08:弱虫の涙
タイムは夜の草原をひた歩く。牡丹とパースリーの背中を追って。
暗がりの道を行くのは怖かった。狼の唸り声が、嫌でも思い出されるから。そうして暴れる心音を苦々しく思いながら、恐怖を抑えることに努め、一心に足を動かし続けた。
時折、何ものかの眼光に射竦められる。揺れる草葉に、何ものかの影を重ねてしまう。
心を食むのは、何も、狼の記憶だけではない。
「ドニがアグリッパと接触したよ」
昨夜、牡丹が口にした一言。それが、夜間行の起こりだった。
セージと別れカナートを去る前、一行はアグリッパと面会し、旅の行程を詳らかにしたのだ。その際には三人で示し合わせ、真実を濁してセージらも同行するかのように誤解させた。
パースリーの発案である。ドニがアグリッパを頼る可能性は高く、アグリッパが沈黙を貫けば、両者敵対しかねない。国の宝である自律機械同士の不和を望まなかったのが、提案に至った理由の一つ。セージがカランを引き受けようとするなら、こちらがドニを引き受けるべきだ。負担を分かち合おうとしたのが、もう一つの理由だという。
セージにも黒鶴にも、このことは秘密にしてある。
「ドニは単身で来るだろうね。そうなれば、追い着かれるのは時間の問題だ。僕は鎧袖一触の憂き目に会い、君たちを手放す羽目になる」
牡丹は、自らが敗北する予測を堂々と語った。
「牡丹でも、敵わないの?」
タイムは問う。問いながら、自らの震える声と甲斐性の無さをまた嫌悪した。
「体躯が違い過ぎるからね。以前のドニは、僕らの目的も、性能も全く知らない状態だった。だから、虚言並べて睨み合いに持ち込めたんだ。……次は、そうはいかない」
――もし、ドニに掴まったら……何をされるか。
家出決行の日、首筋に当てられた刃の冷たさ。ドニもまた、セージを諭すための贄として、姉弟の命を活用するのでないか。そんな想像が、タイムの心胆を寒からしめた。
心配をよそに、やけに陽気な声でパースリーが尋ねる。
「と、いうことは。アグリッパさんは嘘を吐かずに済んだのね?」
「うん。対立を避けられたことに感謝していたよ。黒鶴が借りを返させたばかりなのに、また貸しを作るだなんて。君は罪な人だね」
牡丹の声も明るい。タイムは二人の振る舞いを、信じられない気持ちで眺めた。
「なら良かった」姉は白い歯を見せ、続ける。「それで、聞かせてよ。私の案を認めてくれたってことは、ドニが来ても何とかなるって思ったんでしょ? どうするの?」
「何ともならない、と言いたいところだが。実は、使いたくない手が一つだけあるんだ。準備に時間が掛かるから、行程を早めたい」
「どんな手? 教えてくれないの?」
「その時まで、明かしたくない」
回想に耽るタイムは、
「――わ!」
パースリーの背にぶつかり、その衝撃によって現実へと呼び戻される。どうやら気づかないうちに、前を行く二人が足を止めていたようだ。
姉は素早く振り返り、小声で注意を促す。
「静かに」
その一言で冷静になれたタイムは、何か、悪い状況に直面してしまったのだろうと察した。
「人の気配を感知した。五人だ。近いね」
牡丹の声も緊張している。生活圏外の街道を深夜に徘徊する者など、多くない。その半分は無謀な旅人、或は商人。後の半分は、それらを狩る者たちだ。
付近の草むらを指で示してから、牡丹は球ランプの明かりを消した。
「隠れて様子を見よう」
タイムは皆と共に茂みへと身を潜める。左に伏せるパースリーが、小声で訊いた。
「牡丹、回り道は出来ないの?」
「月明かりだけを頼りに、野原を歩くのは危険だ。出来ればさせたくない」
心細いタイムは、右に伏せる牡丹へ尋ねる。
「見つからないかな?」
「僕の服は目立つからね。じっくりと探されたら、ばれるかもしれない」
「もし見つかったら、どうするの?」
タイムが驚くくらいに、パースリーの声は楽しげだった。つられたのか、牡丹の声も笑う。
