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ドゥームズデイクロックス  作者: tatsukichi_ohta
1/24

01:少女少年

 パースリーは、自身を束縛するあらゆるものにうんざりしていた。


〈縛りつける? 暢気(のんき)なものだね〉

 意地悪な同居人は時折、ビオラに似て(つや)のある声を響かせ、パースリーの鬱屈(うっくつ)揶揄(からか)う。

〈確かに、束縛とは対象の自由を制限する行為全般を指すが。君たちの場合はそんな生易しい言葉で片付けられるものじゃないだろう? 外出を許されない。限られた人にしか会わせてもらえない。そうされる理由も知らされていない。――これは、立派な軟禁だよ〉

 彼女の言葉には同意する。だが、少々辛辣(しんらつ)な物言いだと思いもする。


 机に並べた十数枚の絵葉書。それらに封じられた水彩景色を見比べながら、パースリーは空想に(ふけ)った。緑色の花だけが咲くという魅惑的な翡翠庭園(ひすいていえん)に、小麦畑を見下ろす大粉挽風車(だいこなひきふうしゃ)。虹を映す水飛沫(みずしぶき)青藍(せいらん)の噴水広場。千年を経て未だ(のこ)前史文明(ぜんしぶんめい)の遺跡、機械仕掛けの墳墓(ふんぼ)。今すぐ屋敷を飛び出して、かつて父母も訪れたこれらの地を巡り、見て、知って、記憶に刻みつけたい。本心ではそう思っている。しかしながら、行動を起こさずにいるのもまた、自らの意思に違いないのだ。


〈成人するまでは、叔母(おば)さんの言うことをちゃんと聞くように。ね?〉

 パースリーは、九歳の時に母から聞かされた遺言(ゆいごん)を、十四歳までの五年間、一途に守り通してきた。母との約束を通じて、叔母の束縛を受け入れてきた。

 成人の儀が執り行われるのは、明日。無論、その後の振る舞いは決めていた。

 ――私たち、家出するんだ!


 絵葉書を本に挟んで棚へと戻し、図書室を出る。硬い赤土の踏面をこつこつ鳴らして階段を登り、突き当りを右へ。立て付けの悪い樫の扉を力一杯押し開けて、自室に入ると、パースリーの頭に奇異なる同居人の挨拶が届いた。

〈おかえり、パースリー〉

 猫の欠伸(あくび)に似た響き。こういう声を聞かせる時、彼女は大抵、部屋のどこかに隠れて寝転がっている。


 クロゼットの中に当たりを付けたパースリーは、花柄刺繍(ししゅう)が入った橙色の埃よけを払い、バスケットの取手を両手で掴む。腕から伝わる確かな重み。同居人の存在を確信して心弾ませ、背中を反ってバスケットを引き寄せ、部屋の中央に運んでから白絹(しらぎぬ)の覆いを取り去った。

 現われた端正な顔をじっと眺めつつ、部屋の外へ漏れないように、ひっそりと名を呼ぶ。

「ただいま、牡丹(ぼたん)


 牡丹は少女であるかのように見える。しかし、人間でないことは誰の目にも明らかだ。何せ、彼女の身長はパースリーの(もも)くらいまでしかない。そのうえ成長もしない。

 彼女は朱色の肌着に濃い紅色のマントを重ね、その下に白くすらっとしたズボンを合わせている。マントは足元すれすれまで伸びていて、レース飾りなども盛り込まれており、全く機能的な意匠でない。派手に過ぎる。


 亜麻色をした、つやつやの髪。その一部は頭頂で集められて団子を成す。

 前髪の上を飾る帯には、山吹色の星が五つ、横並びに縫い付けられていた。真紅に浮かぶ等積の五つ星。牡丹の(げん)によると、それらの意味するところは万物調和への願いであり、民主政という異国の政治信条を象徴化したものでもあるらしい。


