第23話 子爵令嬢は夜空を見る
「ルイス先生!!」
叫び声は届かない。
胸は張り裂けそうに痛むが、転移空間の渦で、ただ腕の中のアイク様を、必死に抱き締めることしかできなかった。
◆◆◆◆◆◆
地面に落ちた衝撃で目を開ける。
土の地面と、大きな木の根が目に入った。
(森?山?)
体を起こすと、見渡す限り草木が茂っている。
風が草木を揺らす音と、微かな水音や、鳥や動物の声が聞こえる。
かなり深い山奥にいるようだ。人の手が入っている形跡は感じられない。
体を起こし、握り締めていたアイク様を確認する。
相変わらず意識はないが、息をしていることを確認しホッとする。
(ここはどの辺だろう?)
さすがに木と岩と空しか見えないので、場所の目安がつかない。
生えている木や植物は、グレイ子爵領では見たことが無い種類が目に付いた。
(もしかしたら、レイファではないかも。まだツィラードか、他の国か)
ルイス先生のレイファまで届かないだろうという言葉が蘇る。
やはり、途中で力が尽きてしまったのか。考えれば考えるほど涙が込み上げてくる。
(駄目。今は先のことを考えないと……)
アイク様をゆっくりと横たえ、周辺の様子を窺う。
私がアイク様を運ぶことは不可能なのだから、救助が来るまで、ここで待たなければならない。
ツィラードの侍女服を脱ぎ、アイク様にそっとかける。一部布を裂き、手に持つと水音の方に向かう。
幸い、すぐ近くの岩場に、水が湧いていた。
自分の喉を潤すと、布に水を含ませてアイク様の元に戻る。
アイク様の唇を慎重に水で湿らせ、頬や腕の腫れている場所に、濡れた布を当てて冷やす。
痛々しい姿に、我慢していた涙がまた溢れそうになるが、今は泣いている余裕はないと、必死に耐える。
(せっかくの山生まれですもの。食料や水の確保も、一般人よりはできる!絶対に無事にレイファに帰る!)
それが、ルイス先生の願いなのだから。
周辺を探り、植物を物色し、いくつか収穫する。
アイク様の骨折の添え木代わりに使っていた短刀が役に立った。
数日ならサバイバルできそうだなと、アイク様の傍らに座り、ぼんやり空を見上げる。
日が傾き、また夜が来ようとしていた。
グレイ子爵領の山で、これまで何度か野宿したことはあるのに、今は静寂が心細く、時折聞こえるガサガサという音や、動物の声が怖く感じる。
(火がおこせれば良かったんだけどな)と考えながら、抱えた自分の両膝に顔を埋めていると、静かな声が聞こえた。
「……メリッサ……」
「……アイク様!?」
慌てて顔を上げ、アイク様の顔を覗き込む。
うっすらと開けた目は、しっかりと私を捉えていた。
「お気づきになりましたか……」
堪えていた涙が次々と溢れ、言葉が続かない。
アイク様は非常に緩慢な動作で左手を上げると、私の顔に添えた。
力の入っていない指で、私の涙を救う。
「辛い目に遭わせた……ごめんな……」
そう言ったアイク様の目尻にも、涙が溜まっていた。
言葉が出ないまま、何度も首を横に振り、そのままアイク様の胸に顔を埋めた。
アイク様の手が、ゆっくりと頭を撫でて下さっていた。
◆◆◆◆◆◆
日が落ちると、辺りは真っ暗になった。
今日の月明かりは頼りなく、近くにいるお互いの顔もよく見えない。
アイク様に引き寄せられ、自然と寄り添い合う。
少し冷える夜の空気に、互いの体温だけが暖かく感じる。
アイク様は、意識がなかった間に起きたことも、分かっていた。
私の視界を通じて、見えていたらしい。最後まで。
「……ずっと恨んでいたんだ」
アイク様がポツリと呟いた。
「俺の出生は、一部の上位貴族にはバレていたから、小さい時から、国王陛下や王妃陛下のいない所で色々と言ってくる奴はいた。何でこんなことを言われないといけないのか、見たこともない父親をずっと恨んだ」
王宮で働いていた身として、上位貴族の裏の顔、面白おかしく語るゴシップ、そして上品ぶって、刃物より鋭い言葉を放つ様は、よく知っている。
幼い子供が誰にも言えず、どんな思いで言葉の刃に耐えてきたのか、どれほど傷ついてきたのか、考えるだけで胸が締め付けられる。
「王妃陛下から本当の話を聞いても、やっぱり許せなかった。本当に王女を愛してたのなら、連れて逃げろよ、と。それでいて、国王陛下を脅したり、王太子殿下を襲ったり、何がしたいんだか……」
少し笑ったような声で話そうとしていたが、次第に語尾は小さくなっていった。
当時のルイス先生の立場が、そんな単純なものではないことくらい、アイク様だって分かっているだろう。
表では皆に傅かれる高貴な地位にありながら、裏では犯罪者の子として蔑まれ、父を長年憎み、その一方、父譲りの魔力で身を立て、そしてその父に命がけで救われる。
複雑すぎるこの方の気持ちを、本当に理解できる人なんて、いないだろう。
今、彼は、自分の気持ちに整理をつけようと話している。
理解も同意も、否定も、何か具体的なものを求めているわけではないということは、私にも分かった。
そして、私が確信をもって言えることなんて、1つしかない。
「……貴方は、愛されていたんですよ」
アイク様は何も答えない。ただ、私の背に回されていた腕の力が、強くなった。
長い沈黙の後、震えた声が囁くように呟いた。
「……俺は、どうしたらいいんだろうな……」
いつもの口の悪さが影を潜め、迷子の子供のような所在無さげな声だった。
「……胸を張って生きていけば良いと思いますよ。全ての人を見返してやるよう、堂々と」
貴方は孤独ではないのですから。
そう伝えると、痛いくらい強く抱き寄せられた。
私もアイク様の背に手を回し、ゆっくり背中を擦る。
暗闇の中、アイク様の表情は分からない。ただ、啜り泣くような音が聞こえる。
欠けた細い月が、空にぼんやりと浮かんでいた。