「パースリー。あれらはまだ、悪者と決まったわけではないんだよ?」
「悪者だったら?」
「なら、僕がどうにかするさ」
その堂々とした口ぶりに、タイムの不安は若干ながら和らいだ。
狼に襲われた夜、身を裂く恐怖に苛まれた。しかし、傍らには、頼もしい守護もあったのだ。牡丹の自信は強がりや過信でなく、実力による裏付けがあると、十分に承知している。
「大丈夫よ、タイム」
パースリーに励まされた。少しの恐れも見えない姉の態度を、タイムは心強く思う。
同時に、底知れない自らの臆病さと、この状況にあって周りを気遣えるパースリーの強靭な心胆を比べて、胸が軋んだ。
今一度、思い返す。
アグリッパへ旅程を明かそう、とパースリーが提案した時、タイムは、牡丹に否決されるよう心の中で祈ってしまった。祈り届かず承諾された時、嫌な気持ちで一杯になってしまった。姉の判断は正しく、思いやりに溢れているにも係わらず、失望した。
姉弟の安全より、アグリッパの安全が優先されたから。加えて、セージに向くかもしれなかった脅威を、完全にこちらへ引き付けてしまったから。
――もう、姉さんの中心に僕はいない。姉さんの目は、世界に向けられてしまったんだ。
そう考えてしまう卑しさに、ずっと、辟易している。
草むらに身を隠して、しばらく。遠方の丘に数人の影が映った。
一人が松明に火を灯し、闇夜の空に掲げる。
「目敏い。ランプの光を見られたかな」
牡丹はもの憂げに囁いて、姉弟に願った。
「ちょっとの間、静かにしていてくれないか。向こう方の声を聞くから」
「遠いよ? 聴こえるの?」
タイムが問うと、牡丹は誇らしげに、
「ちゃんと聴こえるよ。僕の耳は特別製だからね」
と答えて黙り込む。そうして少し待たせた後、彼女は説いた。
「……あまり、上品な声ではなかったね。男のそれで、ぼけっとするんじゃない、とか、しっかり探せ、だとか。飯の種だ、なんてことも言ってる。わざわざ大きな声でさ」
「嫌ね」パースリーが呟く。「燻り出してるのかな……?」
「だろうね。まあ、人攫いの類かな」
朱の瞳を細めて、牡丹がそう推察した。そして長く息を吐き、凛々しく声を響かせて述べる。
「放っておくべき人物なのか、罰を受けるべき人物なのか。彼らと相まみえて試そうと思う」
驚いたタイムは牡丹を見つめ、尋ねた。
「……行っちゃうの?」
すると、牡丹の指がしなやかに伸び来て、優しく頬を撫でる。
「彼らが迂闊であれば、このままやり過ごしても良いかと思っていた。でも、あれらは慎重で、恐らくは悪辣なんだ。分かるね? タイム」
懇願のようで、否定する気になれない。タイムは心細さを残したまま、うん、と肯じた。
「それにね」牡丹の声が、一層強い熱を帯びる。「僕としても、機会を得たなら試さずにはいられない。彼らの罪、彼らの罰を彼ら自身に問いかけろと、僕の信条が叫んでいるのさ」
彼らの罪、彼らの罰。タイムは彼女の言葉を噛み締めて初めて、いつかの、どこかの弱者たちに思いを馳せることが出来た。
――人攫いが人攫いであるには、攫われた人が必要だ。いつか、攫われる人たちだって。
信条とは、輝かしい言葉だと思った。茂みに隠れて、ただ自分のみを案じる情けない男の隣で、牡丹は未知の、未来の弱者を慮っている。彼女は縁遠き者たちのため、善意を纏って危険を顧みず、悪と疑わしき者たちへ咎を問おうとしていた。
震えが治まる。牡丹の指から伝わる勇気がそうさせてくれたのだと、タイムは信じたくなった。あるだけの力を込めて頷くと、牡丹は口角を上げて、影たちを見据える。
「トルソーは姿を隠しているけれど、今もすぐ傍で、君たちを護っているからね」
銀の鞄が開き、白く華奢な掌が、力強く鋼鞭の柄を掴んだ。
「僕を、応援してくれると嬉しい」
そう呟いて、立ち上がり、彼女は前方へ駆け出す。
