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ドゥームズデイクロックス  作者: tatsukichi_ohta
12/24

12:二票と一票

 パースリーはタイムと並んで、国境の街、シングの象徴であるという大門を仰ぎ見る。


 時は正午。降り注ぐ陽光が、大門の中央を飾る翡翠の孔雀紋をきらきらと輝かせていた。

 シングに到着したならば、噂に(たが)わぬ荘厳な門構えの下で、至福の達成感を得られるのだろう。旅に出た当時は、そんなふうに夢想していた。しかし、現実はそうでない。国境を目前にして気は逸り、先のことばかりが頭を巡る。現在(いま)に集中出来ない。


 門前で衛兵とやり取りをしていた牡丹(ぼたん)が、足早に帰ってくる。

「待たせたね。では、行こうか」

 タイムと視線を交わして、パースリーは笑んだ。弟の顔はいつになく変で、じっくり眺めると、その可笑(おか)しさに自然と頬が緩んでしまう。

 先刻、二人は牡丹によって化粧を施された。いつもより凛々(りり)しいパースリーに、いつもより可愛(かわい)らしいタイム。どちらもより中性的な顔立ちに変貌している。パースリーにとって、この変化は大変こそばゆい。弟もまたばつが悪いようで、先程から何度も鼻先を搔いていた。


 緊張しながら衛兵詰所に至り、素知らぬ振りをして偽造書類を提出する。

 越境のために執り行われる最初の手続きは、予想外にも、顔を眺められただけで終わってしまった。拍子抜けしたパースリーは、何やらふらふらして定まらない心持ちになったが、大門を(くぐ)ろうとした丁度その時、黒鶴(くろづる)の忠告を思い出し、気を引き締め直す。

〈カランは、私たちを大蛇(おろち)の巣穴に引き込むつもりなのかもしれない〉

 シングの政官長スバースと、商人カラン。官と民が邪悪な協力関係にある可能性を、彼女は説いてくれた。信じたくはない。だが、元法官ニキの肉声記録には、不可思議な説得力があったのだ。切実な声色に、(ここ)()()ままれてしまった。


 大門と市街の間を繋ぐのは、天地左右を石材で覆われた通路である。パースリーは、白大理石の放つ(おごそ)かな香りと冷気の中、時折(かかと)の金具で床を打ち、残響に耳を傾けながら歩いた。

 ――宿に着いたら、これからについての話が始まる。そこで、私は――。

 分かり切っている。楽観が二票に、悲観が一票だ。覆したい。覆せる自信は無い。


 道の中程で、牡丹の解説が始まった。

「この通路には仕掛けがあってね。ある(くさび)を抜くと、連動して全てが崩落する仕組みになっているんだ。侵攻され、街を放棄する際には、敵を生き埋めにしながら出口を閉ざす」

「そんなこと、今言わなくてもいいでしょ?」


 タイムの抗議は石と石の合間にわんわんと響き、ぼんやり消えた。牡丹がふざける。タイムが口を尖らす。二人のやり取りは楽しげで、塞ぐパースリーの気分を若干ながら解してくれた。

 弟の腕は当面の間、三角巾で吊るしておかなければならない。痛むだろうし、不便だろうが、それでも彼は沈むことなく、むしろ普段よりも明るく振る舞っている。

 その姿は健気で、痛々しい。


 通路の出口――光と色彩の穴を(くぐ)り抜け、陽の下に進み出たパースリーは、強烈な太陽熱に(くら)んだ。しばし立ち止まり、頭と目が慣れるのを待ってから、街を見渡す。

「大丈夫かい?」

 その間、弟と共に待っていてくれた牡丹へ礼を述べ、再び歩き出した。


 シングは国境然とした雑多な景観の所々に、和気を感じる街だ。明らかに異国人だと分かる顔つきと言語、仕草や身なりが、あっさりと見慣れた人々に入り混じっている。ルハンの者もサルティナの者も、相対して等しく(ねんご)ろに交わる。

 街道をにぎやかす白塗りの家々は、中流層のものでさえ、庁舎のような彫刻仕立ての壁面を持つ。加えて、往来する人々の服装は、カナート住民のそれを一段上回って(なま)めかしく、数段上回る色鮮やかさで、正直目に(うるさ)い。

