛けた。移動に余計な時間を要したせいで、ドニへかなりの利を与えたとも思う。
――私は、しっかりと未来を見据えて、決断を降せたのかな……?
降せた、とは言えようもない。日を追う毎に後悔が強まっているのだから、情けなかった。タイムの美しい決意は、あれからずっと翳りを見せていないのに、姉はこの様なのだ。
背中を突かれて、パースリーは自嘲から醒める。振り向けば、トルソーが街を指差していた。
タイムが目配せをする。姉弟は二人並んで、街に通じる石階段を降りた。
ファジッカはサルティナ国で一、二を争う穀倉地帯の中心で、乾季には小麦作、雨季には米作と、年中、土の営みと共にある。
商業盛んなカナート程華やかではないが、賑やかさにおいては勝るとも劣らない。質実剛健の風貌を持つファジッカの住人たちは、道を往来しているだけで、活き活きとした大地の律動を感じさせてくれる。
農具鍛冶が鳴らす快い金の音。昼時につき、食事処は大忙しだ。使役動物が楽にすれ違えるよう整えられた幅広の道には、手掴みで食せる一皿――ではなく一葉料理がずらっと並ぶ。
雑多な生活臭に、人獣入り混じった体臭、濃い土の香りも相まって格別の開放感があった。
パースリーは五感を大いに広げて、ファジッカの風俗を記憶に刻み付ける。タイムには申し訳ないが、この瞬間だけは、人攫いに関することを綺麗さっぱり忘れたかった。
本来ならば、もっと、寛げるはずだったのだ。絵葉書に記された、あの大粉挽風車にも立ち寄らせてもらうつもりだった。遠景のみならず、内部までつぶさに鑑賞するつもりだった。
しかしながら、ドニの脅威を思えば、早々に発つ必要がある。タイムの案に同調したことで、僅かでも観光を、などと言える雰囲気ではなくなってしまった。口惜しくて堪らない。
国境の街、シングへの行程は半分を過ぎた。なのに、不自由の影は相も変わらず付き纏ってくる。楽しい日々が暗転する様を、どうしても想像してしまう。一刻も早く永遠の自由を手にしたいのに、何故か、人攫いなどに足を引っ張られている。
パースリーは、ちらとタイムの方を見た。弟は、その視線に気付かなかったようだ。
――自ら足を差し出した、ということでも、あるけど……。
作りかけの農具が沢山並べられた工房の脇を通り、煉瓦造りのファジッカ庁舎に到着した一行は、質素な応接間で牡丹と合流した。
姉弟が長椅子に腰掛けると、憂いを帯びた笑みを見せて、彼女が問う。
「どうだったかい? 壁からの眺めは」
「自信満々に勧めるだけあって、確かに、胸のすく景色だったわ」
まず、パースリーが嘘を吐いた。実際素晴らしい景観だったが、胸のつかえは取れていない。
「ちょっと気が楽になったよ」タイムのそれは、恐らく本心だ。「勧めてくれて、ありがとう」
「そうか。それは良かった」
相槌打つ牡丹の表情は、煮え切らない。それは、姉弟の心模様をそのまま転写しているからだと、パースリーは理解している。
「……それで、あの男たちについてだけど」早くも、本題が切り出された。「悪質な犯罪者集団の一員だそうだ。サルティナ北部の広くに目撃情報があり、けれども実態は全く掴めず、よしんば構成員を捕らえても、上に繋がらない。中々に狡猾な組織のようだね」
タイムの瞳から光が失せる。弟の掌には、未だ霊魂の重みが生々しく残っているのだと分かり、パースリーは改めて、弟の持つ高い共感性に敬服した。
「彼らは過酷な尋問を受ける。それでも、組織に関する詳細な情報は得られないだろう。五人を待つ未来は、集団の罪を肩代わりさせられるか、見せしめか。多分、重ねた罪以上の断罪となる。死は免れないと思うよ」
法による判断を願った姉弟の行動は、少しばかり捻じ曲がった結果を導いた。公正明大でなければ、私刑と何が違うのか、とパースリーは憤る。一方で、理解出来なくもないのだ。法と情の狭間でやきもきしていると、牡丹が机に置かれた袋を手に取り、タイムの前に立った。
「それと、これを。謝礼金と報奨金だ」
言われて、タイムは目を見開く。牡丹の頭ほどに膨らんだ薄手の綿袋は、その内に溜める硬貨の形を――重量を、包み隠さず顕わにしていた。
