03:翡翠庭園(前編)
屋敷を去って幾日か過ぎた日の夕刻。
一行の他には誰もいない草原の真中、赤く燃えた夕陽の下で、パースリーはねだった。
「ねえ、牡丹。私、翡翠庭園に寄りたいの。通り道だし、いいでしょ?」
牡丹がきょとんとする。セージは渋い顔して、口を挟んだ。
「あそこには封印処理を施してある。勝手に入るのは犯罪だ」
「セージには聞いてない」
「俺は国主の息子だぞ」
彼の言い分こそが正しいと、パースリーも理解している。
現代に遺る機械遺跡の多くは、所有国による封印が為されている。遺跡が見つかると同時に、物理的な、或は法的な障壁を張り、内部に存在する遺失技術の漏出を防ぐのだ。翡翠庭園もまた、サルティナ国の黎明期にドニの手で封印処理を施された由緒正しき遺跡である。そこに無断侵入するというのは、国家へ弓引く行為に他ならない。
かと言って、諦められない。パースリーにとっては宿願なのだ。未見のままではいたくない。翡翠庭園に息づく多種多様な草木は、不思議なことに、咲く花も、実る果実も一様に緑色をしているという。大切にしていた形見の絵葉書も含め、庭園を描いた大方の絵画は、口伝に沿って筆を走らせた想像図でしかない。庭園の真影を観賞出来るのは歴代の国主だけ。父母も感嘆したという幻想的な風景をタイムと眺めたい。そう、長年夢見て生きてきた。
「セージ」牡丹が皮肉めいた笑みを見せる。「それを言うなら、君も含めた皆が犯罪者だよ」
図星を突かれたらしく、セージの表情は悩ましげなものに変わった。
「確かにそうだが……」
「僕はパースリーの好奇心を応援したい。著しくモラルに反する行為でなければ、何でもね。セージとタイムはどうだい? 翡翠庭園を見てみたいと思わないかい?」
「いや、見たくない」
セージは逡巡なくそう答えた。タイムは目元の泣き黒子を指で掻きながら、苦笑する。
「僕は見てみたいけど、その、大丈夫かな……?」
「ドニのことであれば、安心していいよ。見当違いの方向に去ったようだから」
牡丹が言うと、タイムの表情は若干ながら和らいだ。
「そうだ、思い出した」セージはタイムへ真剣な眼差しを向ける。「近年、翡翠庭園一帯の森林で、頻繁に獣害が発生しているらしい。だから、行かない方がいいと思うぜ」
彼はタイムの臆病を刺激して意見を撤回させようとしていた。パースリーはそれを許さない。
「獣害って、何のよ?」
「それは……狼らしい。死者も少なからず出ている」
セージの語勢が弱まった。死を悼んでのことだろう、タイムも悲しげに目を伏せる。
パースリーは奇妙に感じた。狼とは調和を重んじる生き物。だから、変に接しない限りは人へ危害を加えない。基本的に賢く、弁えているはずの彼らを、凶行に走らせた原因とは何か。
「狼か……」牡丹も訝しげだ。「噛まれた人たちの様子は?」
「いや、そこまでは」
機運に乗じるべきだと、パースリーは思った。二人の目標は同一化出来る。何せ自分は好奇心に溢れ、セージは曲りなりに統治者の直系なのだから、こう囁けば良い。
「もしかして、庭園に眠る遺失技術が、狼に影響を与えているのかもね?」
「あり得るのか?」
セージは勿論のこと、タイムも思い詰めた表情を浮かべて、問う。
「そうなの、牡丹?」
タイムがどのように反応するか、それが最大の懸念だった。彼は、セージの言う通り臆病なのかもしれないが、それを打ち消して余りある思いやりを持っているのだ。家人の痛み、時には野生動物の痛みにさえ涙を流せる弟の優しさは、パースリーの誇りでもあった。
「翡翠庭園であれば、そういう可能性もある」
牡丹が答えると、タイムはすぐさま決意した。
「なら、僕は行って、調べたいな。……怖いけど」
セージは彼の背中を軽く叩いて、満面の笑みを浮かべる。
「よく言った。それなら、俺も敢えて罪を被ろうか」
願い通り丸く収まったことで、パースリーは気を良くした。
「決まりね。牡丹、案内をお願い」
「承った。――今日はここに天幕を張り、明朝に出発しよう」