 決して上品ではないが、むしろ下品に感じるくらいだが、悪いものでもない。シングの文化は、他の街に比べて大衆側に主導権があるのだと、パースリーは思った。庶民が富んでいるから、自然とそうなるのだろう。


 この街には、凝りがちな気持ちを解す開放的な空気が漂っている。一方で、身を竦ませる威圧的な視線も、肌に感じられた。

「奔放なようで堅苦しい、なんだか分からない街ね」

 感想を漏らすと、前を行く牡丹が嬉しげな横顔を見せる。

「良い感覚をしているね、パースリー。君の言う通り、そのどちらもが正しいよ」


 それがこの街、シングなのさ。そう言って、彼女は歩みを緩め、姉弟の間に収まった。

「二十年前、シングに新進気鋭の政官長が現れた。彼は就任早々(まつりごと)を改め、目に見える成果を挙げたのさ。彼の行政改革は、後に当時の国主、そう、君らの祖父母をも巻き込んで進む」

 祖父母。パースリーは回想するが、遥か昔の記憶につき、肖像はおぼろげだ。声すらも満足に思い出せない。むしろ思い浮かぶのは、彼らを語る時に、母が見せた苦々しい顔。彼女は、自らの子供を親に会わせたがらなかった。そんなきらいがある。


「政官長は、中央と根強く交渉し、信じ(がた)いことに、自治権の拡大を認めさせた。その後に独立行政法を整備し、周辺の街村を連携させて、一帯をサルティナ(こく)とルハン国の緩衝地帯に変えたんだ。州制の開始。これは国主の権利を切り取るに等しい、前代未聞の出来事だった」

 懐かしそうに語る牡丹の声は、瞬間、冷笑的な響きに変わる。

「それが、スバース。サイを陥れた、或は陥れてないのかもしれない、疑惑の英雄だ」


 セージがタイムのために仕入れてくれた、彫金職人(ちょうきんしょくにん)の悲話。ニキの萎れた声が、パースリーの耳に反響する。話を聞くに悪者でありそうなスバースが、目に見えて分かる善政を敷いている。どちらかが偽りか、どちらもが(まこと)なのか、気になるところではあった。

「凄い人、なんだね」

 タイムの声には、惑いと羨みが入り混じる。

「今は、偉業のみを語ろうか」牡丹はそう前置いて、説いた。「それまで、シングは単なる門でしかなかった。サルティナは異国人に対して、滅多に長期の滞在許可を出さない。だから、ルハンの商人は急ぎ中央へ向かい、荷を捌き、すぐに帰らねばならなかったのさ」


 成程、とタイムが呟いた。

「気づいたことを言うように」

 牡丹に促されて、弟は自信満々に答える。

「ここに留まる間は、許可された滞在日数が減らないようにしたんだね?」

 それを聞いた牡丹は薄く笑い、半否定する。

「当たらずとも遠からず、だね」


「え、答えは?」

「厳密には、ルハン側で待たせることなく、シングに引き入れてから滞在許可を申請出来るようにした。するとね、ここらである程度貿易品を捌き、身を軽くしてから中央で残りを売る。そんな算段も立てられるようになったのさ」

 牡丹の悪戯(いたずら)な手が、パースリーに向けられた。気落ちしているというのに、面倒なことだ。

「パースリー、次はどうなると思う?」

「……貿易品目当てに、サルティナの商人たちが足繁く通い始めた?」


「そう。その通り!」

 牡丹は大げさに肯定し、優しく補足した。

「サルティナ側の需要が高まり、ルハン側も供給を増やした。より作るから原価が下がり、より求められるから売価が上がる。やがて、サルティナ人に現地販売を嘱託(しょくたく)しても十分な利益が残るようになり、商取引の定石が変化した。実際、その方が楽なんだ。滞在許可を得るにも、中央に出向いて商売するにも、纏まった支度金と労働力が要るからね」