「――受け取りたくない。そんなの」
粗雑に、冷淡に、弟が拒んだ。
「受け取る義務が有る。これは遺族への慰み。決別へと導く呼び水なんだ。君自ら降した決断の、結末を全て受け入れてくれ。……良いとこ取りは、無しだよ」
死を換金する。タイムにとって、これ程悍ましいことは無いだろう。怖れてもいるのだろう。ただそれだけの心情だと分かるから、パースリーは、弟を我儘と断じることが出来ない。
「私が検めるわ。いいでしょう? 私も、タイムと一緒に決断したんだもの」
「良くないよ」助けは無情にも一蹴された。「甘やかしてはいけない。これは、最も受け取りたくない者が手にするべき金だ。手にして、次も同じ判断を降すのか。タイムの真を問う金だ」
しばしの間、タイムは牡丹と睨み合う。そして、泣きそうな顔して涙は見せず、膝を立て、両手で包むように綿袋を受け取った。
受け取って、一筋だけの涙を流した。
「それでいい。よく頑張ったね、タイム」
牡丹が席に戻ってしばらくは、皆が皆ありのままに静寂を受け入れて、何かを考えていた。
「……いいかな?」牡丹が断りを入れると、時は動き出す。「これを見てほしい」
彼女は懐から紙片を取り出し、タイムへ手渡した。パースリーは、紙を開く弟の手元をじっと眺める。それは、少し前に見せてもらった、密書の写しだった。
「爛爛……さんが、カランの手下から奪ったもの、だったよね?」
「さんは要らないよ。爛爛がやきもきするからね。――もう一枚、これも見て」
今度はパースリーが受け取り、紙面を確認した。そこに描かれていたのは、蛇を模った印。
「五人の人攫い全員に刻まれていた、刺青だよ。構成員の結束を促すものだろう」
「あ」タイムが、手に持つ紙片のある一点を指差して言う。「ほら、姉さん。これ……」
人攫いの刺青は、カランの密書に押された小さな朱印と、ほぼ同一の形をしていた。
両者の関係性は明白である。牡丹は敢えて解説を控え、解答を待っているように見えた。
上等の儲け話。今回は選抜しろ。その文面はあまりに粗野で、国主お抱えの商人がしたためたものとは思えなかった。しかし、商人の方が裏の顔であるならば、しっくりとくる。
「カランが、あいつらの親玉なのかもしれない。そういうことね?」
「うん。その可能性は高そうだ」
仮定を口にすると、別の疑問が浮かんでくる。
「じゃあ、あの五人もカランの命令で?」
「いや、偶然だろう。彼らは、そういう素振りを微塵も見せなかった」
「これ、庁舎の人に伝えないと」
タイムが提案した。何も言えないパースリーの向かい側で、牡丹は首を横に振る。
「出来ないよ。そうすれば、僕らは参考人としてファジッカに留まらざるを得なくなる。数日か、十数日か、今から消費するには厳しい。ドニは今にも――」
そこで、彼女の声が途切れた。端麗な顔から表情という表情が失われる。一瞬にして事切れたかのようで、しかし瞳は煌々と輝いていて。非人間的な落差が、パースリーを恐怖させた。
「どうしたの、牡丹?」
尋ねた途端、その顔つきは険しく変わり、架空戦記の女将軍を思わせる剛直な唇から、
「――早過ぎる。ドニだ。ドニが来た!」
竜の来襲が告げられる。
「トルソーは足止めを。僕らは裏口から!」
突然の事態ながらも、パースリーの意識は素早く順応した。呆けるタイムの手を取り、牡丹の指示に従って、庁舎を後にする。
外へ出てすぐに、牡丹が零した。
「まずい。これでは時間が足りない。だが……」
声には焦燥と、焦燥の中にあって最善を求める泥臭い意思が混在している。
「過小評価していた。今のドニは、僕の知らないドニだ」
|独《ひと《り言か解説か。こんなにも危うげに浮き沈む牡丹は、今までに見たことがない。
「そんな、トルソー……!」
急に目を剥き、回頭した牡丹は、来た道へ。パースリーも振り返ろうとした。
「北へ逃げて」彼女が言い終えるより早く、タイムに手首を掴まれる。「大粉挽風車で会おう。さあ、走れ!」
力一杯、腕を引かれた。痛い。痛みが、判断を正してくれる。
――時間なんて、少しも残されていなかったんだ……!
