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ドゥームズデイクロックス  作者: tatsukichi_ohta
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03:翡翠庭園(前編)

 屋敷を去って幾日か過ぎた日の夕刻。


 一行の他には誰もいない草原の真中(まんなか)、赤く燃えた夕陽の(もと)で、パースリーはねだった。

「ねえ、牡丹(ぼたん)。私、翡翠庭園(ひすいていえん)に寄りたいの。通り道だし、いいでしょ?」

 牡丹がきょとんとする。セージは渋い顔して、口を挟んだ。

「あそこには封印処理を施してある。勝手に入るのは犯罪だ」

「セージには聞いてない」

「俺は国主の息子だぞ」


 彼の言い分こそが正しいと、パースリーも理解している。

 現代に(のこ)る機械遺跡の多くは、所有国による封印が()されている。遺跡が見つかると同時に、物理的な、或は法的な障壁を張り、内部に存在する遺失技術の漏出を防ぐのだ。翡翠庭園もまた、サルティナ(こく)黎明期(れいめいき)にドニの手で封印処理を施された由緒正しき遺跡である。そこに無断侵入するというのは、国家へ弓引く行為に他ならない。


 かと言って、諦められない。パースリーにとっては宿願なのだ。未見のままではいたくない。翡翠庭園に息づく多種多様な草木は、不思議なことに、咲く花も、実る果実も一様に緑色をしているという。大切にしていた形見の絵葉書も含め、庭園を描いた大方の絵画は、口伝(くでん)に沿って筆を走らせた想像図でしかない。庭園の真影を観賞出来るのは歴代の国主だけ。父母も感嘆したという幻想的な風景をタイムと眺めたい。そう、長年夢見て生きてきた。

「セージ」牡丹が皮肉めいた笑みを見せる。「それを言うなら、君も含めた皆が犯罪者だよ」


 図星を突かれたらしく、セージの表情は悩ましげなものに変わった。

「確かにそうだが……」

「僕はパースリーの好奇心を応援したい。著しくモラルに反する行為でなければ、何でもね。セージとタイムはどうだい? 翡翠庭園を見てみたいと思わないかい?」


「いや、見たくない」

 セージは逡巡(しゅんじゅん)なくそう答えた。タイムは目元の泣き黒子(ぼくろ)を指で掻きながら、苦笑する。

「僕は見てみたいけど、その、大丈夫かな……?」

「ドニのことであれば、安心していいよ。見当違いの方向に去ったようだから」

 牡丹が言うと、タイムの表情は若干ながら和らいだ。


「そうだ、思い出した」セージはタイムへ真剣な眼差(まなざ)しを向ける。「近年、翡翠庭園一帯の森林で、頻繁(ひんぱん)に獣害が発生しているらしい。だから、行かない方がいいと思うぜ」

 彼はタイムの臆病を刺激して意見を撤回させようとしていた。パースリーはそれを許さない。

「獣害って、何のよ?」

「それは……狼らしい。死者も少なからず出ている」

 セージの語勢が弱まった。死を(いた)んでのことだろう、タイムも悲しげに目を伏せる。


 パースリーは奇妙に感じた。狼とは調和を重んじる生き物。だから、変に接しない限りは人へ危害を加えない。基本的に賢く、弁えているはずの彼らを、凶行に走らせた原因とは何か。

「狼か……」牡丹も(いぶか)しげだ。「噛まれた人たちの様子は?」

「いや、そこまでは」


 機運に乗じるべきだと、パースリーは思った。二人の目標は同一化出来る。何せ自分は好奇心に溢れ、セージは曲りなりに統治者の直系なのだから、こう囁けば良い。

「もしかして、庭園に眠る遺失技術が、狼に影響を与えているのかもね?」

「あり得るのか?」

 セージは勿論(もちろん)のこと、タイムも思い詰めた表情を浮かべて、問う。

「そうなの、牡丹?」


 タイムがどのように反応するか、それが最大の懸念だった。彼は、セージの言う通り臆病なのかもしれないが、それを打ち消して余りある思いやりを持っているのだ。家人(けにん)の痛み、時には野生動物の痛みにさえ涙を流せる弟の優しさは、パースリーの誇りでもあった。