深夜。パースリーは牡丹により起こされた。牡丹はタイムの頬を軽く叩き、セージの鼻を軽く摘まみ、二人を目覚めさせた後に述べる。
「すまない。妹を森へ先行させたんだが、そこで隊商を見つけてしまって」
半開きだった全員の目が、ぱちりと開く。セージが食い気味に問うた。
「俺たちを起こしたということは、応援に向かうべきだと思ったんだな?」
「隊商は大集団でね。妹だけでは、手が足りなくなるかもしれない」
パースリーはタイム、セージと目を合わす。考えていることは皆同じだった。
「危険が予想される。妹だけに任せるという選択も、あるのだけれど」
「それは選ばないわ、牡丹」
牡丹は心強い笑みを見せ、傍らに置かれた銀の箱から鋼鞭――機械仕掛けの黒い鞭を取り出して、左手に持つ。
「僕が君たちを守る。そのためにも、指示には必ず従ってくれ」
皆が口々に肯じると、牡丹は深く頷いた。
「天幕はこのままで。荷袋も置いていく。さあ、行くよ」
パースリーは手に持つ球ランプの光を頼りに、月明かりの乏しい夜の森を早足で歩く。
まばらに茂る広葉樹林。比較的高木が多く、地を覆う草も然程背が高くないため、見通しは悪くない。古くからあるというこの林道は、飛び飛びの木板によって簡易的な整備が為されており、暗闇にさえ慣れてしまえば、気楽に歩くことが出来た。
ランプが両掌を温めてくれるから、肌寒さも、心細さも感じない。ランプを持たないタイムについても、今は心配する必要がなかった。
少し前、木板に蹴躓き転んでしまった弟へ、パースリーが反応するより早く、
「大丈夫か? ほら」
と言って差し伸べられた左手。セージはタイムを立ち上がらせた後もその手を離すことなく、まるで最初から兄弟であったかのように、二人一丸となって夜に挑んでいる。
この短い間に、二人は随分と仲良くなった。タイムはセージの強引さを悪く思っていないようだし、セージはタイムの助言であれば素直に聞く。性格は真反対。だからこそ引き合う何かがあるらしい。
いつも、そして今も、一日遅く生まれたはずのセージが憚ることなく兄らしく振る舞う。その可笑しみが、闇夜の恐ろしさを少なからず和らげてくれている。
「目標地点までもう少しだ。みんな、頑――」
牡丹は言葉を切り、押し黙る。
しばらくして、葉擦れの音と共に、見るからに年若い二匹の狼が現れた。牡丹は、遠巻きにこちら伺う獣たちを見据えながら、皆を安心させるように優しく囁く。
「大丈夫だよ。はぐれ狼だから」
しかし、狼たちはそんな牡丹を嘲笑った。一匹の甲高い遠吠えに呼応して、周囲の狼が続々と集ってきたのだ。やがて、七匹から成る群れに一際体格の良い八匹目が加わると、彼らはじりじり距離を詰め始める。
「三人共、伏せて!」
牡丹が声を張り上げた。それを合図に、狼たちが速度を上げる。
「セージ、タイム、もっと低く! そう、頭を上げないで!」
彼女は前方の狼たちへ向けて、広げた掌を突き出した。パースリーの耳が、ヒュィン、という聞き慣れない音を捉える。次の瞬間、二匹の狼が脚を縺れさせて、その場に倒れた。
――あれが、例の音響攻撃。
続いて左手を振るい、鞭を伸ばす。
鞭の尾は風音立てて狼に迫り、バチ、と乾いた破裂音を鳴らしながら一匹を、返す刀でもう一匹を打ち据えた。
――あれは、鋼鞭が放つ雷の音。
残るは四匹。怯んだ獣たちが、今一度距離を取った。
「さあ、立って! 走るんだ!」
号令を受けて、パースリーはタイムの手を取り、セージと並んで駆け出す。
また、獣声がこだました。
「おかしい。こんなことが……」
牡丹の、いつになく困惑した声に不安を掻き立てられたパースリーは、背後へ問うた。
「一体、どうしたの?」
「多過ぎる。こちらもそうだが、妹の方にもかなりの数が集まってきている。異常さ。血族も群れも関係なく、森に棲む全ての狼が一つの意思に統率されているかのようだ」
パースリーの脇を掠めて、牡丹の右掌が飛んでいった。それは、前方に突如現れた狼を撫で、気絶させる。同時に左方から迫ったもう一匹は、不可視の音によって倒れた。
「まだ来る。前方から三匹。止まって!」
