10:悔いる老婆(前編)
セージは早朝の凍てつく空気を肺に掻き入れ、吐き出し、一息に体の熱を取り払う。
瞬間的に高まり、制御は困難かと思えた心臓の鼓動は、それで幾分かましになった。
草むらには自分と、打ち倒すべき敵――黒鶴の姿しかない。芝の香り。こんなにも青臭く匂い立つのは、いつもより力強く、脚が動いているからだ。沢山の葉が磨り潰されているからだ。今朝はすこぶる調子がいい。
槍に見立てた木の棒を長く構え、緩んだ脇をしっかりと締めて、遠く立つ小さな影に穂先を重ねた。冷たいそよ風が、排熱を助けると共に、現状を俯瞰する余裕を運んでくれる。
相対する黒鶴は、普段の涼しげな困り顔を崩さず、当然、呼吸に少しの乱れも無い。セージはその理由を、彼女が機械だから、ではなく、二人の間に絶対的な力の差があるからだ、と捉えている。なのに、いざ戦いに熱中するといつも、謙虚であることを忘れてしまう。今日は必ず勝たねばならないとか、負けたら恥だとか、不相応な理想で頭が占められてしまうのだ。
――焦っては攻めも精彩を欠く。落ち着けよな、俺……!
そうやって、今一度自らを戒める。この先、防戦一方になることは間違いなく、その中でどれだけ身体への負担を減らせるか、どれだけ自身の調子を整えられるかが肝だった。
いいようにされるつもりはない。反撃を狙うだけの気力は残っている。
――例え困難でも、やり返せ。
自らを、強く鼓舞出来ている。
黒鶴が前傾姿勢をとった。セージは集中して、彼女の動きを計る。
人間相手に学んだ間合いの感覚は、機械である黒鶴に対して有効に働かない。癖に頼れば、あっという間に取り返しのつかない事態に陥る。
昔師事した武芸者は、恐ろしい気迫と技を用いて滅多打ちにしてくれたものだが、その踏み込みには人間の限界があり、稽古が進むにつれて対応出来るようになっていった。しかし、黒鶴の攻めは正に変幻自在で、稲光の如き苛烈さで打ち倒されたこともあれば、人間離れした急停止、急加速の妙により欺かれたこともある。だから、格段に手強い。
――次はどう来る?
そう思った瞬間、彼女は動いた。
長い白髪が、黒鶴自身の生み出す風に乗って靡く。平野の草葉を巻き上げながら迫る。彼女は最高速で、真っ直ぐだ。セージは、最短で繰り出される蹴撃を警戒した。
――上か、下か。
棒を持つ手に力を込める。徒手空拳の少女へ武器を振るう――そんな罪悪感に苛まれたのは、最初のうちだけだった。
間合いに入る直前、黒鶴が跳ね飛ぶ。上。セージは下肢を沈めて、小手を撃つべく放たれた回し蹴りを柄で受け止め、力一杯弾いた。見た目の勢いに反して、手に加わる衝撃は軽い。得物と手首を壊さぬよう、寸でのところで力を抜いてくれるからだ。
手加減に触発され、憤っていたのも過去の話。もう、当たり前のことになってしまった。
黒鶴は、大胆な蹴りの後も頑として主導権を手放さない。セージは機先を制するため、彼女の側面に回ろうとした。しかし同時に、機械の右手が発射され、回避を強要される。
――反撃に固執するな! 雷に討たれるぞ!
今や、心身共にあの掌を怖れていた。一撃必負。黒鶴相手に気が抜けない最大の理由だ。
セージは、膝をバネにして後方へ跳ねる。黒鶴が繰り出した横薙ぎの左手は、今の今までセージがいた場所――もう誰も居ない虚空を切り裂いた。黒い幅広の袖が、その軌跡を追う。
黒鶴は足裏から気を吐き、天高く跳躍した。セージは彼女を目で追わず、急ぎ無軌道に駆ける。耳に届く、三つの打音。見なくとも分かる。雷釘が空から降り注いだのだ。
続いて、鈍い音。黒鶴が地に降りた。セージは更なる投擲を予見し、彼女へ向き直りながら棒を払ったが、手応えがない。すぐさま払い返すと、遅れて飛来した雷釘を打ち落とせた。
――今だ、攻めろ!