パースリーは、嘆きを力に変えて地を蹴った。捕まったなら、在るべき自由は。観るべき風景は。ドニの脅威は、誰の予想をも超えていたのだ。大切な時間を人攫いに捧げてしまったことが。そもアグリッパの身を案じたことが。悔やんではならない。でも、悔やまれてならない。
それからは全力で走り続けた。沢山の浅はかな視線を振り払って、タイムと共に逃げ続けた。
息は上がり切っていない。まだ、先へ行けると思っていた。しかし、旅の疲労か、或は怖れが祟ったのか、脚の方が言うことを聞かなくなってしまう。
パースリーは立ち止まり、タイムへ願った。
「ごめん……ちょっと、休ませて」
「姉さん、もしかすると、じっとしていた方が……いいのかもしれない」
タイムの額も汗だらけ。肩はしきりに上下しており、厳しい疲れが伝わってくる。
二人、路地裏の壁に背を預けた。
「ドニも、遠くの生物が検知出来るなら、走っていた方が……目立つのかも」
普段なら明察と評せる弟の発言も、今は、正しいのか正しくないのか、熟考の結果なのか、いい加減な気休めなのか、分からない。耳をすませば、不安に苛まれる二人の呼吸は、全く同じように乱れている。ひっきりなしに鳴る鼓動が煩わしい。
沈黙の中で、牡丹の安否を思った。代わる代わる頭を占める楽観と諦観。均衡は焦りと共に失われていく。嫌なのに、諦観の方へと傾いていく。
〈……!〉
両耳が違和感を覚えた。壁の裏側から聞こえるぼやけ声。正体不明の騒音に胸が跳ねる。
危険だ。パースリーは、勘働きに突き動かされてタイムの手を引き、壁から離れる。
刹那の差だった。轟音と共に煉瓦が弾け、たった今離れた壁から、機械の腕が突き出る。パースリーも知る白銀の煌き。しかしその形は、記憶していたドニの腕より一回り大きく、より禍々しい。人を容易く引き裂くという異大陸の熊、グリズリーの腕。そんな威容であった。
「……捕らえるつもりだったが、中々にやる」
堂々たるバスバリトンは、間違いなくドニの声。
〈過小評価していた。今のドニは、僕の知らないドニだ〉
パースリーはようやく、牡丹の言葉が意味するところを知った。改造、または換装。機械は時折、自らの身体をより良いものに改めるという。
腕が、壁の中へ消えた。同時に、蜘蛛の巣状の亀裂が壁面を走る。崩落の前に走り出そうと、パースリーはタイムの手を引っ張った。だが、何故か、弟は微動だにしない。
「タイム……! 何してるの!」
焦れて、叫んで、逃げようと訴える。なのに、タイムは振り返り、この非常時にそぐわないにこりとした笑みを見せて、パースリーの手を振り解いた。弟の癖に、牡丹と重なる勇敢な横顔、後姿。彼はまもなく駆け出し、正に今、壁の中から姿を見せたドニ目掛けて、突貫する。
パースリーの頭は真っ白になった。タイムの行動が、タイムが選ぶはずのない行動だったから。けれども、そうする弟の瞳は思いやりに溢れ、どこか悔しげで、いつものタイムそのままで。ああ、そうか。自分は後を託されたのだ、と思い知る。
勇ましく拳を振り上げて、ドニへ殴りかかろうとしたタイムは、渾身の一撃を難無く躱された後、当然呆気なく、巨大な腕によって拘束された。ドニは肥大化した両足を揃え、堂々と張った胸の前で、弟を吊るし上げる。
「――無謀だな」銀の鋭利な指先が、タイムのうなじに沈んだ。「タイム。その首を裂きたくなければ、暴れるな」
果たして、弟が恐怖を受け止め、姉が十全に思い巡らす布陣となった。
パースリーは自らに使命を課す。タイムに報いよ。弟の行動は、無謀と侮られるべきものではない。それを証明出来るのは姉だけだ。反抗の火種に油を注ぎ、脳髄を燃え上がらせろ、と。
まずは感情の赴くままに、悠然と構えるドニを睨みつけた。
「パースリー。貴様も、分を弁えられないのか」
白銀鎗が見せた最初の反応は、失望。悪くない。侮られるのは弱者の利だ。少し気が楽になったパースリーは、不遜な表情を維持しつつ、熟考する。