パースリーは足を止めて振り返る。牡丹は足裏から気を吐いて跳ね、子供たちの頭上を飛び越えつつ二本の雷釘を投擲し、鞭の一薙ぎも加えて目の前に位置取る狼三匹を仕留めた。更には、着地してすぐに背後へ向き直り、手を翳して、追い立てる狼たちへ音を放つ。
「君らだけで先へ。すぐに追うから」
「分かった!」
パースリーは球ランプを胸の前に掲げて、駆け出した。男二人も後に続く。
三人、一言も喋らず、懸命に呼吸しながらひたすらに走った。
走っても、走っても代り映えしない枝葉の道。果て無い闇色の景色が、パースリーの思考力を蝕んでいく。
心臓ははち切れんばかりに強く、早鐘のように急いて脈打つ。息も絶え絶え。もう限界だと本能が叫んでいるのに、本能が、止まってはならないと警告を出し続ける。
光の先で、低木の枝が僅かに揺れた。現れる獣の影。連なる瞳。彼らは一時パースリーと見合った後、一斉に動き出す。
〈目を瞑れ、パースリー! 皆にも伝えて!〉
鬼気迫る牡丹の声が脳に轟いた。その烈しさに釣られて、パースリーも吼える。
「目を瞑って! みんな!」
そうした途端、掌中の球ランプが瞬間的に、急激に、とてつもない高熱を放った。
「熱っ!」
パースリーの手からランプが零れて、落ちる。硝子が割れる音。それと共に、固く閉じた瞼の裏側が真っ白に染まった。弾ける熱波が、肌を、喉を灼く。
「目潰しか!」
セージが驚き叫んだ。いつもの余裕めいた態度も、今は完全に鳴りを潜めている。
「姉さん、大丈夫?」
「ええ。タイムは?」
「大丈夫。瞑るの、間に合ったよ」
少しして、熱が引く。パースリーが目を開くと、そこいらで惑う狼たちの姿が目に入った。
「そこで止まって」
短な命令に続き、幹と幹の間から牡丹が現れる。
「この先にも待ち伏せがいる。まずは後方の狼を片付けよう。皆、固まって」
パースリーは、タイム、セージと背中を合わせ、互いに手を繋いで一本の柱になった。
「そのまま、動かないでね」
視力を奪われ、それでも覚束ない足取りで近づいてくる狼たち。牡丹は彼らに触れ、眠らせてから、来た道をじっと見つめる。間もなく獣の唸りが聞こえ、十を超す集団がやって来た。
牡丹は再び戦いに身を投じる。彼女の動きは、武芸というものに疎いパースリーでさえ老練さを認めてしまうくらいに、無駄も、迷いも無く見えた。
彼女は振りの大きな鞭を初めから捨て、掌も飛ばさず、隙無く丁寧に狼たちを屠ってゆく。正面から来るものは蹴りだけで往なし、側面へ回ろうとするものには素早く雷釘を投げ付け、二方向から迫るものたちがいれば、両掌から音を放ち、纏めて始末する。
彼女は前しか見ていないのに、扇状に展開しようとする群体の動きを精確に把握し、複雑に波状攻撃を加える狼の全てを手玉に取っていた。
「おい、あれ」
セージは、もううんざりだとでも言いたげな顔をして、牡丹の向こうに現れた狼を顎で示す。
「あっちにも……」
牡丹とは反対方向を見つめながら、タイムが震える声を漏らした。
眼光が列を成す。どちらの側も、ずらりと。数にもの言わせ、挟み撃ちにしようというのだ。
「大丈夫、上手くやってみせる……!」
自らを信じ込ませているようにも聞こえる牡丹の声音が、パースリーを甚だ不安にさせた。
乱れるタイムの呼吸。弟の震えが掌を伝う。ぎらつくセージの眼。彼の掌に嫌な力がこもる。
前後の狼たちが、足並み揃えて駆け出した。飛来する二本の矢。牡丹は両掌を水平に構え、音を照射して両方の矢じりを一息に潰す。潰すが、狼たちは怯まない。倒れた同胞を情け容赦なく踏み越え、尚も苛烈に大地を蹴って、迫り来る。
「こっちは任せろ!」
固く結んでいたパースリーの掌が、振り解かれた。セージが動いてしまった。彼は自らの背に姉弟を隠し、雷釘を手に片側の狼を睨みつける。
「馬鹿、戻れ!」
牡丹は罵声を吐きながらも雷釘を飛ばして、彼を援護した。セージは彼女に失望されようとも意に介さず、むしろ自分を誇るように堂々と、狼へ雷釘を突き立て、更には蹴り飛ばして、二匹を捌いてみせた。だが、残った三匹が大きく横に広がり、三方から襲い掛かると、戸惑った様子を見せる。
