そんなに夫が欲しいなら差し上げます〜誰よりも傷つけられた子爵令嬢が、愛を知るまでの物語〜
「お姉様お願い、私と入れ替わって!」
ポロッとスプーンを取り落とし、目の前にいる自分と瓜二つな顔を唖然として見つめた。
まさか異母妹との入れ替わりを、人生で二回も経験することになるだなんて。
◇◇
事の始まりは二年前、当時まだ十五歳だった異母妹、ルイーゼ・アリア・ランセントが求婚されたことからだった。
「ルイーゼ、お前に求婚書が届いているんだ」
「えっ求婚書ですか?」
父の言葉でルイーゼが振り返り、その拍子に綺麗に手入れされた金色の髪の毛が、さらっと肩から流れ落ちる。私はその様子を顔をあげないように横目で見ていた。真正面から彼女達の方を見てしまうと何を言われるか分からないから。
「まぁ、ルイーゼに求婚だなんて……。まだ十五歳なんですよ?」
頬に手を当てていかにも困ったように言っている女は私の義母、ドローテ。その目はこちらに向けられており、目尻がにやにやと気持ちの悪い笑みを浮かべている。
その視線から逃れたくて髪の毛で顔を隠した。ルイーゼと違って手入れなんてされたことの無い、艶もなく枝毛だらけの金髪。
ドローテは私、エレノア・アリア・ランセントが四歳だった頃、私の母である元子爵夫人が亡くなったあと直ぐにこの家へやってきた後妻で、その娘がルイーゼということになる。
義母と異母妹は元ランセント夫人の娘である私が気に入らず、ことある毎に敵意を向けてきていた。そしてそれは父も同じで、母が存命だった時からの愛人であるドローテの意向通りに私を冷遇している。
「この間の社交パーティーでルイーゼに目をかけられたそうだ。すぐにでも結婚式を挙げたいと仰っている。」
「それで、お相手は?」
ルイーゼが目を輝かせて身を乗り出す。ルイーゼの歳頃なら誰もが素敵な結婚に憧れを抱くことだろう。まだ十五歳であるけれど、その歳での結婚は貴族では珍しいことではない。
「……ベルディア侯爵だ」
「ベ、ベルディアですって!?」
父が頭を痛そうに押さえながら言った瞬間、ルイーゼが一気に意気消沈したように座り直した。不満そうな表情が現れている。
反対にドローテは顔を青くしていた。
「それ、断れるのよね?ルイーゼはまだ十五で、そんな女遊びばかりするような男の元へなんか、嫁がせられないわ!」
お相手のルーク・ベルディア侯爵は、眩い金髪に碧眼を持つ美男子であるが、如何せん女遊びが酷く、花の盛りであるルイーゼが嫁ぐ相手としては釣り合っていない。
だけどランセント子爵家は大きな事業を抱えているわけでもなく、皇族との繋がりがある訳でもなく、貴族の中でも勢力のない家。
侯爵家からの縁談を断ることは難しいんじゃないかしら、と考えていた時、父がナイフをかしゃん、と音をたてて置いた。
「侯爵家からの縁談だぞ?断れるわけがないだろう!」
しーん、と部屋が静まりかえる。私はその静寂の中に隠れ込めるように縮こまっていた。家族が今日みたいに不機嫌になっている時は、その憂さ晴らしの相手はいつも私だ。少しでも目につくような行動をすれば体にアザができることになる。
薄桃色の上等な生地にレースが縫い付けられたきらきらしたドレスをまとうルイーゼとは違い、私に与えられている衣服は全て使用人の仕事着よりも粗悪なものばかり。丈の短いワンピースの裾を握りしめながら息を殺していると、ルイーゼがぽろりと涙を零した。
「こんなの嫌よ……こんな形で結婚相手が決まるだなんて……!お父様、お願いします、どうかベルディア侯爵との結婚だけは……。お父様なら分かってくれますよね?」
そのままお父様の元に駆け寄り跪いた。
ルイーゼは気に入らないことがあるといつもこんな風にお父様に縋り付く。そうすればルイーゼを溺愛してやまないお父様は必ず言うことを聞いてくれるって分かっているから。
案の定お父様は涙をこぼすルイーゼを痛ましげに見つめ、立ちなさい、と言って手を差し伸べていた。
私は二人の姿から目を逸らした。
ルイーゼは社交界やお父様の前ではその本性を上手く隠している。乙女として当然の憧れを抱くきらきら可愛い女の子となって周りの視線を引き付ける。
「そうよ!こんなに可愛くて器量もいいルイーゼがどうしてそんな男に嫁がなきゃいけないのかしら!」
ドローテががたん!と音を鳴らして立ち上がった。その拍子にグラスが倒れ、つがれていた水が私の体にかかる。
「ぁっ」
そのままグラスはコロコロとテーブルの上を転がり、そして、甲高い音をたてて粉々に砕け散った。
床に散らばったガラスの破片を呆然と見つめ、そして、恐る恐る顔を上げると、三人とも私の方を凝視していた。
ごくんと息を飲む。
「……またかエレノア」
お父様の静かな怒りの声が響く。喉がカラカラに乾き、何も言うことが出来ない。
私が家族にここまで冷遇されているのは、私が前妻の娘であるということに加え、出来損ないの長女に仕立てあげられているからだ。ドローテと、ルイーゼによって。邸宅に飾られていた花瓶を割ったのも、ルイーゼが育てていた花を全てちぎりとったのも、全て私ということになっているんだ。
「……そうだわ。」
その声と共に、突然私の方に鋭い指先が向けられた。真っ赤なネイルの持ち主はドローテだ。
「エレノアが嫁げばいいのよ!」
きんきんと響く高い声が耳をつんざくようだった。突然のことにその言葉を理解出来ずにいると、お父様が身を乗り出した。
「……そうか。その手があったか……!」
その目の卑しさにびくっと体を揺らす。
にやりと浮かべられたその笑みに私は背筋が凍るようだった。嫌な予感しかしない。私に向けられる目の中に、私を思う気持ちが込められているものなんて一つもない。私にはその視線が、邪魔な存在の利用先がようやく出来た、と言っているようにしか見えなかった。
「お前はルイーゼと瓜二つだ。妹の代わりにベルディア侯爵に嫁ぎなさい
体の芯から冷えていくような感覚に襲われる。
「そ、そんな、待ってくださ……」
「待ってください!それは、あまりにもお姉様が可愛そうですわ!」
私を遮ったのはルイーゼだった。私を庇うような発言だけれど、私はその言葉が怖くて仕方がない。
「私なんかのために身代わりになるだなんて……。お姉様は社交界デビューも済ませていないうえに男性慣れしていないんですっ……!確かにどんな男性に嫁ぐことになっても自分は大丈夫だと仰っていましたけど、その言葉に甘えてしまうのは、私は……っ」
更に大粒の涙を零しながらお父様に訴えている。
「待ってください、私は、そんなこと一度も……!」
「エレノア」
目を見開いた。お父様が私を叱り付ける時の表情をされている。
「お前はルイーゼの姉だろう。それなのにいつまでも母親の影に固執して、今まで散々迷惑かけてきた償いもできないのか」
硬直したまま声も出せないでいると、お父様が立ち上がった。もたれ掛かるルイーゼを支えながら、近づくドローテの腰を抱く。
「……部屋に戻って、荷物をまとめろ。執事に言っておくから、まずはその身なりを何とかしておけ」
結婚式は半年後だ。その言葉を最後に三人で部屋を出ていく。
怒涛の速さで終結した今の状況に理解が追いつかない。
溢れ出る涙を堪えようとして唇を噛んだ。十四前に亡くなったお母様は、私のことを愛してくれていた。家を空けたまま帰ってこないお父様に、忠誠心の欠けらも無い使用人たち。嫌な思い出は少なくなかったけど、お母様と過ごした記憶が残るこの家からさえも、追い出されることになるだなんて。
こうして、私はベルディア侯爵の元に、ルイーゼ・アリア・ランセントとして嫁いだのだった。
◇◇
幸いにも夫は私が結婚準備をしている最中に見目麗しい踊り子に夢中になり、結婚後私に興味を持つことがなかった。元々パーティーでのルイーゼの美貌とその明るさに惹かれたようだったため、陰気な性格の私を見て色欲が働くこともなかったのだろう。
私はただただ侯爵家の膨大な仕事の山を片付ける日々だった。
もちろん子爵家という家柄からの嫁など歓迎されるわけはなく、夫の母親や使用人たちにことごとく嫌味を言われるわけだけど、実家にいる時よりもマシなものだった。
ひとつ恐れていたことといえば、たまに酔って帰ってくる夫が、余った性欲を発散させるためだけに私の寝室を訪ねてくること。
ベルディア侯爵は噂通りの女好きで、おまけに博打好きときた。訪ねてくるのも夜が完全に更けて私が寝ついている頃。おかげで私は夜もろくに眠れず、夫が博打に出かけたという日は一晩中気を張りつめていた。
その甲斐あって嫁いでから一年半、私の純潔は守られている。
◇◇
「ベルディア侯爵夫人、今日はいいお天気ですわね」
「はい、本当に。晴れて良かったですわ」
隣に腰掛けた貴婦人はルクイーレ伯爵夫人。"ルイーゼ"が"ベルディア侯爵夫人"になってから懇意にしている夫人で、私よりも歳は四つ上である。
私は病気がちであるという設定になり家から出して貰えなかったため社交界に"エレノア"が出てくることは無かった。対照的に華やかなものが好きだったルイーゼは頻繁にお茶会などに出席していたため、始めの方はまるで人が変わったようだと噂されてしまっていた。
けれどルイーゼが元々人前では本性を表さなかったことや、私もルイーゼの性格に沿った行動を心がけた結果、結婚したことで気品が身についたのでは、ということで納得してくれたようだ。
さすがにルイーゼの友人と付き合い続けることは難しかった(ルイーゼの取り巻きのような感じではあったし)ために距離は置いてしまったけれど。
「ベルディア侯爵夫人は本日もお美しいですわね〜。お肌の透明感がわたくしとは全く違いますもの!」
「い、いえ、そんなことはありませんわ…」
はにかむと微笑みがかえってくる優しい世界。"ルイーゼ"になるために気をつけなければならないことはあるにせよ、こんなにも温かい人々に囲まれたのは初めてのことで、お茶会は私の心の安らぎになっていた。
「ベルディア侯爵夫人!私またあの歌をお聞きしたいですわ」
対面して座っているのはアルテニー伯爵夫人。ルクイーレ伯爵夫人の妹である。
「まぁ、あなたこの間のお茶会もその前の時も同じお願いをしていなかったかしら?」
ルクイーレ伯爵夫人がほんの少し眉尻を下げ、困ったように私と妹を見比べている。私が妹の言葉で不愉快になっていないかどうか確認しているのだろう。
「何度聞いても飽きないのよね、ベルディア侯爵夫人の歌声は!私失礼ながら、ベルディア侯爵夫人がまだランセント子爵令嬢であられたころ、お歌が下手なんだと思っていましたのよ」
「こらルベラ。失礼と分かっているのなら言ってはいけません」
テーブルの上に置かれたアルテニー伯爵夫人の手をルクイーレ伯爵夫人が軽く叩く。私は少し目を剥いたが、叩かれた本人は日常茶飯事なのか、けろっとしてその手を擦りながら言葉を続けた。
「だって何度お茶会で歌を披露することになってもランセント子爵令嬢は披露されませんでしたもの。きっと私たちを驚かせたくて出し惜しみなさってたんでしょう!悪い人ですわ〜」
アルテニー伯爵夫人は姉であるルクイーレ伯爵夫人よりも気さくな性格で、こんな調子でおしゃべりをしていることが多い。割とばっさりとした発言をしているからそれを怖く感じていた時期もあったけれど、今では打ち解けている。
「では前と同じ曲でいいですか?」
「はい!あの曲が一番好きです!」
「もうルベラ……。申し訳ないですわ。何度も歌わせてしまって」
「いいえ。私も、皆さんに聞いていただけて本当に嬉しいので……」
ルクイーレ伯爵夫人に微笑みを向けてから口を開ける。
歌いながらこんなにも何も気にせずに声を出せることに喜びを噛み締める。実家では歌声がお父様まで届いてしまうと必ず何かしらの罰が待ち受けていた。ドローテとルイーゼがそれを知ってからは私が歌っているとそれを嬉々としてお父様に伝えに行っていた。
お父様が私が歌うことを嫌う理由は、そこにお母様を感じるからだろう。私のお母様は美しい人だった。桃色をした髪に深い青色の瞳を持っていて、この世のものとは思えないほどの美貌と儚さを纏わせていた。
私の髪はお父様と同じ金色。瞳までお父様と同じ桃色。顔まで全てがお父様に似てしまったから、ルイーゼと瓜二つになってしまったのだ。ひとつでもお母様に似た部分を持ちたかったという思いもあるけれど、私には容姿の代わりにお母様とおなじ歌声がある。お母様も歌うことが好きで、よく私に子守唄を歌ってくださった。
ルイーゼは壊滅的に歌が下手で、そのせいでお茶会で歌を披露することが出来なかったのだろう。それを知らない私は、初めてのお茶会でルイーゼに嫉妬していた令嬢に嵌められて歌ってしまうことになったけれど、幸い"エレノア"の歌声を知る人はいなかったために正体がバレることは無かった。
それ以来私が参加するお茶会では毎回と言えるほどに歌を求められる。それは私にとってお母様との思い出に光を与えてもらっているようで、幸せな事だった。
歌い終わって笑顔を浮かべると、お茶会の会場はいつの間にか静まり返っており、次の瞬間割れんばかりの拍手が送られた。
「はぁ……。今日も素晴らしい歌声ですわ!どうしたらそんなに透き通った声が出せるんですの?」
きらきらした目をしているアルテニー伯爵夫人に手を捕まれ、そのままぶんぶんと振られる。あまり貴族令嬢という肩書きから見れば褒められた行動ではないが、これも彼女の愛嬌、魅力だろう。
「アルテニー伯爵夫人も元々綺麗なお声を持っていらっしゃると思いますわ」
お母様譲りの歌声は私の自慢。それを言うことはできないけれど、この歌声は、私だけが持つお母様からの贈り物だ。
「あっ、そういえば聞きましたか?」
少し離れた席に座っていた令嬢が何かを思い出したように手を叩いた。
「ロードナイト公爵様の、タイプの女性の情報です!」
「なんですって!?」
突然未婚の令嬢達がこぞってその令嬢の元に集まった。このお茶会は私たち既婚者は少数派で、未婚の令嬢たちが多数を占めている。残された私たちは穏やかにお茶を飲んだ。
「……ロードナイト公爵様ねぇ…」
「誰もが一度は憧れる方ですわよねぇ」
お二人がどこか遠い目をしているのはご自分の夫に満足していないからなのだろうか。
ロードナイト公爵。この帝国で最も権力を持つ貴族と言われている。公爵という地位につきながらも二十四歳とまだ若く、相当な美丈夫のため令嬢から人気が高い。帝国でも珍しい銀色の髪の持ち主で、夜会に参加していれば直ぐに騒ぎになる。もっとも、公爵様は滅多に社交界に姿は表さないけれど。
カップをソーサーに戻しながらため息をついた。
ロードナイト公爵は夫と違って浮いた噂もなくギャンブルもほとんどしない。散財をすることが少ないためにその貯蓄は想像も出来ないほどだということだ。
夫に満足していないからと言って離婚することも出来ないし、今の状況がどうにかなるとは思っていないが、ロードナイト公爵のような素晴らしい男性に憧れない訳では無い。
「あらそういえばベルディア侯爵夫人」
「はい」
ルクイーレ伯爵夫人が首を傾げながら言った。
「ベルディア侯爵夫人のお姉様が最近パーティーへ参加されているようですわね。なんだか未婚の男性によく声をかけられるとか」
「あ、そうそう!今までは一度も表舞台へ出てこられたことがなかったのに…。それに、なんだか、…その」
アルテニー伯爵夫人が珍しく口ごもった。ルクイーレ伯爵夫人も気まずそうにしているのも、きっと同じことを考えていると思う。
私と入れ替わったあとルイーゼは、しばらくは大人しくしていたみたいだけど、少しすると"エレノア"として社交界へ頻繁に姿を現すようになった。人々の注目を集めることが好きな彼女のことだから我慢できなかったのだろう。
そしてルイーゼが"ルイーゼ"に似ないように振る舞うことができる訳もなく。
「…私とそっくり、ですわよね。顔も、性格までも」
二人が気まずそうに顔を見合せた。私は微笑んで気にしないでください、と言った。
「……えぇ、昔のベルディア侯爵夫人を見ているようです」
「でも、ベルディア侯爵夫人は変わられましたわ!なんというか、気品が身についたと言いますか、とてもお優しくて、聡明で、優しいお姉様のように思えます!」
ルクイーレ伯爵夫人も大きく頷いた。
「……ありがとうございます。嫁ぐ前の私の振る舞いは貴族令嬢らしからぬものだったと思いますわ。酷く恥ずかしいです。…社交界デビューしてから日も経っていませんでしたし、どう行動すれば分からず、とにかく人との交流を増やそうと躍起になっておりました。若気の至りだと思ってお許しくださいませ。きっとお姉様もそうなのだと思います」
頭を下げると、慌てたようにアルテニー伯爵夫人が腰を浮かした。
「そんな、私達に頭を下げられる必要なんてないんですよ!こんな話題を出してしまってごめんなさい〜」
「そうですわ。私達はベルディア侯爵夫人が結婚される前は所詮他人にすぎませんでした。その頃の私達の思い込みでしかない印象だなんて大した根拠も無いものなのですから、今更どうこう言うつもりなんてございません。私達が知り合ったベルディア侯爵夫人はとても素晴らしいお方です。今のベルディア侯爵夫人が本来のお姿なのだと思いますよ」
優しい温もりを持った手が肩にのる。顔を上げると、困ったように眉尻を下げるルクイーレ伯爵夫人と、焦りすぎて唇を噛んでいるアルテニー伯爵夫人のお顔が見えた。
ルイーゼの社交界での行動は目に余るもので、そのせいで私が"ルイーゼ"になってからも中々社交界に馴染むことが出来なかった。それでも私の歌を聞いてくださったおふたりががこうして懇意にしてくださるのはひとえにおふたりの優しさ故。
「……ありがとうございます」
◇◇
社交界は私にとって安らげる場所であったけれど、"ルイーゼ"となったことで新たに作り出された地獄もあった。
「ルイーゼ!!ルイーゼはどこにいる!今すぐ俺の前に連れてこい!」
屋敷に夫の怒号が響き渡った。呂律が上手く回っていない様子のため、博打帰りだということは容易に予想がつく。
落ち着こうとしつつも息を飲んでいると、ノックもなしに扉が開かれた。
「奥様早くしてください!でないと私たちにまで被害が及ぶんですよ」
屋敷の女主人に対する態度とは思えない口調をしているのはこの家のメイド長だ。夫が小さい頃から使えているためベルディア侯爵家の使用人たちの中で権力を握っている人物の一人。
「……今行くわ」
ストールを肩にかけ夫のいる一階のホールへ足を運ぶ。
「……お帰りなさいませあなた」
「ルイーゼ!!」
乱れた襟元。よれた袖口。革靴は汚れが酷い。帝国の侯爵とは思えない身なりだ。
私を視界に捉えた途端、怒りからか顔を紅潮させかつかつと近寄ってくる。その剣幕に足がすくみ後ずさりしようとするが、その前に夫に髪を掴まれる。
「きゃっ…」
「いつもいつもお前は俺を不愉快にさせやがる……!その面二度と俺の前に見せるんじゃねぇ!」
「いっ……!」
投げ出され頭を強く打つ。今日は一段と酷い。ここまで激昂しているのは初めてのことだった。何か投資で失敗して大損でもしたのだろうか。
「顔しか取り柄のない女がいい気になりやがって…」
唾を吐き捨てられぎゅっと手をにぎりしめる。別に夫への期待なんか微塵もない。素行が悪く皇帝からの信頼も無いに等しい侯爵だ。
こんな男が主であるこの家がまだ侯爵であれる理由は、先々代が築き上げてきたもののおかげだ。先々代は私が嫁いできた時唯一受け入れてくださった方で、私が嫁いで半年した頃に亡くなってしまった。先代や夫に主としての素質がないことを憂いて私に侯爵家を託してくださった。
でも、私だってこんな夫は手に負えない。
「おい!何とか言わねぇか!さっさと謝れ!!」
「……」
真正面から睨みつけられるが、謝る気にはなれない。どうして私がこんな仕打ちを受けなければならないのか分からない。
「お前」
はっと息を飲んだ時にはもう遅く、夫の手が私の顔に向かって振り下ろされた。バチン!と乾いた音が響き、その衝撃から私は再度床に倒れ込んだ。
頬を押さえて呆然としていると、夫の足が目の前に立ち塞がった。
「……今日は随分と調子に乗っているな」
私が謝らなかったからか、それとも無意識のうちに睨みつけていたのか。どちらでもいい。重要なのは、夫を怒りに拍車をかけたということ。
「あ、あなた…」
「しばらくは家の外に出すな。物置にでも繋いでおけ」
鎖でな。その声が酷く遠く聞こえた。執事が私の腕を掴みあげる感触が信じられない。仮にも私は侯爵夫人で、この家の女主人。それにも関わらずこれはまるで、奴隷に対する扱いだ。
暗い物置に閉じ込められるのは実家ではよくある事だったが、さすがに侯爵夫人となってから体験するのは初めての事だ。
私は、このまま夫の人形として生きていくんだわ。
その事実に目の前が真っ暗になるようだった。
◇◇
「奥様。旦那様が準備をしろとのことです」
物置の扉が開かれ鎖を外されたのは、それから一週間後の朝の事だった。メイド長が無表情、いや、不服そうな顔をしたまま私の足にかけられた鎖を外していく。
侯爵夫人がこんな扱いを受けていても顔色一つ変えない使用人なんて、呆れを通り越して言葉もない。
「準備って、何の…」
「本日の皇室主催の夜会にパートナーとして参加するようにとの事です」
ああ、そういえばそんな時期だったと思い出す。皇室が主催する夜会を欠席するわけにもいかず、となると私以外のパートナーを連れることは出来ないためということだ。