黒鶴の動作を注視しつつ、走り込む。投げられた雷釘の一本は体を逸らして避け、一本は棒を楯にして防いだ。三本目と共に、再び右手が放たれる。雷釘は命中しない。手は叩いて逸らした。そうしていよいよ、間合いに入る。
セージは片手だけを用いて棒を振るい、黒鶴の攻撃を誘った。彼女は後ろに下がって棒を避け、残った左手を構える。それを予期していたセージは、掌が射出される刹那、身体を大きく前に倒して避けた。転げないよう地面を叩き、力ずくに体勢を戻して、黒鶴を追う。
両手を失った彼女に、攻撃を防ぐ術はない。間合いも十分に詰めた。
棒を引き、気迫だけを先に放つ。彼女はトッと地を蹴り、左方へ跳ぶ。
要らぬ身躱し。もう一歩踏み込めば、有利は更に際立った。
セージは柔らかく体を捻って得物に力を溜め、渾身の突きを繰り出す。
――勝った!
その一撃は、見事黒鶴の喉を穿つ! そうなるはずだった。が、不思議なことに――。
――は?
舞い上がる芝。耳に残る乾いた音。得物は鋼のブーツによって真っ二つに折られ、故に、彼女には当たらなかった。黒鶴は両足を揃えたまま、予備動作も無く跳ね上がり、背面宙返りをしながら棒を蹴り砕いてみせたのだ。そんなこと、あってはならないのに。
初めて見た技の、あまりに人間離れした動きに呆然とさせられたセージは、彼女が跳んでから着地するまでの、決定的な隙を突けなかった。あれは、追い詰められた黒鶴がやむを得ず採った、苦肉の策だったのだと気付いた時には、もう遅い。
悠々と着地した黒鶴は、目にも止まらぬ速さで前蹴りを繰り出し、無防備のみぞおちを抉る。
セージは激しい痛みに堪らず蹲り、咳き込んだ。
朦朧とする頭。パースリーたちと別れてから今日に至る、全ての朝が思い出される。
――もう、何度倒されただろうか。
俺は強くなりたい。勇んで朝稽古を申し込んだ。黒鶴に一撃与えれば勝ち。そのような取り決めでは、簡単に達成してしまえると驕っていた。しかし現実には未だ、黒鶴が全勝、自分は全敗。情けなく、惨めで、立つ瀬がない。
自尊心をずたずたに引き裂かれるこの屈辱も、受け入れられるようになった。それどころか今は、繰り返される敗北のパターンから僅か抜け出せただけで、喜びさえ感じてしまう。
セージは奥歯を噛んで痛みを紛らわせ、棒切れを片手に立ち上がる。黒鶴を睨みつけて燃えがらの戦意を示すと、彼女は数歩飛び退き、再び距離を設けた。
構えてみて、セージは実感する。両腕はもう攣りそうで、膝も笑い、腹に力が入らない。対して黒鶴は、既に両手が戻っており、美しく、完全だ。
舌打ちし、破れかぶれに突進する。体の悲鳴を無視し、壊れた得物で粗雑な攻撃を続けたが、当然の如く全てを往なされ、額を小突かれてよろめき、倒れた。仰向けに転がったセージの視界に、稽古前から何一つ変わらない、黒鶴の顔が映る。
「これまで」
緩んだ彼女の口から、終わりが告げられた。息も絶え絶えのセージは、悔しさに目を瞑る。
稽古初日、一度目の手合わせを始める前に、黒鶴と一つの約束を交わした。
〈いいこと? 限界を悟ったら、とにかく一撃を繰り出してから倒れなさい〉
大振りでも、何でもいいから一撃を。死に物狂いの悪あがきが命運を決することもある。体に刷り込ませても、心に刷り込ませても役立つ教えだった。セージは、意識あるうちに終えられた全ての立ち合いにおいて、必ず言いつけを守っている。
初めて敗北を喫した日に味わった恥辱。それも未だに続いていた。
黒鶴は勝利すると決まって、敗者の上半身を裸に剥き、その小さな手で体のあちこちに触れる。疲れを翌日に持ち越さないための処置だという。最初にそうされた時、黒鶴に肌を晒すのが恥ずかしくて、疑いようもなく辱めに思えて、セージは、
〈何をするんだ!〉
と大声で叫んだ。しかし彼女は、
〈負け犬は黙ってなさいな〉