「翡翠庭園であれば、そういう可能性もある」

 牡丹が答えると、タイムはすぐさま決意した。

「なら、僕は行って、調べたいな。……怖いけど」


 セージは彼の背中を軽く叩いて、満面の笑みを浮かべる。

「よく言った。それなら、俺も敢えて罪を被ろうか」

 願い通り丸く収まったことで、パースリーは気を良くした。

「決まりね。牡丹、案内をお願い」

「承った。――今日はここに天幕を張り、明朝に出発しよう」


 深夜。パースリーは牡丹により起こされた。牡丹はタイムの頬を軽く叩き、セージの鼻を軽く()まみ、二人を目覚めさせた後に述べる。

「すまない。妹を森へ先行させたんだが、そこで隊商を見つけてしまって」

 半開きだった全員の目が、ぱちりと開く。セージが食い気味に問うた。

「俺たちを起こしたということは、応援に向かうべきだと思ったんだな?」

「隊商は大集団でね。妹だけでは、手が足りなくなるかもしれない」


 パースリーはタイム、セージと目を合わす。考えていることは皆同じだった。

「危険が予想される。妹だけに任せるという選択も、あるのだけれど」

「それは選ばないわ、牡丹」

 牡丹は心強い笑みを見せ、(かたわ)らに置かれた銀の箱から鋼鞭(こうべん)――機械仕掛けの黒い鞭を取り出して、左手に持つ。

「僕が君たちを守る。そのためにも、指示には必ず従ってくれ」

 皆が口々に(がえん)じると、牡丹は深く頷いた。

「天幕はこのままで。荷袋も置いていく。さあ、行くよ」


 パースリーは手に持つ球ランプの光を頼りに、月明かりの乏しい夜の森を早足で歩く。

 まばらに茂る広葉樹林。比較的高木(こうぼく)が多く、地を覆う草も然程背が高くないため、見通しは悪くない。古くからあるというこの林道は、飛び飛びの木板(きいた)によって簡易的な整備が()されており、暗闇にさえ慣れてしまえば、気楽に歩くことが出来た。

 ランプが両掌を温めてくれるから、肌寒さも、心細さも感じない。ランプを持たないタイムについても、今は心配する必要がなかった。


 少し前、木板に蹴躓(けつまず)き転んでしまった弟へ、パースリーが反応するより早く、

「大丈夫か? ほら」

 と言って差し伸べられた左手。セージはタイムを立ち上がらせた後もその手を離すことなく、まるで最初から兄弟であったかのように、二人一丸となって夜に挑んでいる。

 この短い間に、二人は随分と仲良くなった。タイムはセージの強引さを悪く思っていないようだし、セージはタイムの助言であれば素直に聞く。性格は真反対。だからこそ引き合う何かがあるらしい。

 いつも、そして今も、一日遅く生まれたはずのセージが(はばか)ることなく兄らしく振る舞う。その可笑(おか)しみが、闇夜の恐ろしさを少なからず和らげてくれている。


「目標地点までもう少しだ。みんな、(がん)――」

 牡丹は言葉を切り、押し黙る。

 しばらくして、葉擦(はず)れの音と共に、見るからに年若い二匹の狼が現れた。牡丹は、遠巻きにこちら伺う獣たちを見据えながら、皆を安心させるように優しく囁く。

「大丈夫だよ。はぐれ狼だから」


 しかし、狼たちはそんな牡丹を嘲笑(あざわら)った。一匹の甲高い遠吠えに呼応して、周囲の狼が続々と集ってきたのだ。やがて、七匹から成る群れに一際体格の良い八匹目が加わると、彼らはじりじり距離を詰め始める。

「三人共、伏せて!」

 牡丹が声を張り上げた。それを合図に、狼たちが速度を上げる。

「セージ、タイム、もっと低く! そう、頭を上げないで!」


 彼女は前方の狼たちへ向けて、広げた掌を突き出した。パースリーの耳が、ヒュィン、という聞き慣れない音を捉える。次の瞬間、二匹の狼が脚を(もつ)れさせて、その場に倒れた。

 ――あれが、例の音響攻撃。

 続いて左手を振るい、鞭を伸ばす。

 鞭の尾は風音(かざおと)立てて狼に迫り、バチ、と乾いた破裂音を鳴らしながら一匹を、返す刀でもう一匹を打ち据えた。

 ――あれは、鋼鞭が放つ(いかづち)の音。


 残るは四匹。怯んだ獣たちが、今一度距離を取った。

「さあ、立って! 走るんだ!」

 号令を受けて、パースリーはタイムの手を取り、セージと並んで駆け出す。


 また、獣声(じゅうせい)がこだました。

「おかしい。こんなことが……」

 牡丹の、いつになく困惑した声に不安を掻き立てられたパースリーは、背後へ問うた。

「一体、どうしたの?」

「多過ぎる。こちらもそうだが、妹の方にもかなりの数が集まってきている。異常さ。血族も群れも関係なく、森に棲む全ての狼が一つの意思に統率されているかのようだ」


 パースリーの脇を(かす)めて、牡丹の右掌が飛んでいった。それは、前方に突如現れた狼を撫で、気絶させる。同時に左方から迫ったもう一匹は、不可視の音によって倒れた。

「まだ来る。前方から三匹。止まって!」

 パースリーは足を止めて振り返る。牡丹は足裏から気を吐いて跳ね、子供たちの頭上を飛び越えつつ二本の雷釘(らいてい)投擲(とうてき)し、鞭の一薙(ひとな)ぎも加えて目の前に位置取る狼三匹を仕留めた。更には、着地してすぐに背後へ向き直り、手を翳して、追い立てる狼たちへ音を放つ。


