辺境伯夫人と新しい命(前)
結婚後のお話。前後編になります。
「辺境伯閣下、おめでとうございます。奥方様、ご懐妊です」
産婆様の言葉に、我が夫、ヴェルアルス辺境伯アイザック様は、いつもの仏頂面のまま、硬直した。
この場で最も身分の高いアイク様が、言葉を発してくれなければ、周りの人間は何も言うことが出来ない。
沈黙が十数秒続き、アイク様の後ろに控える侍女や従者達は、どうすれば良いのか分からないまま、チラチラとせわしなく視線を泳がせている。
おめでたい報告がなされたとは思えないほど、室内には気まずい空気が漂うが、硬直したアイク様の顔を真正面から見ている私は、そのお気持ちを何となく把握した。
「少し旦那様と2人にして貰えるかしら?」
産婆様や侍女達を下がらせ、アイク様と2人にしてもらう。
その間も固まったままのそのお顔は、いつになく赤らんでいる。
「アイク様?」
「……本当に……」
「ええ。アイク様と、私の子です」
恐る恐るといった様子で私に近付いてきたアイク様は、座ったままの私を正面から抱き締めた。
「ありがとう。メリッサは、本当に俺を幸せにしてくれる」
「大袈裟ですよ」
「嬉しすぎて、どうしていいか分からん」
私の背に回されているアイク様の手は、微かに震えている。
感情を表に出すことが不得手なアイク様だが、私には十分に伝わった。
国内外で恐れられる魔法使いは、今とても喜んでいる。
そのお姿を見て、私も最高に幸せだった。
まさか、初めての妊娠がこれ程大変なことになるとは、その時の私は思いもしなかった。
◇◇◇◇◇◇
(はあ……今日も駄目か……)
朝、ベッドから起き上がる前からわかる体調に、げんなりする。
体は重く、頭はガンガンと痛み、起き上がると眩暈に襲われる。
手も足も、驚くほど力が入らない。
このところ続いている、体調の悪さ。
それでも、貴族夫人である以上、いつまでも寝ていることは許されない。
そもそも、夫は先に起きてしまっている。既に貴族夫人として、失格と言わざるを得ない状態だ。
アイク様は、決してお怒りにはならないと分かっているが、その優しさに甘えることは、私自身が耐えられない。
気力を振り絞り、身支度を整え、急いで一階に降りた。
屋敷の玄関に向かうと、今まさに出発しようとしていたアイク様が、驚いたように目を見開いて駆け寄ってきた。
「起きてこなくて良いと言っただろ。寝てろ」
恐らく、傍目からはぶっきらぼうな言い方に聞こえるだろうが、アイク様は心から気遣って下さっている。
これ以上心配をかけないように、真っ直ぐ立ち、優雅な微笑みを浮かべる。
「病気ではありませんもの、大丈夫ですよ。それよりも、お気をつけて下さいませ」
「隣の弱腰爺の尻を少し蹴飛ばしてくるだけだ。心配するな。……トニア、俺がいない間、メリッサが無理しないよう見張っておいてくれ」
「かしこまりました」
「安静にしてろ」と何度も繰り返し、侍女頭のトニアにも強く言い含め、アイク様は、隣の伯爵領に発った。
仕事に出る夫に、無用な気苦労を与えてしまうなんて、本当に自分が情けない。
アイク様を見送った後、自室のソファにもたれ、自己嫌悪に陥った。
もう、こんな状態が3ヶ月近く続いている。
原因については、医師も産婆も誰もが口を揃える。つわりだ。
アイク様と結婚して以来、平穏とはほど遠く、決して豊かではない辺境伯領を立て直すべく、周りの方々の力を借りて、脇目も振らず頑張ってきたこの1年。
元々は王家の直轄地だったこの辺境伯領で、政治も軍事も、すべて1から構築し、少しずつ領民にも馴染み、なんとか領地経営の流れが出来かけてきた時、私の妊娠が判明した。
貴族夫人となったからには、後継ぎとなる子を為すことは、最も大事な役割ではあるのだが、毎日が忙し過ぎて、正直、考える余裕もなかった。
そんな中、授かった命。
アイク様と私は勿論、辺境伯家の家臣や領民、私の実家である子爵家、そして畏れ多くも王家からも、祝福され、誕生を心待ちにされている、このお腹の子。
しかし、想像以上に私の悪阻が重かった。
体調不良のフルコース、最近では、唐突に意識を失うこともあり、怖くて立っていることもできない。
「皆多かれ少なかれ通る道ですよ」と明るく励ましてくれていた、侍女頭はじめとする侍女達も、酷くなる一方の私に、最近は心配顔が定着している。
昨日には、この地方のベテラン産婆様からも、見たことの無い酷さだと、ありがたくない感想をいただいてしまった。
「奥方様、大丈夫ですか?」
軽食を運んで来てくれたトニアは、アイク様の側近であるプレストン様の奥方だ。
5人の子どもを育て、更に侍女頭も務める、非常にパワフルな女性である。
女主人である私が役に立たない中、屋敷を取り仕切ってくれている。
「ええ。迷惑かけてごめんなさい」
「こればかりは個人差がありますからね、お体が第一ですわ」
誰も彼も優しくて、ありがたいはずなのに、どんどん追い詰められる気がする。
(妊娠中でも普通に働いている侍女もいるのに、情けない……)
食欲は全く湧かないが、それでもスープだけ無理矢理口に含む。
再び襲ってきた強い眠気に、そのままソファに倒れ込んだ。
◇◇◇◇◇◇
「……様、奥方様、お休み中、申し訳ございません」
トニアの声に、慌てて目を開ける。
窓から差し込む日射しは、あまり変わっていない。それ程長い時間、眠っていたわけではなさそうだ。
「ごめんなさい。何かありましたか?」
「奥方様にお客様がお見えになられていまして……」
「お客様?どなた?」
今日は特に来客の予定はない。それに、優秀な辺境伯家の使用人は、身元のはっきりしない訪問者を、いちいち私に繋ぐことはしない。
「それが、グレイ子爵家の紹介状を持ったお医者様でして……」
「お医者様……」
私の実家が紹介してくるお医者様といえば、1人しか思い当たる節はない。
「その方は、40代位の、黒髪で、濃い青の瞳の男性でしたか?」
「はい。大変上品で紳士的な方です」
答えるトニアも、後ろにいた若い侍女も、少し頬を染める。
(やっぱり)
なんだろう、この気持ち。
嬉しいような嬉しくないような、会いたいようなそうでないような……。
「会います。応接室にお通ししてください」
そして、応接室で待ち構えていた人物は、私の予想と寸分違わない人だった。
「これはこれはお嬢様……ではなくて辺境伯夫人、ご無沙汰しております」
柔らかい微笑みを浮かべ、平然と礼をとる紳士に、思わず苦笑してしまった。