涼やかにそう言い放ち、後の抗議も全て無視したのだ。
最近は、為すがままに任せている。そうすれば、負け犬よばわりだけはされずに済むから。
全身をくまなく撫でる黒鶴の手は、氷のように冷たい。身体にこもった熱が抜けていく感覚は心地良く、セージも今では、この狼藉を半ば認めてしまっていた。
しばらくそうしていると、今度はトルソーが現れ、体を曲げたり、引っ張ったり、捻ったりして解す。彼女の手つきは優しく、黒鶴と違って視線を感じないので、気が楽だった。
最後に再び黒鶴が、人肌の熱を帯びた掌で全身を揉んだり、叩いたり、そんなことを始める。忌々しいことに、怒り心頭だった初日ですら、この段階まで来ると嫌悪感も薄れ、むしろ、体全体に広がる浮遊感に蕩けてしまっていた。
確かに、翌日にはすっかり疲れが取れる。セージも、次こそは辱められまいと日々真剣に戦い方を模索する。悔しいが、この儀式があるから、苦しい稽古にも係わらず、心身共に晴れやかな気持ちで次に臨むことが出来るのだ。
それから少しの間、野草が密に生える大自然の稽古場に寝転がり、流れる雲を目で追い続けた。屈辱を受けた怒り、無力な己への怒り、黒鶴に向けた妬み嫉みが治まるまで、絶対に話しかけない。これは、セージが自らに課した規則だ。
「……そろそろ、街へ戻ろうか」
「ええ」
草原を去り、間引きが行き届いた雑木林の、寄る辺の無い侘しさを味わいながら、並び歩く黒鶴へ尋ねる。
「タイムたちの調子はどうだろう?」
「……またなの?」呆れ声が返った。「通信なら開いてあげるから、直接尋ねなさいな」
黒鶴の怒りは正しい。
「それは、ちょっとな……。二人に、格好悪いところを見せてしまったから」
「格好悪い?」
「ドニに当たり散らしたことが、さ……」
「あの時の? 舌打ちをしただけじゃない。誰も気にしていないわよ」
心底馬鹿馬鹿しそうに彼女は言った。
「そんな理由で十数日、労わる言葉の一つも掛けないだなんて、どうかしているわ」
実のところ、もう一つ理由がある。ドニと渡り合った姉弟に嫉妬しているのだ。それを自覚したセージは、二人と話すのが怖くなった。
「まあ、いいわ。――牡丹とトルソーは、ほぼ修復し終えた。タイムの腕はまだ全然。でも、痛みは大分引いたようだから、しっかりと固定して、明後日には出立するそうよ」
「……そうか、なら良かった。俺らも同じ日に?」
「少し遅らすつもりだわ」
「なら、今日がいいな。やりたいことがある。黒鶴、トルソーも手伝ってほしい」
黒鶴の顔にほんのりと、好奇の色が浮かぶ。
表情の変化に乏しい黒鶴だが、最近は随分、機微を掴めるようになってきた。疑問の解消を望む時、彼女はいつも、閉じ気味の瞼と下がり気味の眉尻を、それぞれ少しだけ上げる。
「何をしようと言うのかしら?」
「情報収集だ。出来る限り派手にやりたい」
時間はたっぷりあったのに、何故今更。黒鶴はそう言った。時間が空き過ぎたからだ、とセージは答えた。カナートの件から大分経つのに、カラン側の動きが一切見えない。セージの側にも、パースリーの側にも、一度たりとて接触が無かった。行動に移さない理由があるのか、或は見失ったのか。揺さぶりも兼ねて、人攫いの話を聞き回ってみたくなったのだ。
「ついでに、タイムの応援もしたくてね。被害者に報いたいって気持ち、俺にもよく分かる」
懸念も願望も説明すると、黒鶴は、素気なくだが承諾してくれた。
路の終わりが見えてくる。必要な話を終えて二人、このまばらな林道に相応しい沈黙を守り、樹々がもたらす清浄な空気で身を濯いだ。生活圏――真白の壁はもう近い。セージは、これからの行いに思いを馳せて一人、黒鶴に悟られないようにやけた。
一行は、シングの南東に位置する小さな街、アムリサールに滞在し、鍛錬を積みながらタイムたちの回復を待っていた。