「君らだけで先へ。すぐに追うから」

「分かった!」

 パースリーは球ランプを胸の前に掲げて、駆け出した。男二人も後に続く。

 三人、一言も喋らず、懸命に呼吸しながらひたすらに走った。

 走っても、走っても代り映えしない枝葉の道。果て無い闇色の景色が、パースリーの思考力を蝕んでいく。

 心臓ははち切れんばかりに強く、早鐘のように()いて脈打つ。息も絶え絶え。もう限界だと本能が叫んでいるのに、本能が、止まってはならないと警告を出し続ける。


 光の先で、低木の枝が僅かに揺れた。現れる獣の影。連なる瞳。彼らは一時(いっとき)パースリーと見合った後、一斉に動き出す。

〈目を(つむ)れ、パースリー! 皆にも伝えて!〉

 鬼気迫る牡丹の声が脳に轟いた。その(はげ)しさに釣られて、パースリーも()える。

「目を瞑って! みんな!」

 そうした途端、掌中(しょうちゅう)の球ランプが瞬間的に、急激に、とてつもない高熱を放った。

「熱っ!」

 パースリーの手からランプが零れて、落ちる。硝子(がらす)が割れる音。それと共に、固く閉じた(まぶた)の裏側が真っ白に染まった。弾ける熱波が、肌を、喉を()く。


「目潰しか!」

 セージが驚き叫んだ。いつもの余裕めいた態度も、今は完全に鳴りを潜めている。

「姉さん、大丈夫?」

「ええ。タイムは?」

「大丈夫。(つぶ)るの、間に合ったよ」


 少しして、熱が引く。パースリーが目を開くと、そこいらで惑う狼たちの姿が目に入った。

「そこで止まって」

 短な命令に続き、幹と幹の間から牡丹が現れる。

「この先にも待ち伏せがいる。まずは後方の狼を片付けよう。皆、固まって」

 パースリーは、タイム、セージと背中を合わせ、互いに手を繋いで一本の柱になった。

「そのまま、動かないでね」


 視力を奪われ、それでも覚束(おぼつか)ない足取りで近づいてくる狼たち。牡丹は彼らに触れ、眠らせてから、来た道をじっと見つめる。間もなく獣の(うな)りが聞こえ、(とお)を超す集団がやって来た。

 牡丹は再び戦いに身を投じる。彼女の動きは、武芸というものに(うと)いパースリーでさえ老練さを認めてしまうくらいに、無駄も、迷いも無く見えた。

 彼女は振りの大きな鞭を初めから捨て、掌も飛ばさず、隙無く丁寧に狼たちを(ほふ)ってゆく。正面から来るものは蹴りだけで()なし、側面へ回ろうとするものには素早く雷釘を投げ付け、二方向から迫るものたちがいれば、両掌から音を放ち、纏めて始末する。

 彼女は前しか見ていないのに、扇状に展開しようとする群体の動きを精確に把握し、複雑に波状攻撃を加える狼の全てを手玉に取っていた。


「おい、あれ」

 セージは、もううんざりだとでも言いたげな顔をして、牡丹の向こうに現れた狼を顎で示す。

「あっちにも……」

 牡丹とは反対方向を見つめながら、タイムが震える声を漏らした。

 眼光が列を成す。どちらの側も、ずらりと。数にもの言わせ、挟み撃ちにしようというのだ。


「大丈夫、上手くやってみせる……!」

 自らを信じ込ませているようにも聞こえる牡丹の声音が、パースリーを(はなは)だ不安にさせた。

 乱れるタイムの呼吸。弟の震えが掌を伝う。ぎらつくセージの()。彼の掌に嫌な力がこもる。

 前後の狼たちが、足並み揃えて駆け出した。飛来する二本の矢。牡丹は両掌を水平に構え、音を照射して両方の矢じりを一息に潰す。潰すが、狼たちは怯まない。倒れた同胞を情け容赦なく踏み越え、尚も苛烈に大地を蹴って、迫り来る。