牡丹の掌が伸びてきて、そのうち一匹を討った。残り二匹。セージは腕を払って右から飛びかかる狼を仕留めた後、もう一匹が振るう爪を避けようとしたが、
「くっ!」
脛を裂かれてもんどりうつ。パースリーもじっとしていられず、雷釘を構えて狼を突こうとしたが、ひらり躱されて逆襲に会い、二の腕を咬まれてしまった。
「ああ!」
耐え難い痛みが悲鳴に変わる。牡丹も叫ぶ。
「パースリー!」
めり込む牙。尻もちついたパースリーは、狼を振り解こうと腕を動かす。
頭が熱い。狼の咬む力は途轍もないと本で読んだ。このまま食いちぎられてしまうのかと怖くなったが、そうなる前に狼は音を浴び、だらんと口を広げて転がった。
四方から吠え声。新手の狼が暗がりから飛び出す。足腰立たないパースリーの上に、セージが覆い被さった。脈動する胸板。無力を噛み締める白い歯。私はいいからタイムを。パースリーは彼にそう伝えたかった。でも、舌がひりついて動かない。
「……助けが来た」
牡丹が、思いがけない言葉を囁いた。
同時に、横合いから迫った一匹の狼が、突風に煽られたかのように吹き飛んだ。その様はあまりに突飛で、力学的な因果関係が掴めない。精霊の御業かと、パースリーは思った。
同じく唖然とするセージへ促し、互いに支え合って立ち上がる。
牡丹は、今は自分の側だけに専念して戦っていた。反対側の狼たちは、牡丹に背中を任せられるだけの能力を持った、見えない何者かによって次々と倒されていく。
「……大丈夫だ。そう、もう安心さ」
励ます牡丹の背中には、色濃い無念の影が浮かんでいる。
「だから、セージ。今度こそ動かないでいてくれ。絶対に……!」
陰湿な怒気を孕む声。八つ当たりに聞こえて、パースリーは気分が悪くなった。
「迷惑を掛けて、すまない……」
「分かればいい」
胸がむかむかする。セージを見やれば、悔しみに塗れて俯く姿が気の毒でならない。
確かに、指示を守らなかったセージに落ち度はある。牡丹には勝利の道筋が見えていて、彼の行動は結局、それを狂わせただけだったのかもしれない。けれども勇気は勇気であり、献身の精神は善く認められなければならないはずだ。詰るだけで、済ましてはならないはずだ。
この思いを訴えるべき相手は、未だ戦いの最中。だからパースリーは、泣きそうな顔して牡丹を眺めるセージの頬を指で叩いて、自分に注意を向け、
〈あ、り、が、と、う〉
微笑みながら唇を動かし、その形でもって感謝を告げた。
セージは、得も言われぬやるせなさを秘めた笑顔で、慰めに応える。
普段であれば、真っ先にありがとうと伝えそうなタイムは、今夜に限っては彼らしくなく、ただただ気落ちした表情で立ち尽くしていた。パースリーは、自分とセージそれぞれに深く刻まれた傷を見つめて思う。この痛ましさが、弟から言葉を奪ってしまったのだろう、と。
それからしばらく経ち、狼は掃討された。
パースリーは、胸に燻る怒りの火を気取られないよう、猫なで声で牡丹を労ったが、
「話は後だ。トルソー」
冷たくあしらわれる。牡丹はこの場にそぐわない単語を口にした後で、セージへ近寄り、袖をめくって傷口を凝視した。
「トルソー……?」
パースリーが呟くと同時に、牡丹の隣側がぐにゃりと歪み、何も無かった地面に突然、石窟に置いてきたはずの黒い荷物箱が現れる。誰もが驚く中、牡丹は説明することもせず、淡々と箱を開いて、清水が入ったボトルを取り出した。
「俺の傷なんて後でいい。パースリーを看たら、すぐに出発しよう」
セージの要望をまるで無視して、彼女は傷口を濯ぐ。
「いや、これまでだ。二人共、ここで処置を終わらせなければ」
「何故だ? 俺たちでこれだ。向こうはもっと酷いことになってるんじゃないのか?」
牡丹の眉間に皺が寄った。彼女は厳しくセージを睨みつけ、述べる。
「ならなかったんだよ、セージ。妹も直に戦い終える。隊商の被害も軽微で済むだろう」
いきなりの勝利宣言に、パースリーは嬉しくなった。