 割り込むようにして、タイムが尋ねる。

「そうなると、支度金を用意出来なかった小さな商人も、集まってくる?」

「そう。スバースの改革以降、シング一帯を訪れる者は加速度的に増えていった。――彼の(たく)みは、ここで(あきな)う人々へ、一塊(ひとかたまり)の金銭を要求しなかったことにある」

 弟は首を(かし)げた。パースリーも、少しばかり興味が出てくる。


「取引額に応じて増減する税を課したのさ。この国ではシング周辺域のみが採用する税法だけど、巻き戻し前では一般的だったんだよ。現代にあっては難度の高い徴税だが、シング政庁は上手くこなしている。素晴らしいね」

 牡丹の声には、色濃い尊敬の念が浮かんでいた。

「――以上の理由から、貿易で損する危険性が激減し、誰もが夢を見られる街になった。だから、ここは常に異国の人々と品々で溢れているし、集まる富が街を活気づける。君らがシングに感じた奔放さは、それに起因するんだ」


「それじゃあ、堅苦しさは?」

 タイムが問うと、牡丹は質問をし返す。

「タイム。君はシングのどういうところに堅苦しさを感じる?」

「憲兵の数が多かったように思えた、かな」


「そうだね。徴収された税のうち、結構な割合が治安維持に注がれている。政官長スバース、彼の強力な指揮の下で。この厳格さが一帯から騒動を遠ざけ、街を魅力的に見せているんだ」

 話が一段落したその時、丁度宿の看板が見えた。牡丹は恥じらいつつ、先生ぶって締める。

「今日の講義は、ここまで」


 玄関にて、パースリーは(いぶか)しむ。

 初めて訪れる宿だったはずが、牡丹は主を一瞥して、

「数日の滞在だが、よろしく頼むよ」

 とだけ告げ、宿代も払わずに歩いていってしまった。主も主でまた、さも当然のように、

「ようこそ。お待ちしておりました」

 とだけ述べて、その場から動かない。何故だ、と考えるうちに、部屋の前へと到着した。


「さあ、タイム。君が扉を開けるんだ」

「え、僕? どうして?」牡丹に指名されたタイムは、不安げに戸を引く。「あ!」

 彩り鮮やかに弾む声。気になるパースリーは体を傾け、弟越しに部屋の中を覗く。視界に白い自律機械の立ち姿が映ると、玄関で感じていた疑問が氷解した。


「お久しぶりです、タイム」

 おどろおどろしくドニを脅迫し、同じ口で運命を嘆いたあの乙女。爛爛(らんらん)の声色は、ファジッカで聞いたそれよりも随分険が取れて、優しげに響いた。

「久しぶりだね、爛爛。早く会いたいって、ずっと思ってたよ」

「まあ! それは失礼いたしました。(わたくし)、タイムが喜んでくれたと聞き、少々張り切ってしまいまして」


 パースリーは叔母(おば)不憫(ふびん)に思った。いつ何時、我が子が襲われるか分からない。そんな、果てなく神経を擦り減らされる状況を、彼女は作り続けていたのだろう。