 その肌は一点の(けが)れもなく透き通り、瑞々(みずみず)しく、白磁のようでありながらふわりと柔らかい。

 いつか、彼女を抱いて共に鏡を覗いた時、その(はかな)く白んだ肌と自らの褐色肌とを見比べて、パースリーはこう思った。私の肌がより華やいで見える。牡丹の肌もより(うるわ)しくなった、と。

 例えるならば、水鏡(みかがみ)に浮かぶ月と太陽。その幻想的な相関性に感極まって以来、彼女は家族に次ぐ大切な存在であり続けている。


「ねえ、牡丹。ねえったら。もう、挨拶したっきり?」

 幾度かの呼びかけ虚しく、牡丹は(まぶた)も唇も開いてくれなかった。

 パースリーは彼女の頑なな目を強引に広げ、(あけ)に輝く瞳を覗き込みたい衝動に駆られたが、怒り出すのは分かりきっていたので、やめた。

 後ろ髪引かれる思いを断ち切って、再びクロゼットの前に立ち、虎百合(とらゆり)の髪飾りを外して肩から垂れる二つ結いをほどく。そうしてばらけた黒髪を指で()きながら、牡丹へ問うた。

「今日はやけに静かじゃない。なんかあったの?」


 ややあって、頭の中に答えが返る。

〈明日は成人の儀だからね。さしもの君も感傷に浸りたかろうと思い、黙っていたのさ〉

「へえ、気遣い上手な一面もあったのね。知らなかったわ」

〈僕はずっとそうだったよ。思い出してごらん〉

「屋敷を出よう。素晴らしい景色が君を待っているよ」パースリーは指折り数えながら、牡丹がいかにお節介であるかを訴える。「異なる考えを持つ人たちも沢山いる。見て、聞いて、話して、学ぶんだ。さあ、屋敷を出よう。屋敷を出よう。……この繰り返し」


〈ほらみろ。気遣い上手じゃないか〉

 (わらし)みたいに邪気もなく言ってのける牡丹。再びバスケットを覗けば、その表情は先程から何一つ変わっていない。彼女は今も、目と口を閉じたまま涼やかに微笑(ほほえ)んでいた。

「気遣いじゃなくて、押しつけって言うのよ、それは」

〈そうだったかな。勉強になるよ〉


 七つを迎えた年に母から贈られた牡丹は、それから七年間、ずっと同じ調子でいる。

 彼女の話は多彩でどれもが含蓄に富む。パースリーも毎度楽しく耳を傾けるのだが、結びの句だけは単調でよくない。

〈外の世界を見に行こう〉あるいは、〈屋敷の外に知識を求めよう〉

 もしくは――、

〈そういえば。パースリー、成人の儀が終わったら、ちゃんと家出してくれるんだよね?〉

 たった今口にしたような、家出の意思確認だ。必ずどれかになるから、さすがに飽いた。

叔母様(おばさま)の出方次第ね。ま、結局は家出になると思うけど」


 九つを迎えた年に母が他界し、父は精神を()んで彼女の後を追った。それからは国主であった両親に代わり、母の姉である叔母(おば)がサルティナ(こく)の政治を取り仕切っている。

 叔母が両親を陥れたわけではない。叔母の(まつりごと)は堅実で、(おおむ)ね清く、欠点と言える欠点もない。それでも彼女を良く思えないのは、親に先立たれて間もない子らをさっさと軟禁してみせた非情さが怖ろしかったからだ。パースリーと双子の弟タイムには、父母を(いた)む時間さえ満足に与えられなかった。


