02:逃亡劇の幕開け
「お嬢様、就寝のお時間ですよ!」
家人の声が図書室に響いた。
パースリーは本棚の前に赴き、もう何度読んだか分からない本たちを一冊ずつ几帳面に定位置へと戻す。その後で、栞として使っていた絵葉書をもう一度机の上に並べ、全て回収出来ているかを確かめてから、それらを纏めて持ち、蝋燭に息を吹きかけた。
図書室を出て立ちんぼの見張りを労い、軽やかに階段を登る。家出を目前に控えて弾む心。三階へ上がる途中、ふと思いついて立ち止まり、踊り場の窓から空を眺めた。
――もう、見納めだもんね。
満天の星空はしかし、心ときめかせるほどの魅力を持ち得ない。それは、硝子窓を覆う樫の柵が、自分の在るべき場所と星々の輝くべき夜空とを明確に隔てているからだ。
明日からは、夜すらも私のもの。草原の上に寝転がって、縦縞の無い星空で視界を埋め尽くし、タイムと牡丹、それから虫たちの声だけを耳にして一夜を過ごせたなら、どんなに開放的な気分に浸れるだろうか。
ふと、パースリーは気付く。図書室の帰りに気落ちしないでいられたのは、今日が初めてだったかも分からない、と。
自室の扉を開くと、タイムの物憂げな顔が目に映った。
「あ……。おかえり、姉さん……」
「やあ、パースリー」
牡丹は珍しく寝た振りをしておらず、弟と隣り合ってベッドの縁に座っている。二人の表情からして、家出を前に不安がるタイムを牡丹が励ましていた、という構図なのだろう。
「いらっしゃい、タイム。打ち合わせに来たの?」
「えっと、それは……」
秘密の話だったのかもしれない。パースリーは何も考えず質問してしまったことに若干の罪悪感を覚えながら、絵葉書を勉強机の引き出しにしまい、椅子に腰掛ける。
「密か事さ。詳しく聞きたい?」
牡丹が言うと、タイムは焦った様子で彼女を制した。
「だ、駄目だよ、牡丹……!」
こういう時は冗談であっても、教えてよ、などと言ってはいけない。牡丹は嘘が吐けない性分だから、頼めば人の隠し事であっても白状してしまいかねないのだ。パースリーは昔、そうやってタイムを大泣きさせた。
何故、そこまで融通が利かないのか。それは、牡丹が自律機械であるからだ。肉体精神共に人間と造りが異なる彼女らは、独自の思考と制約、能力を持つ。人間と同じように付き合えるのだが、こと秘密の取り扱いに関しては、十分な注意を要する。
「ところでパースリー、こんなに遅くまで、君は何を読んでいたのかな?」
牡丹は周囲に生物がいるかどうか、それがどこにいるのかを精確に感知出来る。対象が遠過ぎなければ、壁を隔てていても関係ない。掌を切り離して飛ばせるうえ、目玉も外せる。俊足にして怪力、博覧強記の頭脳明晰。どれもこれも、彼女が機械であるからこその性質だ。
「機械についての本よ」
答えると、牡丹の顔から軽薄な笑みが消えた。代わって、真なる笑顔が花開く。
「僕らへの興味が再燃したのかな? 夜遅くまで読み込むだなんて、いつぶりのことだろう!」
くすぐったいことこの上ない。こんな調子で感激するから、幼少のパースリーはげんなりし、牡丹の前では読書の内容を誤魔化しがちになってしまった。
「絵葉書を回収するついでだからね。つ、い、で」
父母からもらった絵葉書と共に方々を旅し、そこに描かれた絵と現実の光景とを見比べる。そしていつかは、真っ新な頭に父母が見たこともない光景を焼き付けるのだ。未知の土、未知の風、未知の光に祝福されて一歩を踏み出し、振り返って、両親の霊魂にさようならを告げる。それは、とても甘美な瞬間なのだろうと思う。
「ついででもいいさ。それだって光栄なことだ」
牡丹は優しくそう述べる。
「機械のどの本?」タイムが興味深げに問うた。「機械遺跡について? それとも巻き戻し?」
「巻き戻しよ。それから煤について」
牡丹の朱い瞳が明るむ。
「正しく、僕ら機械の始点と終点についてだね。何か新しい発見はあったかい?」
「特に何も。細々と思い出しただけ」
「話してごらんよ」
「いいけど」
巻き戻し――今から千年前に発生した大災害。前史文明を終結させ、現代の生活様式に移行する原因となった歴史的転換期のことを指す。
数多の機械を従えて準全能の力を有していた千年前の人類は、巻き戻しによって華々しい生活を手放す羽目になった。それは人災であり、計画的に引き起こされたと推定されているが、実行した者の正体は終ぞ掴めなかったようだ。過渡期には本当に多くの命が喪われたという。
煤――巻き戻しをもたらしたもの。文明を喰らい尽くしたもののことを指す。