徐々に小さくなっていく牡丹。その姿が見えなくなろうかというところで、彼女の珠ランプに光が灯った。それに応じて、人攫いの影が慌ただしく動き出す。
姉弟は茂みから頭を出して、白色光をじっと見つめた。夜の下、牡丹の周囲だけがまるで真昼のように明るい。街道の上に陣取った彼女は、手に持つ太陽を地平に落とした。足を速める影の群れ。掲げられた松明は粉を散らし、吸い寄せられる火蛾のように牡丹へと迫る。
「始まる……」
邂逅する光と焔を見つめながら、パースリーが言った。
想いを殺して、タイムは応える。
「うん、始まるね……」
「牡丹と一緒に戦えなくて、悔しいの?」
パースリーの問いが、正鵠を射た。タイムは、驚き叫ぼうとする自らを抑えて、訊く。
「――どうして分かったの?」
「私たち、ずっと一緒だもん。同じだから、分かるよ」
「姉さんも同じなんだ……」
言うと、パースリーが手を伸ばす。タイムの冷え切った掌は、姉の温もりに包まれた。
「この距離が、私たち三人の距離。意思と、それを実現する力を持つ牡丹。見ているだけの私たち。彼女は、あんなにも遠い……」
タイムは、自身の目尻が熱くなっていることに、それが止めどないことに気づいた。
「黒鶴と一緒に戦えた、セージが羨ましい。僕は……臆病だから、こんなところで……」
「駄目だよ」姉の手に、より強い力がこもる。痛いくらいに。「タイムはセージになれない。なろうとしなくていいの。あなたがセージを羨むくらいに、セージもあなたを羨んでいるから。だからね、そんな声を出さないで……?」
世辞を言うパースリーのことが疎ましくなった。セージは、その程度の男ではない。
「セージが? やめてよ。そんなわけ……!」
苦しいタイムは、そこで言葉を切る。姉の目を見られなくなって、それを悟られたくもなくて。挙句、聖なる戦を囮に使った。
「……ほら、姉さん。牡丹が闘うよ」
視界の先で、闘いの口火が切られる。牡丹を囲う男たちは鞘を捨て、曲刀を振るった。筋骨隆々の腕から繰り出される斬撃を、牡丹は、棒状に収束させた鋼鞭で受け止める。
一度鍔迫り合いを演じれば、彼女が人間の膂力に押し負けることなどない。
「あんなこと、私たちには出来ないよ」
小賢しくも、目の前の戦いになぞらえて、パースリーがそう切り出した。
「牡丹は大の男を容易く往なせる。ドニはそんな牡丹を凌駕する。人間は機械になれないって知っているから、憧れても嫉まずに済むよね。人間と人間だって、本当は同じなはずでしょ? 憧れて、嫉んで、そんなことしたって……他の何者にもなれないから。ね?」
つらつらと紡がれる慰めが、図々しく胸を撫で付ける。タイムの心に闇を灯す。そうされて、抑え切れなくなった悪感情が、肺を、気道を伝って声となる。
「僕じゃ、なれないよ。でも、姉さんは違うでしょ? 姉さんなら、なんだってなれるでしょ?」
「そんな……!」姉が小声で――絶叫した。「どうして? なんでそんなことを言うの?」
激しく戸惑うその声が、タイムに罪悪感を覚えさせる。しかし、放言は止められない。堰は切られてしまったのだ。物心ついてから今まで溜めてきた鬱憤――旅に出てから膨張して止まない嫉ましさが、後から後から押し寄せてくる。
「だって、姉さんには勇気があって、優しくて、前向きで、器用で……。ずるいよ。何で姉さんだけなの? 何で兵士を倒せたの? 何で狼からセージを守れたの? 何でドニが怖くないの? 何で? 双子なのに、僕はそうならない。なれないんだ……!」
「タイム……やめてよ……」
「僕は家出したくなかった。こんな思いをするなら、家出なんてしなきゃよかった……! 本当だよ。僕は出発前まで、牡丹を説得してたんだから。計画を、考え直してって――」
姉は目を見開いて絶句した。絶句させてやったのだ。そんなことで、暗い喜びに満たされる。
「だから、牡丹はセージを頼ったんだ。だから、姉さんの大切な絵葉書は……! ずっと、謝らなくちゃいけないって思ってた。でも、出来なくて……。ごめんね、こんなのが、弟で」