にしても皇室主催の夜会へ出席するというのに、準備をし始めるのがその日の朝からというのは全くもって非常識だ。
「…早くお立ちになってください。時間が無いのですから」
メイド長の視線から顔を逸らす。
これじゃ、どちらが主人なのか分からないわ。
会場へ着くと夫はエスコートでもしようというのか、腕を差し出してきた。顔を上げるとすっかり社交界用の顔になっている。今日の朝まで妻を監禁していた男の顔には見えないだろう。
夫好みに仕立てられた胸元がぱっくりと空いたドレスは、私の体型を浮き立たせていた。髪の毛はアップにされ首筋や胸元は無防備に露になり、夫の目の色でも模しているのかサファイア色のドレスは腰までラインを見せつけている。
足首の痣が隠れるように裾の長いドレスは動きにくく、身動きがとりずらい。
もし、夫に襲われでもしたら逃げられない。
下を向いて歩いていると、夫がピタリと足を止めた。いきなり止まられては腕を組まれている身としては困る。つんのめってしまいそうになり、ぎゅっと体に力を入れた。
「……ルイーゼ。すまないが一人にしても大丈夫か?」
次の瞬間私に輝かしい笑顔が向けられた。周りからひそひそと囁きが聞こえてくる。夫の美しさを羨む声だろうか。
夫が見ていた方へ視線を向けると、ワイングラスを傾ける女性が色っぽい目元を細めてこちらを見ていた。扇で口元は見えないが微笑んでいるように見える。
彼女はテラー男爵夫人。夫であるテラー男爵とは四年前に死別しており、今は未亡人という立場だ。
「……えぇ、もちろんですわ」
夫は私の額に唇を落としてからするりと腕を解いた。テラー男爵夫人の元へ歩いていく夫の背中を見ながら額を押さえるふりをして拭った。
なんにせよ、夫の方から離れてくれるというのなら私としては嬉しいことだ。夜会へ来ても毎回私以外の女性の元へと向かうため、夫と一緒にいる必要があるのは入場の時だけ。私はどこか人のいない所で時間を過ごして頃合いを見て抜け出す。私たち夫婦はそういう関係なのだから仕方ない。
周りからの視線を感じながら人混みに紛れる。ダンスに誘われないように頭を下げながらくぐり抜けていると、いきなりくんっとドレスの裾を引っ張られた。
「えっ」
相手側は気づいていないのか、そのままずるずると引きずられる。急いで引っかかっている先を外そうと手を伸ばすが楽しげに踊る人々が道を開けてくれるわけもない。正確に言えば引っかかったのはドレスの柔らかい布の部分であるから引きちぎってしまっても構わないのだが、引っかかった相手のカフスボタンもろとも外れてしまっては申し訳ない。
「あの!どなたか存じませんが…あっ」
嫌な感触を残してドレスの裾がちぎれた。腕周りのレースが無くなっている。人が多くて相手のボタンまで外れてしまったかどうかは分からないが、もうどうすることも出来ないのでその場を離れる。
「悪いことをしてしまったわ……」
相手のボタンはちぎれて無くなったか、私のドレスの青色をしたレースが着いているかのどちらかだ。
ワインを一杯受け取り、それを持ってバルコニーへ出た。
今日の夜会の目的は特になく、皇室側が定期的に開く交流の場のようなものであるから、わざわざ会場にいる必要も無い。
所々明かりに照らされた庭を眺めながらふう、と息を着いた。グラスを傾けてみるが飲む気はしない。胸に酷い喪失感に似たようなものがあるからか。
「……私が失ったのは、…人生かしら」
ワイン一杯は私の生命線。お酒に弱い私はこれ以上飲むと酔っ払ってしまう。私自身が泥酔してしまえば、それは私の純潔が夫に奪われることを意味する。
特に自分の純潔なんてものに価値を持たせてはいないが、それを守ることで自分の人生を、エレノアという人生を、全て家族や夫に弄ばれてしまわないようにしているのかもしれない。
ふと思い浮かんだ曲を口ずさんでいた時、後ろから不意に誰かが近づいてくる気配がした。慌てて口を閉ざして、ワインを飲む。
ところが私の後ろにいる相手というのが、ひと口飲んでもふた口のんでもその場から離れるわけでも、私に近づいてくる気配がする訳でもない。
パーティーの日はワイン一杯を少しずつ飲んで終わった頃に帰ることにしているのだけれど、こうなってしまっては仕方がない。
泣く泣く半分ほど飲んでしまった時だった。
「……そんなに一気に飲んでしまって大丈夫ですか?」
突然かけられた声にびくっと肩が揺れてしまった。恐る恐る振り返り、そこに立っている人物を認めて目を見開いた。
「ロ、ロードナイト公爵閣下」
慌ててグラスを置いて頭を下げる。
「失礼しました。公爵閣下だとは思わず…」
「いえ、……お久しぶりですですね、ベルディア侯爵夫人」
「……はい」
月の光で艶のある銀髪がきらきらと輝いていた。深紫の瞳を縁取るまつ毛までも銀色に染まっており、その透明感に思わず息を飲んだ。
公爵と目が合いそうになり慌てて目を伏せる。
「いらしていたのですね、…あれ以来お会いすることがなかったので」
「皇室が主催する夜会に参加しない訳にはいきませんので」
「そ、そうですわね」
返事をしたところで袖のレースが破れていたことを思い出し、左手で掴んで覆い隠した。
公爵様は少しくすみを帯びた白を基調として服装を統一していて、溢れ出る高級感がある。公爵様と比べるものでもないけれど、私は似合うわけもない肌の露出度の高い、卑しいと捉えられてしまってもおかしくはないドレス。
いつもはこんなドレスを与えられたとしてもショールか何かを持参して自分で隠しているけれど、今日は物置から解放されて直ぐに準備に回されたため、そんなものを用意する暇もなかったのだ。
レースが破れた方の右手を体でかくし、左手を胸元に当てる。気の所為かもしれないが公爵様の視線を感じてしまい、頬に熱が集まっていく。
「……ベルディア侯爵夫人、よろしければこちらをどうぞ」
「え、あの」
公爵様が胸ポケットからレース地のポケットチーフを抜き取り、それを私の肩にかけた。ポケットチーフにしては大きめで、私の胸元をすっかり覆い隠してくれている。
淡い藤色をしたそのポケットチーフをよく見ると、きらきらと宝石がちりばめられていた。
ぎょっとして外そうとする。
「け、結構です、公爵様から物をいただくなんて、あとでなんと言われるか…」
「……ですが、ドレスにワインのシミが」
またまたぎょっとしてドレスの胸元を見る。そこまで大きくはないが見る人が見れば分かってしまう程度のシミができていた。
できたのは公爵様に声をかけられて驚いた時だろうか。
私が肌の露出を恥ずかしがっていたのに気づいてくれたのだろうか、なんて思っていた自分が恥ずかしくなり更に顔が赤くなる。
「…私がベルディア侯爵夫人と何かあったと思われては大変ですから」
「〜〜〜!」
それはつまり、ドレスにワインのシミを作ってしまうほど何かをしたと…。
「も、もうしわけ、ありません……」
「……いえ」
公爵様の前でやらかした二度目の失敗に、穴があったら入りたい気分だ。
実は公爵様と顔を合わせて会話するのはこれで二度目のことだった。公爵様は普段あまり表舞台へ出てくることが少ないため、会話したことのある貴族はかなり少ないのだけれど。
私が公爵様に初めて会ったのは、結婚して半年ほどたった頃だった。その時もどこかの夜会で、今日みたいにワインを飲んでいた時に公爵様から声をかけられたと覚えている。
その日は夫が出張(という名の浮気)で一ヶ月ほど家を開けていた時期だったので、何も気にせず苦手なはずのワインを水のように飲んでいた。日頃の鬱憤でも晴らすつもりだったのだろう。今では正気を疑うけれど、人格が変わる程にはアルコールを摂取していた。
詳しくは覚えていないのだけれど、いつの間にか気を失っていて、目を覚ました時には公爵様の馬車の中だった。
侯爵夫人を公爵家の邸宅へ連れていく訳にも行かず、とはいえ公爵家の馬車で侯爵家まで送れば噂になる恐れもある。皇室の客人用の部屋へ泊めてもらうことも考えたみたいだが、それはそれで侯爵夫人としての威厳について叱られては可哀想だと馬車で休憩させてくれていたのだ。
結局私は帰る足もなく、侯爵家の近くまで馬車で送ってもらい、その後騎士をつけて頂いて門まで護衛してもらったというわけだ。
幸いその時の夜会が、皇宮ではなくベルディア侯爵家近くの別荘で執り行われていたためまだ良かったものの、皇宮で開かれていたらと思うとぞっとするどころではない。
「こ、公爵様には、ご迷惑になるようなことばかりしてしまって、重ね重ねもうしわけ」
「ルイーゼ!!」
はっと息を飲んだ。公爵様の体の陰から顔をのぞかせた瞬間、当たりを見回していた夫とバチッと目が合う。私を見つけた夫は鼻息荒く近づいてくる。女性の所へ行ってこんなに早く戻ってきたのは初めてだ。テラー男爵夫人に振られでもしたのだろうか。
どちらにせよ夫は私が他の男性と交流することを極端に嫌う。こんな状況を見られてしまっては物置行きでは済まされない。
慌てて公爵様にかけて頂いたポケットチーフを外し手に握りしめて背中に隠す。
「そんなところで何しているんだ!?」
「す、すぐに戻りますわ!ですから、先に戻っていてくださいませ」
こちらまで来るのも面倒だったのか、遠くで立ち止まり、すぐに踵を返して行ってしまった。
「も、申し訳ありません公爵様。夫も呼んでいるので、今夜はここで失礼致します…」
無礼な態度の埋め合わせになるとは思っていないが、腰を深く折りいつもより長く礼をとる。
顔を上げたとき夫はもう遠くに行ってしまっていた。慌てて追いかけようとした時、自分の手が握りしめていた公爵様のポケットチーフの存在を思い出した。
「あ、こ、公爵様こちらお返し致します」
と差し出したはいいものの、強く握りしめていたせいでシワが出来ていた。はっとして差し出した手を元に引っ込める。
「……申し訳ありません、洗って綺麗に整えてから後日、お返し致します」
再び顔に熱が集まるのを感じながら俯くと、公爵様が微かに動く気配が感じられた。恐る恐る顔を上げると、公爵様のお顔は横に向けられていて見えない。
「……」
お怒りなのかそれともなんなのか分からずに何も言うことが出来ない。
「…はい、よろしければ夫人が直接届けに来てくれませんか」
「わ、私がですか?」
貴族の間でもののやり取りをする時、本人同士がわざわざ相手の方に赴くことは滅多にない。相当仲が良ければ話は別だが、私と公爵様はそうでは無い。本来ならば使用人を介して渡すし、今回もそうしようと思っていたけれど、こう言われてしまっては仕方がない。
「分かりました。また、後日お伺い致します」
「…はい、その時にお話したいことがあるので、少し時間に余裕をとっていただけると」
「はい、かしこまりました」
返事をした時遠くで夫が靴を踏み鳴らしているのが見えた。こちらを睨んでいるのに気づき、ひゅっと息を吸い込んで公爵様に礼をする。
「そ、それでは本日はここで失礼致します」
「はい、お気をつけて」
一瞬こちらに向けられた微笑みを見て体中の血が一気に流れるような感覚に襲われた。月の光を受けいつもより淡く煌めく深紫の瞳が優しく細められていて、そこに私が写っていると言うだけで例えようのない幸福感に包まれる。
慌てて目を逸らし夫の方に駆け寄る。
危ない。きっと公爵様に惚れ込んでしまう令嬢たちはこの感覚のせいなのだわ。
そんなことを考えながら夫の後ろに着いていった。
◇◇
それからの侯爵家での生活は想像通りだった。夜会から帰宅して直ぐに物置へ逆戻りさせられ、そこで仕事をこなす日々。
パーティー以来夫は家にいる時間が更に短くなり、例の踊り子と街を出歩いたり、はたまた違う女性に会いに行ったりと忙しそうだ。
そのおかげでベルディア侯爵家の財政は全て私が回しているようなものになり、仕事に追われる日々を過ごしていたある日の事だった。
突然邸宅内が騒がしくなり、羽根ペンを走らせる手を止めた。夫が帰ってきたのだろうかと思い執務室の外へ出る。
顔をのぞかせた瞬間にメイドが目の前を走り去ったため、驚いて仰け反った瞬間、下の階にいるのであろう夫の声が聞こえてきた。
「パーティーを開くぞ!帝国中の貴族を呼べ!」
何事かと下へ降りると夫と目が合った。
「お帰りなさいませあなた、何かあったのですか?」
声をかけた瞬間はち切れんばかりの笑顔を浮かべていた夫の表情は曇り、舌打ちをし、頭をガシガシと掻いてから言った。
「ルイーゼ…お前も帝国一の富者の妻なんだ、もっとましな格好をしたらどうだ」
はぁ、とため息をつかれ顔が赤くなる。私の今の格好は無地のベージュのドレスに古びたローブと確かに酷いけれど、ここの使用人がこれしか渡してくれなかったのだ。
夫の横に立つ例の踊り子が身に纏う宝石が鏤められたようなドレスは自分で買うことも出来なければ買ってもらえもしない。
「…帝国一の富者、とはなんのことですか?」
「それがな」
夫がばっと両腕を広げた。まるで世界を手に入れた男だとでもいうように。
「帝国を経済を大きく替えてしまうような、新しい資源が眠る鉱山を見つけたんだ!!」
はははは、と夫の高笑いが響いた。踊り子も黄色い声を上げながら夫に飛びついているし、使用人たちも給料が上がる、と飛び跳ねている。
一人私は、何を言うでもなく呆然と立っていた。
「し、新資源…?」
「ああそうだ。それもかなりの規模のな。一生豪華な暮らしを送れるどころじゃないぞ。もしかしたら帝国への貢献の褒美として俺の地位が上がるかもしれない!」
夫が嬉々として踊り子の肩を抱き、酒の用意をさせているのを見ながら、私はぐぐっと掴んでいる手すりに爪を立てた。
「…そうで、したか。それはおめでとうございます」
夫はもはや私の声など聞いていない。楽しそうに酒のコルクを捻っている。その姿に背を向け執務室に戻る。
ばたん、と扉を閉め、しばらく呆然と事を理解しようとする。
「……は、…はは」
これで、私がどれだけ必死に仕事をしようともしなくとも、侯爵家の財政は回ることになった。私は、本当に用済みになってしまったのだ。
私が今までやってきたことは、一体なんだったのだろう。
不思議と涙は出なかった。人はあまりにも絶望すると涙さえも出なくなるのだと知った。
…あぁ、いっそ、……死んでしまいたい。
◇◇
それからわずか二週間後のことだ。異母妹が家へやってきて、あの台詞を吐いたのは。
「お姉様お願い、私と入れ替わって!」
落ちたスプーンが甲高い音を鳴らす。呆然と異母妹を見つめていると、隣にいるドローテがだん!とテーブルを叩いた。
「まさかベルディア侯爵が新資源の鉱山を見つけるだなんて思いもよらなかったわ…。彼の妻なら贅沢し放題じゃない!」
真っ赤に染まった唇から出てきた言葉を反芻する。
あぁ、つまり、金目当てだと。そう気づいた瞬間心が冷めきった。
初めは女遊びが目に余る男だからお前が嫁げと押し付けてきたくせに、夫が莫大な財産を所有することになると分かった途端こうして入れ替わりを命じてくるだなんて。
「……でも、夫は私のことを愛していませんわ。ルイーゼが私だと偽って入れ替わるのなら、それは変わらないはずです」
別に侯爵夫人としての立場を守る気は無い。私の利用価値は無くなり、もはや居ないものとして扱われる日々だ。こんな邸宅、できるなら逃げ出してしまいたいと思っていたところもある。
けれど何かを言ってみたくなった。何故だろうか。きつい言葉を返されると分かっているのに。自分の尊厳を傷つけられるだけなのに。
「まぁ、私が愛されないわけがないですわお姉様。そりゃあお姉様はそんな陰気な性格じゃあ愛して貰えなかったかもしれないけど、私なら絶対侯爵様の一番になれるわ」
高慢さが滲み出ている目元から、だってみんなそうだったんですもの、と言われているようだ。
確かにルイーゼはみんなから好かれている。いや、社交界の幾人かのご令嬢からは疑問を抱かれていたりするけれど、それでも演技が上手い彼女のことだ。どんな風に行動すれば可愛がってもらえるか分かっている。
「……でも」
ルイーゼと入れ替わったあと私はどうなってしまうのだろう?実家に戻って、また使用人のようにこき使われる日々に戻るのだろうか。
ルイーゼがポットを引き寄せ、湯気が立ち上るお湯を空になったカップに注ぐ。
「……いいわよね、お姉様」
がっと右手を捕まれたと思うと、お湯がなみなみと注がれたカップの中に指を入れられる。
「〜〜あっ!!」
「ねぇ、いいでしょ?いいわよね?」
「…………っっ!!」
こくこくと頷くとルイーゼは満足したように微笑み私の手を解放した。真っ赤になってしまった指を左手で庇う。震えながら二人を見ると、もう私のことなど忘れてしまったかのようにルイーゼが夫人となった時のことを話し合っている。
じくじくと痛む指を見ながら唇を噛んだ。
◇◇
ルイーゼと私が入れ替わって、一ヶ月がすぎた。
分かっていたことだったけれど、夫が私とルイーゼの入れ替わりに気づくことは無かった。あの後私は、形ばかりの引き継ぎを行ったあと実家へ連れ戻されたため、侯爵家の様子を知る機会はなくなったけれど、ルイーゼに関する何か特別な動きはないだろう。何かあればルイーゼのことだ、すぐドローテに泣きつくはず。ドローテが普段通り過ごしているうちは、ルイーゼに被害は無いということだ。
あの家にいる限りルイーゼに与えられる影響としては、いいものがあるはずは無い。近いうちに思い知るはずだ。自分は特別にはなれないと。
「エレノア!こっちへ来なさい!」
「…はい」
私はまた地獄の生活に逆戻り。いや、ルイーゼとしての生活もなかなかのものだったけれど、ルクイーレ伯爵夫人やアルテニー伯爵夫人から貰ったあの優しさだけは、私のものだった。なのに、あの場所さえも、ルイーゼに奪われてしまった。
ガシャン!と派手な音を立てて収納箱を投げつけられる。かなりの重さがある。当たっていれば流血では済まない。
その後もありとあらゆる物を投げつけられるのを体を縮こませて耐える。
「それ全部、地下の物置にしまってきなさい。ついでに物置でしばらく謹慎してもらってても構わないのよ〜」
地下の物置。狭くて暗くて埃まみれで誰も近づきたがらない。幼い頃の私はよくそこに閉じ込められていて、物置は私にとって恐ろしくて孤独な場所であり、トラウマだった。ドローテはそれをわかっていてやっている。
投げつけられたものたちを拾い集めて抱え込む。
その腕に涙の粒が落ちて、唇を噛んだ。
一体いつまで、私はこんな生活を続けなければならないのだろう。一体いつまで、誰にも愛されない人生の中にいればいいのだろう。
◇◇
「ちっ…なんだって俺がこんなことを……」
隣でぶつぶつとランセント子爵家の使用人が毒を吐き出していた。名前は知らない。実家で下働きをしている男の一人だ。
今日は珍しく外出するように言われ、街へ出てきていた。どうも、ベルディア侯爵夫人のルイーゼが、以前のエレノアのように一変したことや、エレノアがまた引きこもるようになったことで、さすがに幾人かの貴族に怪しまれてきたらしい。そこでエレノアを街へ連れ出すことで、少しでもその疑惑を薄れさせようとしているわけだ。
そんなことをしても、時間の問題だと言うのに。普通に考えて人の、しかも全く性格の異なる二人の入れ替わりに、周りの人間たちが気づかないわけが無い。中にはもう既に気づいて黙っているだけの者もいるだろう。それでももう二度と私たちが入れ替わることは無い。このままやり過ごして噂が静まってしまえば自分たちの勝ちだとでも思っているんだ。
隣を歩く男は時折舌打ちをし、不機嫌そうにため息を吐く。この男は私のお守りをさせられているのが不愉快なのだろう。
今私たちが歩いている場所は、貴族令嬢達がよく足を運ぶブティックや宝石店が立ち並ぶ場所だ。歩き方はとても躾の行き届いた従者ではない。加えて主よりも前に立ち、時折舌打ちをする。そんな態度を取っていては嫌でも目立ってしまうのでやめてもらいたいものだけれど、そんなことを言ったら何をされるか分からない。
結果私が俯きながらただひたすらに歩いている時、急に男が足を止めた。
「ああ?…んだよこれ」
男視線の先を追って目を見開く。そこには、白を地として金の装飾と紫色の家紋が描かれた一台の馬車が止まっており、そこに今まさに乗り込もうとする一人の男性の姿が見えた。
その髪色で男性の正体に気づいた人々が思わず足を止めている。
「……ロードナイト、公爵様…」
私は公爵様の姿にくぎ付けになり、息を飲んだ。
公爵様が出てきたのは目の前の宝石店からのようだ。公爵様のような高い位の方となれば、邸宅の方に宝石屋を呼び込むのが普通だ。公爵様にお会い出来るなんてそうそうあるものじゃない。
息を飲みながら、私は不思議と高揚していた。
公爵様とは何度かお会いしたことがあるし、私が酔いつぶれた件もある。公爵様の中で私の印象は少しは残っているのではないだろうか。
けれど、自然と浮かび上がった淡い希望は直ぐに消え去った。
私はルイーゼ侯爵夫人だったのだと言ったところで何になるというのか。あなたの前ではルイーゼとなっていたけれど、本当はエレノアで、妹と入れ替わっていた。そして今は実家へ戻って酷い虐待を受けていると。
それを言ったところで、公爵様が信じて下さるわけもない。信じてくださったとして、公爵様が私を子爵家から連れ出してくれると?全く関係のない、自分にとってただの荷物にしかならないけれど、可哀想だから助けてくれると?