セージのような蛮勇も、武術の心得もない。タイムのような臆病さもなく、特段気が回るわけでもない。そんな自分が、強大なドニを相手にして出来ることとは、何か。
戦い方の模索。それは、自らを見つめ直す行為でもあった。考えるほどに、選択肢の少なさを痛感させられる。安穏と生きてきた過去を直視させられる。生育不良だ。光無き屋敷の中、劣等感という堆肥すらも撒かれずに日々を過ごした自分の中には、煌めく何かが育まれていない。パースリーはその事実に落胆し、悲嘆もして、結局、化粧じみた声で人を誘導する、使い古したやり方を武器にして戦うしかないのだと、悟った。
まずは状況の整理を始める。
「……ふん。さて、坊ちゃんをここに呼んでもらおうか」
セージはこの村に居る。それが、アグリッパを通して誘導されたドニの認識だ。セージの不在を知られたなら、取れる選択肢が更に減ってしまう。避けねばならない。
「牡丹がいないと、通信出来ないわ」
「そうか。まあいい、奴は直にやって来る」
ドニは、牡丹がここに来ると確信している。即ち、牡丹は壊されていない。姉弟の確保を優先したのか、牡丹に使い道を残したのか。とにかく、移動能力すら奪っていないようだ。
ドニは、牡丹を感知した素振りを見せていない。牡丹は何らかの策を講じるため、時間を必要としていた。ならば、負けたことにかこつけて、遠くで時を測っているのかもしれない。
人質がいる以上、ドニが痺れを切らせば、それ以上の時間を稼げなくなる。彼が牡丹を呼びつけるか、或はタイムが傷つけられただけでも、そうなるのだろうと思えた。命の危機に対する鋭敏な嗅覚を、牡丹ら姉妹は有しているのだから。
長く時を稼ぐには、何より先に、牡丹から交渉相手たる役割を剥奪せねばならない。牡丹と交渉する価値無し、とドニの認識を改めさせる。姉弟を助けに来る必要無し、と牡丹へ秘密裏に伝える。この二つを成し遂げる必要があった。
パースリーは具体的な方策を探して頭を搾り、搾り切り、果てに即断実行が肝要と気づく。
「……いいえ。牡丹は、来ないわ」
これ見よがしに俯き、呟くと、ドニが怪訝そうな声で尋ねてきた。
「どういう意味だ?」
「意味ですって……? 牡丹はもう逃げてる! そういう意味よ!」
パースリーは無念を騙る。拗ねながら叫ぶ。姉弟を人質に取った程度で、全てが思い通りと考える、ドニの浅はかさを嗤いつつ、全力で。幼稚に振る舞うことも忘れない。
「だってあなた、トルソーも牡丹も小気味良く倒してここまで来たんでしょ? だからよ。悦に浸っているところ悪いけど、それは駄目なの!」
自律機械の論理的思考に少しでも狂いが生じればと思い、情緒不安定な文章を紡いだ。
「私とタイムは無価値だから! あなたもそう思ってるんでしょ? セージにだけ価値があって、私たちは恩情に生かされる添え物だってこと。牡丹もそう思ってる。黒鶴も……!」
惨めな子供を演じれば、本当に惨めな気分になれる。声もつられて、涙ぐむ。
「だから! 私たち……見捨てられちゃうでしょ? ……勝てる見込みが無いんだもの。もう今頃、セージだけ連れて、ファジッカから逃げてる……」
「……奴は、そういう機械には見えないが」
ドニが、当たり前の疑義を呈した。
「戻って、確かめてみれば? もういないよ……」
一抹の寂しさを滲ませつつ、パースリーが吐き棄てると、ドニはタイムを抱え直し、
「……いいだろう。掴まれ」
そう言って、空席の腕を差し伸べる。パースリーは、たっぷりと怖がってみせてから拒絶し、ドニに無理矢理抱え上げられた。
白銀の巨体が動き出す。彼は凍った水たまりの上を滑るように、ファジッカの大地を駆ける。その速度はトルソーの速駆けよりも上。揺れも全く無く、実に快適な乗り心地だった。
――どんな方法で、地面の上を滑走してるんだろう。車輪かな? それとも、空気?