「何をへらへら笑っているのさ。君も腕を出して」
パースリーの腕に空いた四つの穴へ、順々に水がかけられる。すると、忘れようとしていた痛み、忘れかけていた狼への恐怖が鮮やかに蘇り、背筋を震わせた。
牡丹は持てる水を惜しみなく使って二人の傷を洗浄した後、消毒液を塗り、
「少し痛むよ。我慢してね」
荷物箱から取り出した小さな円筒をパースリーの肩に当てた。
「冷たっ」初めに感じたのは、氷のような冷たさ。続いて、鋭い痛み。「つっ!」
隣でセージも苦悶の声を漏らす。どうやら、円筒の先端に針が仕込まれていたらしい。
「これ、注射? 打つなら打つって言ってよね」
パースリーは努めて軽く文句を言い、牡丹の返しを誘ってみた。だが、言葉は無い。
「……なあ、牡丹」呼び掛けるセージの声は、明らかに消沈していた。「俺たちは天幕に籠ったまま、全てを君の妹に任せるべきだったのだろうか。本当のところどう思っているか、聞かせてほしい」
彼の膝小僧をぽんぽんと叩きながら、牡丹が応える。
「今夜の経験を何にも活かせないなら、じっとしているべきだったのだろうね」
「……辛辣だな」
「君の好みに合わせたまでさ」
しばらく見つめ合っている間に、二人の表情は徐々に解れていく。セージは思うよりも変わり者なのだと、パースリーは理解した。牡丹は彼のツボを熟知しており、ややもすると先程の陰険な態度も、セージには違ったふうに見えていたのかもしれない。
「あの……」タイムが申し訳なさそうに割り込んだ。「助けてくれた人にお礼を言いたいんだけど、今どこにいるのかな?」
それを耳にした牡丹は、悪戯な笑みを浮かべる。
「ここにいるよ。彼女は変わった姿をしているが、驚かないであげてほしいな」
声に合わせて、先程荷物箱が現れた時のように景色の一部が歪み、幻想的な藍色の微光がちらつき始めた。そのすぐ後、木立の間に異形の影が現れる。
大きな立ち姿。自然に形作られたものではないだろう黒く無機質な表皮。鎖骨の間に埋まる藍色の宝玉が、妖しい光を放っている。
彼女は、童話に登場する悪魔のような長い節くれの手と、一対の太い脚にそれぞれ三本の細い脚が結合した、蜘蛛に見える八本脚を持つ。下腹部から頸部にかけての形状は人間的であり、裸婦像に似て艶めかしい。しかし、その先に頭部は存在していなかった。
首無しであることだけがトルソーという名前相応で、他は余りに乖離している。そんな自律機械が、悪魔の両手を腿の前で交差させ、可愛くぺこりとお辞儀をした。
そして、右手をゆっくりと差し出し、子供たちに握手を求める。
パースリーは率先して彼女の手を握った。未知の素材がどのような質感をしているか、気になって仕方がなかったからだ。挨拶した後の反応も、誰より先に知りたかった。
「初めまして。私はパースリー・ベネット。あなたは命の恩人だわ。ありがとうね」
挨拶を済ますと、黒い腕が迫りきて、パースリーの頭をわしゃわしゃと撫で回した。思った以上に愛嬌がある性格だ。掌も予想に反してすべすべしており、かつ暖かい。未知が想像を凌駕するというのは、何にも代えがたく喜ばしい瞬間である。
「彼女は意思を持つが、喋ることが出来ない。無言の非礼を許してほしいってさ」
牡丹が彼女の想いを代弁した。パースリーは、一体何の理由があってそう作られているのか、いつか尋ねようと心に決める。
タイムは声を上ずらせながら、セージはしおらしく自己紹介を済ませた。
逞しくも嫋やかな自律機械、トルソー。彼女はタイムを片腕だけで抱え上げ、剽軽な仕草で自らの力を自慢する。その姿を眺めて、パースリーは閃いた。水路にて絶息の危機を救ってくれたのは、彼女だったのではないか、と。
新たな発見は鮮やかな喜びをもたらしたが、これについては口外を止められているので、態度に出せない。パースリーは真顔を取り繕い、内心だけで度重なる助力に感謝を捧げた。
本懐を果たせなかった一行は、結局その場で天幕を張り、夜を明かすことになった。