「こっちは任せろ!」

 固く結んでいたパースリーの掌が、振り解かれた。セージが動いてしまった。彼は自らの背に姉弟を隠し、雷釘を手に片側の狼を睨みつける。

「馬鹿、戻れ!」

 牡丹は罵声を吐きながらも雷釘を飛ばして、彼を援護した。セージは彼女に失望されようとも意に介さず、むしろ自分を誇るように堂々と、狼へ雷釘を突き立て、更には蹴り飛ばして、二匹を捌いてみせた。だが、残った三匹が大きく横に広がり、三方から襲い掛かると、戸惑った様子を見せる。


 牡丹の掌が伸びてきて、そのうち一匹を討った。残り二匹。セージは腕を払って右から飛びかかる狼を仕留めた後、もう一匹が振るう爪を避けようとしたが、

「くっ!」

 (すね)を裂かれてもんどりうつ。パースリーもじっとしていられず、雷釘を構えて狼を突こうとしたが、ひらり(かわ)されて逆襲に会い、二の腕を()まれてしまった。


「ああ!」

 耐え難い痛みが悲鳴に変わる。牡丹も叫ぶ。

「パースリー!」

 めり込む牙。尻もちついたパースリーは、狼を振り解こうと腕を動かす。

 頭が熱い。狼の咬む力は途轍もないと本で読んだ。このまま食いちぎられてしまうのかと怖くなったが、そうなる前に狼は音を浴び、だらんと口を広げて転がった。


 四方から吠え声。新手の狼が暗がりから飛び出す。足腰立たないパースリーの上に、セージが覆い被さった。脈動する胸板。無力を噛み締める白い歯。私はいいからタイムを。パースリーは彼にそう伝えたかった。でも、舌がひりついて動かない。

「……助けが来た」

 牡丹が、思いがけない言葉を囁いた。

 同時に、横合いから迫った一匹の狼が、突風に煽られたかのように吹き飛んだ。その様はあまりに突飛で、力学的な因果関係が掴めない。精霊の御業(みわざ)かと、パースリーは思った。


 同じく唖然とするセージへ促し、互いに支え合って立ち上がる。

 牡丹は、今は自分の側だけに専念して戦っていた。反対側の狼たちは、牡丹に背中を任せられるだけの能力を持った、見えない何者かによって次々と倒されていく。

「……大丈夫だ。そう、もう安心さ」

 励ます牡丹の背中には、色濃い無念の影が浮かんでいる。


「だから、セージ。今度こそ動かないでいてくれ。絶対に……!」

 陰湿な怒気を孕む声。八つ当たりに聞こえて、パースリーは気分が悪くなった。

「迷惑を掛けて、すまない……」

「分かればいい」


 胸がむかむかする。セージを見やれば、悔しみに(まみ)れて(うつむ)く姿が気の毒でならない。

 確かに、指示を守らなかったセージに落ち度はある。牡丹には勝利の道筋が見えていて、彼の行動は結局、それを狂わせただけだったのかもしれない。けれども勇気は勇気であり、献身の精神は善く認められなければならないはずだ。詰るだけで、済ましてはならないはずだ。


 この思いを訴えるべき相手は、未だ戦いの最中(さなか)。だからパースリーは、泣きそうな顔して牡丹を眺めるセージの頬を指で叩いて、自分に注意を向け、

〈あ、り、が、と、う〉

 微笑みながら唇を動かし、その形でもって感謝を告げた。

 セージは、得も言われぬやるせなさを秘めた笑顔で、慰めに応える。

 普段であれば、真っ先にありがとうと伝えそうなタイムは、今夜に限っては彼らしくなく、ただただ気落ちした表情で立ち尽くしていた。パースリーは、自分とセージそれぞれに深く刻まれた傷を見つめて思う。この痛ましさが、弟から言葉を奪ってしまったのだろう、と。


 それからしばらく経ち、狼は掃討された。

 パースリーは、胸に(くすぶ)る怒りの火を気取られないよう、猫なで声で牡丹を(ねぎら)ったが、

「話は後だ。トルソー」

 冷たくあしらわれる。牡丹はこの場にそぐわない単語を口にした後で、セージへ近寄り、袖をめくって傷口を凝視した。

「トルソー……?」

 パースリーが呟くと同時に、牡丹の隣側がぐにゃりと歪み、何も無かった地面に突然、石窟(せっくつ)に置いてきたはずの黒い荷物箱が現れる。誰もが驚く中、牡丹は説明することもせず、淡々と箱を開いて、清水が入ったボトルを取り出した。