好奇心が花開く。あまりに楽天的で、演技の障害になりかねないその想いを隠匿するのに、パースリーは腐心した。
牡丹と別れた十字路を超えて、更に進むと、道に転がる長斧鎗が目に入る。
ドニは足を止め、傍らに立つ住人たちを問い質した。
「紅色の自律機械がここにいただろう。奴はどこへ行った?」
彼らは口を揃えて、北外郭の方へ去っていった、と返す。
「やっぱり、見捨てられたんだ……!」
パースリーはここが正念場と思い定め、自ら獅子身中の虫となるべく溢れんばかりの悲愴を声に纏わせ、縋るように囁いた。
「ねえ、ドニ。牡丹を探すの、手伝って? 両親に先立たれて、叔母様にも嫌われて……私たちにはもう、牡丹しか頼れる人がいないの。あなたがセージを奪ってくれれば、彼女も、私たち姉弟で我慢してくれるかもしれない……」
「……行く先に、心当たりがあるのか?」
手応えを感じた。ドニは明らかに歩み寄る態度を見せている。
「セージとは庁舎で別れたわ。私たちが用事を済ませている間、黒鶴と一緒に大粉挽風車を見に行くと言ってた。牡丹はきっと、そこで合流するつもりなんだと思う」
欺くには、虚偽に真実を混ぜ込め。ある偉人譚にそんな記述があった。だから、そうした。
「他には」
「ごめんなさい。ファジッカに来たのは初めてだから、よく、分からなくて……」
「……合流地点は、変更されているとみていいだろう。東か、西か。いや――」
白銀甲冑の奥に潜む光の目が、パースリーを睨みつけた。
「まずは、お前が吐いた言葉の真偽を確かめなくてはならない。庁舎へ向かう」
毅然と告げて、ドニは走り出す。
――まずいわ。庁舎職員に問われては……!
嘘がばれてしまう。自明の理だ。この街にセージと黒鶴はいないのだから、二人を見たと答える者もいない。パースリーは急いで、ドニの決定を覆そうと試みる。
「そんな、悠長な……! ちゃんと探して、お願いだから」
「脚の機能を粗方奪った。大した速度も出せまい」
「……そう。でも、どうかしら。黒鶴は牡丹すら見捨てて、逃げるかもしれない。セージを取り返したいなら、急ぐに越したことは無いと思う」
「見捨てるようなら、もう見捨てている。そうなれば、この場は諦めざるを得ない」
思うよりも、ドニは冷静だ。国の宝器として頼もしいその性質が、今は邪魔で仕方ない。
「だが。そうであっても、牡丹の確保は有用だ。奴の秘める情報が、追跡の助けになるだろう」
声は強迫的に響く。揺さぶられていると、パースリーは思った。
「牡丹を尋問するの?」
「解体して、情報だけを抜き取る方が早い」
そこまで言えるドニが怖ろしくなる反面、興味も引かれる。冷酷に振る舞う彼は何故、姉弟を痛めつけて話を聞き出そうとしないのか。最も簡単で、確実な方法でもあるにも係わらず。
庁舎に到着したドニは、慌てふためきながら歓迎の言葉を述べる職員を無視し、建物の隅々まで届きそうな大声で叫んだ。
「黒衣を纏った小型の自律機械。その主人の少年、二人を見た者はいるか!」
瞬間、パースリーの全身から力が抜けた。終わったのだ。少しの時間すらも稼げなかった、己の無力が嘆かわしい。待ち受ける尋問の時を思うと、身が震えた。
ある職員が、恭しく礼をしてから、ドニの前へと進む。
「そちらの方がたなら、昼頃でしたか。大粉挽風車へ向かいました」
望外の返答。明確な嘘を耳にしたパースリーは、牡丹がそう言わせたのだろう、と直感した。
〈北へ逃げて。大粉挽風車で会おう。さあ、走れ!〉
自律機械がそう指示した以上、確実に北の大風車で待機している。だから、彼女が職員へ語らせた真実には、虚偽を覆いかぶせる必要があった。ドニの選択肢から、北を排除するために。
「ちょっと待って。あなた、赤い自律機械にそう言わされてない?」
職員の、弛んだ頬が強張る。上手い演技だと、パースリーは感心した。
「私はもう一度、彼女に会わくちゃいけないの。どこへ向かったか、どうか、教えて……!」
「……正直に話せば、包まれた以上の報償をやる。貴様らもだ」
ドニが職員全員を睨め回して威圧すると、彼らは揃って頭を下げた。
「め、滅相もございません……包まれたなどと。実は、その……三人は東門へ……」
それも、牡丹の仕組んだ嘘だ。パースリーはもう一度問い詰める。
「それ、本当なの? 嘘に嘘を重ねたら、後が酷いわよ?」
「ああ、申し訳ございません!」
跪き、大仰に謝罪する職員。パースリーには、まだ余裕があるように見えた。
「本当は、何も知らないんです。あの機械らと少年が、どこへ向かったかなんて……!」