パースリーは、折角縁を結んだ隊商に会えないものかと牡丹へ尋ねたが、願いは否定された。曰く、隊商は旅の工程に遅れが生じていたから、無理に夜の森を縦断しようと考えた。故に、狼の襲撃があったとて、足を止めるわけにはいかないのだという。
それなら、こちらから会いに行こうとタイムが提案し、セージも同調した。しかしながら、怪我人は安静にしていなければならない、と却下されてしまったのだ。
今は子供三人、新たに授けられた球ランプが放つ、微かなオレンジの光に包まれながら、天幕の中に並んで横たわっている。
牡丹はいない。夜が更けると、彼女は決まって天幕を去り、番をするからだ。三人は、いつも通りにもたらされた子供だけの時間を、いつも通り秘密の会話に費やしながら、昂った精神が落ち着くのを待っていた。
「パースリー、さっきは、気遣ってくれてありがとな」
天井を見上げたまま、セージが小声で語る。パースリーはどのように返そうか迷ったが、牡丹に倣い、若干ぞんざいな言葉を選んだ。
「哀れ、だったからね」
「ふっ」微かな笑声がセージの口から漏れた。「確かに哀れだった。俺はもう少し、出来る男だと思っていたんだけどな……」
パースリーは、セージと出会った時から彼の自惚れに呆れていた。いつか鼻柱が挫かれないかと密かに期待していた。それは正しく今なのだが、実際に時が訪れてみると、全くもって嬉しくないし、茶化すことなど出来ようもない。
「まあ、これからよ。牡丹のあれはともかく、私は助けてもらったこと、感謝してるから」
「そうだよ……!」タイムの声には、憧れのような感情が滲んでいるように思えた。「セージは凄いと思うよ。僕だって嬉しかったし、感謝だって、してるから……」
セージはばつが悪そうにもぞもぞと身を捩らせて、姉弟の方を向いた。
「今日、この夜の出来事だけでも、家出に値する経験が出来た。そう信じられる」
自責の影が幾分残っているものの、いつもの表情に近付いている。この時初めてパースリーは、セージに対して共感のような、敬愛のような、兎角仲間に足るべき信頼を寄せてもいいような気分になった。
機会に恵まれたついでだ。唐突であると承知の上で、問うてみる。
「ところで、セージはなんで家出なんて考えたの?」
ほんの一瞬だけ、セージは目を丸くした。それから少し、意味ありげに沈黙した後、神妙な顔つきで語り出す。
「……それは、牡丹の妹による影響……だろうな。前にも言ったが、彼女に何度か助けられた。その都度、家人の到着を待つ間に、話をしてくれたんだ。世界が如何に広く刺激に満ち満ちているかを。外界へ足を踏み出すことがどれだけ俺の学びになるかを。当然、俺は憧れを抑えられなくなった。それでさ」
パースリーは驚いた。タイムもまた、同じことを思ったようだ。
「僕たちと同じだ。ねぇ、姉さん?」
牡丹の顔を想像しながら、パースリーは頷く。彼女も姉弟に対し、屋敷の外へ出よう、未知を求めようと繰り返し投げかけていた。
「意図的……なのかな。牡丹と妹は何か目的があって、私たちを外へ連れ出そうとしていた?」
少々話を飛躍させたが、二人はそれを指摘しなかった。子供たちの家出に牡丹らが付き合ったのではなく、彼女らの想いに子供たちが同調させられた。良く言えば、啓蒙してくれた。こういった見解は、三人で共有出来ているらしい。
「そうかもな」セージの声は真剣そのものだった。「だとしたら彼女たちは、あの熱情の裏に何を隠しているんだろうか。国主の系譜を拐かすなんて、伊達や酔狂でやれるもんじゃない」
彼は二人に対する疑念を隠そうともしない。対して、タイムは悲しげに呟いた。
「二人を疑ってるの?」
「疑ってはいるが、悪い意味じゃないよ。俺は牡丹の妹が善い奴だって信じている。君らのことも信じているから、牡丹への信頼も揺らがない。ただね、あからさまに隠されると、どうしても暴きたくなってしまうんだ」
「あからさまに……隠される?」
「なあ、タイム。彼女らの助力は的確過ぎると思わないか? 屋敷で兵にしてやられた時も、さっきトルソーが助けてくれた時も。予め俺たちの傍にいて、危機に瀕してからようやく動き出したと、そんな気がしてならない」