吐き出してようやく、何も言えなくなったタイムは、また、姉から逃げて牡丹を眺める。
五人いたはずの暴漢は、既に残り三人。片や攻めに迷いが有り、片や守りに綻びは無い。
「勇気があって、優しくて、前向きで、器用……?」
姉はまだ喋る。
「もし、その全てが私にあったとしても、結局は、それがあるパースリーってだけ。その他は何もセージじゃないし、タイムにだってなれるわけない。絵葉書が何だって言うの? 確かにあれは大切だけど、全然、私の一番じゃない……!」
怒っているのか。或は苛立っているようでもあった。
「私はパースリーでしかなくて、私の一番はタイムなの。生まれた時からそうだよ。今も何も変わらないよ? 勝手に前へ追いやらないで。勝手に後ろへ行かないでよ……!」
パースリーの両手が迫りくる。タイムは二つの掌に両頬を挟まれ、強引に首を捻られた。
目と目が合う。姉は、今にも泣きそうな顔で声を荒げ、懇願するように命令を下した。
「旅を否定したいなら、今、ここではっきり言って! セージが嫌いだ。翡翠庭園に学ぶことなんて何もなかった。あんな贈り物なんて貰っても、嬉しくも何ともなかったって」
タイムは思い出す。母と過ごした短い日々の中で、一度だけ、徹底的に叱責された時があった。あの日も自分は、姉と己を比較した。愛の順位を母に問うてしまった。姉は母に似ていない。顔も、声も。でも、反駁の仕方はそっくりだったのだと、初めて知った。
「そんなこと、言えるわけないよ……」
「そうだよね……!」
強く迫った本人が、先に頬を緩ませる。そうして、愛おしそうに相手の両頬をこねる。そんな仕草も、母そのものだった。
「聞いて、タイム。私たちの三角形は、観方によって意味を変えるの。非力な私たちは今、牡丹を羨んでいる。でも、視点を変えればどう?」
「姉さんは、牡丹が僕らを羨んでるって言うの? あの牡丹が?」
「だって、そうでしょ? 私たちから何かを得たい以外、あんな準備をしてまで、気を引こうとしてまで、連れ回す理由があると思う?」
タイムには、その考えは飛躍に思えた。だが、反論出来る程の気力は既に無い。
「皆違って、皆羨むの。同じになれない私たちは、存分に力を出し合って、互いに憧れて、学びながら生きるしかない。タイムは憧れに目が眩んで、自分の良さが見えなくなってるだけ。きっとそう。そう考えてよ。お願いだから……」
悪漢は、終ぞ一人になってしまった。
機械と人間が演ずる炎舞を、姉と二人、無言で眺め続ける。煌びやかな時の中に、幾つもの攻防があった。鋼鞭と曲刀のぶつかり合う音は、ともすれば会話のように聞こえた。
それもやがて、幕を閉じる。
平原に静寂が戻った後も悲痛が治まらないタイムは、腹ばいのままじっと待ち、痺れを切らしたパースリーに腕を絡め取られて、牡丹の元へ連行された。
姉は手短に牡丹を労う。
「お疲れ様」
牡丹は一瞬だけ微笑み、すぐに表情を曇らせた。
「ありがとう。でも、ごめん。時間を掛け過ぎた。ドニが迫っているというのに」
そう言われて、タイムは思い至る。先の戦闘で、牡丹が音響兵器も雷釘も使わず、鞭だけで闘っていたことに。
「時間を掛けたのは、何で?」咄嗟に訊いてしまった。「悪い人たちだって、すぐに分かったよね? なら、彼らの何を知ろうとしたの? 咎人にさえ、学ぶところはあるって言うの?」
「有るよ。色々とね。例えば、僕との人格的共通点、相違点。彼らが持つ趣味言動等の指向性。罪に対する認識。罪の有無と軽重。更生の余地。そして、罰を下した後に僕が後悔するか、しないか。どんな相手であっても、知るべきところは無数にあるから」
牡丹は、倒れ伏す男の首元へ手を伸ばす。粗暴な首から外されて、タイムに手渡された装飾具は、見たこともない色形をしていた。生成りの、不揃いな軽石で出来ている。