公爵様はそんな馬鹿げたことをする方ではない。ただでさえ社交界では女性に冷たい方だと言われているのに、こんなに面倒くさい身の上の女にどうして関わりたいと思うのか。
「あれが公爵か、偉そうにしやがって。貴族様はいいよなぁ、生きてるだけで敬われて」
そう吐き捨てて使用人の男は馬車から離れていこうとする。私もぎゅっと拳を握りこんで、公爵様から目を離した。男の後ろについて行こうとした時、ふと思い出してしまった。
私が今、夜会で公爵様から貸していただいたポケットチーフを、持っていることに。実家では私の物が盗まれることはよくあったため、常に肌身離さず持ち歩いていたのだ。
これを持っていけば、私がこれを貸したベルディア侯爵夫人だと気づいていただけるのではないか。
気づいて下さる保証なんてない。もしそんなことが起きたとしても何にもならない。
自分にそう言い聞かせることは出来た。
ただ、これを渡すだけ。その時公爵様が私に気づいてくださったのなら運がいい。そう思っておこう。ただ、渡すだけ。
「…あの、すみません」
「はい?」
公爵様の後に宝石店から出てきた男性に声をかける。身なりからして公爵様の補佐官だろう。
「はっ?…おい…!」
使用人が叫ぼうとしているが、気にせず顔に微笑みを貼り付けた。
「ロードナイト公爵様でいらっしゃいますよね?失礼ですが取り次いでいただきたくて…」
「あ〜〜…またあなたですか」
その瞬間、男性から侮蔑が含まれた視線を送られ、思わずビクッと方を揺らす。
「…?」
「前からお伝えしているとおり、公爵様にエレノア様とどうにかなるおつもりはまったくございませんので、このようなことは控えていただきたいのですが」
「まえから…?」
私がエレノアであった頃に公爵様にお会いしたことは1度もない。ということはつまり、私とルイーゼが入れ替わったあと、ルイーゼがエレノアとして公爵様に付きまとっていたんだ。
しかもここまで補佐官様に言われるのだから、相当追いかけ回していたのだろう。私の立場で。
「わ、私は…!」
なんというの?あのころの私とは別人ですって?あれは本物の私じゃなくて、偽のエレノアですって?
「…っ」
無理だわ。…これこそ信じていただけるわけない。
私はまた、ルイーゼの邪魔を受けるのね。こんなところでも。ただ恩人にものを返すことさえも出来ないなんて。
「ロイドどうした」
涙が滲みそうになった時、聞き覚えのある声が響いた。
「あー公爵様、またランセント子爵令嬢が…」
顔を上げると、眩い銀髪が目に入った。公爵様にちょうど太陽の光がさして、この世のものとは思えないほどの神々しさを放っていた。
「…なにか御用ですか」
分かってはいたけれど、想像以上に冷たい声をかけられ背筋に冷や汗が伝った。私がベルディア侯爵夫人だった頃とは別人のようだ。当たり前のことだけれど。だって私は今、公爵様にとって"自分に付きまとってくる気持ちの悪い女"でしかないのだから。
震える手でポケットチーフを取り出し、公爵様に差し出した。
「…公爵様にこちらをお返ししたくて……」
しばらく沈黙が走る。頭が真っ白になって顔を上げることすら出来ない。
「…これは、ベルディア侯爵夫人にお渡ししたものなのですが」
「……えっと、ルイーゼから預かっていたのですわ」
「ベルディア侯爵夫人があなたにこれを渡したのですか?」
追求するような鋭い声音に私は縮こまることしか出来ない。幸い公爵様からは私の姿は逆光になっているはずだから、この脅えた顔は見えていないだろう。
「はい、私が見たいと言ったら……。誤ってそのまま持ってきてしまって、また会った時に返そうと思っていたのですが、こうして公爵様にお会い出来ましたから、私からお返し致しますわ」
声が震えないように腹に力を入れる。ただ渡すだけ。気づいて貰えたら運がいい。そう決意できていたはずなのに、公爵様が私に気づく気配が全くないことに、動揺している自分がいる。当たり前だと、そう覚悟で来ていても、やはり人というのはどうしても期待してしまうものだ。
「……お返しいただく必要はありません。そちらで処分して頂きたい」
すっと体が冷える感覚に襲われた。はっと顔を上げると、鋭い視線が私を射抜く。心底気色が悪いとその瞳が言っているようだ。今、公爵様は本気で私を嫌悪している。
何も言えなくなった私は、差し伸べていた手を引っ込める。
「私はベルディア侯爵夫人にお貸ししたのです。関係の無い貴女から受け取るつもりはありません。ご理解頂けましたらお帰りください」
通りすがる人々の視線が痛い。夢見がちな貴族の令嬢は行動が大胆ね、とでも言うような嘲笑う声さえ聞こえてくる。
公爵様が私に向けているのは嫌悪。補佐官様は恐らく殺意。そして通行人たちは侮蔑。辺り全てが私に敵意を向けているこの状況が、世界の人々全てが私を非難しているかのように感じられ、ぞっとした。
「………」
「…行くぞロイド」
「はい」
もう公爵様が振り返ることは無かった。
パーティーの日のまやかしに、囚われすぎていたのかもしれない。公爵様の姿が完全に見えなくなった瞬間、私の中にあった、公爵様へのあこがれに近い感情は、粉々に砕け散った。
「ちっ……何してんだよったく、めんどくせぇこれだから…」
それよこせよ。と使用人の手がポケットチーフに伸びる。あっと思った時にはもう、男の手の中だった。呆然としていた私はそれを取り返す気にもなれず、項垂れる。
「あんたが持つには上等すぎるんじゃねえの?俺が妥当な金額で売ってきてやるよ」
「…………好きにして」
「あ?」
公爵様に突き放された以上、私がそれを持ち続ける理由はない。公爵様にお返しすることが出来ないのは申し訳ないけれど、本人がついさっき処分するように言ったのだから、気にする必要はないだろう。
「…あんたさぁもしかして」
どしっと肩に腕を置かれ、体重を乗せられた。
「公爵に恋してたりするわけ」
「…あなたには関係ないわ。なにか誤解をしているようだけど、私はあなたの主人の娘よ、気安く触らないで」
公爵様に恋だなんて、方向違いにも程がある。ベルディア侯爵夫人で会った時でさえ、公爵様の目にとまりたいだなんて考えたことがない。これは恋心なんかじゃない。ただの救われたいという欲望。
「…は、何言ってんのぉ〜。屋敷で散々使用人以下の扱いされてるくせに。言っとくけど、あそこの使用人全員あんたのこと自分らより下の人だって分かってるから」
「……」
不思議と、その男の言葉に動揺することは無かった。そんなことは自分でもよくわかっているし、それを引き起こしているのは紛れもなく自分だということも理解しているから。
妹の代わりに嫁げと言われても黙って従う私。夫に蔑ろにされても当たり前のことだと受け入れてしまう私。妹に夫をくれと言われても言う通りにすることしか出来ない私。
こんな世界から逃げ出したいと思うくせに、私はいつも人任せ。誰かに救ってもらえることを待っている。公爵様だってそう。こんな私に気づいてくださるわけはないと分かっているのに、それでも希望をかけてすがりついて。
人間なんて信用出来ないと思っているくせに、結局はまた他の人間に救ってもらおうとしている。いつも自分からは恐ろしくて動かない。動けない。
1度は死ぬことさえ考えたのだから、何もかもを捨てる覚悟で、今度は自分自身に賭けてみればいいのに。
「自分…自身に……」
「あ?聞こえねぇよなんて言ってん……は!?おいっ!」
突然男の体重がなくなり体がかしぐ。驚いて顔を上げると、私に背を向けて走っていく男の姿が見えた。その背中の向こうには、つばの広い麦わら帽子のようなものをかぶった男が一目散に走っていくのが見える。その右手には、公爵様のポケットチーフが握られていた。
「ふざけんじゃねぇぞ!!それは俺のだ!!」
どうやら盗まれたらしい。私にちょっかいなんかかけているから。
鼓動の早まる心臓を抑えて、じりっと後ずさる。男はあのポケットチーフを追いかけるのに必死。私のことなんて振り返りもしない。周りは人混みが多い。いつも私を監視する人間はどこにもいない。
逃げられる。
その言葉が私の頭に浮かんだ。この街を出て、子爵家の領地から逃げ出すことさえ出来れば、お父様だってそう簡単には追って来られない。
そうは分かっていても足が動かない。逃げ出したはいいけれど、その後捕まってしまったら何が待っているか分からない。きっとドローテは激昂して、奴隷として私を売りさばくかもしれない。いや、下手したら殺される。
じゃあどうする?ここで、あの男が帰ってくるのを大人しく待っている?
「……ばかばかしいわ」
殺されるのならそれでいい。このまま死ぬまで飼い殺されるくらいなら、少しでも希望のある方に賭けた方がいい。…自分自身に賭けた方が、よっぽどいい。
ぐっと唇を噛んで走り出した。今は作物の収穫の時期だから、定期的に隣町まで荷馬車が出ているはず。そこに乗り込んでしまえれば希望はある。
緊張なのかそれとも恐怖からなのか、がくがくと震える手足を必死で動かし、泣きそうになるのを必死に堪えながら走っている時、突然目の前に誰かが立ち塞がった。
「…まさか本当にやるとはねぇ……。これでも一応貴族令嬢ってか」
「な、なに…」
見上げても太陽の光と逆光になってよく見えない。かなり大柄なその男は黒い覆面をつけており、どこか狂気じみたしゃがれた声をしていた。
「よぉしじゃあ帰ろうかお嬢サマ」
その声とともに私の体に男の太い腕が周り、軽々と持ち上げられる。体の芯から恐怖が湧き上がり、喉から悲鳴が漏れ出る。
「きゃぁぁっ!いっ、嫌っ!はなして!なに…誰なのっ!?」
「俺かぁ?俺は、…子爵に雇われてるただの殺し屋さ」
ひゅっと空気を呑み込んだ。私が震えている間に、頭から麻袋を被せられる。
「なに、なぁんも怖くはないさ。俺は子爵からあんたが逃げ出した時は捕まえるようにって言われてるだけだからさぁ。殺し屋は殺し屋でも、あんた専用の…そうだな、鎖みたいなもんだなぁ」
恐ろしくて声も出せない。ぼろぼろと涙を零しながらこれだけは悟った。お父様はこの男を街に常駐させて、いつ私が逃げ出そうとしても連れて帰れるようにしている。そして、逃げ出した私が帰って来た時には…。
息をすることさえ難しい麻袋の中で、十二時を告げる鐘のなる音が聞こえた。その金属音の冷たさが、私にとっては恐怖を加速させるものにしかならなかった。
そこからは、思い出したくないもない、惨劇に近いものだった。
男に麻袋に詰め込まれたまま子爵家の前に投げ出された私を見つけた両親がとった行動は、私が予想した通りのものだった。
何度絶望したことか分からない。彼らは憎らしいほどに高笑いをしながら、私をありとあらゆる手段で痛めつけた。私が途中で失神しても、信じられないほどの痛みで目を覚ます。普段のストレスのはけ口として、あるいは私への憎しみを、いや、彼らは私を憎んでいる訳では無い。ただ自分より下の人間を痛めつけることで快楽を得ている、ただの化け物だ。
普段は自分よりもずっと位の高い貴族に媚びへつらう毎日。それが自尊心と野心の高いお父様とドローテにとっては屈辱的であることは分かっていた。彼らは侯爵夫人だった私に、屈辱と嫉妬、野心から来る人間の最も汚らわしい部分を、私にぶつけるのだ。
そのどす黒い影に包まれ、私はただ泣き叫びながらうずくまり、震えることしか出来なかった。何度も絶望し、心が壊れそうになりながら、長い長い夜を過ごした。
◇◇
「あの〜公爵様ぁ」
普段と何一つ変わらない、情けないような補佐官の声が執務室に響いた。
主人からの鋭い眼光を受け、その補佐官は笑みをひきつらせる。
「…なんだ」
「もう諦めませんかぁ、あれから訪問は疎か、手紙ひとつも届かないじゃありませんか。ポケットチーフだって、姉にあげちゃってましたし、公爵様に興味なんてないんですよ、きっと」
宝石が沢山着いたポケットチーフもらえてラッキー!お姉様のプレゼントにしてしまおう、って感じですかねとヘラヘラ笑う補佐官に、机に肘をつき険しい顔でそれを眺める公爵は、一層目を鋭くさせ、睨みつけた。
「彼女はそんな方では無い」
「たった二回会っただけでは分かりませんよぉ。ま、初めてお会いした時は、夫持ちであるにもかかわらず公爵様に色目を使おうとしてんのかなぁと思ってましたが、ポケットチーフを自ら返しに来ないところを見ると、そうでもないみたいだし、女性では珍しい方ですよね」
補佐官はそこで言葉を切ってちらりと公爵を見るが、美しい銀髪を右手で握り潰し、そのまま項垂れているのを見て、ため息をついた。
「言っときますけど、これって結構やばいことなんですからね、わかってると思いますけど。侯爵夫人に手出そうとしちゃってますから」
「手を出そうとはっ……!」
「してるでしょう。ちゃっかり家まで呼び出しちゃって」
ぐうの音も出ない公爵である。彼の傍には、ちぎれたボタンとそれについている青い生地の切れ端が置かれている。それに目をやり更に補佐官は口を開いた。
「それも大事にとっておかれてますけど、ベルディア侯爵夫人のものだとははっきりわかっておられないのでしょう?」
「いや、これは彼女のものだ。間違いない」
それからふっと笑みを零して、
「ちぎれたドレスの裾を手で覆い隠すなんて、可愛いと思わないか」
「はぁ、それのどこが可愛いのかよく分かりませんが、ベルディア侯爵夫人の行動の全てを可愛いと思ってらっしゃるんでしょうね」
「可愛いだけじゃない」
その切れ端にそっと指を置いた公爵の横顔を無言で眺めていた補佐官は、しばらくしてため息をついた。
「…やるならきっちり、ぼろが出ないようにやってくださいね」
そう言ってから一枚の手紙を主人の元に差し出した。それを受け取り差出人を確認した瞬間の顔を見て、補佐官は苦笑した。
差出人はルイーゼ・ベルディア。公爵が待ち焦がれていた女性からの手紙だ。
「良かったですねぇ。今日の朝姉の方に会いましたから、もしかしたらそこから話がいったのでは?」
「いや、それはない。彼女は家族から酷く冷遇されている。欲深いあの女がわざわざベルディア侯爵夫人に伝えたりはしないだろう」
「それもそうですかね。それにしても、きちんと前々からお断りを入れているのにこれほどまでにしつこい女性は初めてですよ。大体は少し怯えさせれば近づかなくなるのに、前回のことで懲りなかったんですかね」
「あまり行き過ぎたことはするなよ。彼女に伝わって怖がられたらどうする」
そう言いながら慎重に封蝋を剥がし、手紙を開く。僅かに頬を赤らめ口元を押さえながら愛しい女性の字を追う主人の姿に、補佐官はうえ、と言う顔をしながら横を向いた。
「明日の午後、ここに来るそうだ」
「おおー、良かったですね公爵様。待ち望んだベルディア侯爵夫人と逢い引きで」
ロイドがここまでからかっても無関心の公爵の視線は、未だにその便箋に釘づけだ。
「なにか気になることでも?」
「いや…字が少し、荒いんだなと」
驚いているような、加えて喜んでいるような公爵の横顔を見て補佐官は首を傾げた。
「…ベルディア侯爵夫人の字、拝見したことあるんで?」
「いや、ないが…」
「まさか想像してたのと違うとか仰りませんよね」
「……」
「図星ですか」
礼儀作法が完璧に身についたベルディア侯爵夫人からは、確かにその雰囲気に見合った淑やかな字体が想像できるが、どうやらそうではないようで。そしてその想像との違いというものが、公爵にとっては彼女の新たな一面を知れた嬉しいことのようで。
「準備をしておいてくれロイド。夫人がいつ来てもいいように」
「かしこまりましたよ」
準備へ向かおうと補佐官が踵を返した時、ちょうど鐘の音が鳴り響いた。
「美しい音だな」
普段は執務中に鳴るこの音が騒音だと吐き捨てるのだが、これまでの人生で一番最高な瞬間を迎えている公爵にとっては、幸せの訪れを告げる天使の歌声のように聞こえることだろう。
◇◇
「う……」
体中のずきずきとした痛みで目を覚ました私は、咄嗟に周りに誰もいないことを確認し、息をついた。悲鳴をあげる体を何とか起こし、あたりの暗闇を見回した。ある程度目が慣れてきたころ、自分がどこに閉じ込められているのかを理解出来た。
幼い頃の記憶を呼び戻す、どこか懐かしささえ覚えるここは、子爵家の宝物庫だった。宝物庫と言っても大した財を持たない子爵家にとってはただの物置だ。
「………」
何故ここに閉じ込められたのか。私を仕舞っておくところなんてここでなくともいくらでもあるのに。なぜ、ここだったのだろう。
ドローテは間違いなくただの気まぐれだ。あの人は何も知らない。知っているのは、私とお母様だけ。
「…まだ、頑張れというの……?」
うずくまる私の上にホコリが降り注いでくる。長い間誰も立ち入っていないのだろう。よく見えないが、ありとあらゆるものが乱雑に詰め込まれていることくらいは分かる。
「お母様もうだめです…もう頑張れませんわ」
精神の限界を迎えていた私は、意味もなくそんなことを口走っていた。
この物置には昔、お母様と一緒に来たことがある。一度ではなく、何度も。この物置の一番奥には、外へと繋がる通路が隠されているのだ。お母様はここを通って、幼かった私を何度も連れ出してくださった。
「どうして選りにもよってここなの…」
まだ、自分自身に賭けられる理由ができてしまった。
まだ、逃げ出せる道が残されてしまった。
「ひっ…うぅう、…〜」
それでも私の体と心は限界だった。かなりの回数殴られ蹴られ…骨の数本は折られているかもしれない。そうでなくとも、恐怖を振り払って、自分を奮い立たせて逃げ出し、それをいとも簡単にへし折られ痛めつけられた後なのだ。
もうここから逃げ出す気力もないし、もう一度逃げようとする気持ちさえ持てない。ただ震えて縮こまることしか、出来なくなっていた。
お母様は仕方ないことだと許してくださるかしら。私がここで、逃げ出すことを諦めても。…生きることを、諦めても。
仕方ないでしょう。だってあんなに、この世に絶望したのは初めてだったんだから。あんなに痛かったのは初めてだったんだから。あんなに、……死ぬかもしれないと、殺されるかもしれないと思ったのは、初めてだったのだから。
そうよ。
お母様がこんなに苦しんでいる私に更に苦しめだなんて酷いことを仰るはずがないわ。もっと頑張らなきゃならない、なんて、そんなことお母様は言わない。お母様はきっと、私が辛かったもの全てを理解して、よく頑張ったって、褒めてくださるわ。
私は十分頑張ったもの。お母様はそれを分かってくれて、抱きしめてくれるはず。……お母様は私のことが大好きだって、言ってくれるはず。
私がここで死を選んだって、お母様は、許してくださるはず。
「………ーーー〜〜っ…!!」
そんなのは、ただの私の理想でしかない。
私がこの苦しみから早く抜け出したいからって、都合のいいように考えているだけよ。お母様は、お母様はきっと、
死を選んだ私を許さない。
私がどれだけ苦しもうと、どれだけ痛みを味わおうと、それでも生きろと言うだろう。自ら死ぬことが楽になるための唯一の道だなんて、そんなことお母様は許してくださらない。
今の私を見ていたなら、きっと誰よりも傷ついて、涙を流して、怒りに耐えながら、それでも、生きなさい。と、そう言うだろう。
私が頑張れる道が残っている限り、お母様は私が生きることを望む。私が幸せになれる可能性が少しでもある限り、お母様はそこに賭ける。
お母様は誰よりも、私を愛してくださっているから。
「うっ、……はあ」
痛みに耐えながら必死に立ち上がる。息を整えて、手探りで前へ進んだ。
何も考えなくていい。何も考えずに、ただ歩いていればそれでいい。
◇◇
「…公爵様、そろそろベルディア侯爵夫人が到着なされますが」
「…ロイド、どこか変なところはないか」
「はいはい、いつでもなんでもお美しいですよ公爵様は。世界中どこ探しても公爵様のことを醜いと言うやつは居ないでしょうよ」
遠くから馬の嘶きが聞こえて来た。おそらくベルディア侯爵夫人の乗った馬車だろう。
あぁもうほら来ちゃいましたよ、とロイドが公爵を急かし、当の本人は緊張しているかのように深く深呼吸をし、ようやく一歩を踏み出した。
屋外へ出て、屋敷の扉の前で馬車が着くのを待つ公爵の様子を見ている公爵家の使用人は、愛しい女性を待っているのだな、と気づいているだろう。普段の公爵からは想像も出来ないほどに浮かれているのが、よく公爵を目にする者達には分かる。
やがて馬車が正門をくぐり、公爵の前で停まると、公爵は笑顔を浮かべ、降りてくる女性を出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました。ベルディア侯爵夫人」
