第30話 子爵令嬢は旅立つ
慌てて駆け込んだ診療所で、その人はいつも通り私を迎えてくれた。
「これは、お嬢様。ご無事のお戻り、何よりです」
思いっきり殴ろうと思ってきたが、頭から顔半分は包帯でぐるぐる巻き、右手は三角巾で吊っている傷だらけの姿に、一気に気持ちが収まる。
怒ろうと思ったのに、逆に、涙がボロボロと零れ落ちる。
「い、生きてた……」
「はい、なんとか」
ルイス先生はニコニコと笑っている。
人の気も知らないで……という文句は口から出て来ず、しばらく、ただただ子供のように泣いた。
私が落ち着くまで静かに待っていたルイス先生は、あの後のことを話してくれた。
案の定、ルイス先生を助けたのはエドワード様だった。
あの場を脱出したエドワード様は、魔力枯渇で瀕死の状態になったルイス先生の応急処置をした後、ツィラードの一般人の家に、金の力でルイス先生の看病を押し付けていたらしい。
「エドワードは甘いんですよね。国王側近としても、侯爵家当主としても、完全に間違った判断です」
ルイス先生は渋い顔をしているが、私の中でエドワード様の評価はぐんぐん上がった。
「魔法は使えなくなったんですか?」
「ええ。流石にエドワードに封じられました。死んだことになった以上、ベネット家の魔力がどこかで感知されたら、あいつの立場も無いですし」
プラプラと振ったルイス先生の左手の甲には、不思議な模様の刺青のようなものが入っている。
どうやらそれが、魔力を封じているらしい。
「まあ、その気になれば破れますけど」
その言葉に、思わず笑みがこぼれてしまう。
不穏な発言をしている割に、ルイス先生はどこか清々しており、重荷から解放されたような顔に見えた。
恐らく、エドワード様を困らせることはしないだろうな、と何となく感じた。
「これからも、オプトヴァレーの街医者として生きていきますけど、よろしいでしょうか?」
「勿論です!……もし、私がシリルに行ったら、遊びに来てくださいね」
「それは少し考えておきます」
親子揃って素直じゃないなあ……と苦笑した。
複雑に拗れていて、一朝一夕にどうにかなる関係ではないだろうけれど、これから時間はある。
そう、生きてさえいれば、可能性はいくらでも生まれる。
「しかし、魔法が使えないのは不便ですね。ここに帰る途中、熊に襲われてこの様です。たまたまカイさんが通りかからなければ、家を目前に、グレイ子爵領内で死んでいましたよ」
「熊に襲われたのは本当だったんですか!?」
「外傷はほとんど熊によるものです」
大工のカイさん、ありがとう。
貴方のおかげで、親子関係改善の可能性が繋がりました。
◆◆◆◆◆◆
それから数日後、王宮からの使者が、グレイ子爵家を訪れた。
ちょうど、『アイザック第二王子殿下、王都にご帰還!』という華々しい記事が、オプトヴァレーに遅れて届いたのと同じタイミングだった。
ちなみに、その新聞の別面には、『アルガトル国王、急死!』という大ニュースも載っていたが、あの王妃の顔がちらつき、寒気が走ったのは、また別の話。
王家の使者を、当家の狭い応接室の上座にご案内し、ルーカス、母、私で深々と礼する。
頭を下げたまま、国王陛下からの書状の中身を拝聴する。
「メリッサ・グレイ子爵令嬢と、次期ヴェルアルス辺境伯、アイザック第二王子殿下とのご婚約について、グレイ子爵のご承諾をいただきたい」
「いいですよ!」
ルーカスの軽い返事に、膝から崩れ落ちそうになる。
昨日、正式な作法と文言をあれだけ母が教えていたというのに……と母を見ると、こちらは頭を下げたまま、怒りで顔を真っ赤にしていた。
(ああ、私嫁いで大丈夫なのかしら……)
実家の先行き不安に、婚約の喜びはどこかへ霧散してしまった。
ともあれ、私とアイク様の婚約は内定した。正式な婚約式は、アイク様の叙爵式が行われる3か月後。
そして、その3か月後に、ヴェルアルス辺境伯領シリルにて、こぢんまりとした結婚式を挙げることになった。
ぜひ王都で盛大な挙式を!という両陛下のご意向を、アイク様が断固拒否したとのことで、心底ほっとした。
だって、王都でやったら絶対に見世物になる。
『噂の美人子爵令嬢とは私のことよ!』と、皆様の前に出る勇気は、私にはない。恐らく、この件に関して、私とアイク様の心は一つだったと思う。
アイク様からの手紙には『もっと早く結婚したかったのに、これ以上短縮できなかった』と不満が、実に達筆な字で書かれていたが、貴族の婚姻としては異例のスピードだ。
手紙のやり取りをしながら、急ピッチで婚約式の準備をしているうちに、3か月はあっという間に過ぎた。
◆◆◆◆◆◆
「では、行きましょう!母さま、姉さま」
「……お願いだからルーカス、王宮ではおとなしくしてね」
「大丈夫大丈夫!いつも外では完璧にやってますから」
王都で行われる婚約式へ、子爵家総出で出立する日が来てしまった。
今回ばかりは、馬車を手配し、徒歩は最小限だ。
「お嬢!お元気で!!」
「魔法使い様とまた来てくださいね!」
「お幸せに!」
街の人達からの温かい言葉に目が潤む。
そう、婚約式の後、私はそのまま王都に留まり、アイク様と一緒に、辺境伯領に出立する。
貴族令嬢は、嫁いだら、実家に戻ることはほとんどない。
今日が、生まれ育ったオプトヴァレーとの別れかもしれないと思うと、今までの思い出が蘇り、感極まりそうになる。
屋敷に残るジムとマリーが、目頭を押さえている姿も見える。
「皆さん、ありがとう……お世話になりました」
馬車から街の人達に手を振る。涙で前が見えない。母も隣で鼻をすすっている。
「山道を馬車で下るってどうなんですかね?お尻痛くなりそう」
ルーカス、ちょっと黙れ。