〈――あの方は逆恨みしているのよ。妹夫婦が先に、国主の座についたから〉

〈――姉弟が可哀相(かわいそう)だ。憎い妹の遺児を飼い殺して、悦に浸るなんて〉

 屋敷で働く家人(けにん)たちが、声を(ひそ)めてそう噂するのも当然と言えた。

 パースリーは不思議に思っている。

「なんで軟禁なんてするんだろう? 私たちが嫌いなら、とっとと追い出せばいいのにね」

 後腐れなく放逐してくれれば、お互い楽になる。なのに、叔母は何故そうしないのだろうか。


〈疑問なのは僕の方だよ。そう思うなら、とっとと出て行けばいいのにさ〉

「母さんとの約束があるもの。それに、準備だって必要でしょ? 私はね、世界へ飛び出すための知識を溜め込んでいたのよ」

〈母君も、そんな意味で言ったんじゃないと思うけど。それに、知識は世界へ飛び出した後で身に着けるべきものさ。準備なんて必要なかった。この僕がいるんだから〉

 牡丹の雄弁さは時に感情を逆撫でする。そういう時は、ぴしゃりと言ってやるのだ。

「血も繋がってない癖に。母さんの何が分かるの?」


〈言ったな〉

 すると十中八九、牡丹は黙りこくる。

 パースリーは、彼女をバスケットごとクロゼットにしまい、明日の準備を始めた。

 深い碧色(へきしょく)の絹に白い刺繍模様(ししゅうもよう)が入った、上衣(うわぎ)とロングスカート。肩に掛ける同色の柄織物(がらおりもの)。美しいが気後れする正装を眺めるうちに、家出の決意は、より確かなものになっていった。


 翌朝。パースリーが廊下の窓から朝空を眺めていると、恥ずかしげな挨拶が聞こえた。

「おはよう、姉さん。待たせてごめん」

 窓から目を離して、双子の弟を見やる。タイムはどうやら、ひどく慌てて準備を済ませたようで、うなじの上で短く縛った髪先が、みっともなくあちこちへ跳ねていた。

 彼は立襟(たちえり)がぴんと張った比翼仕立てのシャツを着て、竹筒のように真っ直ぐ落ちたスラックスを履く。シャツは(みどり)で、スラックスは黒。色、形共に大変気取ったこの装いは、パースリーが思うに、タイムを喰う服だった。素朴で優しい彼の雰囲気に全くそぐわない。


 パースリーはひらひらと手を振りながら、朗らかに挨拶を返す。

「おはよう、タイム。成人おめでとう。儀式が楽しみね」

 いけない比喩に気付いたらしく、タイムは左目尻の泣き黒子(ぼくろ)を指で掻きつつ、苦笑した。

「まあ、そうだね……」

〈今朝も睦まじくて、大変よろしい〉

 床に置かれたバスケットから、牡丹の茶々が届く。


「重かったでしょ? 僕も持つよ」

 タイムは腰を屈めてラタンの持ち手へ手を伸ばし、片方をしっかりと掴んだ。パースリーももう片方を取り、

「せーの!」

 気持ちを合わせてバスケットを持ち上げる。

 その後、空いた手で覆い布をめくり、牡丹の顔を(あら)わにして、

「ありがとう、タイム」

 彼女の声真似をしつつ感謝を述べた。すると、タイムは頬を(ほころ)ばせる。

「どういたしまして、牡丹。じゃあ、行こうか」


 久方ぶりの驢馬車旅(ろばしゃたび)は、とても快いものだった。

 蹄鉄(ていてつ)の音は堂々として耳に良く、無作為に跳ねる車体に合わせて、パースリーの胸も(おど)る。絶え間ない振動が、伸び切った時間感覚を正してくれたような気がした。

 代わる代わる車窓を彩る美しい風景。やがては、この景色も含めたあらゆるところが自分のものになる。そうやって自由へ思いを()せると、自然と頬が緩んでしまう。


「ふふっ、気分いい」

〈あまり妙な態度でいると、計画を気取られるよ〉

 頭に響く牡丹の声音は、いつもとなんら変わりなく、無粋(ぶすい)だった。

 ここが自室であれば、良い気分に水を挿すなと文句を返すところだが、従者の前ではそうもいかない。パースリーは軽く咳払いをした後、黙して時を過ごした。


 しばらく経ち、驢馬車(ろばしゃ)は止まる。

 従者に続いて下車したパースリーの目に、赤土の祭祀殿(さいしでん)が映った。

 それは方形と円柱を整然と組み合わせて建てられた、完全なる左右対称形の建造物。エントランスの左右に(そび)え立つ二本の半円柱には、動植物の躍動的な姿が彫り出されたアーチ状のレリーフがびっしりと並ぶ。柱と柱とを繋ぐ透かし模様の装飾。窓によってそれぞれ違う柄の格子。どこに目を向けても見惚(みと)れてしまう。

