10.新国王の戴冠
戴冠式と結婚式を間近に控えた昼下がり、ラインハルトはエアリアを自身の私室に呼び出した。
「いよいよだね」
ラインハルトの笑顔にエアリアも笑みをこぼす。
「そうですね」
この一年は長いようで短かった。
一年前のあの日、エアリアは死を覚悟して王宮の一室から城下町を眺めていた。家々に灯る明かりの下には民衆の息遣いがある、彼らにより良い生活を届けたいと厳しい王妃教育に耐え、日々精進してきた。その道が断たれたあのとき、エアリアは幼いころ以来、初めて涙した。もう彼らを導くことができないのだという絶望に泣いたのだった。
そんなエアリアにラインハルトはチャンスを与えてくれた。共に国を治めようと言った彼の言葉は、今でも一言一句覚えている。
あのときは共同統治者程度にしか考えていなかったラインハルトは、今ではエアリアの中心だ。彼がエアリアに与えた愛は、エアリアに他者を愛するということを教えたのだ。
突然、ラインハルトはその笑みを消し、暗い顔で言った。
「君に言わなければならないことがあるんだ」
ラインハルトの神妙な口調にエアリアは息を飲んだ。それはアルバートから婚約破棄を、そしてクリストファーから退位を告げられたあのときと同じ予感がしたからだ。
「何でしょうか」
かろうじて返事をしたエアリアに彼は言う。
「この話を聞いてもなお、君はわたしの妃になってくれるだろうか」
そう言ったラインハルトはエアリアの知る彼とはほど遠く、その瞳は不安げに揺れていた。しかし、それはエアリアも同じだっただろう、彼女の心もまた不安に押しつぶされそうだった。
「わたしは、王位を簒奪したんだ」
ラインハルトの告白はあまりに唐突で、エアリアは最初、何を言われたのかわからなかった。
「簒奪、ですか?」
彼は謀反を起こしたわけでもなく、極めて順当に王太子の座に就いた。なにをどう簒奪したというのか。
「クリストファーの側仕えを覚えているか?彼が一介の騎士だった頃から仕えていた者たち。彼らを王太子となったクリストファーの側近としてそのまま召し上げるように提案したのは、わたしなんだ」
ラインハルトの言葉にエアリアは彼らのことを思い出した。クリストファーにエスコートを強請る従妹を諫めもしなかった側近、そして彼の婚約者である侍女は、王太子となったクリストファーの愛称を連呼していた。
王太子として相応しい振る舞いを助言する者を据えなかったことでクリストファーを失脚に導いた、ラインハルトはそう言っているのだ。
しかし、エアリアは、
「存じておりました」
そう、エアリアは知っていた。政局も読めない側仕えたちに違和感を感じたエアリアは彼らを推薦したのが誰なのかを調べていた。そして半年ほど前、リベスとウォンの派閥色が薄れてきたころ、酒宴の席でうっかりそれを漏らした者から証言を得ていた。
しかしもたらされた報はそれだけではなかった。
「ついでに申し上げるなら、殿下の初恋の相手がわたくしだということも存じております」
エアリアの言葉にラインハルトの思考は完全に停止した。
ラインハルトがエアリアと出会ったのはふたりがまだ幼いころ、当時の王太子、アルバートの為の茶会の席であった。幼い子供たちは派閥など関係なく楽しい時間を過ごした。そのときはまだエアリアはアルバートの婚約者ではなく、子供らしい笑顔を見せてはしゃぐエアリアにラインハルトは一瞬で恋に落ちてしまったのだ。
エアリアがウォン派に属する貴族の娘だとしても、別段婚姻できないことはない。両派の婚姻による交わりは過去にも多くの例がある。
しかしエアリアはあろうことかアルバートの婚約者になってしまった。ウォン家の王太子の婚約者を奪うことはさすがにできない。そんなことをすれば国は揺れ、内戦すら勃発しかねない。
自らの恋心に蓋をするしかなかったラインハルトであったが、時折、夜会で見かけるエアリアは美しく、洗練された女性へと成長していき、彼の想いは募る一方だった。
そんなある日、アルバートは突然、エアリアに婚約破棄を突き付けた。その報に怒りを覚えると同時にエアリアを手に入れられるかもしれないと喜んだ自分は愚かだった。
アルバートの後任として立太子したのはクリストファーだったのだ。しかし、彼と親交のあったラインハルトは彼に治世は無理だと直感した。
クリストファーという人物は剣士としては凄腕であったが、それだけだった。政治の機微には疎く、駆け引きもできない。良く言えば実直、悪く言えば単純。そんな男に国を任せるのが不安に思ったラインハルトはそこで初めて王位の簒奪を思いついた。
そもそもリベスとウォンの二家に別れたのはまだ国が中程度の集落だった頃の話。独断を避ける意味で分けられたのだが、今となっては派閥という見えない壁がこの国の発展をも妨げている。
派閥のないひとつの国としての未来を思い描くほどにラインハルトは自身で国を動かしてみたくなった、もちろん傍らにはエアリアを据える。自らの恋とは別に、将来の王妃としての教育を受けてきた彼女以上に洗練された令嬢をラインハルトは知らなかった。