凡その事情は察せられる。彼が、国主の白銀鎗を前にここまで堂々と嘘を吐きとおせるのは、牡丹の呈した筋書きに沿って全てが進行しているからだろう。思うに、牡丹は庁舎に先回りして職員らに袖の下を渡し、ドニからも褒賞を受け取れると嘯いて抱き込んだ。
〈生意気な子供が君らの嘘を暴こうとする。でも、焦らないで対応して。彼女は僕の仲間だ〉
大方、こんなことを言って安心させた違いない。
ありありと分かる。そして、分かられているから、そら恐ろしくなるのだ。牡丹の筋書きは、姉弟がドニと行動を共にし、かつ彼を謀ろうという気概を持っていなければ成立しない。あまりに精確な予見である。或は、頭の中を覗き見られているかのような――。
「――他に知っていることは無い。それでいいな?」
「はい。偽言を述べたことはお詫びいたします。しかし、それも強迫されて、仕方なく――」
ドニと職員の問答は続いていたが、
「ドニさん。早く後を追わないと、牡丹たちが……」
不安げにタイムが言うと、そこで打ち切られる。
――そうね。職員たちがぼろを出す前に、ここから去らないと。
パースリーは、引き時をしっかり弁えた弟に感服しつつ、独り言を呟く。
「南はどうかしら。すれ違いになったとか……」
「無いな。すれ違えば分かる。だから、西だ」
ドニが断言し、腕を伸ばす。パースリーは、今度は自分から近寄り、彼の腕に抱かれた。牡丹の仕掛けと、自らの嘘に翻弄されて正答を見失ったドニを、嘲笑いはしなかった。
それから一行は、見つかるはずのない牡丹と黒鶴、セージを探して彷徨った。
西門に至り、衛兵に尋ね、南門へ。ファジッカも一角の広さを持つ街だから、時はあっという間に過ぎていく。
南門に至り、衛兵に尋ね、しかし何の情報も得られなかったドニは、門前で立ち尽くした。
「謀られたか」
忌々しげに言い捨てて、彼はパースリーを荒々しく放り捨てる。褐色の腕が大地に擦れ、出来た傷からじわりと血が滲み出した。パースリーは痛みを堪えて上体を起こす。
「待って! 牡丹の嘘が嘘だったのかもしれない! なら、彼女は東門に――」
更なる時間を稼ごうと、声を張り上げた。だが、必死に叫ぼうとも、ドニは意に介さない。彼は、ぎらつく白銀の腕に抱かれたたタイムの、血色の良い華奢な左腕を、もう片方の剛腕で鷲掴みにした。そして、逡巡と言える逡巡もなく、手折る。
「ああっ!」
絶叫するタイム。彼の上腕が、人体の在り方を無視してくにゃっと曲がった。
「あ……」
惨状を目の当たりにしたパースリーの頭から、全ての算段が消失する。
「牡丹はどこにいる」
痛みに悶えるタイムの目は、未だ光を失っておらず、まだ耐えられると必死に訴えているようにも見えた。だからパースリーは、覚束ない思考力で問答を引き伸ばす術を探す。
「ふん。ならば、今度は貴様の腕を折ろうか?」
有難い提案だ。
「本当に知らないの!」迷わず叫び、腕を差し出す。「この腕に、尋ねてみればいい!」
折れ。折って、謀られ続けてくれ。心からそう願う。これ以上タイムを傷つけたくない。危害を加えさせてはいけない。痛みも、志も、姉弟で分かち合わねばならないのだ。
だが、しかし。ドニはタイムの腕を離さない。
「――そういうことか。やはり、タイムの腕にしよう」
抵抗を続けろと、パースリーの頭が主張した。けれども心が、弟の更なる苦痛を想像する。充分役目を果たせたじゃないか。そう囁かれては、もう、胆力を据えることが出来ない。
「……牡丹は、大粉挽風車で待っているはずです」
タイムの、折られたばかりの細腕が再び捻り上げられた。
「ぎっ! う、くぅ!」
苦悶の声。心臓を鋸で挽かれたような悲痛が、パースリーを襲う。
「――嘘じゃありません! 信じてください!」
懇願は門に残響し、乾いたファジッカの土に吸われて、ふと消えた。繰り糸を切られた人形のように、かくんと、弟が俯く。その瞳は前髪に隠れ、無念に歪む口元しか見えない。
本当に無念なのか。幻滅ではないか――。呆然自失と立ち尽くすパースリーの眼前で、ドニの掌がゆっくりと開く。彼はタイムの腕を手放し、丁寧に地面へと寝かせた。
「結局は、そこか……」
そう独り言ち、近くの衛兵を呼びつけたドニは、彼女から貰い受けた槍の柄を断ち切り、タイムのチュニックを引き裂いて、短くなった柄に裾の端を巻きつける。
「どうして……?」
固定された腕を見つめながら、タイムが問いかける。
「私が、国主の白銀鎗だからだ」
パースリーは、ドニが叔母の白銀鎗であると共に、両親の白銀鎗でもあったことに、今更ながら気づく。きっとそれが、俄かに香り立つ温情の正体なのだ。
――ドニ。あなたは父さん、母さんと、どんな時間を過ごしたの?