 エントランスの向こうに伸びる円塔を見上げれば、可愛(かわい)らしい団栗帽子(どんぐりぼうし)の屋根が。お気に入りの絵葉書にも描かれていた象徴的な建築様式を前にして、パースリーは感動を覚えた。


 門前に立つ衛兵たちは、大半は仏頂面で、幾人かはにこやかな笑顔で迎えてくれる。

 そんな兵らが列する階段の上に、明らかに場違いな格好をした、一人の男子が混じっていた。

 姉弟とそう変わらない年頃に見える。タイムと同じ輪郭の、しかしそれよりもずっと装飾華美な衣服を着こなし、居丈高(いたげだか)に腕を組んで、来訪者を見下ろしている。

 短く無造作に流れる黒髪に、真っ直ぐで濃い眉。鮮やかな褐色肌。眼力がとてつもなく強い。彼の顔立ちは、パースリーが知る誰よりも野性味があり、その上大変美しかった。


 ――叔母の子だ。

 直感する。その身から漏れ出す自信、知性ある瞳の光は国主の系譜に相応(ふさわ)しい。家人たちも噂していた。次期国主は聡明であり、かつ息を呑むほどの美男子だと。

 しかし、違和感もある。彼の顔と、記憶に残る叔母のそれが結びつかないのだ。

 ――どこも似てないわ。いけ好かない雰囲気以外は。


 彼をまじまじと眺めて親子の共通点を探していたパースリーは、ふと、そんな些末事に入れ込む自分が滑稽(こっけい)に思え、噴き出してしまった。

「何が可笑(おか)しいんだ?」

 初めて聞く従弟(いとこ)の声には、当然、苛立ちが浮かんでいる。

 最悪の邂逅(かいこう)を果たしたと知り、パースリーは内省した。彼の不興が叔母の不興に繋がれば、家出に支障をきたしかねない。これは大失態と言える。


「申し訳ございません、高貴なるお方。そちらに立つ衛兵が、昨日(さくじつ)読んだ小説の敵役(かたきやく)にそっくりでしたので、つい……」

 けむに巻いて取り(つくろ)おうとしたが、

「題は?」

 予想外にも食いつかれ、逆に窮した。

「ガハガル川流域、です……」

「挿絵に描かれた敵役なんて、豚鼻(ぶたばな)のドルヴだけだろう。似ている者など、ここにはいないな」


 難なく指摘されて、パースリーは狼狽(ろうばい)する。

〈あくまでも、主観ですから〉

 その、更なる言い繕いを紡ぐより早く、彼は言い放った。

「媚びて、(かた)って、結局(から)せないとはな。君はつまらない奴だ」

 軽蔑が(あら)わになる。お前はこの(まなこ)に映す価値もない。そう罵られているように思えて、パースリーの内面――自尊心の鏡がひび割れた。


 言いようのない不快感に後押しされて、従弟へ吐きかける言葉を探し、見つけ出す。だが、激情が罵声(ばせい)となる直前、後ろで震えているだろうタイムの顔と、計画の頓挫(とんざ)に打ちひしがれる自分の姿が頭に浮かび、心身に急制動が掛かった。