それ自身も黒い虫のような極小の機械であり、単体では視認すらも困難であるという。彼らは群れて機械の中枢に入り込み、機能を停止させた後で、内部からゆっくりと食していくのだ。牡丹のような食い残しも存在しており、その数は数百か数千か。万には満たないらしい。
「補足をするとだね」
大仰に手振りを加えて、牡丹が説く。
「煤が喰った、ではなく、煤が分解した、だよ。それに、分解の対象は機械じゃない。一つは精密な機構――小さな歯車や螺子、より難解な部品などの複合体。一つは人工的に精製された高度材料群――混ざり物の少ない金属、脂や油を加工したもの、凄い炭、凄い石、凄い砂とかだ。だから機械を分解したと言うより、機械の構成要素を分解した、と言う方が正しいね」
知識にけちをつけられたように思え、パースリーは一時嫌な気分になった。しかし、その無神経で神経質な言い分に、彼女と出会ったばかりの懐かしさを覚えると、一転、胸は暖まる。
「牡丹たちは、煤の嫌がる音を発しているから、分解されずに済んだんだよね?」
昔聞いた牡丹の解説を、タイムが諳んじた。牡丹は顔を綻ばせ、弾んだ声で答える。
「合っている。僕がそれを解説したのは……そうだ、四年も前のことだったね。よく覚えているじゃないか。嬉しいな」
緩み切った顔でタイムを見上げ、脚をばたつかせる。彼女は時折、人間以上に人間らしく見えると、パースリーは思う。
「巻き戻しを経てようやく、僕らは独立した個となれた」
牡丹から笑みが引いた。彼女はまるで教師であるかのような真剣さで話を続ける。
「今も人間に隷属する機械は多い。けれど彼らも、沢山の自己決定を繰り返して自らの境遇を定めている。僕らが自律機械と呼ばれる所以さ。やがて、機械の心臓とも呼べる器官が停止した時、僕らは音を失い、跡形もなく分解される。煤はまだ、この世界を漂っているんだ……」
自律機械の始点と終点。千年を生きる牡丹にも、始まりと終わりがある。十四のパースリーには壮大過ぎて、掴み難い感覚だった。
「ま、僕が思うに、君たち姉弟はまだ、始点すらも迎えていないがね」
その一言に、パースリーは息を呑む。彼女は冷笑しながら図星を突いた。
「この屋敷は第二の胎だ。自律のみによって開かれるべき揺籠だ。君たちは自分自身で考え、行動しているつもりなのかもしれないが、僕から言わせれば全然さ。与えられた生と与えられる死、その中で限られた未来を選ばされて、何が自律だろう」
その通り。だから明朝、屋敷を発つ。そう決心したし、そうするために準備をしてきた。自分とタイム、牡丹。三人が力を合わせれば、必ずや生きてゆける。
「そうね。じゃあ、そろそろ眠りましょうか。少しでも身体を休めないと」
順当な言葉を返したつもりだった。だが、再び返る声は謎めいて重たく、困惑を誘う。
「眠れるはずもない。今日この日のために、僕は君たちに訴え続けてきたんだ。ふっくら育った赤い赤い林檎を前にして、行儀よく待ち続けられる人間などこの世にいるのだろうか?」
「牡丹、何を言っているの?」
「来客だよ」
牡丹はおもむろに立ち上がり、クロゼットの中から自身の靴を取り出して履いた。その後で出窓の前に立ち、躊躇なくカーテンを開け放つ。
視界の先には、無限数の星空。そこに皮膜を張る硝子窓が、格子を引く樫の柵が、牡丹の手によって一つ一つ外されていく。やがて界を隔てるものは無くなり、絵葉書と地続きの空がパースリーの眼前に広がった。
「わあ……!」
タイムが感銘を漏らす。パースリーは、腹の底から来る情動を喉の辺りで押し留めた。
――叫んでは、駄目。
檻でなくなったこの部屋を、家人に見られてはならないのだから。
「寒いだろうが、少しの間我慢してくれ」
牡丹はそう言って自身の掌を切り離し、窓の外へ放り投げた。そうしてから窓下の壁に背中をべったり張り付けて、自らを固定する。
カツン、カツンと物音が聞こえた。パースリーは想像する。あれは壁を蹴り上がる音。鋼糸を伝って誰かがこの部屋にやって来る。それは誰か。確信に似た予感があった。
やがて、窓の下から褐色の手が伸び、力強く木枠を掴む。続いて、影が頭を覗かせる。
光に照らされて現れた顔は、思った通り、セージのものだった。
「やあ、セージ。遠いところからようこそ」
「お招きいただきありがとう、牡丹」
セージが入室を果たすと、牡丹は窓の復元作業に取り掛かった。
「大分待たせてしまったね。寒かったろう? 肌掛けにくるまって体を温めるといい」
牡丹が顎を使ってベッドを示す。セージは感謝を述べて腰掛け、躊躇わず肌掛けを羽織った。