リベスはもうひとつの王家だ。新しい王太子の側近を大臣から私的に相談されたとき、そのままの配置がよかろう、と至極全うそうな理由をつけて述べたのは、王位とエアリアの簒奪という下心からだった。
それでも最初は、たったそれだけのことでクリストファーが失脚するとは思っていなかった。愛する女性を二度も奪われたウォン家へのちょっとした意趣返しのつもりだったのだが、それがうまくはまり、ラインハルトは自らの望みが叶ってしまった。
その罪の意識から、彼は誰よりも精力的に執務に取り組み、その結果、歴代で最も優秀な王太子とまで言われるようになった。
そして長年、恋焦がれたエアリアを振り向かせようと彼はこの一年、必死で口説いてきた。
ラインハルトはエアリアに捨てられる覚悟で告白をした。そんな彼の決意をエアリアは一蹴するかのように、知っていた、と穏やかな笑みを浮かべている。
「君は、わたしの罪を知っていて、尚、婚約者の座を降りなかったというのか?」
「罪とはなんでしょうか」
「わたしの助言がクリストファーを失脚させた」
「クリストファー様は失脚などしておりません」
王太子の座を辞した彼は騎士団に戻った。やはり彼には剣の道が合っていたようで、今では副隊長を拝命されるまでに出世している。彼の側仕えも元の位置に戻され、彼らは元の生活に戻っていた。
処分された二人の令嬢もきちんと社交界に復帰している。
クリストファーの従妹であるマリアンヌは学院での淑女教育を通して、いかに自分が非常識であったかを理解した。エアリアのもとには、非礼を詫びると共に学院での充実した生活を記した彼女からの手紙が届いている。
ゾーナ嬢もまた別の学院で教鞭をふるっている。彼女はもともと専門的なことを教える教育機関への異動を希望していた。その望み通り別の学院へ移っただけで、退職を迫られたわけではない。新しい学び舎で彼女は誰からも尊敬される教諭のひとりとして、多くの生徒やその保護者から慕われている。
隣国の王妃の統治にも問題は無い。そもそも彼の国は愛を主軸におくだけあり、基本的に寛容で、ちょっとした失敗にいちいち目くじらを立てるような短慮な性質を持ってはない。
「確かに殿下は失脚の一端を担ったのかもしれませんが、クリストファー様に殿下以上の才があったとは思えません。大切なのは国の繁栄。その観点から見れば、これは些細なことではないでしょうか」
エアリアはそう言って立ち上がり、ラインハルトの傍に寄って冷たくなっているその手を握った。
「それに、すべてはわたくしを手に入れるためだったと思えば、怒りなどございませんわ」
そう言ったエアリアは恥ずかしそうに微笑んだ。
「君はわたしを軽蔑しないのか?」
「誰より国王にふさわしいのはラインハルト様です、お慕いこそすれ軽蔑などいたしません」
「エアリア」
エアリアの断言にラインハルトは彼女の名を呼び抱き寄せた。
「君が真実を知ったらわたしは捨てられると思っていた」
いつになく気弱な発言をするラインハルトにエアリアはくすりと笑った。
「確かに驚きましたけれど、リベスの次代とのダンスは、わたくしにとって何よりも楽しい時間でしたの」
アルバートの婚約者であったエアリアとリベス家の次代としてのラインハルトは、夜会で何度かダンスを踊っている。通常なら当たり障りのない会話をするのだが、ふたりは毎回、政治的に踏み込んだ話をし、ときにはダンスの後もしばしその話題で盛り上がった。
エアリアは聡明なラインハルトに惹かれていたのだ。婚約者であるアルバート以上に会話が弾む相手がよりよってリベスの次代であることに、エアリアもまた失望していた。
「それはつまり、君もわたしを好きだったと?」
エアリアは素早く彼の口に自分の手を添え、その言葉をさえぎった。
「おっしゃらないでください、恥ずかしいわ」
真っ赤に染まった顔を隠すようにうつむいたエアリアを見るラインハルトもまた赤面し、
「そんな顔を見せないでくれ、式まで我慢できる自信が無い」
と呻いた。
よく晴れたその日、ラインハルトの戴冠式は執り行われた。
「わたしの人生のすべてをこの国と、愛する妻エアリアのために捧げることをここに誓います」
戴冠式の前に結婚式を済ませたラインハルトはスピーチの中で、国とエアリアに自身のすべてを捧げると誓った。戴冠後の決意表明は本来、国王であるラインハルトのみで行うものだが、ラインハルトは新妻と共に民衆の前に現れスピーチをした。
度重なる王太子の交代劇は彼らの間でもその是非が論じられていた。長く王太子の婚約者として慈善事業を続けてきたエアリアは民衆に人気があり、彼女の心労はいかほどのものかと心配されていたのだ。
そのエアリアが幸せに満ち足りた笑顔を見せることで、民心は安定する。ラインハルトはそのために新妻を伴ってスピーチをしたのだが、貴族たちは、単に美しい王妃を見せびらかしたいだけだとわかっており、もちろんエアリアもそれに気づいていた。
だからエアリアは心からの笑顔を、愛する夫と敬愛する国民に見せたのだった。
これで終わりです、お読みいただきありがとうございました。