サフェード
あけましておめでとうございます
まずい。大変なことになった。滑川動物園が始まって以来、間違いなく最大のピンチだ。
「……園長、どうします? リニューアルオープンの目玉が……」
ベテラン飼育員が真っ青な顔をしながら、俺に伺いを立てた。
「蘇生は無理なのか?」
俺の問いに、獣医が首を振った。その視線の先には年老いた真っ白な虎が横たわっている。インドから格安のレンタル料で借り受けたスノーホワイトタイガーだ。通常の検査ではひっかからない病気を持っていたのだろう。糞インド人め! 最初から違約金を踏んだくるつもりだったな!
「まずいですよ! 全国区のテレビニュースでも取り上げられたのに、その肝心のスノーホワイトタイガーが死んじゃったなんて!」
「騒ぐな。騒いだって虎は生き返らない。この局面を乗り切る方法を皆で考えるんだ」
ムキムキマッチョの若手飼育員を諌めるが、名案があるわけではない。
「スノーホワイトタイガーの代わりなんて国内にはいませんよ……」
ベテランが項垂れる。
「ベンガル虎の毛皮を白く塗ってしまいましょう!」
何も考えてない若手の発言に、一同が厳しい目つきとなった。
「馬鹿野郎! 動物を虐待しているなんて噂になったらそれこそ滑川動物園の最後だ! 本当に脳筋だな!」
思わず大声が出てしまった。どうやら俺も冷静では無くなっているようだ。
「……全ては私の責任です。頭を丸めます」
獣医が立ち上がり、悲壮な覚悟をみせる。しかし俺はそこに光明を見出した。
「それだ!」
「え、なんですか? 園長」
ベテランが怪訝な顔をする。
「お前達、覚悟を決めろ! この1週間でモノにするぞ!」
残された時間は僅かだ。全力を尽くさねば……。
#
いやー、やっと駐車場に入れたかと思うと入園までの行列も凄かった。ゴールデンウィークの初日と言うこともあってか、滑川動物園は大変な人混みだ。
「パパ、楽しみだね!」
息子の翔太はテレビニュースでスノーホワイトタイガーを見てからというもの、今日という日をずっと楽しみにしていた。小学校でも話題になっているらしく、写真を撮って皆んなに自慢するんだ! と張り切っている。
「……本当、すごい人ね」
一方、妻の涼子はテンションが低い。そもそも早起きが苦手ということもあり、今日も渋々付いてきただけだ。これ以上、不機嫌にならなければいいが……。
「パパ、早く! あっちだよ!」
翔太は"サフェードはこちら!"と書かれた看板を見つけて走り出す。サフェードとはお目当てのスノーホワイトタイガーの名前だ。ヒンディー語で"白い"という意味らしい。ニュースでやっていた。
「そんなに急がなくても大丈夫だって」
「いいから、早く早く!」
俺が何を言っても無駄らしい。翔太は人波を縫うように進んでいく。まさに最高潮だ。
「……変ね」
翔太の背中を目で追っていると、妻が低い声でつぶやいた。
「どうした? 何が変なんだ?」
「……あなた、気が付かないの? すれ違う人の表情に」
何のことだ? と見渡すと──なんだこれは!? スノーホワイトタイガーの檻の方から来る人の顔に笑顔がない。神妙な表情で涙を浮かべている者までいる。動物園で泣くような事態……。一体、この先に何がある?
不安を感じながらも目的の檻は近付いてくる。翔太は少し先でニコニコと手招きをしているが、合成写真のように周囲からは浮いていた。
「もー、パパ達、遅い遅い!! 僕の身長だとよく見えないから肩車してよ!」
痺れを切らした翔太が駆け寄って来て、肩車をねだる。
「し、仕方ないなぁ」
動揺を隠しながら翔太を肩に乗せ、その脚に軽く手を添えた。そして、一歩一歩目的の地へと……。
#
食い入るように檻の中を見つめる人垣は物音一つ立てない。何かを押し殺すように黙りこんでいる。中の様子は分からないが、スノーホワイトタイガーがいるのだろう。しかし、なんでこんなにも悲しそうなんだ?
ぽつり。と手に何かが降ってきた。雲一つない快晴なのに。そしてそれは連続する。手に感じたものは息子の涙だった。翔太は肩の上で身体を震わせている。
しばらく待つと何かに耐えきれなくなったように、人々が檻の前から去っていく。ぽっかりと空いた空間に入ると、檻の中が露わになった。
何もいない大きな檻──民家が入りそうなぐらい──の中にしじまが広がっている。
突然、ドン! と太鼓の音が響くと、頭を剃り上げ全身を白く塗った男が出てきた。男は四つん這いで堂々と歩く。その様子は王者の風格すら感じさせる。
次に現れたのは頭を剃り上げ、全身を黒く塗った男だ。男の動きは奇怪で、不穏なものを感じさせる。
白と黒は対峙し、闘いを始める。鍛え上げられた肉体が躍動し、太鼓の音と共に動きが激しくなる。
ドドンッ!
大きな音が鳴り、白塗りの男が地に伏せた。黒塗りの男はスッと消える。そして入れ替わるようにスモークが焚かれ、その中から浮かび上がってくるのは目を閉じた真っ白な虎──。
様々な色に身体を塗った男女が現れ、檻の中で舞踏を始めた。花が舞い、動かなくなったサフェードを慈しむように。
そうか。召されてしまったのだな。しかし、その姿は気高く、雪のように純白。心の中で合掌をして、檻から離れる。
妻の涼子がハンカチで目元を拭っていた。
「今日は帰ろう」
「……はい」
以後、滑川動物園の一番大きな檻に動物が入ることはなかったという。ただ頭を剃り上げ、全身を白く塗った集団の舞踏が演じられるのみ。その集団の名は──白虎舎。今や、日本を代表する前衛舞踏集団だ。