姉弟はまた、銀の腕に抱え上げられた。ドニは無言のまま、北へ駆ける。
大粉挽風車に辿り着いたドニは、守兵とのやり取りもそこそこに、突入した。
「少し揺れるぞ」
大風車の壁面に設えられた螺旋状の階段を、彼は颯爽と登っていく。
銀の足が踏面を蹴るたびに、土煙が舞った。むせ返る籾殻の匂いに、ごうごうと鳴る駆動音。風車の上層に人はいない。ただ一人、自らの手で自らを無私の施設へと作り変えた自律機械が、民衆の腹を満たすために、働き続けているだけだという。
風車へ至ってからずっと、パースリーは、ただただドニの足元を見つめていた。憧れの景色に囲まれながらも、現実に目を向けられないでいた。今は、感動も何も出来ないだろうから。
最上段。大きな歯車の下に、全身を歪ませたトルソーと、彼女に抱かれる牡丹の姿があった。
朱色の瞳が一行に向けられる。同時に、トルソーの内からセージの声が聞こえた。
「随分と遅かったじゃないか、ドニ」
「坊ちゃん――。恥ずかしながら、私はまんまと遅滞戦術に嵌まってしまいました。ですから、単刀直入に申し上げます」
パースリーは静かに床へ降ろされる。ドニの尖った五指が、タイムの柔らかな頬を掴んだ。
「タイムの未来を思うなら、投降してください。さもなくば、彼の顔面を抉り取ります」
「――止めておけ。もう遅いよ」
セージの言葉に続き、知らない少女の叫びが響き渡る。
「放して、放して!」
劈く金切り声に、ドニの咆哮が重なった。
「お嬢様? お嬢様!」
それらを纏めて掻き消す、別の女声。
「初めまして、ドニ様」
声質は牡丹よりも鮮やかであり、独特の粘っこい艶がある。爛爛のものと察せられた。
「お分かりいただけますか? 私、あなたの主様のほっぺたに、刃を当てておりますの」
「貴様……! お嬢様から離れ――」
「お黙りなさい!」ドニの怒り声を、恨みがましい声が遮る。「私もあなたと同じように、憤ってますのよ? これはセージの妹だからと、なんとか、衝動を抑えているのです……!」
「痛、痛い! 助けて! ああ、兄様、ドニ!」
辛そうに二人の名を呼んだ後、妹の声は聞こえなくなった。
「酷いことしちゃ駄目だよ、爛爛……!」
タイムが願う。応じる声はしおらしい。
「私の名前、憶えていただけたのですね?」
当たり前だよ、と返した弟の顔は、笑っている。腕が痛むだろうに。爛爛に見えているかも分からないのに。
「――ああ、運命が恨めしい!」
突如、彼女は声を張り上げ、場違いな艶声を風車中に響き渡らせた。
「私も、あなたに名を問われたかったのです。私から名を教えたかったのです。それなのに、それだけなのに運命は、こんなに醜い出会いしか用意してくださらないなんて……!」
下肢に纏わり付くような叫びだ。肉感的な色合いだ。爛爛の無念がいかに重く、いかに深いかをその恨み言から窺い知ったパースリーは、妙な恥ずかしさを覚えた。
「あ」タイムが間の抜けた声を出す。「ドニ、さん……?」
パースリーが急ぎ目をやると、弟は既にドニの手から解放されており、口を半開きにして白銀の巨躯を見上げていた。
「パースリー。何故、あの場に牡丹がいなかった?」
ドニが向き直り、問い質す。パースリーは雷の視線を真正面から受け止めて、答えた。
「牡丹に、交渉に応じられては困るからです。だから、私たちを見捨てた、と不自然に喚いて、本当に見捨ててもらいました。牡丹は、耳も察しも良いから」
「最初から騙されていたのか……」
「いえ。多分、もっと前から。……人間の子供だから非力なはずだと、国主の系譜だから愚直なはずだと、勝手な想像で自らを騙していたのではないですか? あなたが真に国主の白銀鎗であるならば、早くに気付けたはずです。タイムが、勝算ある戦いを挑んでいたことに」
今の言葉が、偉大な機械のどこかしらを傷付けてくれるよう、切に願う。