「人骨の首飾りだ。指先と、歯」
「え?」タイムは呆けた。途端、世界の平衡が揺らぐ。膝が折れ、その場に崩れ落ちる。「あ、あ……。ああ……!」
怖くて、怖くて放り投げてしまいそうになった命を引き戻し、胸に当てた。すると、骨の主が辿った空想人生譚と悲劇的挿絵で頭が一杯になり、溢れたそれらが涙となって、零れ落つ。
「踏み込まなければ知ること叶わなかった情報なんて、この世界にはごまんとある。触れなければ想起されなかったはずの感情も、同じく」
牡丹は、初めて見せる表情――悲痛としか言いようのない面持ちで、優しく、言い含めるように語った。
「僕は全てを知りたい。それは不可能だと知っているけど、学び続けたい。僕が誤る可能性を、少しでも減らせるように。……この道は苦行だよ。辛いことばかりさ。でも、喜びだってある」
タイムは声が出せない。代わりに、パースリーが問うてくれた。
「それは、どんな?」
「……亡骸に触れて、タイムは当然のように涙を流した。血も涙もない自律機械の分も泣いてくれた。そう出来る君が隣にいるから、僕は人類を尊敬し続けていられる。いつか、君の恩情が僕にも宿るんじゃないかって、期待出来る。だから、嬉しいんだ」
投げかけられた言葉に、蘇る様々な思いが響き合って、タイムの胸は詰まる。誰にもなれないはずの自分が、牡丹のなりたい者であったという、この奇妙で信じ難い転換は、胸苦しさを解すと共に、いとも簡単に劣等感を裏返して、自身の一部を驕らせた。
――僕の涙は、姉さんには流せない涙なんだ。膝を折るより早く、前を向ける姉さんには。
傲慢な背中に、姉の柔らかな掌が触れる。あやすように撫でられると、むしろ、悲しみがぶり返した。立ち上がらなければ、と思う自分が、いつまでも蹲っていたい、と望んでいる。
この自失を咎める者も、手を貸す者も、空風吹きつける夜の草原にはおらず、タイムはそれを、慈悲として受け止めた。
ひとしきり泣きじゃくった後は、人攫いたちを縛り上げ、近場に天幕を張った。
深夜、牡丹が番に出て少しばかり経った頃、タイムは鼻先まで被せた布団をめくって球ランプに光を灯し、小さな声で問いかける。
「姉さん、寝ちゃった?」
スン。滑稽音を聞かせてすぐ、パースリーの寝息が止まる。
「……起きてるよ」
最近は布団に潜ってすぐ、二人して寝た振りをする。そうすれば、牡丹が早く外へ出て番を始めると、偶然知れたからだ。
タイムは勇気を奮って重い口を開き、謝罪する。
「ごめんなさい……。さっきは、おかしなこと言って」
少しだけ、待たされる。姉はきっと、返す言葉を真剣に考えていた。
「……おかしくないよ。正直、驚いちゃったし、悲しかったけど……言ってもらえて良かった。 大丈夫だから。私はちゃんと、タイムの叫びを受け入れるからね」
「ありがとう」タイムは天井を見上げたまま、心情を吐露する。「――皆に置いていかれるようで、怖かったんだ。それで、旅のせいにしちゃった。本当は、旅も、勿論姉さんもセージも、嫌いになんかなってないよ」
「だよね……! 良かった……」
姉の口から安堵の声が漏れた。旅を否定されたことが、気に掛かっていたのだろう。
タイムは心中で深く反省する。パースリーを憎らしく思う気持ちは確かにあった。しかしそれは、姉を敬愛するあまりに生じた反作用だ。正に身内贔屓であり、姉に甘え過ぎている証左であり、自分のことながら気色悪く、三重に恥ずかしい。
「私たち、変わったよね?」
パースリーが同意を求めた。けれども、タイムはそのように思えない。
「姉さんはね。僕は、変わっているのかな……?」
仰向けに寝ていた姉が、身体を向けて柔く笑った。タイムも同じようにして見つめ合う。
「タイムも変わったよ。十四年間、片時も離れず過ごしてきた二人なのに、私は初めて嫉妬をぶつけられたし、私だってあなたに嫉妬してる。これは、互いに変化した証だと思うな」