セージは現国主の息子であるものの、誰もが顔を知っている、というほどではない。だが、公務に同行して幾つかの街を訪れており、浅く交流した者たちに覚えられている可能性も否めなかった。だから、最終目的地であるシングへ先に入り、待機することを嫌ったのだ。
壁を潜り、古びた石畳の通りを歩くセージは、アムリサール中心部の広場で足を止めた。
「それで、何から始めるつもりなの?」
興味深げな黒鶴の問いに、はぐらかして返す。
「まずは、人助けかな。トルソー、黒鶴を肩車してやってくれないか」
「肩車? なんの意味があるのよ」
黒鶴は不満を示した。仕返しの機会を得たセージは、彼女を無視して続ける。
「失礼を承知で言うが、トルソーの魅力は外見から分かり辛いからな。少々威圧的なその見た目を、黒鶴の可憐さで緩和したいんだ」
「そう……」初めて聞く類の声音。彼女は白い髪を弄りながら言う。「トルソー、乗せて」
気位の高い黒鶴を説得するのは大変だろう、と予想していたが、案外素直に乗っかってくれた。肩車する二人は、全く見た目が違うのに、どこか母娘のような雰囲気を感じさせる。
「いい感じだ」セージは愛嬌の増した機械たちへ笑いかけ、宣言する。「では、始めようか」
三人並んで、人々の行き交う通りをゆっくりと歩く。
セージは声を張り上げ、この日一日中繰り返すべき文言を口にした。
「なんでも仰ってくださいね。僕の自律機械、黒鶴とトルソーがあなたたちの願いを叶えます! 何でもです! なんでも仰ってください!」
なるべく丁寧に、はきはきと。何よりも明朗さが大事。
内心笑ってしまう。パースリーの挨拶を化粧臭いと詰ったこの口が、化粧塗れの宣伝を行っているのだから。けれども、それもまた成長なのだと、最近は思えるようになった。要は使いどころだ。選択肢は多い方が良い。
呼びかけは、自律機械の稀な見栄えを助けにして、物好きたちの注意を集めていった。
程なくして、最初の願いが耳に届く。
一人目の依頼者は、商店の番をしていた女性だった。試してやろう、というふうに、固く蓋が閉まったジャムの瓶を渡される。
トルソーが楽々捻って解決すると、その成果よりも、自律機械に細やかな願いを聞き入れられたことが嬉しかったようで、大変満足した様子で店へ戻っていった。
二人目の依頼者は、小さな男の子だった。トルソーの存在感に気圧されたらしい母の隣で、無邪気に肩車をしてくれとせがむ。
トルソーが恐る恐る持ち上げて別世界の視点を贈ると、彼はほくほく顔で歩いて、跳ねて、回ってと次々に指示を出す。しばし戯れて別れ際、
「またやってね」
と手を振られた時、セージは、曖昧に振り返すしかない一期一会の哀しみを痛感した。
徐々に、群衆のタガが外れていく。願いは段々と遠慮ないものに変わっていく。それは、セージの望むところだった。
「荷車の車輪を直してはくれないか」
「珍しい服を着られていますね。構造を教えていただけないでしょうか」
「最近、うちの娘が元気ないの。どうか、診察をお願い出来ないかしら……?」
対処に時を要するものも増えてきた。その間、セージは待ち人と語らい、人攫いの存在に心を痛めている旨、少しでも情報が欲しい旨を伝える。
施せば、返礼をしたくなるもの。中には他人に関する情報さえ、まあいいか、と軽々しく口にする者もいた。仕上げに、願いが叶った人々へ、悶える心を抑えつつ、
「もし、周りに困っている人がいたら、僕のことを教えてください。僕は、僕の従える自律機械たちの力を正しいことに使いたいんです。皆の笑顔が見たいんです」
と、歯の浮く台詞を吐くと、聖人がやって来た、などと感激する声も上がり始める。
――嘘は吐いていないはずだが。存外に胸苦しいな。