今朝まで自分に被さっていた布が、今、セージの体を包んでいる。遅れてその事実に気づいたパースリーは猛烈に恥ずかしくなり、適当に思いついた問いをそのまま口にした。
「あ……あなたね、従者はどうしたの?」
しょうもない質問に、毅然とした答えが返る。
「俺一人だ」
「一人で? そんな、危ないよ……」
タイムの心配を意にも留めず、セージは胸を張って声も張った。
「平気さ。俺には精霊が憑いているからな。昔から何をやっても上手くいくんだ」
どのような人生を歩めば、そこまで驕れるようになるのか。パースリーは不思議で仕方ない。
「へぇ、すごいわね。それで? セージは何のためにここへ来たの?」
「家出だよ。相乗りしようと思ってね。君たちの考えなんて、俺にはお見通しなのさ」
パースリーは眩暈がした。計画では深夜に起床し、家人が眠りこけている間に数人の見張りを気絶させて屋敷を出、堂々と街を縦断して門の外へ向かう予定だった。姉弟の顔など誰も知らないのだから、通報もされない。至極簡単な家出のはずだったのだ。
「何よ……。これじゃ、滅茶苦茶じゃない……」
セージに着いてこられたら、瞬きする間に憲兵を呼ばれる。それどころでないかもしれない。
「悪いが、時間は無いぞ。先日俺が君たちの部屋に忍び込んだことは、母も知るところだ。母は俺がここにいると疑うだろうし、兵だって遣わす。もう近くに来ているかもしれない」
セージの唇が不敵に歪む。タイムの顔が青ざめる。
「最悪」
パースリーは一言のみを用いてセージを詰った。少数の兵ならば、自律機械である牡丹の敵ではない。だが、大勢であればどうか。もっと悪いことに、相手もまた自律機械であれば。
「……重ね重ねすまないが」再びセージが口を開く。「俺の決意は固い。だから、共に行く以外の選択肢は無いものと思ってくれ。ちなみに、次の機会も無い。今日捕まることになれば、牡丹は永遠にサルティナの管理下に置かれるだろう」
パースリーは呻く。身勝手に踏み荒らされた心の内は憤りに塗れているのに、何に復讐すれば気が済むのか、判然としない。セージへ抗議しても、彼を招き入れた牡丹へ抗議しても、何一つ好転しないだろうことだけは理解出来る。
「さあ、パースリー、タイム」牡丹は力強く姉弟の名を呼ぶ。「僕に願ってくれ。願ってくれたなら、僕は全力を賭して君たちを守り、これからの人生に自由を授けてみせる」
「姉さん……」
か細い声。タイムの震える唇を眺めて、パースリーは我に返った。
「そうよね。早く行きましょう」
苛立っている時間も惜しい。そう意気込んで、引き出しから絵葉書を取り出した。だが、
「駄目だ、葉書は持って行けない」
牡丹はとんでもないことを言う。
「え、話が違うじゃない!」
「……それは」彼女は俯き、叱られた童の目で見つめてきた。「話が変わったんだ。市街を通るのは諦めて、地下霊廟を流れる水脈を遡って脱出する。水に潜ることになるから、ね?」
「なら、何で! セージなんて、放っとけばよかったのに……!」
パースリーの胸は張り裂けそうになる。これから始まる逃避行は、タイムと、父母の霊と共に歩む家族の旅でもあったのだ。絵葉書を持って行けないのなら、前提そのものがまるで違う。愛する両親の霊魂を置いて、こんな傲慢なセージを連れて行くなど、あんまりだ。しかし、
「……ごめん。言っても、しょうがないよね」
喚くのはこれまでにした。今はタイムの無事が最優先。それに、セージの深刻そうな顔からは、彼が秘める事情や使命のようなものが伺える。未来を生きる者のために、死者の霊に別れを告げるのだと考えれば、それはそれで尊い決断だ。両親も誇らしく思ってくれるに違いない。
「……ありがとう。そして、ごめんな、パースリー」
淡い恨みを舌先に乗せて、パースリーはセージの心へ釘を打つ。
「私、今日のこと忘れないからね。この絵葉書は、両親の形見なんだから……」
言われて、セージ瞠目し、今一度詫び言を述べてから、後ろめたそうに視線を逸らした。
部屋を後にした一行は、牡丹を先頭にして、音を立てずに廊下を歩む。
見張りは各階の階段前に分かれて立つ六人と、玄関にいる四人。パースリーは、雷を帯びる機械の釘――雷釘を三本の指で持ち、太腿の後ろに隠してから、タイムと共に階段へ赴く。
三階を受け持つ女二人は、何も疑わずに話しかけてきた。パースリーは笑顔で謎かけをし、二人が顔を見合わせたところで、タイムと同時に雷釘を突き出す。露出した手の甲に先端を当てると、小さく、パチ、と音が鳴り、見張りは揃って声もなく昏倒した。
――こんなに、あっさりと……!