「姉さんは、僕に嫉妬してるの?」
「うん。ずるいよ。いつか、君の恩情が僕にも宿るんじゃないか、なんて素敵な台詞、誰だって言われたいじゃない? でも私には、タイムみたいな温かみは無いからね」
拗ねる姉の声は、これまでになく晴れやかだ。その希望溢れる声音に包まれて、タイムは仄かな淋しさを覚えた。屋敷という閉鎖時空から逃れた今、目の前には無限の可能性が拓けている。であれば、姉と同じように変わり続けることなど出来はしないだろう。姉弟の分化は必至であり、その先には、目を背けたくなるような離別が待っているのかもしれない。
しかし、気を強く持って、言の葉が善き変化をもたらしてくれるよう願い、宣言した。
「僕らしく、変われるといいな。どれだけ時間が掛かってもいいから」
すると、パースリーが頷き、穏やかに応える。
「タイムは誰よりも優しくなる。誰よりも、誰かを想えるようになる。私が保証するよ」
タイムの卑屈な心が、また不貞腐れた。保証という単語から香る上方下方の位置関係に、かりかりし始めた。けれども、今ならそれも人生の香辛料――味わいある感情だと思える。
それから、話題は両親の思い出話に。パースリーは仰向けになって、天幕越しに空を透視する。タイムも姉に倣い、想像の星空に、回想することしか叶わない父母の肖像を重ねた。
少しして、話題は実の両親から、機械の家族へと移ってゆく。
「――ねえ、牡丹たちは何を思いながら、私たちと旅をしているのかな……?」
「僕たちから何かを得たがってるっていう話、最初はどうかと思ったけど、少し、信じられるようになったよ。だとすると、牡丹も変わりたいってことだよね……?」
パースリーの話によると、黒鶴は目的なく愛情を注ぐことに憧れているらしい。それが人間らしいと。牡丹については、今日知ることが出来た。自分に恩情が移るのを期待している、と。
「ちょっと、分からないんだよね」パースリーが悩ましげに眉を曲げる。「人間に近付きたいっていう思いは、きっと有るんだと思う。でもほら、牡丹たちってもう、人間と大差ないし。私たちを連れ出す理由としては、何となく、小さ過ぎるような……」
タイムの見解は若干違った。それについて語ろうとしたところ、ふと閃く。自信家の姉に小さな復讐を仕掛ける、好機が訪れたのだと。
「そんなことないと、僕は思うよ。自信たっぷりの姉さんには分からないかもね」
言う際には、努めて嘘臭く笑んだ。つまらない軽口につき、僅かな禍根すら残したくない。
「何それ。私は自信家じゃないわ。自分が完璧だなんて、一度も思ったことないから」
姉はきちんと冗談めかして、冗談に応じてくれた。素の人間性は表れているが。
「姉さんのそれは謙遜だから。完璧だなんて思ってない、っていうのは自信家の言葉だよ」
「あ……」
パースリーの口から切実な声が漏れた。やりすぎたタイムは、慌てて話を進める。
「とにかくさ。僕が言いたいのは、自信が無ければ、終わりも見えないってこと。自分が信じられないから、何度だって同じことを繰り返す。いつまでも同じ想いを引きずり続ける。牡丹も同じなら、僕たちを連れ出す理由として、小さいなんてことは無いよ」
姉の顔はまだ、曇ったまま。だから、更に取り繕う。
「そう言えばさ、なんで僕たちが、旅のお供に選ばれたんだろうね?」
無理くり明るく振る舞ったせいで、声が上ずった。パースリーは困惑した顔を見せる。
「え?」
疑問で押し流そう。タイムはそう決めた。姉の好奇心を揺さぶり、思考させるために。
「こう言っては悪いけど、牡丹だって人攫いだからさ。人間から学びたいのなら、孤児を引き取れば済むものを、国を敵にしてまで国主の子供を攫うなんて、ちっとも合理的じゃないよ」
思惑通り、姉は考え始めてくれた。その顔は、新たな玩具を手にした子供そのものだ。
「母さんに捕まって、私たちへ贈られて……それからは成りゆきで、とか?」