「――度重なる無礼をお許しください。(わたくし)はパースリーと申します。以後、お見知りおきを」

「……俺は、セージだ」

 彼は、更に苛立った様子で大きく舌を鳴らし、タイムの名も聞かずに(ひるがえ)り、祭祀殿の中へ消えていく。

 パースリーはしばし立ち尽くした後、青ざめた従者に促されて階段を登った。


 成人の儀が済んで間もなく、パースリーはタイムと共に控えの部屋へ戻った。

 内装は祭祀殿の外観と同じく美麗な装飾で満たされており、家具も全てが上等。そんな中、床に置かれたバスケットだけが、自らの素朴を恥じらうかのように縮こまっている。

〈パースリー、あれはよくないよ〉

 頭に響く牡丹の声は、若干呆れ気味。

 パースリーは肩掛けの布を畳んで椅子の上に乗せ、ベッドの上に腰を下ろしてタイムを隣に招く。続いて座った弟は、マットレスの強すぎる反発に驚いたようだった。

「だって、堂々と家を出られるなら、それに越したことないじゃない」


 儀式の終了後、叔母から今後の生き方について告げられた。姉弟は墓守の役に就き、屋敷に隣接する霊廟(れいびょう)未来永劫(みらいえいごう)護るようにと。つまりは、死ぬまで軟禁されていろ、ということだ。

 勿論(もちろん)、国主の下知には拝命で応えなければならない。しかし、パースリーはそれを良しとしなかった。だから、毅然と彼女へ問うたのだ。

〈叔母様、私たち姉弟を放逐してはいただけませんか? これ以上、サルティナの庇護に頼るのは心苦しいのです。私たちは、私たちの力で生きていけます。ですから、何卒(なにとぞ)


 返る言葉は短かった。

〈そのようなことは、せぬ〉

 にべもない。平然と言い放った叔母の、震えるほどに冷徹な目を見た時、パースリーの中で覚悟が決まった。サルティナ国と法に挑戦するしかないのだと、改めて理解した。


〈やはり、あれか。セージの影響かな〉

 牡丹が言う。そうかもしれないと、パースリーは思った。

 叔母への問い掛けは、前々からやろうと決めていたこと。だが、実際には委縮して口を開けないかもしれない、などと考えてもいたのだ。軽蔑的な眼差(まなざ)しを寄こしたセージへの反発が、勇気を呼び起こしてくれたという可能性も否めない。


「そういえば、セージ様はなんで儀式の場にいたんだろう?」

 タイムが問うた。

「さあ? どうしてかな」

 サルティナにおける成人の儀とは本来、成人を迎える子供と保護者たる一族のみで執り行う小さな儀式である。それは、国主の遺児であるパースリーとタイムも例外ではない。(ゆえ)に、祭壇に立ったのは庇護者である叔母と、姉弟側の家人代表だけであった。


 しかし、国主の直系であるならば、話は変わってくる。血統の健在とは国内外に示してこそ意義があるものだから、当然賓客(ひんきゃく)を招く。それはそれは大々的にやる。セージが傍系(ぼうけい)の姉弟と共に、あまつさえ(ささ)やかな成人の儀を迎えるなど有り得ない。その有り得ないことが起きたのだから、野次馬心理も働くというものだ。

「本人に聞いてみる?」

 言うと、タイムが眉尻を下げる。

「それはちょっと、嫌かな……」


 パースリーも内心で頷いた。門前での高圧的な彼を見れば、二度と顔を合わせたくないと考えて当たり前だ。実際、セージとは今日限りの(えにし)であるから、幸いなはずだった。しかし、

〈是非とも尋ねてみてくれ〉

 牡丹の意味深長な言葉に続いて、扉を叩く音が三度。

 来訪者。パースリーは嫌な予感に苛まれながらも、牡丹が布で隠されていることを冷静に確かめ、タイムに離れているよう告げてから扉の前へ(おもむ)き、一回打って入室許可の合図を送る。