「タイム」ドニは彼を一瞥し、厳かに述べた。「お前にあの二人の面影は無いが、二人によく似た強勇を持っていた。――そして、パースリー」
ドニの冷厳な眼差し。その向こうに両親の霊が並び立っているのだと、パースリーは心得る。
「お前は、二人が嫌いだった嘘を、知らない声音で平然と紡ぐ。――今日の軽視を深く恥じる。今日までの無知を心から侘びよう」
言って、彼は背を向けた。
「坊ちゃん。私が牡丹の知覚範囲から消えたら、すぐにお嬢様を解放してください」
「約束する」要求に応じるセージの声は、何となく苛立たしげだった。「それより、俺に何も言わないのか? 妹を人質に取らせたんだぞ、俺は……!」
「――坊ちゃんは、より柔軟になられました。坊ちゃんの成長は私の喜びです」
舌打ちを最後に、通信は途切れる。それからまもなく、ドニは風車から去っていった。
――やっと、姉に戻れる。
パースリーは急いでタイムの元へ駆け寄り、膝を付いて顔を覗き込んだ。そして、堰が切れたように流れ出す心配を、推敲もせず、そのまま口にする。
「恐い思いをさせて、ごめんね……。頑張ったね。腕、大丈夫? 痛くない?」
「すごく痛いけど、大丈夫……。我慢出来るよ」
牡丹がトルソーに運ばれて、やって来た。床に置かれた彼女は、座ったまま、尻を擦ってタイムに近付き、腫れあがった患部を優しく撫でる。
「綺麗に折れている。位置も良い。このまま固定しておけば、元通りに繋がるはずだ」
その言葉に、パースリーは安堵した。が、気掛かりはまだある。牡丹の足はどうなのか。
「僕かい? 動きはしないが、見ての通り繋がっている。これならすぐに元通りさ」
トルソーもべこべこに歪んでいるが、何とか動けているらしい。それも、直に直るとのこと。
安堵したパースリーは体裁すらも知らない振りして、はしたなく、尻からへたり込んだ。
「……凄いな、姉さん。どうにかしちゃったね」
「タイムのお陰よ。後は、そうね……。あの生真面目さに、助けられたかな」
確かにね、と呟いて、タイムは折られた腕に目を落とし、ドニが施した処置を撫でる。
「それと、爛爛。助けてくれてありがとう」
返事は無い。
「妹の非礼を許してくれ、タイム」牡丹が、心咎めた様子で語る。「結局、あのような姑息な手に頼らざるを得なかった。僕たち姉妹もまた、ドニを軽視していたのさ。あまりにも無様で、恥ずかしい結末だ。直接手を汚した爛爛は、身悶えるほどに」
タイムは痛ましい笑みを向けながら、訥々と応えた。
「そんなこと……ないよ。無様だなんてさ。爛爛が落ち着いたら、伝えてほしいんだ。僕のために怒ってくれて、嬉しかった。あの声を、また聞きたいって――」
それからは宿に戻り、パースリーの傷を消毒した後、今後について話し合った。
タイムと牡丹、トルソーが傷を負ったことで、ファジッカに逗留する必要が生じた。その間、弟の希望もあり、カランと人攫いの情報を庁舎に提供することに決まる。
「大変な目にあったけど、これはこれで、良い結果だと思うよ」
牡丹の処方した鎮痛剤が効いたようだ。語るタイムの表情は、大分柔らかい。
「僕はやっぱり、人攫いに関して、出来る限りのことをやりたい。切欠が出来て、ちょっとだけ、嬉しいんだ……」
温かな意思に触れて、パースリーは思う。絶望的な状況に直面して、傷つき、それでも誰かのために高潔でいようとするタイム。彼は違えようもなく成長していた。
しかし、眩い希望を全身に浴びて尚、寒気は止まってくれない。弟を害された時の、全身から熱が失われていく感覚。弟を害されたのに、怒ることも出来なくなるほどの寒々しい恐怖を思い返すたび、心は、より重たい暗色に染め上げられてゆく。
あの夜下した判断の是非は、未だ分からない。
巡り巡って一歩を踏み込んだことだけが確かであり、踏み込んだ先もまた、不安と不確実性の帳に覆われていた。