「俺の傷なんて後でいい。パースリーを看たら、すぐに出発しよう」

 セージの要望をまるで無視して、彼女は傷口を(すす)ぐ。

「いや、これまでだ。二人共、ここで処置を終わらせなければ」

「何故だ? 俺たちでこれだ。向こうはもっと酷いことになってるんじゃないのか?」


 牡丹の眉間に皺が寄った。彼女は厳しくセージを睨みつけ、述べる。

「ならなかったんだよ、セージ。妹も直に戦い終える。隊商の被害も軽微で済むだろう」

 いきなりの勝利宣言に、パースリーは嬉しくなった。

「何をへらへら笑っているのさ。君も腕を出して」

 パースリーの腕に空いた四つの穴へ、順々に水がかけられる。すると、忘れようとしていた痛み、忘れかけていた狼への恐怖が鮮やかに蘇り、背筋を震わせた。


 牡丹は持てる水を惜しみなく使って二人の傷を洗浄した後、消毒液を塗り、

「少し痛むよ。我慢してね」

 荷物箱から取り出した小さな円筒をパースリーの肩に当てた。

「冷たっ」初めに感じたのは、氷のような冷たさ。続いて、鋭い痛み。「つっ!」

 隣でセージも苦悶の声を漏らす。どうやら、円筒の先端に針が仕込まれていたらしい。


「これ、注射? 打つなら打つって言ってよね」

 パースリーは努めて軽く文句を言い、牡丹の返しを誘ってみた。だが、言葉は無い。

「……なあ、牡丹」呼び掛けるセージの声は、明らかに消沈していた。「俺たちは天幕に籠ったまま、全てを君の妹に任せるべきだったのだろうか。本当のところどう思っているか、聞かせてほしい」

 彼の膝小僧をぽんぽんと叩きながら、牡丹が応える。

「今夜の経験を何にも活かせないなら、じっとしているべきだったのだろうね」


「……辛辣(しんらつ)だな」

「君の好みに合わせたまでさ」

 しばらく見つめ合っている間に、二人の表情は徐々に解れていく。セージは思うよりも変わり者なのだと、パースリーは理解した。牡丹は彼のツボを熟知しており、ややもすると先程の陰険な態度も、セージには違ったふうに見えていたのかもしれない。


「あの……」タイムが申し訳なさそうに割り込んだ。「助けてくれた人にお礼を言いたいんだけど、今どこにいるのかな?」

 それを耳にした牡丹は、悪戯(いたずら)な笑みを浮かべる。

「ここにいるよ。彼女は変わった姿をしているが、驚かないであげてほしいな」

 声に合わせて、先程荷物箱が現れた時のように景色の一部が(ひず)み、幻想的な藍色の微光がちらつき始めた。そのすぐ後、木立(こだち)の間に異形の影が現れる。


 大きな立ち姿。自然に形作られたものではないだろう黒く無機質な表皮。鎖骨の間に埋まる藍色の宝玉が、妖しい光を放っている。

 彼女は、童話に登場する悪魔のような長い節くれの手と、一対の太い脚にそれぞれ三本の細い脚が結合した、蜘蛛に見える八本脚を持つ。下腹部から頸部(けいぶ)にかけての形状は人間的であり、裸婦像に似て(なま)めかしい。しかし、その先に頭部は存在していなかった。

 首無しであることだけがトルソーという名前相応で、他は余りに乖離(かいり)している。そんな自律機械が、悪魔の両手を(もも)の前で交差させ、可愛(かわい)くぺこりとお辞儀をした。

 そして、右手をゆっくりと差し出し、子供たちに握手を求める。


 パースリーは率先して彼女の手を握った。未知の素材がどのような質感をしているか、気になって仕方がなかったからだ。挨拶した後の反応も、誰より先に知りたかった。

「初めまして。私はパースリー・ベネット。あなたは命の恩人だわ。ありがとうね」

 挨拶を済ますと、黒い腕が迫りきて、パースリーの頭をわしゃわしゃと撫で回した。思った以上に愛嬌がある性格だ。掌も予想に反してすべすべしており、かつ暖かい。未知が想像を凌駕(りょうが)するというのは、何にも代えがたく喜ばしい瞬間である。

「彼女は意思を持つが、喋ることが出来ない。無言の非礼を許してほしいってさ」

 牡丹が彼女の想いを代弁した。パースリーは、一体何の理由があってそう作られているのか、いつか尋ねようと心に決める。


 タイムは声を上ずらせながら、セージはしおらしく自己紹介を済ませた。

 (たくま)しくも(たお)やかな自律機械、トルソー。彼女はタイムを片腕だけで抱え上げ、剽軽(ひょうきん)な仕草で自らの力を自慢する。その姿を眺めて、パースリーは閃いた。水路にて絶息の危機を救ってくれたのは、彼女だったのではないか、と。