 扉が浅く開き、隙間から影が滑り込んだ。

「セージ様? どうしてここにいらっしゃ――」

退()いてくれ、パースリー」

 セージはにやけながらパースリーを手で()け、一直線にタイムの前へ歩み寄る。

「用があるのは、タイムの方だ」


「え? ぼ……僕、ですか?」

 怯えるタイムを案じることもせず、セージは興味深げに眺め回し、唐突に右手を突き出した。身を竦ませる弟。彼の頬に、血色の良い五本の指が添えられる。

「君が弱弱しく見えたのは、この泣き黒子のせいかと思ったが。本当に臆病なようだな」


 逡巡(しゅんじゅん)もなく発せられた侮辱が、パースリーの怒りを再燃させた。またぞろ(うごめ)き出した熱い情動に従って、ずいずいと二人の元へ迫り、横合いから抗議する。

「失礼ではありませんか、セージ様」

「ん? ああ、そういうことか」セージは目を細めて姉弟の顔を見比べ、言った。「タイムは優しい優しい姉さんに甘やかされて生きてきたんだな。……可哀想に。同情するよ」


 タイムの顔が悲痛に歪む。胸を掻き乱されたパースリーは二人の間に割って入り、セージを睨みつけながら、先程よりも声高(こわだか)に訴えた。

「お言葉ですが、こんなに短い時間でタイムの何が分かるというのですか!」

「時間など関係ない。臆病はタイムの本質だ。俺には分かるし、彼だって自覚している。逆に、君のことはまるで分からないな。化粧臭過ぎるんだよ」


 あんまりな物言いに、頭が真っ白になった。もう何に配慮するのも嫌気が差して、本心のまま鋭く()える。

「嫌な奴。謝りなさいよ!」

 セージがにんまりと笑う。

「へえ、どちらに?」

 下卑た目つき。その薄ら笑いがどうしようもなく不愉快で憎らしい。パースリーは、己の内側に轟いた稲光(いなびかり)に突き動かされて、右手を振り上げる。

 その時。


「――そこまでだ、パースリー」

 牡丹の芯ある美声が、赤土の部屋に響き渡った。

 パースリーは、一瞬にしてその音色(おんしょく)に心奪われる。長らく聞くことのなかった牡丹の肉声に驚き、怒りを保てなくなった。張り詰めた腕から害意が失せていく。

「君から手を出しては後々(のちのち)良くない。僕が()さ晴らしを代行してあげよう。任せてくれるね?」

「うん、お願い」


「誰の声だ?」セージは怪訝(けげん)な顔をして、部屋のあちこちを見回す。「どこにいる?」

 問うて間もなく、彼の表情は驚きに染まった。

「へ?」

 バスケットから、矢のように、牡丹の小さな掌が飛び出したのだ。

 セージは、その生白い指に胸を押されて体勢を崩す。そうして無様に尻もちをついた後、

「うわっ!」

 (かたわ)らに転がった掌を目にして、見開いた眼を更に剥き、座ったまま後ずさった。


 無理からぬこと。手首で断たれた掌が、もぞもぞと指を動かす様を目撃したのだから。

 訳知るパースリーは、少しだけセージに同情を向けた。厳密に言えば、あの掌は今も、本体である牡丹と鋼の糸によって繋がっている。それが分かりさえすれば、ああも怖がらずに済むのだろうが、気づかないと本当にびっくりする。悪霊の掌に襲われたとしか思えない。

 今度は白い(つぶて)が飛び、セージの額に当たった。肩が跳ね上がる。

 牡丹は起き上がり、バスケットから()でて瞼を開いた。朱色の右目が煌煌(こうこう)と輝く。左目は虚穴(うろあな)。今しがたセージへ投げつけた礫こそが、そこに収まるべき目玉だ。


 セージは牡丹に背を向け、ふらつきながら立ち上がる。パースリーは先回りして扉に張り付き、退路を塞ぐ。彼の目が、退いてくれと訴えた。否定の意を込めて、睨み返す。

 セージが腕を振り上げた。パースリーは、殴られてでも通すものかと覚悟し、歯を食いしばったが、彼は特に何をするわけでもなく、歯痒(はがゆ)そうな顔を見せただけ。

 束の間、二人で不思議な時間を共有した後、セージの眉間(みけん)に皺が寄る。


「ひっ!」

 彼は小さく叫び、そのまま引き倒された。突っ伏すセージの(たくま)しい両脚には、牡丹の腕から伸びた鋼糸が絡みついている。

 体を(よじ)り、牡丹を見据えるセージ。怒りに震える背中。牡丹は真っ向から怒気を浴びて、しかし(いささ)かも動じることなく、彼へ見せつけるように右目をほじくり出し、指で弾いて鼻に当てた。