 きっと爛爛は、守りたい者を持つ相手には滅法強い。牡丹が我がことのように自慢する彼女の機動力は、館に戻ったドニすらも、辟易(へきえき)させたに違いない。


「そっか、僕らのために……。長い間、本当にありがとう」

「いえいえ。タイムのためなら、お安い御用です」

 タイムの後で、パースリーも挨拶を交わす。二人してベッドに座り、これから何を語ろうか、とつらつら考えていたところ、先に牡丹が口を開いた。

「爛爛。シングに入ったことは、誰にも知られていないだろうね?」

「ええ、大丈夫です。深夜のうちに宿へ入り、主人にも固く口止めを願いましたので」

 不穏な問答が、タイムの顔を強張らせる。パースリーは、まもなく始まるであろう議論、その趨勢(すうせい)を予見して、一人(うれ)いた。

「よろしい。それでは、セージを呼ぼうか」


 ドニの一件以来、黒鶴から状況を聞くだけで、セージの声は一切耳にしていない。

「待ちくたびれたぞ、牡丹、爛爛」

 長らく心配させてくれた当人の第一声は、配慮も遠慮もない、それは酷い文言だった。

 不愉快に薪がくべられて、パースリーの苛々が轟々と燃え盛る。

「待ちくたびれたのはこっちよ。あなた、怪我を負ったタイムにも、牡丹にも何一つ声を掛けないなんて、ちょっと薄情じゃないかしら?」


「パースリー。それについては、本当にすまなかった。なんというか、気まずかったんだよ」

 後ろめたそうなセージの声を聞いて、自己嫌悪が頭をもたげた。パースリーは追い打ちを掛ける気になれず、悶々たる思いを胸に秘めたまま、誰かの言葉を待つ。

「ちょっと分かるな、セージの気持ち」

「タイムは分かってくれるか……!」


 男同士の意味不明な共感にげんなりしていると、牡丹が小さく笑い、話を導いた。

「さあ、みんな。後の方針を決めよう」

 後の方針。カランに発見されてから、彼と人攫(ひとさら)いとの関係が浮かび上がり、政官長スバースにまで関与の疑義が生じた一連の問題に対して、どのように臨むべきか。話し合い、意見を擦り合わせる必要があった。

 臨むも何も、パースリーは越境を最優先したいと考えている。それは本来、全員が支持して然るべき共通目的のはずだ。しかし、タイムとセージは、別の目標を設定してしまった。


「僕は、人攫いの問題を解決したい。解決出来なくとも、やれるだけのことをやりたいんだ。攫われてしまった人々と、この先攫われる誰かのために」

 語るタイムの瞳は、悪辣(あくらつ)な者たちへ敵対する恐れを隠し切れていない。しかし、恐怖に勝る使命感も、また明確に映し出していた。

 情け深く輝かしい人格へと成長したタイムは、いつか読んだ童話の主役に似て見える。だから喜ぶべきなのに、姉としてそうあるべきなのに、パースリーは頷けない。


「俺はニキの願いを果たしたい。しかしそれ以上に、政官長、法官長が民を苦しめたのは本当なのか、真偽を確かめたいんだ。国主の子として、挑まなければ気が済まない」

 セージはそういう男子だった。頑なで、時に強引だけれども、彼の身勝手と心からの献身が合一(ごういつ)した時、はっとするほど美しい勇気を見せてくれる。

 自らも国主の娘と誇るならば、国主の息子として誇れる意気を燃やすセージを、応援しなければならない。そうするべきなのに、パースリーは正義の言葉を口に出せない。


「私は――」声を振り絞り、本心を語る。「タイムが腕を折られた時、辛かった。セージが狼に襲われた時だって、そうだったよ。これからカランを相手にして、そこにスバースが加わって、ドニも戻ってくるとして……。私たち、無事でいられるのかな? そうまでして、一体誰を助けるべきだと言うの? ――憲兵に任せましょう。私たちは、越境を急ぐべきよ」

 吐き出してすぐに(うつむ)き、自らの瞳を隠した。


「姉さん」宥めるようにタイムが呼んだ。パースリーは、弟の顔を見られない。「僕は、出会ったばかりの僕らを護ってくれたセージに、そんなセージを庇えた姉さんに、憧れているんだ。悪漢を前にして、未来の弱者を想える牡丹はすごく格好良かった。顔を合わせたこともない僕らのために、辛い役を引き受けてくれた爛爛も、素敵だと思う」

 弟の声はいやに熱っぽい。パースリーは、タイムが勇ましい判断に至った原因の一端を、自らも担っていたと知り、複雑な気分になった。

「縁遠い誰かへ献身する尊さを、この旅が教えてくれた。もしかしたら、僕は死霊の無念に操られているだけなのかもしれない。こうして救われる人なんて、本当はいないのかもしれない。――でも、この思いを遂げたいんだ」


 タイムの願いを引き継いだかのように、或は二人一緒に畳みかけるかのように、切れ目なく、セージが語り出す。

「ドニが来たら、今度は俺が矢面に立つ。もう君たちを傷つけさせはしない」

 あまりの鈍さに、パースリーは落胆する。今はタイムが傷つくのも、セージが傷つくのも一様に辛い。それを分かってほしかった。

「違うわ。私の気持ちを汲んでよ!」自らの声は、聞くに堪えない。「みんなでドニから逃げようって言ってるの。セージだけに負わせようだなんて、これっぽっちも考えてないの!」