 新たな発見は鮮やかな喜びをもたらしたが、これについては口外を止められているので、態度に出せない。パースリーは真顔を取り(つくろ)い、内心だけで度重なる助力に感謝を捧げた。


 本懐を果たせなかった一行は、結局その場で天幕を張り、夜を明かすことになった。

 パースリーは、折角(えにし)を結んだ隊商に会えないものかと牡丹へ尋ねたが、願いは否定された。(いわ)く、隊商は旅の工程に遅れが生じていたから、無理に夜の森を縦断しようと考えた。故に、狼の襲撃があったとて、足を止めるわけにはいかないのだという。

 それなら、こちらから会いに行こうとタイムが提案し、セージも同調した。しかしながら、怪我人は安静にしていなければならない、と却下されてしまったのだ。


 今は子供三人、新たに授けられた球ランプが放つ、微かなオレンジの光に包まれながら、天幕の中に並んで横たわっている。

 牡丹はいない。夜が()けると、彼女は決まって天幕を去り、番をするからだ。三人は、いつも通りにもたらされた子供だけの時間を、いつも通り秘密の会話に費やしながら、昂った精神が落ち着くのを待っていた。

「パースリー、さっきは、気遣ってくれてありがとな」

 天井を見上げたまま、セージが小声で語る。パースリーはどのように返そうか迷ったが、牡丹に倣い、若干ぞんざいな言葉を選んだ。

「哀れ、だったからね」

「ふっ」微かな笑声がセージの口から漏れた。「確かに哀れだった。俺はもう少し、出来る男だと思っていたんだけどな……」


 パースリーは、セージと出会った時から彼の自惚(うぬぼ)れに呆れていた。いつか鼻柱(はなばしら)が挫かれないかと密かに期待していた。それは(まさ)しく今なのだが、実際に時が訪れてみると、全くもって嬉しくないし、茶化すことなど出来ようもない。

「まあ、これからよ。牡丹のあれはともかく、私は助けてもらったこと、感謝してるから」

「そうだよ……!」タイムの声には、憧れのような感情が滲んでいるように思えた。「セージは凄いと思うよ。僕だって嬉しかったし、感謝だって、してるから……」


 セージはばつが悪そうにもぞもぞと身を捩らせて、姉弟の方を向いた。

「今日、この夜の出来事だけでも、家出に値する経験が出来た。そう信じられる」

 自責の影が幾分残っているものの、いつもの表情に近付いている。この時初めてパースリーは、セージに対して共感のような、敬愛のような、兎角(とかく)仲間に足るべき信頼を寄せてもいいような気分になった。


 機会に恵まれたついでだ。唐突であると承知の上で、問うてみる。

「ところで、セージはなんで家出なんて考えたの?」

 ほんの一瞬だけ、セージは目を丸くした。それから少し、意味ありげに沈黙した後、神妙な顔つきで語り出す。

「……それは、牡丹の妹による影響……だろうな。前にも言ったが、彼女に何度か助けられた。その都度、家人(けにん)の到着を待つ間に、話をしてくれたんだ。世界が如何(いか)に広く刺激に満ち満ちているかを。外界へ足を踏み出すことがどれだけ俺の学びになるかを。当然、俺は憧れを抑えられなくなった。それでさ」


 パースリーは驚いた。タイムもまた、同じことを思ったようだ。

「僕たちと同じだ。ねぇ、姉さん?」

 牡丹の顔を想像しながら、パースリーは頷く。彼女も姉弟に対し、屋敷の外へ出よう、未知を求めようと繰り返し投げかけていた。

「意図的……なのかな。牡丹と妹は何か目的があって、私たちを外へ連れ出そうとしていた?」


 少々話を飛躍させたが、二人はそれを指摘しなかった。子供たちの家出に牡丹らが付き合ったのではなく、彼女らの想いに子供たちが同調させられた。良く言えば、啓蒙してくれた。こういった見解は、三人で共有出来ているらしい。

「そうかもな」セージの声は真剣そのものだった。「だとしたら彼女たちは、あの熱情の裏に何を隠しているんだろうか。国主の系譜を(かどわ)かすなんて、伊達や酔狂でやれるもんじゃない」