「今だから分かるけどさ。自律機械って気軽に贈れるものじゃないよね。しかも、人形の振りまでさせて。水路に分岐を作るのも簡単なことじゃない。成りゆきは、違うと思うな」
「……確かに。なら牡丹は、私たちでなければならない理由があって、母さんに取り入ったのかな? そこにも、彼女たちの目的が絡んでる?」
二人で答えを探してみるものの、判断に足る材料は見つからない。でも、それがいいと、タイムは考えている。答えが解らなければ、姉はいつも通り、知りたがりでいてくれるからだ。
「今日は、ここまでにしようか」
「そうね」パースリーが球ランプを消す。「おやすみ。明日もいい日でありますように――」
再び布団にもぐり、目を固く閉じても、タイムは中々寝付けなかった。
ただでさえ烈しく感情を揺さぶられた日だったのに、そのうえ牡丹にまつわる謎まで気になり始めたせいで、頭の中が彼女で一杯になってしまったのだ。いつまで経っても、白く整った顔が瞼の裏から消えてくれない。耳の奥には、時に凛とした、時に艶やかなコントラルトが一途に響く。恋をしているみたいだと恥じらい、悶々と過ごさざるを得なかった。
出会ってから今まで、彼女の口から語られた数多の言葉。それらは発生と淘汰を繰り返し、やがて、今晩耳にした印象的な二つの句に収斂していく。
〈罰を下した後に僕が後悔するか、しないか〉
〈僕が誤る可能性を、少しでも減らせるように〉
タイムの胸が、徐々にざわめき始める。五人の人攫い。人骨の首飾り。罪と罰。頭は独り善がりの理想に占められ、心までもが、やり残してはならないと訴え出す。
〈僕は、君の決断を尊重するよ〉
幻覚の牡丹が背中を押してくれた。この考えを姉に告げ、失望されようものなら死にたくもなるだろう。それでもタイムは、想いを伝えると決心した。
「ごめん、姉さん。まだ起きてる?」
「んぅ? ……うん」
パースリーが振り向き、眠たげな目を見せる。そうした姉へ言って聞かせるのは、不意打ちのようで気が咎めたが、言葉を続けた。
「僕は明日、牡丹にお願いをしようと思うんだ」
「お願い……?」一拍の、緩み切った時を経て、姉の寝ぼけ眼が瞬時に開く。「――もしかして、人攫いたちのこと?」
その瞳は既に、明瞭な輝きを取り戻していた。だからタイムは、多くを語らない。
「彼らを連れていきたいと、はっきり伝えるつもりだよ」
「あいつらは罪人なんだよ? それを助けるの?」
パースリーの表情は硬い。様々がせめぎ合っているのだと思う。
「助けたいわけじゃないよ。ただ彼らは、遺族が住む街で、厳正に裁かれるべきだと思うんだ。もし、牡丹が同じように考えていて、でも、僕を気遣って諦めようとしているのなら、そうさせちゃいけない。一番ドニに怯えている僕が、牡丹の本心を試さなくちゃ……」
タイムは姉の目を凝視し続けた。決心を曲げないために。
遺族の無念を想っているつもりだ。或は、自分が立派になりたいだけなのかもしれない。これが自己愛の醜い発現であれば、自らもいつか、被害者の霊によって裁かれることになるだろう。そうならないと信じたい。
「勝手言って、ごめんなさい」
謝ると、パースリーの視線が宙に浮いた。一時揺らいだ瞳は、何事もなかったかのように再び定まり、血色の良い唇が、猫なで声を紡ぐ。
「……私も、同じことを思っていたわ。一緒にお願いしに行きましょう?」
思ってもいないのにそう言ってくれたのだと、察せられた。
〈君のことはまるで分からないな。化粧臭過ぎるんだよ〉
セージの気持ち――理解したくなかった気持ちを、少し理解してしまった。姉弟が姉弟らしく変わりたいと願うなら、そういう歪な気遣いをまず、諫めるべきだと考えもした。けれども今が、姉と弟で並び歩ける最後の時かもしれないと、そう思うと、どうにも言葉が出ない。
悩むうちに時は過ぎ、パースリーの寝息が耳に届く。
タイムは結局、流されるままにした。