パースリーは驚く。機械の心臓に守られて、千年を生きた遺失技術の性能は凄まじい。けれど、そんな雷釘であっても人が倒れる音までは防げず、階下で見張りがざわつき始めた。
牡丹が先行して踊り場まで駆け下り、階下の男女めがけて両掌を発射する。細指がそれぞれのうなじに触れ、意識を刈り取った。牡丹の手指と雷釘は、ほぼ同一の攻撃能力を有する。現代の人類では扱えないほどの強力な電気を対象の体に流し込み、一息に無力化するのだ。
タイムが前に出て、床板を鳴らさないよう階段を降りつつ、一階に立つ男二人へ訴えた。
「あの、姉さんの部屋に大きな百足が……!」
パースリーもタイムの後ろを追いながら、しおらしく懇願する。
「助けてください……!」
見張りたちは心配そうな顔をして、階段を登り始めた。パースリーは心苦しくなりながらも、すれ違いざまに雷釘を押し当てる。
「ごめんなさい……」
呟いて、タイムも同じようにした。
直後、牡丹が駆け出す。彼女は玄関の内側に立つ男女へそれぞれ一本の雷釘を投擲し、自らを認識される前に気絶させる。そのまま屋敷の外へ躍り出て、掌を放ち、残る男二人を降した。
パースリーは、床に転がる二本の雷釘をセージと共に拾ってから、中庭に出る。
霊廟に向かうには、まず屋敷の真裏に回らなければならない。パースリーが先導し、その後ろにセージ、タイム、牡丹と続き、壁面に沿って庭を駆けた。
「怖いくらいに順調だな」
セージが楽しげに言う。着いてくるだけの癖して暢気なものだ、とパースリーは思ったが、
「いや、そうでもない。増援が来るよ。相手は……自律機械が一体」
牡丹が説くと、彼の表情はみるみるうちに険しくなった。
「ドニが、来たのか……」
「ドニ。国主の白銀槍。とても優秀な自律機械だと聞いている」
少しして、しんと冷える夜の大気を伝い、石畳と金属とが擦れ合う耳障りな足音が近づいてくる。坦々と、機械的に、グァン、グァンと。声を潜めて、タイムが問うた。
「ドニも、見ないで人を探せるの?」
「うん。僕と同じか、そうでなくとも機械同士がこうも接近すれば、互いの動向は丸分かりさ」
言って、牡丹が足を止め、振り返る。パースリーは彼女の向こうから迫りくる自律機械――国主の白銀槍、ドニの姿を目視した。
全身を覆う西方風の甲冑。まるで、童話から抜け出した鎧騎士のような威容。白銀の肌に月明かりとガス灯の光が乱反射し、ただでさえ大きな体がより威圧的に見える。
手には重厚な長斧鎗が一本。その切先が妖しく煌めいた。
「僕が相手をしよう、ドニ!」
「セージ坊ちゃんを、返せ!」
凛と響くコントラルト、地を這うバスバリトン。振り下ろされた銀の斧鎗と、蹴り上げた鋼の脚とが交叉し、剣戟に似た音がけたたましく鳴り渡る。
「私がこやつらを抑えます! 坊ちゃんはこちらへ!」
ドニが斧鎗を薙ぐ。牡丹は砂埃を巻き上げて後方へ跳ね、その一撃を避ける。
「残念だがね。セージは僕らを頼ってここに来たんだ。君の元になど帰るものか!」
視線をドニから逸らさずに、彼女が叫んだ。
「ここは僕らに任せて、三人で先へ!」
「着いてきて、セージ!」
パースリーはセージの手を引いて走り出し、霊廟へ延びる林道に駆け込んだ。
「牡丹の知覚範囲はそこまで広くないんだ。ドニの部下がいるかも。注意して、セージ」
「ああ。ありがとう、タイム」
しばらく走ったその先で、タイムの心配は現実となった。道の向こう、黒々とした樹々の合間に突如として火が灯り、前方左右に五つの人影が浮かび上がる。
「セージ様、館にお戻りください」
一人が言った。脅しと慈悲の混在した老練な響きに、パースリーの意識は研ぎ澄まされる。
「嫌だね。俺は戻らない」
「我儘を。なら、少々痛い目を見ていただきましょうか」
言い終える前に、セージが突進した。保護対象の急襲に戸惑う一人の兵へ、見事雷釘が突き刺さる。同時に振るったパースリーの一突きもまた成果を挙げ、残る兵は三人となった。
しかし、そこまで。続くタイムの攻撃は躱されて、柔らかなみぞおちに石突がめり込む。弟の悲痛な叫びに気を取られたパースリーも、腰を殴られて蹲った。
二人、うつ伏せに寝かされる。背中を押し圧す野蛮な力。最悪の結末が、パースリーの頭をよぎった。セージを屈服させるためならば、容易に一人を殺めることだろう。姉弟の助命が指示されているとは、到底思えない。
「止めろ、二人に手を出すな!」
セージが命令する。当然、兵らは耳を貸さない。
「セージ様次第ですよ。一人くらいは、ほら」
首に刃を当てられて、タイムが嗚咽を漏らした。パースリーは弟の苦痛を想って怒る。
「タイム! タイムを離し――」燃え滾る頭は、しかし、「あ――」
一瞬にして、首筋を舐める刃の感触により凍らされた。
セージは間もなく両手を高く上げて、恭順の意を示す。
「……分かった、降参する。その代わり、頼むよ。二人のことは見逃がしてくれ」
その提案が、パースリーを安らかにも情けなくもさせた。
「――なりませんな。罰を受ける者が必要です」
また、恐ろしくなる。罰とはやはり、死のことだろう。生かされたとしても、より不自由で屈辱的な飼い殺しが待っているに違いない。想像するに、それは、暗黒の日々だ。
「……そうか。それなら、君たちから証言してくれないか。俺が姉弟の持つ自律機械に目を付け、権力を笠に着て家出を手伝わせた。二人に罪は無い。悪いのは全部俺だと」
「ふふ、それはセージ様次第です。交渉なさりたいなら――」
その、嘲りを含んだ言葉が結実する直前。唐突に兵の足がぐらつき、そのまま倒れた。
――牡丹?