 彼は二人に対する疑念を隠そうともしない。対して、タイムは悲しげに呟いた。

「二人を疑ってるの?」

「疑ってはいるが、悪い意味じゃないよ。俺は牡丹の妹が善い奴だって信じている。君らのことも信じているから、牡丹への信頼も揺らがない。ただね、あからさまに隠されると、どうしても暴きたくなってしまうんだ」

「あからさまに……隠される?」

「なあ、タイム。彼女らの助力は的確過ぎると思わないか? 屋敷で兵にしてやられた時も、さっきトルソーが助けてくれた時も。予め俺たちの(そば)にいて、危機に(ひん)してからようやく動き出したと、そんな気がしてならない」


 パースリーは水脈での出来事を思い出す。あの不可思議な体験をしてしまっては、セージの考えを否定する気になれなかった。

「――パースリーにも、心当たりがあるようだな」

 ハッとしてセージを見る。既に、彼の瞳は好奇の色に染まり切っていた。

「な、何もないわ」


「嘘が下手なのは、君の美点なんだろうな」セージはそう言って上体を起こす。「パースリー、左手を預けてくれないか?」

 パースリーは怪しみながらも布団から出て、セージに相対して手を伸ばした。彼はそれを自らの左手で取り、胸のあたりまで持ち上げる。

「緊張するかもしれないが、出来る限り力を抜いてほしい」

 言われて、絶対緊張するものかと構えてみたが、その甲斐虚しく、鼓動は徐々に速まっていく。興味深げに見つめるタイムの視線に気付くと、頭までもやもやし始めた。


「それでは。祭祀殿(さいしでん)、君の屋敷、中庭、水路、石窟、狼の森……」

 このような子供だましの尋問に屈してたまるか。内心憤慨しつつ、自らの精神にありったけの柵を設けた。しかしながら、それらは呆気なく跳び越えられて、

「成程、分かった。水脈で何かあったな?」

 いとも簡単に秘密へと近づかれてしまう。


 セージは手を離し、勝ち誇ったような顔を見せた。見るからに正答を導いた気でいる。紛れもなく正答であるから、(たち)が悪い。

 パースリーは狼狽(うろた)えまいと努めた。努めながら、受け流すための文言を探した。

 このままでは、牡丹との約束を(たが)えることになる。こんなことで負けた気分になるのも(しゃく)だった。既に劣勢だが、このまま流されてやる気にはなれない。

「妄想に自信を持つのは、頂けないわね」

 極力冷たい声を作り、(さげす)むように述べた。反して、セージは生温かく微笑(ほほえ)む。

「妄想と言われたって、俺は構わないよ。証明したいわけでもないし、君も認めなくていい。牡丹から口止めされているんだろう? なら、沈黙を貫くべきだ。約束は大事だからな」


 反論へ身構えていたパースリーは、あっけらかんと沈黙を肯定されて、困り果てる。

「うう……」

 全てを見透かされた気になり、身悶えた。

「勝手に考えるよ。――水脈。そうだな、君は間抜けにも管を吐き出し、窒息しかけた。そこへ颯爽(さっそう)と助けに現れる牡丹……。ああ、そうか。あの時、俺らを引く力は()まなかった。それで、トルソー。そんなところかな」

 セージは勝手気ままに正解を並べ立てる。

 パースリーは、セージの明晰な頭脳と、間抜けに間抜けと躊躇(ためら)いなく言ってのける不遜さを引っ掻いてやりたくなった。


 タイムに目を向ければ、残念ながら、彼もセージの見解を受け入れたと見える。

「タイムはセージを信じるの……?」

 湿りけをたっぷり含ませて、弟を責めた。タイムは慌ててかぶりを振る。

「ごめん、姉さん……。そうだよね、姉さんが隠し事なんて――」

 言うや否や、セージは悪い顔してタイムへにじり寄り、

「すると、俺を疑うのか? いいだろう。タイムの秘密も暴いてやる」

 後ずさる弟に正面から飛び着いて、胸の中心に耳を当てた。


「え……! 僕はこうなの?」

 タイムの当惑がはっきりと伝わる。セージはそれすらも楽しんでいるみたいだ。

「こっちのが分かりやすいんだ。で、何を暴こうか?」

「まるで考えなしじゃない……」

 パースリーは呆れた。だがその実、セージの嘘を見破る力がどの程度のものなのか、興味を引かれてもいる。


「――タイムは昔、人形を抱かないと寝られなかった」

 じゃれ合いに参加すると、恥ずかしそうにタイムが叫ぶ。

「もう、姉さん……!」

「よくつまみ食いをしては、使用人にこっ(ぴど)く叱られていた。私のことを母さんと間違えて呼ぶ時が少なからずある。後は、うん……それから……」


「ぷっ」セージは小さく噴き出してから、自信に満ちたすまし顔をタイムに向ける。「最初だけ正しくて、後の二つは嘘。ついでに言えば、パースリーはその後もずっと、嘘を()き続けるつもりだった。どうかな?」