セージは、只今描いた虚栄自画像を客観的に眺め、あまりの美麗さに寒気を覚えた。かのセージが花開かせた民衆の笑顔は、紛れもなく本物であるから、尚更気が塞ぐ。
その後も依頼をこなし続け、昼過ぎに、賑わいは最高潮へ達した。
黒鶴たちは人々に囲まれて、どこか楽しげに、忙しない時間を過ごしている。
トルソーはその卓越した膂力を駆使して、大の大人が時間を掛けて行うような作業を軽々と片付けていく。黒鶴は知識と計算を用いて、様々な問題へ的確な助言を授けていく。
特に住人を喜ばせたのは、前史時代の技術に基づく医療行為だった。どうやらそれは黒鶴の得意分野であり、依るべき信条でもあるらしく、処置の礼を受ける彼女の表情は、今までセージが見てきたどれよりも眩しい。
普段の黒鶴は、薔薇の棘に似て上品な毒気を有しているが、それも今は鳴りを潜め、母性めいた優しさを人々に振り撒いていた。
以前パースリーは、黒鶴姉妹らが己の力を隠したがる理由をこう推察した。
〈頼られたいから、っていうのはどう?〉
セージは、正に今民衆に頼られている機械らを眺め、その論が的を射ていると確信する。
黒鶴たちは時に力を隠し、時に力を尽くし、言動と態度、演出を駆使して人々の愛を集める。恐らくは、そうする先に目的がある。重要な目標を隠しているのだ。
――であれば。彼女が時折突き放してみせるのは、俺の本性を見抜いてのことか。
筒抜けに違いない。そう考えて、セージはこそばゆくなった。
日没を迎え、最後の依頼者が去ると、野次馬も、事態を見守ってくれた憲兵も解散し、アムリサールの広場に静けさが戻る。セージは、名残惜しそうに佇む黒鶴たちへ感謝を述べた。
「お疲れ様。そして、ありがとう、二人共」
すると黒鶴が、先程民衆へ見せていたのと同じ、眩い笑顔を見せてくれる。
「楽しかったわ。中々の充足感ね」
セージは思う。白昼の、光溢れる中でこの笑みを向けられた民衆が羨ましい、と。若しくは、街灯の頼りない光の下、影深い笑みを独占出来た自分の方が、恵まれているのかもしれないが。
トルソーが右手を握り込み、親指を立てた。セージも同じ形の手を作り、彼女を労う。
「それで、成果はあったのかしら?」
セージは掌を広げて黒鶴に見せた。きょとんとする彼女を愛でつつ、まず親指を折る。
「この街に店を構えるある商人は、アムリサールのみならず、国の隅々にまで顔が売れていると聞いた。もしかすると、カランと何かしらの繋がりがあるのかもしれない」
次に、人差し指を曲げる。
「壁の近くに住むある女性は、その昔は法官で、時折子供に向けた講義を開いている。彼女はある人攫いの裁判に関わっていたそうだ」
続いて、中指。
「裏通りで薬屋を開く老人は、昔、人に言えないような仕事に従事していたらしい」
薬指。
「夫を拐かされた未亡人。当時の状況を逐一覚えているというが、どうだろう」
そこまで述べて、口を閉じた。
「小指は?」
希望通りに返されてから、小指を折る。
「皆の笑顔。それが一番の成果だよ。当たり前じゃないか」
照れ隠しだが、本心でもあった。自分の望みを果たす時、代わりに誰かへ負担を強いるのではなく、共通の利益を得られるよう努めたい。遅まきながら、セージは、そう出来るセージになろうとしている。パースリーとタイムに触発されたのだ。
「そう。それで、誰に会うつもりなの?」
さらりと流す黒鶴へ、予め用意しておいた答えを聞かせる。
「元法官の女性かな。商人の話は大言壮語に過ぎて信用がおけない。薬屋も未亡人もそれなりの話を聞かせてくれそうだが、末端の情報に終始するだろうな。上には繋がらない」
「よいと思うわ。その裁判とやらが、カランに関係していることを期待しましょう」
あっさりと承服されたセージは、俄かに高揚する。
手土産は何にしよう、語り出しはどうしようか、などと楽しく語り合いながら、三人並んで宿への帰路を歩んだ。