パースリーが、心の中で友の名を呼ぶほんの短い間に、残る二人が膝を折る。彼らの足元にからんと落ちる、二本の雷釘。気味悪く弛緩した空間に、誰かの声がこだました。
「下手ね。生殺与奪権を持つ相手に交渉を求めるなら、まずは、あなたが武器を捨てなさいな」
牡丹ではない。声音は牡丹に似て彼女のそれより少し高く、どこか陰気な色をしている。
「君は。……成程な、自律機械だったんだな」
彼女はどうやら、セージの知り合いであるらしい。
「話はまた後でね、坊ちゃん。霊廟の入り口で牡丹を待ちなさい」
セージは素直に肯じる。枝葉の揺れる音だけを残して、自律機械の気配は消えた。
その後、霊廟の入り口である石小屋に到着した一行は、さして待たずに牡丹と合流出来た。
「ドニは? もしかして、倒したのか?」
せージが問う。牡丹は小さくかぶりを振った。
「妹に足止めを頼んだ。さっきの彼女だよ」
小屋の鍵は閉まっている。どうするのかと見守る皆の前で、牡丹は掌を飛ばし、小さな彼女では届かないところにある錠前を器用に掴んで、強引に引きちぎった。
石小屋の中は真っ暗。脇の棚には蝋燭ランタンが置かれているのだが、着火具までは無い。
牡丹が、赤いマントの裏から透明の球体を取り出した。見慣れない道具の登場に、三人の視線は釘付けとなる。球は前兆もなく光を発し、行く先を照らした。
「行こう。足元には十分気を付けて」
パースリーは牡丹に続いて、恐る恐る階段を降る。
不安を誘う急勾配に、足も気持ちも慣れてきた頃、セージがぽつりと口を開いた。
「牡丹はさっき、彼女のことを妹だと言ったな。なら、名前を知っているだろう?」
「勿論。でも、教えたくない」
「何故だ?」
「セージの口から名を問うてもらいたい。そう、妹が言っていたから」
「以前に尋ねた。でも、教えてくれなかった」
「見つめ合いながら、教え合いたいのさ。察してやってくれ」
乙女だ。いつか読んだ恋愛小説に似たやり取りがあったことを思い出し、パースリーは微笑ましくなった。機械であれば、人間に対する恋愛感情などは持っていないだろうが。
「……分からないな、全く」
照れ臭そうなセージを庇うようにして、タイムが別の話題を持ち出す。
「そういえば、自律機械の姉妹って、どういうものなの?」
「定義はあやふやで、答えるのが難しいね。同一の目的を果たすために造られた、ほぼ同一性能の機械。そんなところかな」
「同一性能……。なら、牡丹も同じことが出来るのかな? さっき彼女は、二本の雷釘で三人の兵を倒してたけど」
「よく見ていたね」牡丹はそう言ってタイムを指差し、口を閉じたまま言葉を紡ぐ。「一人は、これの応用で倒したのさ」
「あ、いつものやつ」
「君も知る通り、音とは空気の振動だ。だから音源の数や振幅の形――即ち空気の揺らし方に工夫を凝らせば、人を昏倒せしめるほどの音を、好きな場所へ集中的に響かすことも出来る」
「凄いね」
「それほど便利でもないんだ。燃費が悪いし、僕への負担が大きくて、連続で使えない」
そうなんだ、とタイムは声を弾ませた。危険と隣り合わせの逃避行にも順応してきたようだ。
パースリーも問うてみた。
「牡丹の妹について、セージは知っていたみたいだけど?」
「ああ、それは――」セージは若干の迷いを見せた後で、答える。「幼い頃から俺は何をやっても無事だった。それは、彼女が陰で助けてくれたからなんだ。彼女は俺の精霊だったんだよ」
まさか、自律機械だったとはな。最後に彼は、投げやりにそう呟いた。
パースリーは考える。言い淀んだセージ。彼の精霊が自律機械であり、牡丹の妹でもあったという事実。それらを重ね合わせると、おぼろげながら機械姉妹の悪行が見えてきた。
「牡丹は、最初からセージを参加させるつもりでいたのね? 妹と結託して」
「ばれたか」
牡丹は悪びれもせずに認めた後で、図々しくも免責を求めた。
「あくまで、セージの意向を僕が受け入れた、という形だから。あまり怒らないでほしいな」
「……もういいけどさ。せめて教えておいてよ」
「気を引き締めてやろうかと思ってね。君が、直前になって家出を撤回しないように」
撤回なんてするわけない、とパースリーは言いたくなった。だが、
「――ぼ、僕は結構楽しめたよ。ドキドキして、その、良かった……」
タイムが先に口を出す。弟にそう言われては、牡丹を責め続けるのも憚られた。
「そっか。なら、許そうかな」
それから長く歩き、ようやく階段を降りきった。
洞窟の空気は地上よりも大分温かい。パースリーは、傍を流れる水の音を聞きながら、慣れない運動によって早まった鼓動を鎮めようとした。
「大丈夫か?」
セージの気遣いに甘えて短な休憩をもらった後、再び歩き出す。