「……当たり」

 ぶすっとしながら、タイムが答えた。パースリーは素直にセージを称賛する。

「正解よ。中々やるわね」


「ありがとう。――それで、話は逸れたが」

 セージは居住まいを正し、表情から笑みを追いやった。

「妹といい、トルソーといい、あれだけ心強い味方を牡丹は隠そうとした。今日だって、トルソーを明かすつもりなんてなかったんじゃないかな。俺が出しゃばらなければね……」

 パースリーは、彼の発言に補足した。

「多分だけど、妹もまた、トルソーみたいな仲間に協力を仰いで、難を乗り切ったんじゃないかな。牡丹を私たちの治療に専念させるため、方針を変えた。隊商と話せば、それが明らかになってしまうから、会わせてくれなかった……とかね」


「仮にそうだとして、なんで? 隠すなんてしなければ、姉さんもセージも、怪我せずに済んだかもしれないのに……」

 タイムは牡丹へ、静かな怒りを向けていた。パースリーは彼女がそうした理由を考える。タイムと牡丹の間に禍根を残したくないから真剣に考え、述べた。

「頼られたいから、っていうのはどう? 私たちを安心させないよう、敢えてぎりぎりの人数で困難に対応するの。それで、心から恐怖を覚えた瞬間に、見事救ってみせる。すると、私たちは牡丹に強く惹かれる。吊り橋効果に近い現象ね」


「それって……!」

 自分勝手だよ、と続きそうな語勢。だが、

「面白い見解だな、それは」

 セージがけろりと受け入れたことで、タイムは拍子抜けしたように言葉を切った。

「もしそうであれば、彼女たちは実に身勝手で、いじらしい。タイムもそうは思わないか?」

 パースリーは心の中で拍手を贈る。セージは上手く調子を合わせ、弟の怒りを宥めてくれた。


「セージは、怒ってないの?」

 問うタイムへ、セージは自身の腕に巻かれた包帯を見せつける。

「ああ。こんな傷、勲章みたいなもんだ。戒めでもあるがな。パースリーは、怒ってるのか?」

「まあ、誰にでも読み違いってあるからね。こんなので険悪になるのは、ちょっと嫌かな」


「……そっか」タイムは少しばかり黙り込む。「ところで、いじらしいって、どういう意味?」

 再び口を開いた彼の顔からは、怒りの影が消えていた。セージ真意を説く。

「パースリーの見解が正しいなら、策謀を用いてまで愛を欲している、ということだろう? 彼女たちは、爪を隠したまま事を運べる自信がある。でも、爪を隠すのは、そうまでしないと愛してもらえる自信が無いからだ。これは、いじらしいよ。そういう表現がぴったりだと思う」


「なんか、牡丹の見え方が変わっちゃったな……」

 タイムの言葉に、パースリーも続く。

「だって私たち、家出をしたんだから。新しい角度で世界を見なきゃ、損よ」

 セージが目を輝かせて申し出た。

「時々、こうやって意見を交換しようぜ。牡丹たちの行動には、やはり隠された目的があると思う。俺はそれを明らかにしてみたい」


 三人に芽生えた共通の目標を好意的に受け止めてから、パースリーは言った。

「隠し事を暴かれるのは、嫌じゃないかな?」

 疑問を呈すると、タイムは眉を下げ、セージは首を捻る。パースリーも顎に手を当てて、彼女らの心境を想い浮かべてみたが、今一つ明確な答えは出ない。

「それすらも分からないのだから、それも含めて探っていけばいいんじゃないか?」

 セージの、答えになっていないような、それでいて立派な答えでもあるような意見に同意したところで、夜会はお開きになった。


 話を終え、昂りも癒えて、疲労感に襲われたパースリーは、光を消すべく球ランプに手を伸ばす。しかし、その指先が硝子の曲面に触れようかというところで、タイムが制止した。

「待って。今日は僕が消してもいいかな?」

 パースリーはランプを手に取り、心地良い温さを惜しみながら、弟へ手渡す。彼はそれを左手に乗せ、右人差し指と中指をスキップさせるようにして、軽く二度叩いた。

 瞬間、天幕は闇に染まる。敵対者の眼光など存在し得ない、安らかな夜の色に。


「不思議だね」

「だな」

 男二人の笑顔を眺めてから、パースリーは寝転がり、布団を肩まで持ち上げて瞼を閉じた。

「おやすみなさい」

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