周りに控えるメイドたちがほう、とため息をついた。キラキラと輝くような公爵のその笑顔を向けられる女性はどれだけの幸せものだろうか。ひとたび夜会へ出れば会場中の令嬢の視線を集める美貌、そして帝国でも指折りの財力、皇帝からの厚い信頼。全てを兼ね備えたロードナイト公爵からの愛を受ける女性は、帝国一の果報者だ。
「…急な訪問をしてしまって申し訳ございません。それにもかかわらずこのように出迎えてくださって……」
しかし、その女性がまさに馬車から降りて来る瞬間、公爵から先程まで浮かべられていた笑顔は消え去り、僅かな頬の紅潮さえ色をなくした。
それに気づかないベルディア侯爵夫人、いや、ルイーゼ・アリア・ランセントは、微笑みを浮かべながら公爵の元へ駆け寄った。
「またお会いできて嬉しいです公爵様。本日はお菓子を持ってまいりましたの。ご迷惑じゃなければ…」
「……誰だ」
「………はい?」
自分に恋心を抱いていたと思われる公爵から思いもよらず冷たい声を投げられたルイーゼは、困惑したように公爵を見上げ、ひっと後ずさった。
公爵は先程の輝かしさなどどこにもない、虫けらでも見るような冷ややかな目でルイーゼを見下ろしていた。
「…ベルディア侯爵夫人ではないな。お前は誰だ」
「わっ、わたくしは……っ私は!ベルディア侯爵夫人ですわ!正真正銘の…」
「いいや違う。こんな女ではない」
低い声でそう呟いたかと思うと、顔を真っ赤にさせ憤るルイーゼを置き去りに、踵を返した。
「……なんですかあの女は」
公爵の補佐官も女がベルディア侯爵夫人とは別人であることには気づいているようで、顔をしかめて公爵の為に扉を開けた。
「知らないな。どこかで会ったような気もするが…」
「………姿形はベルディア侯爵夫人ですね…。うわぁ気持ち悪」
ロイドが指示を出すと、公爵家の使用人たちがベルディア侯爵夫人を名乗る女を取り囲み、馬車に無理やり戻そうとしている。
「なっ…私が誰だと思っているの!?ベルディア侯爵夫人よ!?本物よ!私が本物なのよ!!!」
「あの女どうしますか?」
「…とりあえず外に出しておけば勝手に帰るだろう」
「公爵様っ!!」
きんっと甲高い声が響く。その声で公爵はぴたりと足を止めた。自分の方をようやく振り返った公爵を見て、満足そうな笑みを浮かべるその表情に、公爵は見覚えがあった。
夜会や街で何度もしつこく自分に声をかけてきた女。愛しい人と瓜二つな顔をしてはいるが、性格が彼女とは全く違う、気持ちの悪い女。
「……まさか、エレノア・アリア・ランセントでは無いだろうな」
「あっ!」
ロイドもはっとしたように目を見開いた。
「エレノアですって…?私はルイーゼですわ!本物のルイーゼ・ベルディアです。あの女こそがエレノア・アリア・ランセント。彼女は偽物です」
「…どういうことだ?」
「お、お姉様が、私と入れ替わりたいと言ってきたのです。私とベルディア侯爵との結婚が決まった時に。それで私とお姉様は入れ替わっておりました。それがようやくこの間、元の立場に戻ることが出来たのです!」
「……」
ルイーゼ・ベルディアだという女はまだ喋り続けているが、公爵の耳には入っていなかった。
彼の思考を支配しているのは、朝に出会った一人の女性のことだ。
公爵が恋焦がれている女性の姉は、彼によく言いよってきていた。あまりにも度を越したその行動に、自然と嫌悪感を抱くようになる。そんな女がまた自分の元に現れ、なおかつ妹の方に渡したはずのポケットチーフを代わりに返しに来ているのだ。自分に近づきたいがための行動だと受け取るのが当然だろう。
公爵も同じように考え、冷たく突き放した。ろくに、その女性の表情を確認することもなく。
「……っ」
思いもよらないだろう。まさか、姉妹間での入れ替わりが起きていただなんて。気づかないだろう。自分の前にランセント子爵家長女として現れた女性が、自分が恋慕っていたベルディア侯爵夫人だったなんて。
◇◇
頭上から雪のように降り注いでくる埃に目を瞑りながら、やっとのことでクローゼットを数十センチ動かした。その隙間さえ出来れば、私の体なら通り抜けられる。
体を横にしてその隙間に体を入れ込む。クローゼットの側面にこびりついているありとあらゆる汚れが、私の服が雑巾代わりになり拭き取られていくことになるけれど、そんなことを気にしている暇はない。
あまりに時間をかけると、ドローテが不審に思って誰かを寄越してきてしまう。そうなる前に、ここから脱出しなければ。
朧気だけれど、幼い頃の記憶からすれば、物置の一番奥の左隅に設置されている本棚、それを動かせばその奥に通路がある。当時はそこまで物が置かれていなかったため、母を繋ぎながら楽々と底へたどり着いた気がするけど、今は一歩進むのさえも難しい。
「きゃっ……」
どさどさっと物が落ちてきた。クローゼットの上に乗っていたものが、私が通る振動で落ちてきたのだろう。麻袋に入っていたため怪我はなかったが、弾みで中から出てきたのは工具だった。
もし麻袋ではなく木箱に入っていたら、と思うとぞっとして立ち止まった。
ここは暗闇に包まれていて、ほとんど手探りで動いている。危険なものも多くあるだろう。もしかしたら帰れなくなるかもしれない。
「…っ、はぁ、はぁ」
本当にこの先に通路があるのかも分からない。もしかしたら、気づいた父が封鎖してしまっているかも。もしそうだったら、もうこんな埃だらけの姿で帰れない。あの通路を探していたんだとばれて、二度とランセント子爵家から逃げることは出来なくなる。
「……っう、………お母様……」
震える手を握り込む。しゃがみこんでしまいたいけど、こんな狭さじゃそれも出来ない。早くしないといけないのに、足がすくんで動かない。
一人でここから出たって、その先どうするの。行く宛てなんかない。きっとろくな食べ物なんてない。もしかしたら、そのまま餓死してしまうかもしれない。いや、その前に人さらいにあって売られて、死んだ方がましだと思うような日々を送ることになるかもしれない。
「…………っ」
涙がこぼれる前にぐっと唇を噛んだ。震える足を無理やり前に踏み出す。腕を必死に伸ばして、クローゼットと壁の隙間から抜け出した。そして、その先の暗闇を睨みつけた。
そうよ。そうなったら死ねばいい。
どうせこんなところで暮らしていたっていつかは死を選ぶことになる。ドローテと父に飼い慣らされて一生を終えるくらいなら、少しでもこの地獄から抜け出せる可能性がある方に私は賭ける。それで死ぬことになっても、同じことだわ。
幼い頃閉じ込められていた時には、暗闇が怖かったし、何かを成し遂げられる力もなかった。でも私はもうできるはず。ちゃんと、自分の力で、ここから逃げられる。
「……ぅっ」
何かに引っ掛けたのか、腕に激痛が走り、そのあと生暖かいものが伝っているのがわかった。
そんなことを気にしている余裕はなかった。頭の中を何かが支配しているかのように、私は必死で手を伸ばす。もう自分の目が見えているのかすらも分からなくなるくらいの時間暗闇の中にいるからか、頭がぼんやりとしてきている。ずっと心臓の鼓動が強く速く打ち付けていて、冷や汗が流れ、息を切らしていた。
恐怖、孤独、緊張、そして高揚。
今の私を包むそれらが限界に達していた時、指先が、なにか革のような感触のものに触れた。ソファかとも一瞬思ったけれど、それにしては高い位置にあるし、それに硬い。指先だけでなく手のひら全体をつけるようにすると、少し凹みがあり、それが大量にあるようだった。
手を滑らせて確信する。それらが、本棚にいれられた本の背表紙であると。
泣きそうになるのを堪えなら、最後の力を振り絞って本棚に手をかけ、必死にずらすと、その下の方の壁に、人が一人、通れる位の小さな穴があった。
「……これ…」
そこに頭から潜り込ませ、這って進むと、しばらくすれば外に出られる。あの時もそうやって外へ出た。……はずなのに。
「……っ、どういうこと……っ!」
ガンッと格子に手をかける。しばらく揺すって見るけれど、取れる気配もない。木製で、そこまで腐ってはいないけれど、新しいものでもないようだ。恐らく、お母様がまだ生きておられる頃に、取り付けられたものだろう。お母様と私がここから抜け出していたことを知ったお父様が、取り付けたんだ。
ずるずるとしゃがみこんで、壁に頭を打ち付ける。絶望に包まれ、呆然としながら格子を握る自分の手を見つめていた。
「……こんなのもう……っ………どうしようもないじゃない…!」
何度も格子を拳で叩く。
悲鳴に近い声をあげて、壁にもたれ掛かる。格子が、私一人の力ごときで開くはずもない。
傷だらけの手で顔を覆う。血が顔にべったりとつくが、気にもしなかった。
もう全てを諦めてしまいそうになったその時、左手がなにかの溝をなぞった。その瞬間頭の中に記憶が蘇る。子供の頃に、遊び心でここに私が彫った、…お母様の名前。
「…スカーレット・アリア・ランセント……」
"まぁ!上手に彫れたわね!"
そう言ってお母様が頭を撫でてくださった、その感触さえも蘇る。
お母様は死ぬ間際まで私のことを心配なさっていた。病におかされて苦しんでいるというのに、私を一人残すのが心配だと。ごめんね、と。
「……〜っ!」
ぐっと足に力を入れて立ち上がった。
もう気力も体力も残っていないし、まだ諦めないでいられる理由なんて分からない。
けれど、もう、なんでもいいから、最後まで何かをしよう。絶望して諦めるのではなくて、ドローテに見つかってしまうまでの間、抵抗し続ける。恐怖なんてどうでもいい。
お母様が愛してくれた私を、私が諦めてはいけない。
「……工具…」
来る途中に工具が落ちてきたのを思い出した。工具があれば開けられるかもしれない、と足を踏み出すが、朦朧としながら進んできたせいで、どの道を通って来たのかも、工具がどこで落ちてきたのかも全く分からない。
息を呑んで、また手を伸ばした。一から、やり直しだ。
見ないふりをしても恐怖はあるし、もうだめかもしれないと絶望を繰り返している。もうとっくのとうに逃げ出すことを諦めている気もする。
怖くても、絶望してても、諦めててもいいから、
"ごめんね、エレナ…"
お母様は、私が生きて幸せになることが、ただひとつの望みだったと思うから。
「あっ……」
鈍い音をたてて、つま先に何かが当たった。手探りでそれを掴むと、先が刃でできていて、平べったい作りになっている、恐らく大工が使うような道具だ。
それをしっかり握って、元来た道を戻る。本棚の元まで帰り、膝を着いて、それを思い切り格子に突き立てる。丁寧に塗装までされていて強度が増していたが、十数年たっているそれはさすがに傷んできており、塗装を剥がしたあとは簡単に削ることが出来た。その先を掴んで、何とか根元から折る。
格子は全部で六本。私の体を通すには、最低五本は折らないと無理そうだ。
「はぁ、はぁ……っ、う……早く……早く折れて、折れて……っ!」
視界がぼやけてきた。しゃくりあげながら必死で刃を振り下ろす。我慢していた涙も、もうこらえることは出来なかった。
体も心ももうとっくに限界で、自暴自棄に近い精神で格子を削っていた。木の破片が太ももを裂いても、手がずれて刃に抉られても、涙をぼろぼろと零しながら力を込める。
まるで現実では無いみたいだ。暗闇も、悲痛な自分の泣き声も、痛みも。この状況全てが夢であればいいのにと思うほどの絶望も。
四本目の格子が折れた時、手の力が限界に達し、工具が通路の奥へ転がってしまった。
「あっ……!」
体を入れるだけ入れてとろうするが、届かない。はぁ、はぁ、と息をついてしばらく微動だしなかったが、その後、ぐっと足に力を入れた。
もう四本が折れている。体を押し込めば、通れるかもしれない。折った先が体にめり込んでしまうことになるけど、もう痛みは感じ無くなっていた。
「……っうぅう」
できるだけ腹の方を浮かして這いずる。十数年ぶりに通る通路は子供の頃よりずっと小さく感じられた。あの頃はこの中で方向を変えることだってできたけれど、今では肘を着くのが精一杯だ。
体に引攣れるような感覚が走る。途中で止めて患部を見ようとするけれど、体重で更にくい込みそうになり、そのまま死に物狂いで上半身を何とか通した。
足の力で腰を浮かして、しばらくそのまま静止する。手をなるべく遠くへついて、息を整える。ぎゅっと目を瞑り、息をとめて一気に下半身も通路の中に入れた。
「うっ……!……っ、はっ、はっ」
ランセント子爵家へ戻ってきてからの食事で、思っていた以上に体は細くなっていたらしい。ドレスはビリビリに破けれしまったようだが、体の方は致命傷にはならないだろう。
工具を握った方の手で体を引っ張り、もう片方の手は血が流れ出ている腹部を押さえながら進む。ドローテが追いかけてきやしないかと気になって仕方ないが、もう振り返ることは出来なそうだった。体ががくがくに震えて、息をする度に喘鳴に混じって悲鳴が漏れ出ている。
「ぅ、ぅぅうう」
光が見えてきた。通路が狭くなったように感じたのと同じく、想像よりも遥かに早く出口を見ることが出来た。
出口といっても街の路地に繋がっているため、そこに人の姿はないだろう。ここから出たあとは、家の者に見つかる前にローブかなにか、体を隠せる物を買って、その後は……。
「……え?」
目の前にある物を見てひゅっと息を呑んだ。泥や血に汚れた手でそれをなぞる。
「嘘でしょ……?なんで……っ」
通路の出口にはまた六本、木の格子がはめ込まれていた。
気が遠くなりかけた所を、地面に爪をたてて何とかこらえる。
「だ、大丈夫、大丈夫よ。道具は、もってきてる。また、さっきとお、同じように、削れば……っ」
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながらまた、刃を突き立てる。けれど、さっきと違って今度は狭い通路の中だ。十分に力を込められる体勢じゃないし、振り下ろすことも出来ない。腕の力も限界で、道具は握っているのがやっと。
今の状況では、これを折ることは出来ない。
それに気づいた瞬間、私は泣き叫んでいた。
外は雨が当たり始めていて、格子の先は薄暗い路地があり、その遠くにやっと人の通りがある。それも小さな影としてやっと認められる程度のもので、賑やかな街並みを歩く人々が私に気づくわけが無い。
雨が強く当たり始める。土砂降りになってしまえば、その音で更に私を見つけてもらえる可能性は低くなるだろう。いや、元々、無いに等しい。
「おね、がい……。誰か、……っだれか!助けてください…っ…だれかっ!!」
水も飲まずに埃を吸い続けた喉で、通る声を出せるはずもなく、がらがらの酷い声だった。左手を格子の外に出て手を振る。
「お願い……!お願いしますだれかっ誰か助けて!!……ゲホッコホッ……っう」
ついに外は土砂降りだ。視界も悪くなって、みんな早く家に帰るために走っていることだろう。こんな中、私に目を止める人なんているわけが無い。
「……だれか……たすけて…」
意識が遠くなり始め、振っていた左手も力なく落ちる。
もうだめだと思い、目を閉じようとした時、バシャバシャとなにかが跳ねるような音が聞こえた。それは段々と大きくなり、近づいてくるようで、私は力尽きたはずの左手を必死に伸ばした。
霞む目を向けると、誰かがこちらへ走り寄って来るのが見えて、また涙が溢れてくる。よく見えないが、二人組の男性のようだ。
「〜〜!!〜〜〜!!!」
先頭を走る男性の方が何かを叫んでいるが、耳鳴りが酷くて聞き取ることが出来ない。
「ここです……、たすけてください、たすけて…… っ」
「大丈夫ですか!?」
震える私の手を掴み、すぐそばに膝を突いた男性がそう言ったのが辛うじて聞き取れた。
「ロイド!剣で格子を切れ、早くしろ!!」
そう叫びながら、男性は格子の間に腕をねじ込んで、私の方へ手を伸ばしてきた。
「たす、たすけてくださ……」
「助けます!必ず助けますから!!」
伸ばされた手は私の頭を持ち上げ、その下になにか衣類のような物が丸めて置かれたのがわかった。
「〜〜!離れ〜!」
「〜〜、〜〜!」
助けてもらえる安心感に意識が急激に遠のいていく。それでも、男性の手が左手から離されそうになり、私は絶対に離しはしないと力を込めた。
その手が握り返されたことを感じたのを最後に、私の意識は完全に途切れた。
◇◇
「公爵様少しペースを落としましょう!もう少しで着きますから!」
馬が地面を踏み鳴らす音の向こうで、ロイドの叫び声が聞こえる。ロードナイト公爵家からランセント子爵家の領地まで休み無しで馬を走らせてきた。馬の体力的にも休ませた方がいいのだろうが、止まる気にはなれなかった。もう少しでつけるというのなら尚更。少しでも早く彼女の元へ駆けつけたいという気持ちばかりが急いていた。
「公爵様!」
それに答えようとした時、ぽつっと雨が額に当たった。ものすごい速さでそれは量を増していく。あっという間に土砂降りになり、視界すら危うくなる。これ以上馬に乗り続けるのは危険が伴うため、ロイドを振り向くと、既に馬から降りていた。
「もう街に入っていますから、このまま歩いても一時間もあれば着くでしょう」
「…………」
「……俺が傘なんて持ってるわけないじゃないですか」
そういう意味で見ていた訳では無いのだが、どうやら違った方向で解釈されたようだ。
「……お前は補佐官だろう」
「補佐官は傘を持ちませんよ。代わりに公爵様が投げ出した書類とペンを持ちますから」
そんなことを言っている間にも雨足は強まっていく。周りの人々も早足になり、ばしゃばしゃと足音が大きくなっていった。
「……悪いな、付き合わせて」
振り返りながら言うと、返答は帰ってこなかった。特に何を言われるのを期待していた訳でもないので、そのまま歩き出すと、ロイドがばしゃばしゃと駆け寄ってくる。
「今更ですかぁ?どんだけ仕事溜まってると思ってるんです、無事にエレノア様連れ帰れたら、一週間は徹夜してもらいますからね」
「…………」
「させますからね」
こういうところはロイドだ。一件無礼なようにも見えるかもしれないこの気楽さと、物怖じしない性格は時に人を救うことがある。
緊張が凝り固まっていたものを吐き出すように大きく息を吐き出した。
彼女が今どんな目にあっているのか分からない。どうして入れ替わりにすぐに気づくことが出来なかったのか。自分が面倒くさいと避け続けていた社交活動も、もっと積極的に参加していればすぐに違和感に気づけたのでは無いのか。
後悔ばかりが頭から離れず、固く目を瞑った時だった。
「……?」
一瞬のことだった。直ぐに雨音と人々の足音にかき消されてそれらしき声は聞こえなくなる。高く、だが掠れていたように思う。いや、それは雨の音と混じっていたからかもしれない。
「公爵様?」
大して気にすることじゃない。はっきり聞こえたわけでもなければ、その内容すらもわからない。それでも自分の足が止まる理由は、その声を聞いた瞬間、全身の血が騒いだからだろうか。体が硬直するような、恐ろしさを感じるような、そんな感覚だった。
「……なにか、声を聞いたか?」
「声ですか?色んなところで叫んでる声がしてますからねぇ、どれのことです?」
「…………」
またかすかに聞こえる。今度はさっきよりも長い。まだ何を言っているかは分からないが、理解するよりも前に足を踏み出していた。
「来いロイド!」
「えっ!?ちょ、ちょっと公爵様ぁ?」
一段と激しくなった雨が顔を打ち付け、一歩踏み出すごとに泥が跳ねる。ロイドが絶望しそうな程の汚れようになっているが、気にしてはいられない。
こんなにも行かなくてはならないと本能的に思う相手は、自分にとっては一人しかいない。
気の所為かもしれない。恋しく思うがあまりあの人だと思い込んでしまっているだけの可能性も捨てきれない。だが、彼女ならやりかねないのだ。酷い仕打ちを受けていても、何度傷つけられていようとも、自分の芯を失わない。必死に生きようとしている彼女なら。自らの力で、地獄から抜け出すくらい。
声は完全に聞こえなくなってしまっていた。雨が酷すぎて声は疎か視界も悪い。
ざっと右足でブレーキをかけて止まる。目の前に暗闇に包まれる路地があり、その奥に広がる光景を見て、息を呑んだ。どくんどくんと心臓がうちつけ、頭が真っ白になる。
追いついてきたロイドが息を切らしながら主の視線の先をたどったあと、目を見開いた。
「……あれは」
「……っ!!」
次の瞬間、走り出していた。暗い路地の奥、力なく投げ出された白い腕には血がこびりつき、どす黒く見える格子の奥に倒れている女性が一人。
目に焼きつけるように何度も目で追っていた彼女がそこにいた。
彼女が意識を取り戻したのか、震えながら左手を上げ、こちらに伸ばしているのが見えた。
「……っエレノア!!」