球ランプの光は眩しく、洞窟の彩りがはっきりと分かる。岩肌は黄色がかった赤。流れる水の色は濃紺。以前松明を持って訪れた時より、遥かに鮮やかな色合いに見えた。
右手側に、大きな広間が現れる。あの祭祀殿ほどに緻密ではないものの、それでも美麗な彫刻を施された壁面に囲まれて、国主の墓碑が並び立っていた。
「君たちと共に来るのは初めてだな」セージは言い、牡丹の顔をじっと見る。「少し、時間をくれないだろうか。俺と、パースリー、タイムのために」
「勿論さ。でも、なるべく手短にね」
パースリーはタイムを伴い、父母の前に立つ。
「俺もいいかな?」
そう願ったセージも加えて三人で合掌し、祈りの言葉を捧げた後で、
「私たちも、いいかな?」
共にセージの父へ首を垂れ、祖霊よ安らかなれ、サルティナ国よ永劫平穏なれ、と願った。
「俺は行くよ、父さん。国主の息子なのに、不埒でごめんな」
パースリーは、同じようには言わなかった。軟禁からの脱出に、謝罪が要るはずもないから。
地下道を更に進むと、あるところで道が途切れた。その先には地底湖が広がる。
青い水面を眺めながら、タイムが疑問を投げ掛けた。
「ドニは水脈がどこに繋がっているか、知ってるんじゃないのかな?」
鋭い着眼点に、パースリーは感心する。彼は物事の綻びを見つけるのが抜群に上手いのだ。
「素晴らしい質問だ。妹が言うことには、ドニは早々に撤退し、先回りを試みているようだよ」
「なら、どうして?」
セージの問いを受けて、牡丹は自慢げな顔を見せる。
「こちら側で拵えた秘密の分岐路があるのさ。僕らは君たちと共に旅立つ日を長いこと待ち望んできた。熱情に見合うだけの準備を、済ませてきているんだよ」
牡丹が傍らの大岩に手を翳すと、岩肌が外れ、中から黒い機械の筒が現れた。
「さあ、最後の行程にかかろうか」
パースリーは牡丹の指示に従って、筒付きのベルトを腰に巻いた。その後で、ベルトに金属の綱を括りつける。綱は牡丹の腰から伸び、タイム、セージを経由してパースリーを繋ぎ留めた。各人の間はやけに長く、これは、各々の動作を他人に影響させないための配慮らしい。
筒を爪で弾くと、涼やかな金音が耳を楽しませてくれる。筒の中身は空気であり、筒と口を繋ぐ管は命綱だ。水路は長く、これらなくして越えることは叶わない。
それぞれの元に赴いて最終確認を済ませた牡丹は、激励の言葉を述べてから水面に消えた。
ややあって、タイムが不安げに後を追う。セージは勇ましく手を振り去っていった。パースリーも微笑んで自らを奮い立たせ、管を咥えて入水する。
――地下水って、本当に冷たくないんだ!
既知の情報ではあるものの、本で知ったのと、その身で知ったのでは感動の度合いが異なる。
鋼索から伝わる力は、歩かずに済むくらいには強い。この引力を、あの小さな牡丹が生み出せるとは夢にも思っていなかった。やはり、実践とは多くの知を与えてくれるものなのだ。
水中は暗く、ベルトが発する微かな光だけを頼りにして歩かねばならない。暗がりの自室でさえもの淋しく感じるのに、今は自分以外が世界から失われてしまったように思えて、かなり心細い。綱の遥か先にいるセージ。あのような従弟の幻影に縋りたくなるくらいには。
それから、どのくらい歩いただろうか。
遠くに球ランプのぼやけた光が見えた。光源に近付くと、そこには大男でも余裕で通れそうな穴が空いている。パースリーは、水底で寂しく光るランプを拾い上げてから、横路に入った。
分岐路の前後では、歩き易さが格段に違う。今までは、なるべく足を痛めないよう大小の凸凹に注意して歩いていたのだが、横穴の先は人為的に均されており、気を張らずとも済むようになった。さながら、廊下のようである。
――私たちのために、こうまで出来るものなの?
ふと、牡丹の情熱がそら恐ろしくなった。家出を思いついたのはパースリー自身で、願望の源となっていたのは父母の絵葉書だったはず。確かに、牡丹の話にも好奇心を刺激されたが、あくまで自分が主で、牡丹が従。そうであったし、そうでなければおかしい。
しかしながら、今、牡丹の造り上げた脱出路に命運を預けてみると、まるで自分が、魔女に唆された子供のような、主体性の無い幼稚な生き物に思えて仕方なくなる。
気を紛らわせたくなり、筒から伸びる管の中程を指で弄んだ。
硝子みたいに無色透明の管であるが、ふにふにして柔らかい。この素材も、機械の心臓により分解を免れた高度材料群の一つだという。
――この素材で、色んな道具が作られていたんだろうな。
後で牡丹に尋ねてみよう。そう思った瞬間、視界の端から何かが現れる。
「ひゃっ!」
小さく細長い影が、パースリーの鼻先をぺろりと舐めて、さっと消えていった。
感触に驚き、緩んだ口から息が漏れる。管も逃げる。それらは水流に浚われて、後方へと流れていく。
――今のは……洞窟魚ってやつかな?