 揚げ足を取れば、後ろめたくなったセージが考えを変えてくれるかもしれないと、そんな、不埒(ふらち)な期待にみすぼらしく(すが)っている。耳を塞ぎたくなるのは、それを自覚させられるからだ。


「気遣ってくれて、嬉しいよ。でも、俺にはそうされる資格なんて無いんだ……!」

 セージが要らない自嘲を始めた。パースリーは更に苛立つ。

「すまない……俺は君たちを利用していた。君たち二人を盾に出来ると期待していた。俺が家出に踏み切ったのは、姉弟に(そそのか)されたからだと、母が考えてくれるように」


 調子外れの独白が(わずら)わしい。露悪的な態度も気に食わない。

「今更よ。私もタイムもとっくに気付いてる。でも、セージは狼に立ち向かってくれた。カナートに残ってカランの気を引こうとしてくれたじゃない。それで相殺(そうさい)なの。分かってよ……!」

「そう、なのか……?」

 それきり、セージは黙ってくれた。


「姉さん。僕は大丈夫。覚悟は出来てるから。僕の身に何が起こるとしても、全部受け入れてみせる。だから、心配しないで?」

 続くタイムの、聞きたくもない一言が臓腑(ぞうふ)を打つ。それで、もう、パースリーは自制心を保てなくなった。だらりと開けた口から、どろどろの(おり)が滴り落ちる。

「寄って……(たか)って……私の意思を捻じ曲げようとするのね。何で分からないの? 疑惑を晴らすのは大人の仕事なの。子供の仕事じゃない。私たち子供は、自分たちの未来に集中するべきよ。色んな景色を見て、色んな人と話して、知見を深めて、父さん母さんみたいに立派な大人になって。――知らない誰かに優しくするのは、それからでいいじゃない。ね……?」


「パースリー、それは違うよ? タイムもセージも、君を捻じ曲げ――」

 牡丹も分かってくれない。機械の癖に不合理だ。もう何もかも大声で掻き消してしまいたい。

「違わないでしょ! いいわよ、もういいわよ……! みんな勝手にすれば――」

 しかし、この泥濁りの放言は、

()めてよ、姉さん!」

 タイムの叱責によって()き止められた。

「僕だってさ、父さん母さんの愛した景色を眺めたいし、色んな人たちと話したい。それは素晴らしい経験だと思うよ? きっと、沢山の知見が、僕らを成長させてくれる」


 弟は、失望(まみ)れの声を丸く優しく響かせる。配慮と苦心がありありと見て取れた。だから、パースリーは言葉一つ挟めない。

「姉さんの言うことはいつだって正しい。僕はずっと、姉さんのようになりたいと思って生きてきた。でもね。旅する中で、ちょっと、思い始めちゃったんだ……」

 弟は、その先を言い淀む。ほんの少しの戸惑いを経て、彼の瞳は、より強い決意に彩られた。

「これからも、見て、聞いて、知り続けて……その先で姉さんは、どういう人間になりたいのかなって。……僕はね、今、知らない誰かに寄り添えないなら、新しい何かを知れなくてもいい。本気なんだ。どうか、この思いを認めてくれる姉さんであってほしい」


 パースリーの思考が停止した。

 ――知れなくていい、だなんて。

 漂白された精神世界のそこかしこから、寂れた灰色が滲み出す。すぐ隣に座っているのは、脱皮を果たした弟の抜け殻だった。置き去りにされた愛情が、みるみるうちに黒化していく。

「もういい。二票に一票、それで決まりでしょ。私の意見なんて、最初から必要なかったの」


 吐き捨てて、荒んだ清々しさに包まれた。これで、話は終わり。そのはずだったのだが。

「パースリー?」

 爛爛の、冷たい声に背筋をなぞられて、パースリーは震える。

 名を呼ぶだけで身も心も()て付かせる程の冷徹を、この日、初めて耳にした。

「最低最悪の()台詞(ぜりふ)を吐かれましたね? 不愉快です。さすがに言わせていただきます」


 黙っていてほしい。一晩眠れば、わだかまりも何となく薄れる。そうなれば、自分だって皆の手伝いを始める。不服でも、やるべきことはやる。だから、掘り返さないでいてほしい。