それに答えるように彼女の名前を読んだ。ずっと呼ぶことの出来なかった、彼女の本当の名前を。
駆け寄りながら羽織っていたコートを脱いで丸める。
「ここです……、たすけてください、たすけて……っ」
「大丈夫ですか!?」
やっとエレノアの元にたどり着いた。荒れる息を抑え込む。彼女の左手を握った自分の手が震えていることに気づく。焦っていた。
近くで見ると腕には深い切り傷があり、身体中に血がこびりつき、ホコリや雨と混ざり酷いことになっている。狭い通路の奥にぐったりと弛緩している体からは、どこからの出血かは分からないが、大量の血が流れ出ていた。
「ロイド!格子を切れ早くしろ!」
そう叫んだ自分の声がみっともなく枯れていた。
どうにかなりそうだ。自分の手を握る彼女の手のあまりの冷たさと、ぬるりとした感触を残す彼女の血液。視界に映るぼろぼろの彼女の姿が、自分に想像を絶するほどの恐怖を、今まさに植え付けている。
腕を格子の向こう側にねじ込み、彼女の頭部に触れる。出血が頭部からではないことを確認したあと、そばに置いておいた丸めたコートを彼女の頭の下に置く。
通路は周りの地面より一段低くなるような設計のようで、雨水が流れ込み彼女の体を浸水し始めていた。
「たす、たすけてくださ……」
「助けます!必ず助けますから!!」
死なせはしない。死なせるものか、と自分の中に強い決意が浮かび上がる。その気持ちはあまりにも多く、比例して彼女を失う恐怖が沸き起こる。
「公爵様離れてください!!」
ロイドが剣を振りかぶる。離がたい手を彼女から離し、格子から腕を抜く。
格子に刃がはいり、中心に亀裂が入った。そこに手を入れ込み、埋められた土ごとえぐりとる。
ふと、握っている彼女の手が自分の手を強く握り込んできた。見ると、朧気な目付きで自分の方を見つめてきている。その悲痛さに思わず手を握り返す。
「エレノア、分かりますか。しっかりしてください、意識を失ってはいけない」
声をかけるが、彼女の意識はもうなかった。手からは完全に力が抜け、瞼は閉じきっている。
「いけます公爵様!」
「……っ」
通路に半ば潜り込むようにして彼女の体に腕を回す。半身をねじ込んでみてわかる。通路は狭い上に暗く先が見えない。様々な危機を乗り越えてきた自分でさえも身構えるほどの不気味さ。こんな所を、一人で這ってきたというのか。
傷だらけの彼女にできるだけ負担のないように、細心の注意をはらいながら通路から引きずりあげる。体に預けられる彼女の体重に、唇を噛んだ。
「……これは…」
露になった彼女の全身の有様を見てロイドが息を呑んだ。ジャケットを脱いで彼女にかぶせてくる。それを手繰り寄せて体を包み込んでから彼女を抱きしめた。
「早くしないと手遅れになります…!馬車を呼んできますから、公爵様はできるだけ体を…」
「分かってる!!」
なるべく揺らさないように屋根の下へ入る。右手で体を支えながら傷を確認すると、どうやら出血元は腹部のようだ。ロイドのジャケットのポケットを探りハンカチを抜き取る。彼女の服を破ったあと、それを傷口に押し当てた。軽く唸り声が聞こえ顔を見る。
「エレノア、分かりますか?」
返答はない。顔は青白く、薄く開かれた血色の悪い唇、死人のように冷えきった体からは今にも消え入りそうな弱い鼓動しか聞こえない。
馬車の走る音が聞こえ、彼女を抱き上げた。
「すみません、少し揺れます」
彼女をジャケットで包み雨に濡れないようにしながら馬車まで走る。
「公爵様!」
ロイドが降りて馬車の扉を開ける。そこに体を押し入れ、乗り込んだ。
「公爵家へ戻れ!早く!!」
「はっ!」
馬が走り出す。雨の音も、何かをまくし立てているロイドの声ももう聞こえなくなっていた。自分の中に渦巻く感情のままに彼女を抱きしめ、その小さな鼓動を聞いていた。
◇◇
ここは、どこだろうか。
自分の体が自分のものではなくなったかのように、動かそうとしても力が入らない。それでもその感触や温かさから、ベッドの上に寝かされていることがわかった。
体も重いというのになんだか頭まで痛いような気がする。息もしづらく、顎を上へむけて息を吸おうと試みる。そうしているうちに視界の白濁が薄れてきて、辺りを確認することが出来た。
綺麗な調度品で飾られたいかにも貴族の部屋という感じで、自分以外の人はいないようだった。
「あの方の邸宅かしら……」
あの時私に駆け寄ってきて手を握っていて下さったあの男性、貴族だったのでは、と青ざめる。
貴族なら子爵家へ連絡を入れて突き出されてしまうかもしれない。そうなってしまった時のことを考え、私は言うことを聞かない体に必死に力を入れ、何とか上半身を起こした。
そこで一旦息をついて、額に手を当てる。手も熱を持っていてよく分からないが、いつもよりも熱い気がする。
「うっ……」
ベッドから降りようとした時、ズキン、と身体中に痛みが走った。それで通路へくぐる時に格子で腹部を抉ったことや、それ以前に父と義母から暴行を受けていたことを思い出した。腹部の方は包帯が巻かれていて患部が見えない。どれほどの傷なのかを考えると恐ろしくもあるけれど、とにかく今じっとしている訳には行かない。
もしあの方が連絡をまだしていないようなら説得して、このまま私を見逃してもらえばいい。でももし、もう連絡してしまっていたとしたら……。
幸いにベッドのすぐ横にバルコニーがある作りのようで、ガラスの扉を開けるとすぐ外に出ることが出来た。あたりはもう真っ暗で、冷たい風が私の髪を弄んだ。
体を引きずりながらバルコニーの柵に掴まり下を見下ろす。
「…高い……」
熱があるからなのか、簡単に涙が滲んだ。下はとても飛び降りられる高さではなかった。その上こんな体で、もし実行したら怪我では済まない。
とその時、後ろで扉が開く音が聞こえた。びくっと体を震わせ隠れようとするけれど、そんなことができるほどの体力は私に残っていなかった。
床に座り込んだ私と、入ってきたメイドらしき女性と目が合う。
「えっ……お、お嬢様っ……!」
「……………、こ、こないで、ください…」
ろくに声になっていないが伝わったようで、それ以上近づこうとはしてこなかった。
そのメイドはどうしたらいいか分からないと行った様子で手に持っていたものをそばにあったサイドテーブルに置いて、その後私を見つめた。
「お、お医者様いわく、お嬢様の体はすごい疲労状態にあるんです。それに加えて傷も酷くて、と、とても動けるような状態では………」
そこまで言って、誰かを呼ぼうと振り向こうとする。
「ま、まって!!わたし、わたしは、実家へは戻れないんです。戻りたくない、お願いですから連絡はしないでください」
お願いですから、と言葉を重ねている間にまた視界がぼやけ始め、床にうずくまる。
「お嬢様!!あっ……」
熱い。痛い。苦しい。体中が悲鳴をあげているようで、ただ喘ぐように息を吸うことしか出来ない。
荒い息を繰り返している時、誰かがすぐそばに立ったのがわかった。ゆっくり座り込む気配がして、必死に後ずさる。
が、そんな抵抗も無駄であり、ぎゅっと手を掴まれてしまった。それにパニックに陥りかけ悲鳴を上げた私に、優しい声がかけられた。
「エレノア嬢、私が分かりますか?」
その声に聞き覚えがあり、顔を上げると、痛ましげに眉をひそめた、光を放っているほど錯覚するほど美しい、ロードナイト公爵の姿があった。
「ロ、ロードナイト、公爵様……?」
「はい、そうです」
困惑のままにどうして、と呟く。涙に濡れた私の頬を優しく拭ったあと、公爵様はメイドから受け取ったブランケットを私の肩にかけた。
「あの日のことを覚えていますか?あなたが路地裏の奥で倒れていた雨の日。あの時あなたを助けたのは私です」
そうだっただろうか。意識が朦朧としていたせいでよく覚えていない。
「ここはロードナイト公爵邸です。もう恐ろしいものはありませんよ」
恐ろしいもの、それではっとしてロードナイト公爵様の手を握り返す。
「公爵様……っ、私、家にはもう戻れないのです…!きっと今戻ったら私、こ、殺されて…。だ、だからどうか実家へ連絡は入れないで……」
しどろもどろに訴える私を見て、公爵様は苦しんでおられるように見えた。その表情に気づき言葉を切る。
どうして、そんな顔をされているのだろう。自分が傷をえぐられたかのような、痛みと、悲しみが混ざったかのような、そんなお顔をしている。
顔を下へ向けると、私の手を握っている手も、震えているようだった。
「エレノア嬢」
名前を呼ばれて顔を上げると、それと同時に体に腕が周り抱き抱えられる。突然自分の体を襲う浮遊感に、ぎゅっと目を閉じた。
「私と結婚しませんか」
「……え………?」
今、彼はなんと言ったのだろう。すぐに理解することが出来ずに呆然とすぐそばにある顔を見つめる。
「こっ公爵様ぁぁ??」
そばにいた誰かがあわあわと右往左往しているのが見えるけれど、公爵様はそんなことは気にしていないようで、そのまま歩き始めてしまった。
「もちろんあんな所へあなたを戻す気はさらさらありません。ですがこれからのことを考えると、私と結婚して公爵夫人になってしまった方が手っ取り早いのです」
優しくベッドの上に下半身を下ろされる。彼は右腕で私の頭を支えながら、私の頭の下に枕を置いた。その間目の前に迫った薄いシャツ越しの胸板を感じ、私は熱があるその上からさらに赤面していた。
そんな私のことを置き去りに、公爵様はそれに、と言葉を続ける。
「あなたが妻になってくだされば私は、私の全てであなたを守ることができます」
公爵様の深紫色をした瞳が私を真正面から見つめていた。
しばらく無言が続き、彼が答えを待っているのだと気づく。答え、と言っても性急なことで、まだ何も整理ができていない。
それでも、 ただ一つだけ理解出来たことは、公爵様の妻になれば、私は一生彼に守られて過ごすのだということ。
公爵様のことはよく存じ上げない。まだ数回しか顔を合わせたことは無いし、どんなお人なのかも全く分からない。 普段の私ならよく話を聞いて、自分の中で整理をつけた後に返事をしていたのだろう。
でも今の私に、細かいところまで考えられる余裕はなかった。それで、私が望むただ一つのことを見つけ出し、問うことになったのだ。
「……私を、守ってくださいますか…?」
公爵様はまた溢れ出す涙を拭ったあと、その手をそっと私の頬に沿わせた。
「もちろんです」
それを聞いたあと私はゆっくり目を閉じて、静かに頷いた。
「……結婚します、私、公爵様と…」
目を閉じると急激に意識が遠のいていくのがわかった。でもそれは、あの隠し通路の中で一人孤独の中で感じながら意識を手放した時とは全く違う感覚で、私は心の底から安心しながら眠りについた。
◇◇
彼女が眠ってしまったあと、自分が乗ったことによりできたシーツのシワを直しながら、いつの間にか部屋に入ってきていたロイドに声をかける。
「ばたばたとうるさいぞ。彼女が起きてしまうだろう」
「こっ!!……公爵様、こんなふうに結婚を決めてしまっていいんですかぁ?だってこんな……」
ねぇ、と隣に立つメイドに共感を求めているが、そのメイドは号泣していて全くもってロイドに関心がない。
「ううぅ、お、お嬢様、きっと今まで、辛い思いを……。私、私ったらもっと違うことを言えたでしょうに……!」
エレノアの過去への悲しみと自分の言動への後悔を同時にしているようで、当分は話が通じないだろう。ロイドはそんなメイドを面倒くさそうに眺めたあとため息をついた。
「ああもう、どうするんですか、だいぶ意識が朦朧とされていたようですし、冷静に考えた上での返答ではなかったと思いますけどぉ」
「問題は無い。俺がエレノアを守ることには変わりないのだから」
「あーもうだめだ。もうこのまま婚姻証明書書くつもりだこの人」
「よく分かっているな。早く持ってこい」
「公爵様ぁぁ」
◇◇
私が次に目を覚ましたのは、明るい日差しの差し込む昼過ぎだった。体のだるさこそあるものの、視界の白濁などの酷い症状はなく、既視感のある目覚めにぼうっと昨夜のことを思い出していた。
逃走を図っていた所に公爵家のメイドが来て、連絡を入れないで欲しいと頼み込んでいる間に公爵様が登場。感情のままに家へは帰れないと泣きじゃくった挙句ベッドまで公爵様に運んでいただいたこの始末。謝っても謝りきれない、酷い失態を犯してしまったのだけれど。
痛みを堪えながらゆっくりと上半身を起こす。
「……結婚…………」
私の記憶が間違っていなければ昨日の夜、私と公爵様は結婚を約束した、はずである。
「……」
私の今の状態を一言で表すならば呆然。お怒りを買ってもおかしくない状況で何故かプロポーズ(?)を受け私もそれに頷いてしまった。それに私は子爵家の出身で、しかも夫の家から逃げ出してきた女だ。そもそも釣り合わない家柄であるのに、身分差などという言葉では表現出来ないほどの複雑な立場にいる。
そんな私に、公爵様が求婚したという事実が私には信じられなかった。正確には求婚ではないのだろうか?あの時愛の言葉を伝えられた訳でもないし、(そもそも公爵様が私へ想いを抱いているわけもないし)もしかしたら公爵様は私を哀れんでの事だったのかもしれない。
しかし、公爵様が私なんかに妻の座という温情をかけてくださることがあるんだろうか。私なんかを妻にしたところで公爵様には何の得もない。
いや、それ以前に思い出してみよう。昨夜、公爵様は私のことを、"エレノア嬢"と呼ばなかっただろうか。
「……」
その事実に気づき、声を上げそうになるが全身の痛みにより口を閉ざして悶える。
私が公爵様にお会いしたのはどれもルイーゼである時だった。エレノアであった頃の私と公爵様は接点すらもない。それに私が出てきた場所から最も近い場所にあるのは間違いなくベルディア侯爵家だ。あの場に倒れていた私は、ルイーゼであると考えるのが通常では無いのか。それにもかかわらず公爵様は躊躇いなく私のことをエレノアと呼んだ。つまり公爵様は、私の正体に、気づいている。
「…………いたた…」
意味もなく腹部を撫でて、呟いてみる。ぐるぐると思考を埋め尽くす情報量の多さに、とりあえず冷静になろうと思ったのだ。しかし発熱しているのか上手く思考がまとまらず、段々と考え事が塗りつぶされていくような感覚だ。
結果
「……あ…」
涙を零していた。
つまり体力がなく正常な判断が出来ない中、精神もざわざわと落ち着かないままでの複雑すぎる考え事に、体が耐えきれなくなったのだ。
止めなくてはと思うことすらも気だるく、そのまま涙を流し続ける。どうせ部屋には誰もいない。私は十分頑張った。少しくらい泣いてしまおう、と思い直し両手で顔をおおった時、扉が軽くノックされた。
びくっとして顔を上げると、ゆっくり扉が開かれるのが見えた。慌てて涙を拭うが、どうもいうことをきかない体は大粒の涙を生産し続ける。
今から寝たフリをしても動きを見られてしまって直ぐにバレてしまうだろう。咄嗟に私は枕を掴み、膝を立てて座ったままそこに顔を埋めた。
「……起きていたのですか」
少し驚いたような声色だけど、美しいその声から直ぐに公爵様だとわかった。
「は、はい」
とりあえず返事はしてみたものの、顔を埋めたまま挨拶もしないだなんて非常識(そもそもこんな状況そのものが非常識ではあるけれど)だ。かと言ってこんなにぐずぐずな顔を見せる訳にもいかず硬直する。
すぐ側においてあった椅子に座ったのだろう、ぎしっと木が軋む音がする。
「体調はどうですか?」
その声はあまりにも優しく、なんだか不思議な余韻を残すものだった。いや、公爵様は元からとても優しい方。私が顔を隠したいがためにこんな失礼な行動を取っているのも、公爵様はこれを咎めたりしないとわかっていて、それに甘えているだけなのかもしれない。
「…お陰様で、だいぶ良くなりました」
「まだ寝ていた方が良いのでは?」
「いっいいえ」
寝たら泣き顔を見られてしまう。
「……エレノア嬢、少し顔を見たいのですが」
さすがに訝しんだ公爵様がそっと背中に手を添えてくる。隣で身動きをする気配が感じ取れ、公爵様が私を覗き込んでいるのが分かった。
これはもう隠せないのではないか。こんな子供じみた真似を公爵様の前でし続けるよりはもう諦めて顔を見せてしまった方がいいのでは、とも考え始めた時、エレノア嬢、と声がかかった。
「……私の顔が見れませんか」
「……え?」
「……昨夜の私は、確かに強引でした。まるで結婚をあなたが守られる条件のように提示してしまっていた。あなたは意識が朦朧としていましたし、早まったと後悔されていても仕方の無いことだと思います」
勝手に思いもよらない話を展開されて枕の中で目を見開く。
「ですが私は、もうこの結婚を取り消すつもりはありません。もう既に婚姻証明書にサインをし、今朝神殿の方へ早馬を出しました。もう提出されている頃です」
「えっ……出してしまわれたのですか!」
驚いた私はばっと顔を上げ、思わず面と向かって叫んでしまった。
公爵様にとってなんの利益もない結婚で、それこそ情けの上での決断を下させてしまっていたとしたら申し訳ないでは済まない。一度考え直して公爵様と話す機会くらいは、…あると思っていたのに。
「……エレノア嬢」
公爵様の美しい顔を目の当たりにして息を呑む。日差しで暖かく彩られた部屋の中、公爵様の眩い銀髪がキラキラと光を反射していた。
少し切れ長めな目元が苦しげに細められているのに気づき、私は公爵様に実家へ連絡を入れないでくれとすがりついた時のことを思い出した。あの時と同じような、傷ついたような顔をしている。
「やはり、結婚を後悔していますか?」
「え……?あ」
やっとそこで酷い有様の顔を公爵様に晒していることに気づき、両手で顔をおおった。
「違うのです、これは…………」
結婚を、後悔。
していると言えば、しているのではないか。
早まった決断をしたのは確かに私。なぜなら、その決断で公爵様の妻という座を受け取ってしまったのだから。本来なら公爵様をしっかりとサポートできる名門の女性がこの座につき、周りから非難を受けることも無く円満な家庭になるはずだっただろうに、私が公爵様の温情に甘えてしまったせいで、公爵様は多くの人から咎めを受けるのではないか。
いくら公爵家だからといって評判が落ちても大丈夫、などと呑気には言ってられないはず。
私がまたあの地獄へ戻りたくない、公爵様に守られたいという自分の欲を抑え込むことなく、子供のようにそれをそのまま公爵様にぶつけてしまったから、優しい公爵様はこんな行動をとってしまわれた。
「……しています」
「……」
思い沈黙が私たちを包んだ。
「私は、公爵様が…」
「だとしても、もう手放す気はありません」
え、と思った時にはもう、公爵様に抱きしめられていた。公爵様が乗ったことにより、ギシッと乾いた音が鳴った。逞しい腕と胸板をもろに感じ、私は一気に紅潮する。
「こっ、公爵様っ…」
身動ぎをするが、身分差の手前無闇にもがくことは出来ないし、そもそも力が強く到底敵わない。
「エレノア嬢が後悔するのは当然のことです。私は弱っている貴女に、保護を条件として突きつけ、断れない状況を作り、結婚を強要した。死か結婚かの選択を迫って、脅したのと同じです」
その声の悲痛さに私は胸を詰まらせた。思いもよらないことを言われ動揺している自分もいる。公爵様に脅されただなんてほんの少しも思っていない。
死か結婚かの選択。公爵様が私に選ばせて下さらなかったら、私には死の一択しか持ち合わせていなかったのだから。
背中に回っていた手が後頭部に上り、私の首筋にあてがわれた。その手の促すまま公爵様の首筋に顔を埋めると、品のいいコロンが香る。そうしていると、全身余すところなく全てを公爵様に預け、そして守られているようで、私の体からは自然と力が抜けていった。
「それでも守りたかった」
力強いその声に、私は不意に泣きそうになり、ぎゅっと目を瞑る。
「卑怯な手を使ってでも…、後で貴女が後悔したとしても、泣いてしまったとしても、何がなんでも私の近くにいて欲しかったのです」
ゆっくり体を離され、そのまま額と額を合わせるように向き合う。
「そうしたら貴女を、私の全てで守ることが出来る」
それは確か、公爵様に求婚された時にも言われた言葉だ。あの時の私はその言葉に酷く安堵して、私を追い続ける不安と恐怖から、救われたような心地になった。
「エレノア嬢がどれだけ悲しんでも、後悔してても構いません。貴女が傷つくことだけは決してない。何があっても、貴女に危険が及ぶことはありません。…そしていつか、私と結婚して良かったと、心から思ってくださるように、私は…」
「私は、公爵様との結婚が嫌で後悔しているのではありません。…私のせいで、公爵様にご迷惑がかかるのが嫌なのです」