自らを舐った何者かを分析した後で、パースリーは悟った。このままでは窒息してしまう、どうにかしないと、管を口に戻さなければ、と。慌て始めた心を鎮め、腰元に手を伸ばして確認すると、管はまだ筒にくっついていると分かり、安心した。だが既に息苦しく、急いで管を掴み、口元へ引っ張る。
引っ張って、呆然自失とした。管が、根元から千切れてしまったのだ。
パースリーは修復しようと試みた。しかし勝手が分からず、あちこち弄っているうちに焦燥から手元が狂い、管を手放してしまう。筒から直接空気を吸えば。そう考えたが、牡丹の用意した筒とベルトは頑丈で、引っ張っても叩いても外れる気配がない。
先を行くセージへ危機を伝えようと、何度も何度も綱を引いた。彼は遠く、全く無駄な行動だと内心では分かっている。それでも他に手立てが見つからなかったから、そうした。
全身から血の気が失せていく。だのに、こめかみだけは熱くて、熱くて堪らない。
肺が死を吐き始めた。苦しい。数多の小説に描写された甘美な死などは、言わば小鳥の囀り。血の通った唇から紡がれる、無邪気なフィクションでしかないのだと理解出来た。
死は頭をおかしくさせる。体をふしだらにさせる。死はそうやって、人間の尊厳を粗方剥奪してから、すっと苦痛を和げて、惨めな己を俯瞰させるのだ。
もう、論理的思考力も、自尊心も保てていない。小水も垂れ流し。恐怖と快楽が同一化され、あらゆる全ての何もかもが億劫になった。
――ああ、私は上から下まで、獣になってしまったんだな。
しみじみ思ったパースリーは、このまま消えて無くなることに決めた。
決めたのだが。
天に朱色の二つ星が輝く。突然、パースリーの意識が覚醒する。
――牡丹?
ぼんやり呼びかけたなら、劈く金切り声が頭に響いた。
〈今助けるから! 頑張って!〉
朱の光は雷の瞳。闇の向こうに牡丹の姿が浮かび上がる。彼女は足をばたつかせることなく、水を掻くこともせず、身体をぴんと伸ばしたまま、驚くべき速度で迫ってきた。
鼻先まで近づいた牡丹が、腕を差し伸べる。その小さな手には、管が握られていた。
〈薄く口を開いて。薄くだよ……〉
管の先端が唇に触れる。パースリーは口をすぼめてそれを咥え、湧き出る空気を貪った。
〈吸うだけじゃ駄目だ。鼻から息を吐いて。そう、ゆっくり、ゆっくりと……〉
言われた通りに泡を吹く。すると、肺が更なる空気を求めて広がった。吐いて吸ってを繰り返すうちに、手指、足指にまで安らぎが行き渡る。
〈ああ、良かった……〉
死から解放されてしばらくは、快楽に近い喜びだけが延々と頭を巡った。それも次第に引いていき、パースリーの心はようやく平静を取り戻す。
胸の内で、牡丹へ感謝を捧げる。と同時に、彼女に対する幾つかの疑いが去来した。
牡丹はどうやって命の危機に気づいたのか。彼女が持ってきた管はどこから引いたものなのか。もう一つ。牡丹はここにいるのに、今も綱を引く力は弱まっていない。彼女はどのような方法で、皆を導き続けているのだろうか。或は、別の誰かが――。
〈みんなには内緒だよ?〉
牡丹が言う。妖しく光る二つの瞳は、肯定のみを強く要求していた。
パースリーは大きく頷いて理解を示し、笑んで感謝を伝える。牡丹は白い手を伸ばしてパースリーの頬を優しく撫でた後、満足げに微笑み、上方へ泳ぎ去っていった。
それからしばらくして、左右の壁、頭上を覆う土天井が消えた。水路を抜けたのだ。
口に咥えた管が、ひとりでに離れていずこかへ消えていく。身体を引き寄せる力が弱まった。パースリーは天に揺らめく光を目指し、掌へ、足へ生命を漲らせ、力一杯に水を送り出す。
水面が近づく。ぐんぐん迫る。勢いよく、皮膜を破る。
頭を出すや否や、パースリーは大口を開けて、世界に満ちる生の大気を存分に吸い込み、吐き出した。
肺が躍動する。脳が歓喜する。
――空気って、こんなにも美味しいのね!