パースリーは水脈での出来事を思い出す。あの不可思議な体験をしてしまっては、セージの考えを否定する気になれなかった。
「――パースリーにも、心当たりがあるようだな」
ハッとしてセージを見る。既に、彼の瞳は好奇の色に染まり切っていた。
「な、何もないわ」
「嘘が下手なのは、君の美点なんだろうな」セージはそう言って上体を起こす。「パースリー、左手を預けてくれないか?」
パースリーは怪しみながらも布団から出て、セージに相対して手を伸ばした。彼はそれを自らの左手で取り、胸のあたりまで持ち上げる。
「緊張するかもしれないが、出来る限り力を抜いてほしい」
言われて、絶対緊張するものかと構えてみたが、その甲斐虚しく、鼓動は徐々に速まっていく。興味深げに見つめるタイムの視線に気付くと、頭までもやもやし始めた。
「それでは。祭祀殿、君の屋敷、中庭、水路、石窟、狼の森……」
このような子供だましの尋問に屈してたまるか。内心憤慨しつつ、自らの精神にありったけの柵を設けた。しかしながら、それらは呆気なく跳び越えられて、
「成程、分かった。水脈で何かあったな?」
いとも簡単に秘密へと近づかれてしまう。
セージは手を離し、勝ち誇ったような顔を見せた。見るからに正答を導いた気でいる。紛れもなく正答であるから、質が悪い。
パースリーは狼狽えまいと努めた。努めながら、受け流すための文言を探した。
このままでは、牡丹との約束を違えることになる。こんなことで負けた気分になるのも癪だった。既に劣勢だが、このまま流されてやる気にはなれない。
「妄想に自信を持つのは、頂けないわね」
極力冷たい声を作り、蔑むように述べた。反して、セージは生温かく微笑む。
「妄想と言われたって、俺は構わないよ。証明したいわけでもないし、君も認めなくていい。牡丹から口止めされているんだろう? なら、沈黙を貫くべきだ。約束は大事だからな」
反論へ身構えていたパースリーは、あっけらかんと沈黙を肯定されて、困り果てる。
「うう……」
全てを見透かされた気になり、身悶えた。
「勝手に考えるよ。――水脈。そうだな、君は間抜けにも管を吐き出し、窒息しかけた。そこへ颯爽と助けに現れる牡丹……。ああ、そうか。あの時、俺らを引く力は止まなかった。それで、トルソー。そんなところかな」
セージは勝手気ままに正解を並べ立てる。
パースリーは、セージの明晰な頭脳と、間抜けに間抜けと躊躇いなく言ってのける不遜さを引っ掻いてやりたくなった。
タイムに目を向ければ、残念ながら、彼もセージの見解を受け入れたと見える。
「タイムはセージを信じるの……?」
湿りけをたっぷり含ませて、弟を責めた。タイムは慌ててかぶりを振る。
「ごめん、姉さん……。そうだよね、姉さんが隠し事なんて――」
言うや否や、セージは悪い顔してタイムへにじり寄り、
「すると、俺を疑うのか? いいだろう。タイムの秘密も暴いてやる」
後ずさる弟に正面から飛び着いて、胸の中心に耳を当てた。
「え……! 僕はこうなの?」
タイムの当惑がはっきりと伝わる。セージはそれすらも楽しんでいるみたいだ。
「こっちのが分かりやすいんだ。で、何を暴こうか?」
「まるで考えなしじゃない……」
パースリーは呆れた。だがその実、セージの嘘を見破る力がどの程度のものなのか、興味を引かれてもいる。
「――タイムは昔、人形を抱かないと寝られなかった」
じゃれ合いに参加すると、恥ずかしそうにタイムが叫ぶ。
「もう、姉さん……!」
「よくつまみ食いをしては、使用人にこっ酷く叱られていた。私のことを母さんと間違えて呼ぶ時が少なからずある。後は、うん……それから……」
「ぷっ」セージは小さく噴き出してから、自信に満ちたすまし顔をタイムに向ける。「最初だけ正しくて、後の二つは嘘。ついでに言えば、パースリーはその後もずっと、嘘を吐き続けるつもりだった。どうかな?」
「……当たり」
ぶすっとしながら、タイムが答えた。パースリーは素直にセージを称賛する。