公爵様が弾かれたように顔を上げた。私はまた涙でぐしゃぐしゃになってしまった顔を見られるのが恥ずかしく、公爵様の胸へ頭を倒した。
「私が頂いた公爵夫人という座は、本来家柄の釣り合った、きちんとした教養のある、素晴らしい女性が手にするはずのものです。決して私のような者が座っていい場所ではありません。
公爵様はお気づきですか…?社交界での私は、妹と入れ替わりをしていた元ベルディア侯爵夫人で、今では実家に戻された傷物の子爵令嬢です。私の地位など無いに等しい。まともな教育すら受けていない。加えてこんなに体のあちこちに怪我をして、傷跡が残るかもしれない。家族とは絶縁状態」
話している間にますます自分の価値の無さに絶望し、そしてそれを通り越して呆れてきた。どうしてこんな女を妻にしたいと言う人がいようか。
涙が瞬きで落とされシーツに落ちる。公爵様が今どんな顔をしているのかが恐ろしく、身を縮こませた。
「こんな私は公爵様のお荷物にしかなりません。公爵様を支えることなんてできない。きっと生涯、足を引っ張りますわ。…私はそれを分かってて、……分かっているのに、この地獄から抜け出したいだなんて私欲のために、公爵様の求婚をお受けしました。私が公爵様に脅されただなんてとんでもない。私は、………貴方様を利用しようとしました」
「………」
私の嗚咽だけが響く。その時間が異様に長く感じられ、体を震わせた。
私を妻にしたのなら、公爵様は様々な方向から咎めを受けることになるだろう。公爵と地位があるために表向きに何かしらの処罰を受けるということは無いかもしれないけれど、その地位の高さ故に、結婚でさえも手段の一つとして使えるものだったはずだ。
公爵様が築き上げた信頼や実績が、なかったことにされてしまうかもしれない。
そうさせてまで貴方に私は守ってもらって、私は貴方に何も返せない。
ふと公爵様が身動きをしたのがベッドの沈みで分かり、身構えた瞬間、そっと頭に大きな手が添えられた。その温かさに驚き、顔をあげる。
「…なぜ、エレノア嬢はそんなにも心が美しいのですか?」
「…え?」
公爵様は微笑んでいて、添えられた手は私の髪を優しく梳いている。
「私のことを利用しようとしてくださったんですね」
「わ、私は…」
「私がそれを聞いて、どんなに幸せだったか分かりますか?」
意味がわからない。私が公爵様を利用しようとした事は、公爵様にとって幸せな事だった。公爵様に害しか与えない私のこの選択が、貴方にとっては幸せな事だったと、彼はそう言っているんだわ。
「私はエレノア嬢に、貴女を守りたいと申し出ました。そして貴女は、自分が幸せになるために私の手を取った。それの何が、申し訳ないのですか?私はエレノア嬢が私を利用しようとしたと聞いてとても幸せでした。なのに貴女は、私の立場まで心配してくださるのですね」
まだ溢れ出てこようとする涙を押しこらえながら首を振る。伝えなければならないことがあるはずなのに、言葉にならない。
「私のことなど考えなくていいのですよ。ただ貴女は、幸せになるためにとことん私を利用すればいい」
「だけど私は…公爵様に何も返すことはできませんわ」
「返すも何も、私たちは夫婦となるのだから、私はすべて貴女のもの。貴女はすべて、私のものだ」
エレノア嬢の全てを貰えるのなら、これ以上の幸福はありませんね、と本当に世界一の幸せ者のような表情で呟かれるのだから、たまったものじゃない。公爵様は私の心が綺麗だと言うけれど、公爵様以上に優しい方は居ないだろう。
堪えきれずについに泣き声をあげた私を、軽く息をついてから再び抱き寄せた公爵様は、私が泣き止むまで背中をさすっていた。私がその腕の中で心の底から安心しきっていたのはもちろんだけれど、公爵様も震える私の体を抱きしめながら、何度か安堵したように息を吐いては、私の存在を確かめるかのように頭を擦り寄せていた。
◇◇
私が目を覚ました時、あたりはすっかり夕焼け色に染っていた。ぎょっとして身を起こすと、ぱさっと何かが落ちる音が聞こえた。振り返ると、私の体にかけられていたのであろう、公爵様の来ていたジャケットがあった。
部屋の中を見回しても公爵様の姿はない。
「……」
どこか寂しさを覚え、そのジャケットを抱きしめた。
私が公爵様と話していたのが昼過ぎのことだったはず。とすれば二時間程度経ってしまったのだろうか。公爵様にはお仕事もあるし、そんな長い間泣きながら眠っていたら、さすがに置いていくだろう。
そう分かっているのに心が言うことを聞かず、私はため息をついた。先程この部屋で起こっていたことが嘘のようで信じられない。こんなにも私に都合のいいことが本当にあったの?あんなにも、私に優しい言葉をかけてくれる人が本当に居たの?
「………すべて、夢のように消えてしまったら…」
「失礼致しますエレノア様」
「…は、はい!」
びくっとして顔を上げると、扉がゆっくりと開かれた。そこから入ってきのは一人のメイドで、私はその顔に見覚えがあった。
「……あ、あの時の…」
そのメイドはぱっと顔を輝かせ、身を乗り出すような勢いで口を開いた。
「…!はい、そうでございます…!エレノア様が目を覚まされた時におりました、ロードナイト公爵家の副メイド長を務めておりますユーリエと申します。昨晩は大変失礼いたしました」
「いえ!…私こそ申し訳ありませんでした。何もわからず気が動転してしまって…驚かせてしまいました」
頭を下げるときょとんとした顔をしてずっと黙ったままでいるので、首を傾げるとはっとしたように肩を揺らした。
「あ、申し訳ありません…!いえ、あの、エレノア様が謝られる必要なんてありません。なので、少し、…驚いてしまって」
「…そうでしたか。ごめんなさい二度も驚かせてしまって」
「いえいえいえ!!謝らないでくださいませ。私はただの使用人ですので…」
「いえ、それを言ったら私は使用人以下のただの落ちこぼれ子爵令嬢です…」
「いえそんな!エレノア様は落ちこぼれてなんて」
「いえ本当のことですから」
「い」
「何をしてるんだ」
ぎっと木の軋む音がしたと思うと、公爵様が扉に片手をつき、こちらを覗いていた。ユーリエが振り返って何やらぎょっとしたように後ずさっている。
「ユーリエ、エレノア嬢は体調が万全でないんだ。あまり無理はさせるな」
「申し訳ありません…」
ユーリエが顔を俯けるのを見て、慌てて口を開いた。
「あの、ユーリエ、さん、は、私にただ謝ってくださっただけなので」
公爵様の隣でユーリエがこくこくこくとものすごい勢いで頷いている。ユーリエの反応を見た感じ、公爵様への苦手意識があるようだ。
公爵様は私とユーリエを代わる代わる見つめたあと私に微笑んで、彼女に先程とは違う、柔らかい口調で話しかけた。
「ユーリエは何か温かい食べ物を持ってきてもらえるか。エレノア嬢は朝から何も食べ」
「スープをお持ちしてあちらに置いておきました!それでは私は!」
公爵様の話を遮ったかと思うと、風のような速さで部屋から出ていった。脱兎のごとくとはこのことだろうか、と思いながら呆気に取られる。
公爵様も微妙な顔をして突っ立ったままだ。半ば諦めたような表情が見える当たり、いつもの事なのだろうか。
僅かに苦笑して溜息をつきながら扉を閉めた公爵様は、私に向き合ってしばらく口を閉ざした。
「…………ユーリエはなんでも美しい顔の男性が苦手なんだそうで…」
しばらくして静かにそう言った公爵様をぽかんと見つめる。公爵様はそんな私の視線が気まずいようで、扉を後ろ手で閉めた状態のまま目を逸らしている。
まさかとは思うけれど、自分で美しい顔の男性、ということが恥ずかしかったのでは…。それを言いたくないがためにユーリエに拒絶反応を起こさせないように優しめに声をかけたけれど失敗した、とか…と気づいた時、私はぷっと吹き出した。
「ふ、ふふ」
「…勘弁してくださいエレノア嬢」
「ふふふ、そうなのですね。綺麗な人がお嫌い。では公爵様のことは世界で一番苦手なのかもしれませんね」
「はい?」
だって公爵様はとても美しい方ですから。と言うと、今度は公爵様が呆気に取られる番だった。
「…私を美しいと思ってくださっているんですか」
「は、はい、まぁ…。公爵様を見て美しいと思わない方はいらっしゃらないかと…」
というより美しいと思わない方がどうかしている。仮に愛する人がほかにいるから公爵様には全くもって興味が無い方がいたとしても、興味があるかないかと美しいと思うか思わないは別の問題だ。
少なくとも私が見てきた人々のなかで公爵様は圧倒的に美しい。
「公爵様なら色々な方からそのような言葉を頂いているかと…?」
「…まぁ……。ですが、エレノア嬢から美しいと言っていただけたことが一番嬉しいです」
照れたように微笑む公爵様の瞳が私を貫く。身構えのないままに攻撃(?)を受けた私はばっと胸を抑えた。
「そ、そうですか…」
昨日は意識もはっきりしていなかったし、ずっと気を張ったままだったからあまり意識はしていなかったけれど、そういえばロードナイト公爵様は気がおかしくなるくらい美しい方だった。唐突に公爵様の美しさを理解した私は、まともに公爵様のお顔が見れなくなり髪を直すふりをして俯いた。
「…エレノア嬢もこの顔は好きですか?」
「………?」
一瞬何を言われたのか理解出来ず瞬きを繰り返す。そうしている隙に公爵様は私に近づいてきて、朝も座っていたベッド近くの椅子に腰掛けた。
「エレノア嬢がお好きでしたら、毎日このように近くでお見せして差し上げます」
「…は、はい?あの…」
反射的に顔を逸らし、公爵様から離れるように体を傾けた時、ずきんと体に痛みが走った。
「つっ…!」
「エレノア嬢!」
体に力を入れることが出来ず、そのままベッドに倒れ込むかと言うところで公爵様の腕が私を支える。激しい痛みに息をつまらせ、息も絶え絶えになっていると、ゆっくりと背中をさすられた。
「大丈夫ですか」
顔をのぞきこんできた公爵の表情があまりにも痛々しく、痛みに耐えながら何度も頷いた。
「…背中も、あまりさすらない方がいいでしょうか。痣が……」
「…ご覧になったのですか」
驚きを隠せず言うと、返答を濁され、赤面した。つまりは、見たということだ。お父様やドローテに暴行されてできた傷を。
「…申し訳ありません、醜い物をお見せしました」
そう言って公爵様を見ると予想以上に険しい顔をされていて、私は思わず肩を揺らした。
「…醜いのはエレノア嬢の体ではありません。あなたにこんな傷をつけた人間以下の生物です」
また、あのお顔をなさっている。私がバルコニーへ出て泣きながら公爵様にすがりついた時、私の泣き顔を見た時、そして、今。
自分の体が引き裂かれているとでも言うような、見ているだけで悲しくなる、どれだけの痛みを公爵様が味わっているのかが分かってしまうような顔。
公爵様がその表情をするのは、決まって私の傷を見せてしまった時だと、もう気づいてしまった。
「…そんなお顔を、なさらないでください」
声がみっともなく震えていて、私は俯いた。
「私のせいで公爵様が悲しまれる必要なんてありませんわ。公爵様が…」
公爵様がその表情を見せる度、私はどこか喜んでいるのだから。
なぜなら公爵様は、私が傷ついているのを見て、一緒に傷ついてくれているのだと分かってしまうから。私のせいで、私のために、傷つき、そして怒ってくださっている。心の底から私を心配して、どうにかして私を安心させたいと思ってくださっていることが分かってしまう。
その度に私は嬉しくなって、今まで味わってきた辛さや苦しみを全て吐き出して、慰めてもらいたくなる。
私が受けてきた苦痛を盾に泣きついて、甘やかしてもらいたくなる。
そんなことしたら、だめでしょう?だから
「…エレノア嬢のせいで悲しんでいるのではありません。貴女を守れなかった自分と、貴女に苦しみを与えた奴らに憤っています」
絞り出すようなその声にはっとした時、公爵様が私の肩に顔を埋めた。
「あの雨の中倒れているエレノア嬢を見た時に、私がどれだけ恐怖に怯えていたか……。貴女を守れなかった強い後悔と、貴女を失うかもしれない恐怖に押しつぶされそうでした。あんな思いは二度としたくありません。……けれどエレノア嬢は、私よりもずっと怖い思いをしてきたはずです」
公爵様の温かさを感じながら、私は何も言うことが出来ずに、ただ静かにその声を聞いていた。
「ここへ連れ帰ったあの日、エレノア嬢の体を見ました。屋敷からの脱出の際だけでつくような傷の数じゃなかった。何度も暴行を受けてきたはずです。……こんなに小さく柔らかい体で、それを耐えてきたのだと思うと、私がどんな気持ちになるかわかりますか」
ついに堪えきれずにぼろっと涙がこぼれた。私が望んでいたことを、公爵様はとうに感じ取っていたんだわ。私が考えるよりも遥かに重く、私の痛みを、分かち合おうとしてくださっている。
「恐ろしかったでしょう、痛かったでしょう。愛しい貴女が泣き叫んでいる時に、私は駆けつけることが出来なかった…。結果、全身余すとこなく傷つけられ、固く目を閉ざして意識の戻らない貴女の姿を見た時、私は自分と、エレノア嬢に恐怖を与えた奴らのことを決して許さないと心に決めました」
公爵様の手が震えていることに気づき思わず握ると、公爵様が私の肩から顔を上げ、もう片方の手で涙で濡れた私の頬を拭った。
「…エレノア嬢が生きていてくださって、本当に良かった。貴女が死ではなく生きることを選んでくださって、本当に…」
この方はどこまで、私を幸せにする気なのだろう。
あの暗い物置の中で一人孤独で生きることを決意した、頼れる人は誰もいない、ただただお母様の意思だけを信じて自分を奮い立たせたあの時。
あの絶望にまみれた瞬間の決意を救ってくれたようで、私のあの時の決意が間違っていなかったのだと教えてくださったようで、もうわけも分からず涙を零し続ける。
「エレノア嬢は決して醜くなどありません。貴女は誰よりも強く美しい。私は貴女が妻で、誇らしい」
額に唇が落とされ、それと共に、私の中で何かが決壊したのがわかった。
「エレノア嬢はもう十分頑張りました。あとは私が、貴女を守ります。だから、」
甘えてください。
その言葉と同時に、私は公爵様の首に腕を回した。傷が微かに痛んだけれど、それが気にならないくらい幸せに包まれている。
「…公爵様」
「……エレノア」
一瞬驚いたように公爵様が身を固くしたけれど、すぐに私を受け入れて、抱き締め返してくれる。私の体を気にしているのかほとんど力の入っていないようなものだったけれど、公爵様の腕の中にいるというだけで、言葉に表せないほどの愛しさが込み上げてきた。
◇◇
「…大丈夫なようですね」
主人と、その未来の奥方の二人の様子をこっそり見ていた補佐官ロイドとメイドのユーリエは、抱き合う二人を見てそっと扉を閉めた。
「ユーリエが突然飛び込んでくるから驚きましたよ」
「も、申し訳ありません、なんだか不安で……。だってご主人様は女性には疎い方だとばかり思っていましたから…。今まで浮いた噂はひとつもないですし、女性にはほんとに怖いですし、正直エレノア様を不安にさせてしまうのではないかと思ってしまって」
主人のことをぼろくそに言うユーリエに苦笑したロイドは、溜息をつきながら腕を組んだ。
「忙しくなりますねぇ。ベルディア侯爵夫人を追い返してますし、子爵家からエレノア様強奪してますし、勝手に結婚してますし」
そうですねぇ、とユーリエも頷く。
ユーリエはこう見えて代々ロードナイト公爵家に使える一家の娘で、彼女の祖父は先代のロードナイト公爵補佐官である。彼女もその優秀さを受け継いでおり、この若さで副メイド長を任されている。
今回の件でも色々と動くことになるだろう。
「……本当に、元気になってくださって良かったです」
ユーリエがしみじみと呟いた。
「エレノア嬢がですか?」
「もそうですけど、ご主人様がです」
「……」
「もう私は、ご主人様のあんな姿は見られません……」
ユーリエのその言葉にはロイドにも共感があるようで、何を聞くでもなくじっと前を見すえた。
「息が止まるかと思いました。いつも完璧なご主人様が………。お顔は真っ青で、冷や汗をかいて、今にも泣き出しそうなお顔をなさって、エレノア様の手を握ってらしたのを見た時は……」
長い間連れ添ってきたロイドでさえも、そんな主人の姿を見るのは初めての事だった。感情さえもなくしたのではないかと思うほどに普段は冷徹な主人が、この世の終わりかと言うほどに慟哭していれば、少なからず焦りを覚えただろう。
「……エレノア様は俺達も命をかけてお守りしなきゃですねぇ。エレノア様に何かあったら、公爵様は乱心して何するかわかったもんじゃない」
「ほんとですよねえ。…でも」
「?」
ユーリエが真剣な顔をしてロイドと同じ方向を見つめていた。
「私たちがお守りするのは今までと変わらずご主人様でいいと思います」
「あららそれはまたなぜ。エレノア様のことがお嫌い」
「いえ、そうではなくて……。……エレノア様のことはご主人様が死んでもお守りすると思います。今回の件でご主人様は、エレノア様を失うことに酷く恐怖を抱くことになるでしょうから……。だからこそ、エレノア様を守るためなら何を捨てても構わないはずです。それこそ、…ご自分の命さえも。…だから私たちは、エレノア様は公爵様に任せて、エレノア様の為に命を捨てる公爵様をお守りすれば良いのだと思います」
「……まだ捨てると決まったわけじゃ…」
「いいえ捨てますよあれは。私が保証します」
「そんなものは保証しなくて結構ですよ」
◇◇
「奥様、シェフがお嬢様のためにフルーツを切ってまいりました。お食べになられますか?」
「あ、はい…」
「奥様、今日はお天気がようございますからカーテンを開けておきますね。後でお花も摘んで参りましょう」
「ありがとうございます…」
「奥様、ずっと寝てばかりで疲れてはいませんか?もしよろしければ私按摩の心得がございますので」
「…えっと、…あの、皆さん」
「「「はい」」」
同時にこちらを振り返ったユーリエを含めた三人のメイドに、私は苦笑いを返した。
「私は大丈夫なので…皆さん他に仕事もあるでしょうし」
遠慮がちにそういうが、三人揃って首を振られてしまった。
「いいえいいえ!私たち本日は、というかこれからしばらくは奥様の身の回りのお世話をする以外に仕事を与えられておりません」
「そうなのです。旦那様から奥様に辛い思いをさせることだけはないようにと仰せつかっておりますので」
「というか奥様、もう私達に敬語など使わないでください!」
まくしてたてられ頷くしかない。
何があったかと言うと、旦那様、つまりロードナイト公爵様が邸宅を留守にしたのだ。昨日から、恐らく明日までの三日間。公爵様は私を家に残していくことを酷く心配して、こうして私一人に対して三人のメイドを常駐させている。
私はまだまだ安静にする必要があるとのことで、ベッドの上からほとんど動くことがない。そのため三人もメイドをつけて頂いても、彼女たちは特に仕事もなく立ったままおしゃべりをしてもらったり、今のようにとにかく私に尽くしてもらうしかない。
それはあまりにも申し訳ないので他の仕事に行ってくれと言ってもこの有様である。
「正直奥様とおしゃべりしていた方が楽なんですよ〜」
と言うけれど、ならばせめて座ってくれと言っても頑なに自分たちはメイドであるから立っているというのだ。
「…あなた達がそう言うのなら、私も立つことにします」
「おっ!奥様!?」
三人が仰天したように私に駆け寄る。無理やり起き上がった私を、支えるかベッドに押し戻すか迷っているようだ。
「まだ起き上がっては行けないのですよ!」
「そうですよ!肋いってるんですから!」
「…でも、皆さんがずっとこうして尽くしてくれているのに、私だけ休んでいるなんて…」
「私たちはこれが仕事なのですから〜」
彼女たちは押し戻す方に決めたようだ。私の体を心配しながらも限りなく優しい力で私を倒そうとしている。
「それに、公爵様も今仕事をなさっているのでしょうし、やっぱり私だけこんな楽をしているなんてことは…」
「旦那様は仕事というか、奥様の夫としての務めを果たしに行っているだけですから、気にしなくてもよろしいんですよ!」
え?と、私は体の動きを止めた。てっきり公爵様はお仕事に向かったのだと思い込んでいたのだ。
私の反応を見た三人が首を傾げた。
「聞いていらっしゃいませんか?」
「旦那様は、奥様のご実家へ向かわれたのですよ」
「……」
きょとん、と目を見開いた私を見て、三人は気まずそうにお互いの顔を見合わせた。
やだ、旦那様ったら言ってなかったんだわ。
あら、これ私たち言って大丈夫な事だった?