「あなたは二人の決断が如何(いか)に重いかを十分理解しているはず。ならば、()じらせ()じらせ言葉を(ろう)していないで、はっきりと(おっしゃ)るべきなのです。二人だけが大事だと。未知なる被害者など、比べるに値しないのだと」


 恐るべき一言がパースリーの胸を抉る。

 違う。人の命は等しく大切なもの。隔てなく愛するべきものだと、両親が言っていた。

「違うわ! 私、そんなこと思ってない……!」

「そうでしょうか? それでは、こう仰ればよろしいのです。二人だけで頑張って。私は先にルハンへ逃げるからと。大丈夫。牡丹なら、そんなあなたにも喜んで力を貸しますよ」


 誰も、そのようなことは望んでいない。

 三人一緒にサルティナを去る。それが皆の望む未来だ。タイムもセージも、牡丹も黒鶴も望んでいるはずの未来だ。勿論(もちろん)、爛爛だって同じ思いでいるべきなのに、何故。

「止めて、爛爛。なんでそんな酷いことを言うの……?」


「あなたが、綺麗事ばかりを頭に巡らせていらっしゃるからです。ですから、全ての言葉が化粧臭い。私は存じております。その苛立ちの原因は、タイムが自らの願いだけを身勝手にぺらぺらと止めどなく喋るから。姉の意に背く弟が、面白くないから。ねえ、そうでしょう?」

「そんなこと……! 私は姉さんで、タイムは私の一番で、だから、そんな……」

 パースリーは反論の手掛かりを模索する。

 必ず覆さねばならない。そうしなければ、自分は自分でいられなくなってしまうと、心身の(すべ)てが叫んでいた。だが、しかし、

「パースリー」

 更なる冷徹に脳髄は降伏し、早々に働きを止める。


 空色の眼光。瞳孔すらも塗り潰す不気味な蛍光色。無機の身に秘めた氷れる怒りが、ひしひしと伝わってくる。今、その白雪の手に触れられたなら、魂まで凍ってしまいそうな――。

「絆を結んだセージとタイムに肩入れするのは当然です。ドニの脅威を目の当たりにして、逃げたくなるのも理解出来ます。姉弟で意見が食い違う。それはとても悲しいことでしょう」

 彼女は理解を示すような文言を並び立てる。けれども、それを語る声調には、温もりなど一切含まれていない。


「人が当たり前に有する弱さを、まずは認めるべきなのです。が、あなたはそれらを恥と見做(みな)し、今も目を逸らし続けています。そのように浅はかなあなたが、タイムの理解者を装い、弄言(ろうげん)を駆使して尊い決断を捻じ曲げようとしている。言語道断です。(おぞ)ましい同一化願望です」

 パースリーは息が出来ない。暗転した視界の端で、タイムの瞳がゆら揺れた。

「タイムはとっくに決別しましたよ。姉には悪いけれど、亡くなった人々に尽くしたい。怖いけど、歩みを止めたくない。皆と(たもと)を別ってでも、臨みたい。旅で得た経験、知識、感傷の全てを残らず()り合わせて、タイムは一つの意思を創り上げました。ですから、傲慢な姉の意見になんて、影響されませんので」


「傲慢? 私が? そうなの、牡丹?」

 指摘が苦しくて、タイムにも見放された気がして、磨り減ってしまった魂が救いを求めた。

「傲慢は、言い過ぎかな」完全には、否定してくれない。「でも、いずれは。……タイムは死者の念を、セージは公の正義を拠り所にして、確かな一歩を歩み始めている。寄り添いたい何かのために、知識と成長はあるんだ。寄る辺無き知識と成長は、時に人を傲慢にさせる」