「セージ。君は遠慮というものを学んだ方がいいね」

 目を閉じ、得意げに説教する牡丹。対してセージは、忌々しげに拳を握り締め、

「遠慮が俺に、何を――」

 と反論を試みたが、その声は主張へ至る前に(しぼ)んで消える。


 牡丹はいきなり目を(みは)り、(くら)い眼孔を露わにして白歯(しらは)を剥き、愉しそうに笑んだ。友人であるパースリーでさえ不気味に思う表情だ。セージが竦むのも仕方ない。

 一瞬の沈黙を経て、牡丹が動いた。彼女は狼の如き俊敏さでセージに飛びかかり、怪力を(もっ)て押し倒すと、左足で彼の胸板を踏み付けにして、見下しながら述べる。

「遠慮によって引き出せるものも有るのさ。何だって押し引きが肝心だ。達人とは七色の攻め手を持っているもの。そうだろう?」


 教示を受けて、頑なだったセージの頬が緩やかに解れていく。どうしてか満足げな様子の彼を眺めて、牡丹は嬉しそうに断言した。

「君らとセージの出会いは最悪だったかもしれないが、彼自身は最悪というほどでもないよ」

「そうなの?」

 何故、そう思うに至ったのか。パースリーにはとても理解が出来ない。

「語らって確かめればいい」

 牡丹はそう言って、セージの胸から退(しりぞ)く。彼は一度大きく呼吸をしてから、のそりと上体を起こした。


 タイムが牡丹の前に膝を付いて屈み、二つの目玉を差し出す。

「牡丹、これ」

 牡丹は丁寧にそれを受け取り、眼孔に()め込んでくりくりと動かした。一旦瞼を閉じ、すぐに開け、そうして現れた彼女の笑顔は実に愛らしい。

「どうかな、タイム?」

「いつも通り綺麗だよ」

「ふふ、ありがとう」


 パースリーはセージを椅子に座らせ、自分はタイムと並んでベッドに腰掛けた。牡丹は考える素振りを見せてから、セージの隣に置かれた小机の上に腰を下ろす。

「セージ様は、何故――」

「パースリー」セージは(うと)ましげな声でパースリーの問いを掻き消した。「(かしこ)まらなくていい。それが化粧臭いと――」

「セージ」今度は牡丹が彼の発言を遮る。「言い方が悪い。君こそ言葉の化粧を覚えるべきだ」

「ああ、そうだな……。パースリー、あれだ。俺に遠慮は要らない。君はさっき、俺のことを嫌な奴だと(ののし)っただろう? あれくらいがいい」


 表情のみならず、振る舞いすらも変わってしまったものだから、パースリーは面食らった。

「あなた、随分雰囲気が変わったわね」

「それについては……すまない。高貴なるお方、とか言って媚びてきた君と、母に直訴してみせた君。どちらが本当の君なのか、興味が湧いてね。わざと怒らせて本性を暴こうとした」