もしかして、わざと伝えることなく出ていかれたんじゃ…。
…きっとそうなんだわ、奥様が心配なさることがないように。
えええ、言っちゃったわよどうするの?
旦那様ったら分かりにくすぎるわ。それならそうと一言言って下さらないと。
そんな会話が聞こえてくるあたり、私以外のこの邸宅の使用人たちは全員このことを知っていたようだ。知らされていないのは、私一人。つまり、三人の言う通り、公爵様は私に余計な心配をさせない為にお一人で向かってしまったのだ。
あの地獄のような場所へ。
「わ、私、行かなくては……」
「だっ!だめですわ奥様!」
「それが一番だめなんです〜」
「お願いします私たちの首を守ると思ってっ」
またも三人に押し戻されるが、今度は譲る訳には行かない。
あそこへ向かったということは、用件としては結婚の報告なのだろうけど、そんな生易しいものではなくなるだろう。あっちは突然いなくなった玩具と結婚したという相手が訪ねてくるのだから。そして公爵様は、私を玩具として扱っていた家を訪ねるのだから。
どうなるかわかったもんじゃない。きっとお父様やドローテは怒り狂うだろうし、かと言って相手は公爵様だから、きっとこれをどうにかして利用しようとしてくるだろう。公爵様にきっと失礼なことも沢山するはず。
「…それは嫌なの」
知らず知らずの内に、涙を零した。どうもこの公爵邸 家へ来てから、泣きもろくなってしまって困る。それはきっと公爵家のみんなや公爵様が、私を大切に、愛してくれるから。
「あんな所が、私の実家だと、……私が育った場所だと知られてしまうことが、恥ずかしいの…」
「…奥様……」
手を握ってきたユーリエの腕に頭を預ける。
「きっと公爵様は嫌な思いを沢山するはずだわ。もしかしたら侮辱されて、お怒りになってしまわれるかも…。……どうしましょう、ユーリエ。私、公爵様に嫌われたらもう…」
「そ、そんなことは有り得ませんわ奥様!旦那様がそんなことで奥様をお嫌いになるわけないじゃありませんか…」
私につられて、ユーリエまで泣き始めてしまう。それを見た残り二人のメイドまで涙ぐんだ。
「そんなこと仰らないでくださいませ奥様…。どうして奥様のご実家のせいで奥様が嫌われるのですか」
「そうですわ奥様。もしそうなったら私どもが旦那様を叩きのめしてやります!」
アンという新人メイドが物騒な言葉を吐いたその時、部屋の扉がノックされる音が響いた。
私が出ます、と言ってユーリエが涙を拭い、扉へ向かう。入ってくる人にこの顔が見られてしまわないかと焦る私を隠すように二人が立ち塞がった時、扉が開く音と共に少し驚いたような声が聞こえた。
「どうした。…何かあったのか」
その声を聞いた瞬間、私は目を見開いた。
二人の陰になってちょうど声の主の方が見られなくなっているため姿こそ見えないものの、もう私は、その声を聞くだけで分かるようになってしまった。
「ユーリエ。エレノアはどこに…。…………」
二人のメイドもその正体がわかったようで、さっと私の目の前から退いてしまう。
開かれた扉の前に立つその人と目が合い、愛しさが込み上げて来ると同時に、身を乗り出した。
「…公爵様っ………」
公爵様を呼んだ自分の声が想像以上に甘く聞こえて、恥ずかしくなる。まるで戦場から無事に帰ってきた自分の夫を安堵しながら迎えているよう。それほどまでに、あなたが恋しい、会いたかった、寂しかったと相手に伝わってしまう様な声をしていた。
「…エレノア」
公爵様はほんの一瞬立ちすくんだ後、直ぐに私の元へ駆け寄り、そのまま私をきつく抱きしめた。
公爵様の体温を全身に感じながら私は、彼にまだ嫌われていなかったと安心して、自分の身を擦り寄せる。それと同時に、彼の肩がぴくっと揺れた。私の行動が大胆すぎて驚かれたのかも、と思った次の瞬間。
「!……ん」
腰を抱かれきつく抱きしめられたまま、私は公爵様に口付けられていた。
背中にあった手が上へ登り後頭部へあてがわれる。そうすると自然に顎が上へ向き、さらに深くその口付けを受け入れるしか無かった。
初め、キスされたと気づいた瞬間こそ身を強ばらせたものの、私は直ぐに彼に身を預けた。嫌ではなかった。むしろ、驚いたその次に私を襲ったのは、言葉で表せないほどの幸福感と安心感。これが恋をしているということなんだと、認めざるを得なかった。
私はいとも簡単にその唇の甘さに屈し、震える手を公爵様の背中にまわす。
私の唇をしばらく弄んだ後、その口付けは徐々に深いものに変わり、反対に私は苦しさを増していくけれど、公爵様に私を放す気は無いし、私も放される気は無かった。
鳥肌に近いものが私の背を駆け上がり、さらに興奮を煽る。それは公爵様も同じなようで、私に回る腕はさらに力を増し、私を押し倒しそうな勢いだ。
…このまま、公爵様に抱かれてしまうかもしれない。
それでもいい、と思ったその瞬間、いきなり公爵様が身を引き、唇が解放された。私は荒い息をつき、公爵様は二人の唇の間に引いた唾液の糸を切り、余韻が残っているであろう唇を噛みながら、じっと何かを堪えているようだった。
「…すみませんでした。いきなり、」
しばらくして公爵様が口を開いた。どくどくと早鐘を打つ胸を押え、私は首を振る。
「……いえ…」
一瞬の出来事だったかもしれないけれど、あまりにも刺激が強すぎて、当分はろくな会話が出来そうにない。
公爵様は私のベッドにのし上がらんとしている左足を軸にして今度こそベッドの上にあがり、壁に背中を預けたあと、私をその膝の上に乗せる。
普段なら恥ずかしくて恐れ多いと震えてしまうような体勢だけれど、今それどころではない私は自然にその腕の中に収まった。
「…何か、嫌なことがありましたか?」
「…え?」
「さっき、泣いていたようなので」
あぁ、と思い出した。正直不安に思っていたことも全て吹き飛ばされてしまうよな衝撃を受けたあとなので、どうでも良くなってしまっていると言えばその通りだ。
「……いいえ。…もう、大丈夫です…」
頭を公爵様の厚い胸板に預け、私よりもゆっくりなその鼓動を聞いていると、公爵様が気まずそうに身をよじった。
「その、…寂しかった、ですか……?」
顔を上げると、顔こそいつも通りの美しさを誇っているものの、耳をうっすら赤く染め、少し期待したような目をした公爵様がいた。
いつも余裕そうな顔をして私を慰めてくれる公爵様からは考えられないほどわかりやすいのだが、それは私が公爵様のことを理解し始めた証拠なのかもしれない。
「…はい。……少しだけ」
素直に頷くと、公爵様は微笑んで、私の髪を撫でた。指先まで優しい甘さを含んだその手に、なぜだかまた少し涙が滲んだ。
公爵様が私を愛してくれていることが痛いほどに伝わってくる。言葉はなくても、彼がこの先私を嫌うことなんて絶対ないと自惚れてしまうほど、彼の行動全てが私を愛していると叫んでいるよう。
「公爵様、……私の実家で、何か嫌な思いをされましたか…?」
私の髪を撫でる公爵様の手が止まり、その後すぐに重い返事が返って来る。
「……はい」
前まではこれを聞いて、私にうんざりしてしまうかもと怯えたかもしれないけれど、今はもうそんな風には思わなかった。
彼がした私の実家での嫌な思い。その返答の意味が、私にはわかってしまうから。
「……私にうんざりされましたか?」
俯きながらそう聞くと、直ぐに身を起こされ真正面から見つめ合う。その強い意志を持った眼差しを受け、頬に涙が伝ったのがわかった。
「そんなわけありません。…むしろ、あんな腐りきった場所で過ごしてきたのに、どうしてそんなに心が美しいのかと…。……あなたに惚れ直してしまいました」
公爵様の右手が私の頬を優しく包み込んだ。
私の心の中で、何かが壊れた音がした。嫌な音じゃない。殺し屋に担がれながら麻袋の中で聞いた、あの冷たい鐘の音でも、父やドローテに暴行を受けていた時、なんども自分の中で鳴っていた音でもない。
微笑んだ私を見て公爵様が目を見開く。左頬に添えられた温かいその手に自分の手を重ね、私は口を開いた。
「……好きです、公爵様。……貴方に恋をしてしまいました」
私の告白と同時に窓から光が差し込み、私たちを照らす。
しばらく呆然としていた公爵様は、私が愛しくてたまらないと言ったように切なげな顔をしたあと、優しく私を引き寄せ、キスをした。
「…私もです、エレノア。あなたを愛しています」
何度も優しくキスをされ、滲んだ涙を拭われる。私は今この世界で一番の幸せ者なのではないかと思うほど、甘い幸福感に酔っていた。
今までの人生でつけられてきた傷が、公爵様の手で全て愛されるものへと変わっていき、それは同時に、もう彼なしでは生きられなくなっていた事を、私に自覚させる。
この幸せが永遠に続けばいいのにと願う私と、永遠に続くことを約束する公爵様。確かにこの瞬間、私たちは愛し合う本物の夫婦となった。
◇◇
公爵様がランセント子爵家へ行ってから一ヶ月ほどがすぎた。公爵様は私に嫌なことを思い出させたくないと、その時のことをあまり話してはくれなかったが、一応話は付いたらしかった。
もともと本人同士の合意さえあれば結婚できるわけなので、子爵家の方が何か抗議したとしてもどうにもならないことなのだが、公爵様は子爵と子爵夫人がこれから先私に手出しをしないようにしてきたらしい。
それと、私がベッドから動けないでいる間に、社交界ではルイーゼがベルディア侯爵夫人ではないとバレてしまったようだ。そして本来のベルディア侯爵夫人がランセント子爵家の長女、エレノア、つまり私であったこと、私とルイーゼが入れ替わっていたこと、もろもろすべて明らかになってしまったのだ。
今ルイーゼがどんな目に遭っているかは分からないけれど、ベルディア侯爵に相当酷い目に遭わされているだろう。可哀想だとは思わないけれど、同情はする。身から出た錆、と言えばそうだけれど、甘やかされて育ったあの子にとっては厳しい環境になっている頃だろう。
でもそれは、同時に社交界での私の立場も無くなったことを意味している。私と公爵様が結婚していることはまだ公にはなっていないようだけど、いつかは知られることになる。でもそうなった時、社交界での私の今の立場は最悪だ。脅されていたにせよ、私が入れ替わっていたという事実は変わらない。メルティエ侯爵夫人をはじめ、上流貴族夫人の皆様、加えて皇后まで今回のことについては相当お怒りになっているだろう。
そんな私がこの帝国の公爵、しかもあのロードナイト公爵の夫人だなんてしれたら、公爵様までどんな目に遭うか分からない。
公爵様も最近はとてもお忙しいようで、私の部屋へ来られる回数が減った。ロイドも忙しく働いているようだし、最近ではユーリエもすっかり姿を見なくなった。
間違いなく私が、皆の重荷になっている。
初めの頃はそれでも落ち込んでしまわないように気をつけていたけれど、最近では限界に近かった。私が結婚当初に恐れていた事態になっているのだ。責任を感じずにはいられない。
私さえいなければと何度も考え、そう思ってしまうことが今まさに頑張ってくれている公爵様に申し訳ないから、本人の前では平気なフリをして。それでも公爵様のことが恋しくなって甘えたくなるけれど、そんな時公爵様はそばにはいない。
私のために、何かをしようとしていることくらいは分かる。一番の当事者は私なのに、当の私は、このベッドの上から動くことは許されない。
公爵様と結婚して二週間ほど経ったころに、一人でベッドから降りて歩こうとした際、右足に痺れが走り、うまく立っていることすらできなくなった。幸いその時公爵様がすぐそばにいたため、パニックになることはなかったが、お医者様に見てもらったところ、父やドローテからの暴行の際に足に伝わる神経を傷つけられていたようだった。
これから先、普段何気なく歩いている時でも、ふいに痺れが走って立つことが出来なくなることがあるそう。つまり、後遺症が残る、ということだ。
腹部の怪我も完治してはいないし、後遺症がどれほど残るか分からないから、ひとまず絶対安静で、一ヶ月ほどは決して自分の足では歩かないこと、とそう言われてしまった。
公爵様はこのことに酷く動揺して、その後三日ほどは父とドローテを殺しに行ってしまいそうなほど激昂していた。
その度にロイドと私とで何とか留めていたけれど、ちょうど一ヶ月経った今でも私がベッドから降りられることは無かった。
私が、公爵様をはじめ皆を不幸にしているのではないかと、時折恐怖に襲われることがある。それでも、私はここから逃げては行けない。公爵様から愛を頂いたあの日から、私は彼から逃げないと誓ったのだから…。
◇◇
誰かが私の頭を撫でている。大きくて力強い、それでいて優しい手。
「…ん……?」
「……おはようございます、エレノア。と言っても夕暮れ時ですが」
「…公爵様…!」
急いで体を起こして私の枕元に置かれた手を握る。
公爵様に会うのは何日ぶりだろうか。いや、正確には会っているんだろうけど、私は眠っているだけ。公爵様は仕事で一日中家を空け、帰ってくるのは深夜なのだ。それでも寝る前は必ず私の部屋によっているとロイドから聞いていた。
「お帰りなさいませ。今日はお仕事早く終わられたのですね」
「はい。一段落着きましたから、これからは滅多に家を空けなくて済みそうです」
私の乱れた髪の毛を直しながら公爵様が頷いた。
「そうなのですね…!」
満面の笑みで答えてから、少し子供っぽかったかしらと姿勢を正す。寝起きだったからかすこしはしゃいでいたかもしれない。
「…エレノア、」
「はい」
「今度、皇宮で開かれる夜会に、私のパートナーとして参加してくださいませんか」
「は…い?」
私は唖然として公爵様を見つめるが、彼は平然としてちる。
確かに私は彼の妻で、ロードナイト公爵夫人なのだから、パートナーとして参加するのは当たり前のことなのだけれど。
今のこの状況を見ればそうするべきではないだろう。
「こ、公爵様、ですが、私は」
「…エレノア」
握っていた手を強く握り返される。
「貴女は何も心配しなくていい。ただ私のパートナーとして、妻として、そばにいてください」
「………」
そう言われてしまっては、私は何も言い返せない。公爵様が心配いらないと言うのだからそうなのだろう。もしかしたら、私が社交界へ出ても問題ないように手を打ってくれているのかもしれない。
それに、そうでなくとも。
「………分かりました」
彼が私を誘うのには理由があるはず。あれだけベッドから動くなと言っていた彼が夜会に参加してくれだなんて、何も無いと思う方がおかしいでしょう。
「とはいえ貴女の体に負担をかけたくありません。なのでドレスや宝石は私とユーリエでもう選んであります」
「ありがとうございます、公爵様」
「…………」
公爵様が私の顔をじっと見つめて動かない。ほほ笑みを浮かべたまま首を傾げると、私の頬を撫でてきた。
「エレノア…夜会でも、その呼び方をするつもりですか?」
「はい?」
「私たちは夫婦であるのに、あまりにも他人行儀すぎるとは思いませんか」
私が黙りこくると、公爵様はいたずらをする子供のように笑い、私の髪を美しいその指に巻き付けた。
つまり、公爵様は私に名前を呼んで欲しいけれど、それと同時に私をからかってらっしゃる。
公爵様は私がここで恥じらうことを想像しているようだけれど、私がそうなることは無いだろう。
私だって公爵様のお名前を呼びたかったし、このままではいけないと思ってきた。それが今許可されたのだから、思うままに呼ばせてもらうだけ。
「ルヴェリオ様」
「………!?」
「本当は私も、ずっとお名前をお呼びしたかったんです。……ルヴェリオ様」
やはり耳を赤く染めて悶えるルヴェリオ様は、何とかしてその動揺を隠そうとしているが、みるみるうちにその赤みは顔へと伝染していっている。
「…ルヴェリオ様」
「エレノア、…あの、では、その呼び方で、お願いします……」
「はい、ルヴェリオ様」
「……!……!!」
◇◇
ルヴェリオ様と二人きりの馬車の中で、私は肩周りにつけられているレース生地を引っ張っていた。
私の体のアザは完全には消えきっていないので、ほぼ全身、隠すようなドレスを着ている。ただ肩周りだけレースが短く、腕をあげたら見えてしまいそうなのだ。
「大丈夫ですか?」
「…ルヴェリオ様」
今日のルヴェリオ様の正装は、私のドレスと色を合わせているそうだ。深い紫色の生地に金色で装飾を施してある。前髪は額にある傷を隠さなければならない私に合わせるために下ろしてある。
ルヴェリオ様は白や黒を着ていることが多かったため、少し馴染みの無い色だけれど、それでもよく似合っている。
「肩のアザ…見えないでしょうか。治りかけですし…汚く痕に残っていますから……」
「今日はダンスもしないし、見えないでしょう。それに、見えたとしても大丈夫ですよ。傷よりも、貴女の白い肌の方に釘付けになるでしょうから」
もう、と言って笑うと、ルヴェリオ様も頬を緩めた。
「本当ですよエレノア。今日のあなたは本当に美しい。貴女の金髪と桃色の瞳に紫がよく似合います。」
「……」
この色素はあまり好きなものでは無いけれど、公爵様は私の全てを愛してくださるから、あまり気にしなくてもいいだろう。
そうは思うものの、公爵様が私の色を褒めてくださる度、じゃあ、このドレスはルイーゼにも似合うのね、とひねくれたことを考えてしまう。
私はこのことをルヴェリオ様に話したことは無いし、ルヴェリオは本心から私のことを褒めてくださっているわけなのだから、ただの褒め言葉として受け取ればいい話。
「エレノアの髪は本当に素敵ですね。綺麗な金色に淡い桃色が混じっていて、とても神秘的です。瞳も。ただの桃色ではなくうっすら青色を帯びている。時折貴女の瞳は紫に見えるのですよ。私と同じで」
「…え?」
「私の瞳は紫でしょう?紫は色覚異常が起きやすい色なんですが、そうすると私の目にはそういう風に見えるんです」
髪には桃色、瞳には青色……?