「正解よ。中々やるわね」
「ありがとう。――それで、話は逸れたが」
セージは居住まいを正し、表情から笑みを追いやった。
「妹といい、トルソーといい、あれだけ心強い味方を牡丹は隠そうとした。今日だって、トルソーを明かすつもりなんてなかったんじゃないかな。俺が出しゃばらなければね……」
パースリーは、彼の発言に補足した。
「多分だけど、妹もまた、トルソーみたいな仲間に協力を仰いで、難を乗り切ったんじゃないかな。牡丹を私たちの治療に専念させるため、方針を変えた。隊商と話せば、それが明らかになってしまうから、会わせてくれなかった……とかね」
「仮にそうだとして、なんで? 隠すなんてしなければ、姉さんもセージも、怪我せずに済んだかもしれないのに……」
タイムは牡丹へ、静かな怒りを向けていた。パースリーは彼女がそうした理由を考える。タイムと牡丹の間に禍根を残したくないから真剣に考え、述べた。
「頼られたいから、っていうのはどう? 私たちを安心させないよう、敢えてぎりぎりの人数で困難に対応するの。それで、心から恐怖を覚えた瞬間に、見事救ってみせる。すると、私たちは牡丹に強く惹かれる。吊り橋効果に近い現象ね」
「それって……!」
自分勝手だよ、と続きそうな語勢。だが、
「面白い見解だな、それは」
セージがけろりと受け入れたことで、タイムは拍子抜けしたように言葉を切った。
「もしそうであれば、彼女たちは実に身勝手で、いじらしい。タイムもそうは思わないか?」
パースリーは心の中で拍手を贈る。セージは上手く調子を合わせ、弟の怒りを宥めてくれた。
「セージは、怒ってないの?」
問うタイムへ、セージは自身の腕に巻かれた包帯を見せつける。
「ああ。こんな傷、勲章みたいなもんだ。戒めでもあるがな。パースリーは、怒ってるのか?」
「まあ、誰にでも読み違いってあるからね。こんなので険悪になるのは、ちょっと嫌かな」
「……そっか」タイムは少しばかり黙り込む。「ところで、いじらしいって、どういう意味?」
再び口を開いた彼の顔からは、怒りの影が消えていた。セージ真意を説く。
「パースリーの見解が正しいなら、策謀を用いてまで愛を欲している、ということだろう? 彼女たちは、爪を隠したまま事を運べる自信がある。でも、爪を隠すのは、そうまでしないと愛してもらえる自信が無いからだ。これは、いじらしいよ。そういう表現がぴったりだと思う」
「なんか、牡丹の見え方が変わっちゃったな……」
タイムの言葉に、パースリーも続く。
「だって私たち、家出をしたんだから。新しい角度で世界を見なきゃ、損よ」
セージが目を輝かせて申し出た。
「時々、こうやって意見を交換しようぜ。牡丹たちの行動には、やはり隠された目的があると思う。俺はそれを明らかにしてみたい」
三人に芽生えた共通の目標を好意的に受け止めてから、パースリーは言った。
「隠し事を暴かれるのは、嫌じゃないかな?」
疑問を呈すると、タイムは眉を下げ、セージは首を捻る。パースリーも顎に手を当てて、彼女らの心境を想い浮かべてみたが、今一つ明確な答えは出ない。
「それすらも分からないのだから、それも含めて探っていけばいいんじゃないか?」
セージの、答えになっていないような、それでいて立派な答えでもあるような意見に同意したところで、夜会はお開きになった。
話を終え、昂りも癒えて、疲労感に襲われたパースリーは、光を消すべく球ランプに手を伸ばす。しかし、その指先が硝子の曲面に触れようかというところで、タイムが制止した。
「待って。今日は僕が消してもいいかな?」
パースリーはランプを手に取り、心地良い温さを惜しみながら、弟へ手渡す。彼はそれを左手に乗せ、右人差し指と中指をスキップさせるようにして、軽く二度叩いた。
瞬間、天幕は闇に染まる。敵対者の眼光など存在し得ない、安らかな夜の色に。
「不思議だね」
「だな」
男二人の笑顔を眺めてから、パースリーは寝転がり、布団を肩まで持ち上げて瞼を閉じた。
「おやすみなさい」