「媚びてきたって……。あなた相手なら、別に普通の挨拶じゃない?」

「そう言われれば、そうかもしれないな。悪いことをした」


 率直な謝罪を聞かされて、パースリーの憤りも完全に晴れた。

「……まあ、私への態度については、許してあげる」

 ありがとう、と呟いてから、セージはタイムの方を向く。

「タイムも、辛くさせてすまなかったな」


 突然の謝意を受けたタイムは、しどろもどろになりながら取成した。

「あれは……、言われて当然だから、大丈夫です」

「だから、畏まらなくていいって」

 セージが柔和な笑みを向けると、タイムも同じ笑顔でそれに応える。

「あ、ごめん。慣れなくて……」


 パースリーは和解の余韻を充分に堪能してから、セージへ問い掛けた。

「それはそうと、なんでタイムにあんなことを言ったの?」

「臆病と言ったことか?」

「そう」

「一義的には、君を怒らすためさ」セージは真顔でそう言ってのけた。「しかし、本心でもあった。臆病だと思ったから、臆病と言ったまでだ」


 タイムの表情がまた曇る。切なくなったパースリーは、棘が立たないように非難した。

「それって、酷いわ……」

「価値観の違いだ。俺にとって、臆病の指摘は酷いことに当たらない。臆病者は躱し身が(うま)く、それを()せる察しの良さは正しく美点だからな」

 セージがそう言うと、タイムの顔が少しばかり明るむ。


「俺からも聞くが、パースリーはなんで、母にあんな要求をしたんだ? 国主へ無理を言うからには、外へ出てやりたいことがあったんだろう?」

「別に。屋敷が退屈なだけ。もう五年も閉じ込められて、いい加減うんざりなの。お婆ちゃんになるまであれが続くなんて、絶対に嫌よ」

 それだけではない。パースリーは好奇心の翼を目一杯広げて、飛び立ちたいのだ。まずは、父母のくれた絵葉書に描かれた全ての景色を直に眺めたい。そこいらに住む人々の息遣いを知りたい。芸術を記憶し、文化を記憶し、説話を記憶したい。自らを知で満たすために。

 しかしながら、そこまでは口にしなかった。今ですら手の内を明かし過ぎている。沈黙は金。この話題を続けるほどに、家出の成功率が下がると思った方が良い。


「そういえば……! あなた、国主の継承権を剥奪(はくだつ)されたんでしょう? なんで?」

 パースリーは無理矢理に話を変えた。セージが内々の儀式に参加した理由のうち、最も突飛な一つを投げ付けて困惑させるつもりだったが、思うより動揺が見えない。

「少し違うな。俺はまだ継承権を有しているよ」

「なら、どうしてこんなところにいるのよ?」

「これは内緒話だから」前置いて、セージは語る。「実は、次期国主は既に決まっている。俺の妹がそうだ。彼女が健在である限り、この決定は変わらない。今代の継承に関しては特別で、婚約者も、嫡子(ちゃくし)の存在も考慮に入れないらしい」


 予想だにしない回答に、パースリーの方が困惑させられた。

 慣例的に、サルティナ国主の継承は世継ぎの有無が最重要視される。姉である叔母ではなく、妹である母が先に国主の座を継承したのも、叔母の長子――即ちセージよりも一日早く、パースリーとタイムが生まれたからだ。

 それほどまでに強固な国家的慣習が、よりによって国主の一存で覆されるなどとは。パースリーはどうにも納得出来ず、冗談か虚言(きょげん)でも述べたのではないかと疑い、セージの瞳をじっと見つめた。しかしながら、その色は澄みきっており、事実であるとしか受け取れない。


 おずおずと、タイムが尋ねる。

「あの、なんでそうなってしまったの?」

「それは、母にしか分からない。()()()()とは縁遠い人だと思ってたんだが、何があったのか」

 セージは不穏な語句をあっけらかんと口にして、尚楽しそうに言葉を続けた。

「同情なんてするなよ。俺は国主になれない方が気楽でいいんだ。それに――」

 が、そこまで言って黙り込む。


「それに?」

 パースリーは続きを促した。それを無視して、彼は立ち上がり、

「そろそろ寝る。今日は楽しかったよ。じゃあ、またな」

 短い別れの言葉を告げて、返しも待たずにさっさと部屋を出ていってしまった。


 ぱたりと、扉が閉まる。少しだけ待ってから、パースリーは呟いた。

「もう、会うこともないけどね」

「ちょっと、残念かな……」

タイムが寂しげな顔をする。牡丹はいつもに増して意地の悪い声で、

「おっと。やっぱり家出しませんってのは、無しだからね」

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