「なら、私はどうすればいいの?」

「僕には答えられない。君自身が見つけ出さなければ、意味がないから。……でも、敢えて、助言をするならば……。(おの)ずから湧く感情は全て、つぶさに見つめた方がいい。醜くあっても、目を逸らさない方がいい。セージも、タイムも、そうやって道を定めたようだから」

 自罰意識と劣等感。それらを育むべきなのか。今からでは、難しい気もする。

「或は、傲慢を受け入れた上で、好きに生きるのもいいさ。どこかで後悔するだろうけど、まだ、十四なんだから。納得出来ないまま二人を手伝うというのなら、僕も一緒にそうする。一人で逃げると決めたなら、僕は行く手を阻む全ての敵を排してみせる。君が二人を支配したいと願うなら、僕は、僕の妹たちをも打ち倒そう」


 これまで堂々と道を切り拓いてくれた牡丹が、今はどれもが正しく、どれもが誤りであるかのように、坦々と、芯のない声で語る。

「……流れに身を任せてもいいだろう。二人に寄り添いながら、僕と一緒に、何かが変わる切欠を待とう。二人が君の元から去ったとしても、僕だけは、ずっと(そば)にいるから」

 言い終えて、彼女は淡い微笑(ほほえ)みを向けた。


「何それ。多過ぎて、全然分からないよ……」

 パースリーは根を上げる。助言を得ても、頭はこんがらがったまま、一向に整わない。それでも、新たな篝火(かがりび)が灯った気がした。不確かな焦燥だけは、どうにか鎮まってくれた。

 何も分かっていないのに、笑えてくる。


「甘過ぎます、牡丹は」

 爛爛の声に人並みの体温が戻った。

「甘いわね、牡丹は」

 通信の向こう、遠方から来る黒鶴の声が、頭を撫でるように響く。


「今、決め切らなくてもいいんじゃないか?」

 物事をはっきりと決めたがるセージでさえ、どっちつかずの態度をみせる。そうされると、パースリーは、何でか頷いてはいけない気分になり、

「私なら、もう大丈夫だから」

 と答えたが、彼は撤回しなかった。


「いや、大丈夫じゃない。俺たちには対話が必要だ。タイムとももっと話し合うべきだし、俺だって、君に直接思いを伝えたい。直接悩みも聞きたい。俺たちは急ぎ足でここまでやって来た。元々やるべきだったことを、今回はしっかりとやろう」

 言って、乾いた笑い声を聞かせる。

「まあ、急がせた俺が言うことじゃないが……」


 セージの自虐へ、うんと頷いて、牡丹が締めた。

「僕も賛成だ。この先どうするにせよ、ルハンに渡ってから困らないよう、きっちりと準備を済ませておきたい。結論を出すのは、それからでいいと思うね」

 パースリーは、諸々(もろもろ)を先延ばしにさせたことが申し訳なく、しかしこの結果に安堵を覚えもした。タイムとセージの道は険しく、彼らを肯定してしまえば、自らも険しい道を歩まざるを得ない。共に挑めば危険。独り逃げて後悔。当然来るべき未来に、未だ、怖れを感じている。


「考えてみるわ。少なくとも、惨めな後悔だけはしないように」

「ああ。お互い、悔やまないように。……君たちに会える日が待ち遠しいよ」

「僕もだよ。セージ、道中気を付けてね」

 声を掛け合ったことで、今まで高まり続けていた内圧が和らいだ気がした。家族や友人を贔屓(ひいき)してしまう気持ち、自分が傷付きたくないという気持ち、弟に先を越されたくないという気持ち。言われてみれば、それらは誰もが持ち得る弱さであって、誰かがその全てを持っていたとしても、(けな)す者などここにはいない。


〈知らない誰かに寄り添えないなら、新しい何かを知れなくてもいい〉

 弟がもたらした衝撃は、未だ心をざわつかせていた。けれども、爛爛と牡丹に叱咤激励(しったげきれい)された今なら、このざわつきも、善き変化の予兆に感じられる。

 ――まずは、知らないタイムに寄り添ってみよう。

 (にわ)かに楽しくなってきたパースリーは、しょうもない奴め、とふらつく自分を馬鹿にした。

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