生命にまつわる鮮烈な発見は、心身をこれまでになく震わせた。
水脈を越えて到着した場所は、人の手が入っていない石窟。岸辺に皆の姿を認めたパースリーは、へとへとの体に鞭打って泳ぎきり、地上に上がった。
悪路の先に広場があり、その中心に巨大な黒の箱が一つと、牡丹の背丈に等しい大きさをした銀の箱が一つ置かれている。彼女が黒い箱へ掌を翳すと、触れてもいないのに天辺が開いた。セージが、続いてタイムが歩み寄り、二人で中を覗き込もうとするが、牡丹に止められる。
「駄目だよ、水が垂れる。まずは着替えて。体を乾かした後なら、存分に見させてあげるから」
牡丹は箱の中からタオルと衣服を取り出し、まずは男二人に手渡した。セージもタイムも浮ついているらしく、その場で服を着替え始めようとする。
「ちょっと、向こうで脱いでよ。私がいいと言うまで、壁だけを見てて」
「あ、ああ……。すまなかった、パースリー」
「ごめんね、姉さん」
「もう」
手を払って二人を奥へ追いやった後、パースリーも着替えを受け取り、岸辺まで戻ってずぶ濡れの服を脱いだ。タオルで全身をくまなく拭いて、いよいよ新たな服に袖を通す。
まずは下着を身に着け、ふわりとした生成りの肌着に重ねて、刺繍入りの朱いケープを羽織った。下衣は肌をぴっちりと覆う黒ズボン。その上に葡萄酒色の丈短なスカートを穿いた。
程々に上品で、かつ動きやすいこの服を、パースリーはすぐに気に入った。退屈を縫い合わせた個性無き屋敷の服でもなく、社会的しがらみを体現した儀礼用の服でもない、自分本来の在り様を引き出すかのような着心地が、実に好ましく感じられた。
「着替え終わった?」
大声で問うと、口々に答えが返った。
「とっくに終わってる!」
「終わったよ!」
箱の元に帰ったパースリーを、男たちの純な笑顔が迎える。
タイムに渡されたのは、ゆるやかなベージュのチュニックに、パースリーと揃いの刺繍が入った乳白色のポンチョ、ダークブラウンの七分丈ズボン。その下に厚手の長靴下を履いている。
セージは、堅い印象を受けるチャコールグレーの立襟シャツに黒のベストを合わせ、すとんと落ちたベージュの長ズボンを穿いている。
二人が着る衣服もまた、成人の儀で見たそれよりも格段に似合っていると思えた。
その後、四人で焚火を囲い、体を温めた。
「さて、思惑通りドニを欺けたようだ」
呟く牡丹へ、セージが食い気味に尋ねる。
「君の妹は?」
「無事に離脱出来たよ。今は遠くから、ドニの動向を眺めている」
「彼女はいつ合流するんだ?」
「そう遠くないうちに。待ち遠しいかい?」
「まあね」
「よろしい。それで、今後についてだが」
皆の視線が牡丹へ向いた。
「ここから北北西、サルティナと隣国ルハンの境にあるシングの街に向かうよ。国境を越えれば、いかな国主であっても強権を振りかざすことは難しい。諦めざるを得ないはずさ」
シング。異国の文化が織り交ざる華やかな街だと、とある本が語っていた。憧れた風景、いずれ知るだろう音や味を想い、パースリーの胸は膨らむ。
「ついては、皆に姓を贈りたい。君らの姓は身分を隠すのに不都合だろう。新たな姓を名乗り、生まれ変わった君たちとして明日を生きてほしいと、僕は思う」
「身分を隠すなら、名前も変えた方がいいわ」
パースリーはそう提案した。しかし、牡丹は渋い顔を見せる。
「いや、それは止めよう。新たな姓に偽名を重ねれば、混乱してボロが出るかもしれない」
――そうだろうか。タイムも、セージだって上手くやりそうなものだけど。
パースリーは腑に落ちない。が、牡丹の意見にも一理あり、それを押し退ける必要も見出せなかったので、反論は心の中に留め置いた。
「それで、どんな姓を貰えるのかな?」
タイムの声は期待に満ち満ちている。
「ベネットだ」牡丹は一人一人を指差しながら、新たな姓名を口にする。「パースリー・ベネットに、セージ・ベネット、タイム・ベネット」
「ベネット。何か、意味があるの?」
「有るよ。でも、まずは君たちの名について語ろうか。知っての通り、三人共、香草の種を示す言葉だ。香り高い草花は魔除けの力を持つとされる。君たちを厄から護ってほしい。皆の名前には、そんな祈りが込められていたんだよ」
パースリーは、母がよく口ずさんでいた歌を思い出す。
〈パースリー、セージ、ローズマリー、アン、タイム……〉
幼少の在りし日、草の歌を好む理由を問うたなら、これは退魔の呪いよ、と教えてくれた。
「そして、ベネットとは、祝福を意味する太古の言葉が変じたもの。君たちは今まで、加護の名に抱かれてすくすくと育った。僕たちは皆のこれからに、祝福の姓を贈りたいんだ」
牡丹の言葉をじっくりと噛み締める。
ついさっき、潰えかけた命があった。水面を破り、産声を上げた命がある。
加護は確かに存在していて、いつも温かくこの身を支えてくれていたのだ。明日からはそこに、悠久を生きた友の祝福までもが加わる。それを知ったなら、より自由に、より溌溂と、より強い志を抱いて生きていかねばならないと、改めて思えた。
「ここで夜を明かそう。さあ、もう一仕事だ」
牡丹はそう言って立ち上がる。
「セージとタイムは二人で天幕の準備を。パースリーは水を沸かして。必要な器具は全て、あの黒い荷物箱の中にあるから」
早速、タイムとセージが動き出した。彼らは手に取った機械を物珍しげに眺めながら、
「これはなんだ? タイム・ベネット」
「分かるわけないよ……。牡丹に聞いてみよう、セージ・ベネット」
わざわざ無理矢理に、共通の姓を呼び合って絆を深めようとしている。
――私も、そうしよう。
パースリーは意識して声を弾ませ、ベネットたちの名前を呼んだ。