私はレースの手袋をはめた手で、口元を押さえた。
桃色の髪に、深い青色の瞳は、お母様の色だった。私は金髪に桃色。お父様からの色を完全に受け継いでしまったと思っていたけれど、そうではなかった。
私の愛する人は、私の色を見分けてくれていた。
「エレノア!?…私が何か嫌なことを言いましたか。それならはっきり仰ってください。…今すぐに馬車をおります」
「…っそんなことしないでください…」
今泣いてしまったら、せっかくのユーリエの努力が無駄になってしまう。唇を噛んで涙をこらえたあと、頷いた。
「…大丈夫です。……ありがとうございます」
「…エレノア、本当に、私が何かをしたのなら」
不安げに私を見つめているルヴェリオ様を見て、私はふふっと笑った。
「愛していますわルヴェリオ様」
何がなんだが分からないといった顔をしているルヴェリオ様を見ているとなんだかおかしくなり、私はくすくす笑いながら窓の外を見た。
「あ、ルヴェリオ様着きましたわ。降りましょう」
「あぁあ待ってくださいエレノア。私が先におりてエスコートしますから」
それに従いゆっくり馬車をおりると、久しぶりに見る城がそびえ立っていた。辺りには他にも複数馬車が止まっており、そこから降りてくる人々の視線が自然と私たちに集まってくるようだった。
「エレノア、行きましょうか」
気のせいか、ルヴェリオ様の言葉の語尾が少し上がっているようだった。告げられたのか、それとも聞かれたのか分からない。彼も迷っている。私をあの場へ連れて行ってもいいのか。
「…はい。行きましょう、ルヴェリオ様」
彼の腕に手を回し、歩を進める。私の足を気遣って下さっているのだろう、ルヴェリオ様のエスコートは右側だった。本来女性は男性の右側にたつべきなのだけれど、私が右足を麻痺しているから、ルヴェリオ様は負担のないようにと、私を左側に立たせてくれているのだ。
「ロードナイト公爵夫妻でございます」
高らかな声が響き渡り、会場中の視線が私達に集まった。
さすがに何を言われるのかと身構えた時、人混みの中から一人の夫人が飛び出してきた。
「エレノア様ぁぁ」
「えっ、えっ…」
それはそのまま勢いを止めることなく私に抱きついてくる。入場して直ぐにこれはあまり褒められたものでは無いが、この感覚に覚えがあった。
「ア、アルテニー伯爵夫人!」
「エレノア様、大丈夫ですか?…ううっ、酷い目に遭わされたと聞きましたよぉ、」
もう大号泣である。この様子を見る限り、私の身に起きた出来事について全て知っているようだ。
なぜ知っているのだろうかと考える前にハンカチを取り出して涙を拭う。
「アルテニー伯爵夫人、そんなに泣いてしまってはまたルクイーレ伯爵夫人に」
「こらルベラ、貴女はまたそんな風にエレノア様にご迷惑をかけて…。申し訳ありません。エレノア様」
そう言いながら前へ進み出てきたのはやはりルクイーレ伯爵夫人だ。
このやり取りは前と何ら変わらないが、いつもと変わるところがあるとすれば、二人とも、私のことをエレノア様と呼んだところだ。
「い、いえ…」
「ほら、エレノア様の足に負担がかかってしまうでしょう。こっちへ来なさい」
「はっ!エレノア様ごめんなさい!」
アルテニー伯爵夫人が回収され呆然としていると、他の令嬢たちも次々と駆け寄ってきて、あっという間に囲まれてしまった。
「やはり公爵様のエスコートを逆側に受けているのは、ベルディア侯爵夫人のご両親に暴行された後遺症からなんですの?」
「大丈夫ですか?お話は伺っておりますわ。大変傷つかれたでしょう。私たち入れ替わりに気づいていながら何も出来なくて…」
「本当に申し訳ありませんでしたわ。ロードナイト公爵夫人」
どうやらここにいる全員が全て知っているようだ。皇宮に集まるのは帝国のほとんどの貴族だ。となればもはや、もれなく全員に知れ渡って知ると考えて間違いない。
それにしてもなぜ、ここまで好意的なのだろうか。普通暴行を受けた令嬢なんて、しかもそれが公爵夫人だなんて、受け入れ難いことのはず。
特に、そう。
「ロードナイト公爵夫人?」
メルティエ侯爵夫人なんて。
「メ、メルティエ侯爵夫人…。お久しぶりでございます」
メルティエ侯爵夫人は、皇后陛下の幼い頃からの友人であり、社交界で皇后陛下の次に権力を握る方だ。
身分としては公爵夫人である私の方が上だけれど、こんな状況でメルティエ侯爵夫人に先に挨拶をさせる訳には行かない。
腰をおろうとした時、肩に手がかかり止められた。
「何をなさっているんですか。そんな事しなくても結構ですわ。体に障るでしょう」
「え…あの」
何が起こっているのかさっぱり分からない。もう無くしてしまったと思っていたあの温かい空間が、まだ残っているだなんて。
「ロードナイト公爵閣下。先程皇后陛下からお二人が来られたら自分の元に連れてくるようにと仰せつかっておりますの」
「分かりました。皆さん、妻を少しお借りしますね」
「ええもちろん」
「お姉様お姉様ご覧になった?妻ですって妻ですって」
「こらルベラ」
ルヴェリオ様が再び私の右側に着く。流れるままにその腕を掴まされ歩き出す。メルティエ侯爵夫人のあとを二人でついて行くのだが、私は混乱が収まらない。
「閣下、そろそろ説明をして差し上げないと夫人がお可愛そうですわ」
「そうですね。エレノア、落ち着けますか?」
「………まさか」
そんなわけが無い。色々と信じられない状況なのだから。
「簡単なことですよ。広まってしまったものは仕方がない。それを逆手にとったのです。まず、女性社交界の頂点に君臨する皇后陛下の協力を得るべく、メルティエ侯爵夫人に手伝っていただきました」
メルティエ侯爵夫人が振り返り、ふんわりと微笑む。多少シワが刻まれてはいるが美しいその横顔に、ますます混乱する。メルティエ侯爵夫人は礼儀を重んじる方だから、今回のようなことは絶対に許される方ではないと思っていたのだから。
「実はうちのユーリエは、メルティエ侯爵夫人の姪なんですよ」
「そ、そうなのですか!?」
「ええ。うちの姪がいつもお世話になっておりますわ」
可愛い姪の頼みですもの、頑張りましたわと言われぽかんと口を開ける。
「それに元々ロードナイト公爵夫人は人望のある方でしたもの。そんなに苦労することなく女性社交界の方は落ち着かせることが出来ましたわ」
自分に人望があったとは信じられないことだ。できるだけ目立たないように過ごしてきたはずだった。あの頃は、本物のルイーゼではないとバレてしまうことがとにかく恐ろしかったから。
「お歌は上手だし、話も上手い。その上誰にでも優しく接し、驕らない性格。自慢の奥様ですわね」
「その通りです」
信じられないことは多いけれど、たとえそれで女性社交界の方をクリアしたとして、所詮世界は男性重視だ。男性に同情心など通用しないし、ルヴェリオ様には元々敵が多かったはず。
「ベルディア侯爵、彼は新資源の眠る鉱山などと言って敵を多く作りすぎてしまいましたからね。そこを潰してしまえば、借りは多く作れましたよ」
「潰した…?」
「ええ。元々好かれる性格ではありませんでしたし、資源のために犯罪じみたことを繰り返していましたから、直ぐに陛下に奏上したところ、きつい処罰が下され、資源発掘どころではなくなっていました。それに、私には元々敵が多いんですから、今回のことで新たに敵が生まれたところで痛くも痒くもありませんよ。むしろ夫人たちが貴女を大切に思ってくださっていたことで、社交面で言えば公爵家にとっては黒字です」
「つまり、こういうことですわロードナイト公爵夫人」
皇后様の待つ部屋に着いたのか、メルティエ侯爵夫人が立ち止まって振り返って言った。
「貴女と、そして閣下のおかげで、今回の件については夫人は完全なる被害者となったわけです。付け加えれば、閣下はそんな夫人を地獄から救ったヒーロー」
「…私は別に、愛した女性を無理やり自分の妻にしただけです」
「ご謙遜を。この話を聞いて、夢見る令嬢が増えてしまったんですよ。皇后様なんてもう…」
メルティエ侯爵夫人が軽くため息を吐きながら扉を開いた。部屋の中には、何故か両手を胸の前で組んだ皇后陛下と、その隣に頭を抱えている皇帝陛下がいらっしゃった。
「まぁ〜あなたがエレノア夫人ね?」
「…すまないな、ルヴェリオ……どうしても、会って話を聞きたいと言って聞かないんだ…」
「いえ。ただ、長時間の拘束は控えていただけると。妻はまだ完全に回復したわけでは無いので」
「分かっているわ。さぁエレノア夫人こちらへ。話を聞かせてちょうだい〜」
「????」
ぐいぐいと腕を引っ張られソファに座る。
ちなみに皇后陛下とお会いするのはこれが初めてなのだが、ここまで、なんというか、積極的な性格だとは思っていなかったというのが本音である。
この後ルヴェリオとの出会いやお互いに好意を抱いている部分まで、事細かに説明させられたのは、言うまでもない。
◇◇
「大丈夫ですか?」
「えぇ……」
たっぷり事情聴取(?)をされた私は、何とかルヴェリオ様の手によって皇后陛下の質問攻めから解放されることに成功し、皇宮の庭園へ逃げてきていた。
庭園に人の姿はなく、まだ会場の方からは楽しげな笑い声やピアノの音が聞こえてきていた。
庭園はちょうど季節の花が満開に咲き誇っており、所々ライトアップされたこの場所は、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「体に痛みは?」
「なんともありませんわ。足の方も、まったく」
差し出されたワインを受け取りながら答える。何となくグラスを揺らしながら深い赤色をした液体を眺めていると、隣でルヴェリオ様がそれを一口飲んだ。
「ワイン一杯は生命線、だったか」
「…覚えてらしたんですね」
くすっと笑うと、ルヴェリオ様もつられたように微笑んだ。
「もちろん。あの頃のエレノアは、私にとっては手の出せない高嶺の花だった」
「本当ですか?私からしたら貴方の方こそ高嶺ですわ。周りの令嬢はこぞってあなたに恋してましたもの」
「それで、君はただただ気まずかったと」
「…忘れてくださいな」
それは、先程の皇后陛下からの質問攻めの時の事だ。
"エレノア夫人のロードナイト公爵の第一印象はどんな感じだったのかしら"
"そ、そうですね…。………"
沈黙が走る。焦って何か絞り出そうとするほどに言葉が詰まってしまうのだ。皇后陛下に皇帝陛下、さらに当の夫までいるのだから変なことは言えない。
"………"
"き、気まずい、でしょうか"
"……第一印象?"
「だって、ルヴェリオ様にあんな醜態を晒したあとでしたし…。肝心の醜態を晒した時のことについては本当に記憶が全くありませんの。私が酔いつぶれて、馬車で介抱していただいて、家まで送ってくださった事実以外は」
「分かっていますよ。私との会話については何も覚えていないんですよね」
「…申し訳ありません……」
酔いすぎて、ルヴェリオ様と会話した内容も、その時のルヴェリオ様の姿さえ覚えていないのだ。
「いいえ、いいんですよ」
「…ルヴェリオ様、あの、よろしければその内容、教えていただいても……」
「………」
"ん……"
僅かな唸り声が聞こえ目をやると、ベルディア侯爵夫人が身じろぎをしていた。
"ベルディア侯爵夫人?気分はどうですか?"
聞いてみるが返答はない。まだ目を覚ます気配は無さそうだ。
ため息をついて再度窓の外を見やる。何故わざわざ自分からこんなめんどくさい事態を作ってしまったのか到底わからなかった。ただ酔いつぶれている彼女を見つけただけなのに。そのまま休憩室へ連れていかなかったのは何故か、ベルディア侯爵家の馬車を呼び止めなかったのは何故か。
"………"
自分でもよく分からないが、恐らく彼女に同情したのだろう。夫は浮気し放題。自分は似合わないドレスを着せられ見世物状態。それに加え家の馬車は自分を置き去りにして帰る始末。
傍から見ても不幸な侯爵夫人だ。
目を覚ましたらロイドに預けて直ぐに帰ろう。そう決意していると、彼女のまつ毛が震えた。
"ベルディア侯爵夫人?"
自分としては早く目を覚まして欲しい。そう思って声をかけ、驚いた。
金色のまつ毛に縁取られた瞼が開かれ、桃色の瞳が姿を現した。月の光をためるその瞳はぼんやりと宙を見据え、そして眩しかったのだろうか、眉をひそめながら窓の方に目を向ける。真正面から月の光を浴びたその瞳は、桃色から淡い紫色へと姿を変えたのだ。
咄嗟に手で影を作ってやると、その色はすぐに消え去り元の桃色に戻る。彼女はと言えば、安心したようにほほ笑み、ありがとうございます、と呟いた。
目を覚ましたか、と思った次の瞬間、勢いよく身を起こされたもんだから堪ったものじゃない。ぶつからなくてよかったと思いながら向き合う。
どうやら私を認識している訳では無いようだ。まだ朧気な目をしている。
"…ベルディア侯爵夫人?"
"あなたはお優しいですね"
そう言って微笑んだ彼女に対し本能的に、美しい、と思う自分がいた。ベルディア侯爵夫人は美しい。それは分かっていたし、女性に対して美しいと思ったことなどなかった。だからこそ自分自身に驚いてしまった。
月の光を浴びてきらきらと光る金色の髪、神秘的な雰囲気を宿す桃色の瞳に、月の光をうけてさらに白さをまし、透き通っているような白い肌。弧を描く紅い唇は、紛れもなく男を誘うものだ。
だからだろうか。彼女が、…可愛そうで、不憫で、不幸であるはずのベルディア侯爵夫人があまりにも美しく、今にも散ってしまいそうに微笑むから、つい言葉にしてしまった。
"…消えてしまうのですか?"
自分でも馬鹿なことを口走ったとすぐに気づいた。撤回しようとした時、ベルディア侯爵夫人がころころと笑った。
"そんなことはしませんわ。だって私が消えたって、誰も悲しんでくれないんですもの。強いて言うなら、喜ばれてしまうかもしれませんね"
"………"
"でも、そんなの癪でしょう?消えてしまえれば楽だけれど、この命を消してまで彼らを喜ばせてあげるのかと思うと、むかつくんですの"
言い終わった後、彼女はまた笑い転げた。何がそんなにおかしかったのか分からないが、その瞳から涙がこぼれていることに気づき、いつの間にか自分も笑っていた。
"不器用な人ですね…"
不器用で、ほんの少しだけ愚かだけれど、美しくて強い。だけど、目を離せば一瞬のうちに消えてしまいそうな儚さを持っている。
初めて自分の中に、誰かを守りたいという感情が生まれた瞬間だった。
「ルヴェリオ様?」
「はい」
「あの……だから、その内容というのは」
「秘密です」
「はい?秘密ですか?私が言ったことじゃありませんか…」
こうなったら思い出すしかない、とでも思ったのか、何故か唇を引き結んで考え込み始めた妻を見て、ぷっと吹き出した。
「素敵な人でしたよ」
「……どういうことです?…まぁ、どうしてそんなに笑っているんですか」
「エレノアだってこうだったじゃないですか」
「え!?私まさかずっと笑い転げてた訳じゃありませんわよね?……えっ、きゃっ」
青ざめたエレノアの脇に腕を通し、身体を密着させたあと、ぐんっと持ち上げる。エレノアは突然の浮遊感に驚いたあと赤くなり、何するんですか、と肩を叩いた。
その少し怒ったような表情は初めて見るものだった。これからは彼女のこんな顔まで見ていけるのかと思うと幸せに包まれる。
持ち上げた彼女を見上げていると、彼女はあの日と同じように月の光に照らされ、途端に儚く消えてしまいそうな雰囲気を纏い始めた。
「……エレノア、…いつか、私の前から消えてしまいますか?」
「はい?何を言って…」
怪訝そうに眉をひそめ、首を傾げていたが、私の顔を見て目を見開いた彼女は、そのあと、優しく微笑んだ。
「そんなわけないじゃありませんか。…私が消えたら、悲しんでしまう人がここにいるんですもの」
「……」
不意に泣きそうになってしまったのを、キスをして誤魔化すと、エレノアは幸せそうに笑った。
「……ふふ。今日はどうしたんですか?」
その問いに微笑みで返し、もう一度口付けを交わした後彼女を下ろし、腰に腕を回す。
「愛していますエレノア。この先一生、あなたを守り抜くと誓います」
「……私も、愛していますルヴェリオ様」
その美貌に加え夫への深い愛情から歴史に残ることになる公爵夫人、エレノア・アリア・ランセント。後に起こる隣国との戦において、窮地に立たされたロードナイト公爵の為に挺身したその姿は、夫に尽くす妻の模範となる姿であったと言われている。
彼女が右足が不自由であったということはよく知られていることであるが、妻として欠陥品であると口を滑らせた者を二度と表舞台へ出られないように厳しく処罰するほど、公爵は妻を深く愛していた。
そのため帝国ではしばらくの間、男性のエスコートを右側に受けると一生を添い遂げられるという、迷信が広まっていたそうだ。
本編の方ではあまり詳しく記載しませんでしたが、エレノアの実家であるランセント子爵家は、後々没落することになります。もともと大きな事業を持っている訳ではありませんでしたし、社交界を全て敵に回し、肝心の残された娘は精神ボロボロ(ベルディア侯爵家で酷い目に合わされていました…)ですから、生き残る術はありませんでしたね。
私は連載小説も同時進行しておりますので、よろしければ蓮見菜乃で検索お願い致します。
長く拙い文章をここまで読んでくださり、ありがとうございました!