そのカラスは不気味に笑った
「代わってやろうか?」
私に話しかけてきたのは片目の潰れた一羽のカラスだった。
社会人八年目。大学卒業後、アパレルメーカーで真面目に働いてきた。三十路の私の肌はもう十代の時のようなツヤやハリはない。大人の女性になったと言えば聞こえはいいが身も心もだんだん年老いてきた気がしてなんだか辛い。
仕事は順調。やりがいもある。自分が携わった服が誰かの生活で役に立っていると思うとなんだかわくわくする。去年、うちの会社では珍しく入社十年目になる前に課長のポジションに就いた。かなり順調に出世できているので残業が多いことを除けば今の会社に何も不満はない。
「ちょっと結衣、何一人で笑ってるのよ。気持ち悪い」
隣のデスクの香代が怪訝そうな顔で言ってきた。恥ずかしい、顔に出ていたらしい。
「あ、ごめん、今ちょっと考え事をしてた」
「どうせ結婚式のことでも考えていたんでしょう? あー嫌だ嫌だ。仕事も恋も順風満帆な人は羨ましいわ。ちょっとくらい私にも幸せを分けなさいよ」
「何それ、無理言わないでよ」
「うわ、順風満帆な事否定しなかった。本当に嫌な女。でも、ほんと私もいい人早く見つけなきゃ。私が結婚式を挙げる時はちゃんと相談に乗ってよね」
「任せて。再来週の土曜日の打ち合わせで料理を決める予定なの。予算感とかちゃんと勉強してくるから」
「はーやっぱり羨ましい。くそう。その何気ない上から目線が気になる」
「上から目線って、そんなつもりないわよ」
「ふふふ、どうだかねー」
同期入社の香代とは新入社員研修の時に同じ班になってからずっと仲がいい。こうして何気ない話ができる同期の存在はありがたい。
「そうだ、まさやんにも言っといてよ、お酒のメニューはケチるなよって。結婚式での出会いなんて期待できないし、私はお酒と料理を楽しみにしてるからさ」
「そんなに飲む気なの?まあでもわかったわよ、飲み放題はお酒の種類が多いのを選ぶようにするわ」
「やったー!」
まさやんとは雅樹、私の同棲中の彼氏のあだ名だ。
雅樹は去年まで私たちと同じ会社で働いていた。年は二つ上で今は保険会社で事務の仕事をしている。新入社員研修の後、私と香代の教育係になったのが雅樹だった。年が近い且つ、三人ともお酒が好きという共通点により私たち三人はすぐに飲み仲間になった。
三人で飲むようになってすぐ、音楽の趣味がきっかけで私と雅樹は二人でもよく飲みに行くようになり、気が付けば付き合うことになっていた。
付き合い始めた当初は香代になんだか申し訳ない気持ちになった。でも、「楽しく飲めるメンバーはこの三人だから」と彼女が言ってくれたおかげで三人の関係は崩れなかった。
雅樹は事務系の仕事が得意で、自分の得意を仕事にもっと活かしたいと言って転職した。雅樹が転職してすぐは何だか慌ただしくてなかなか揃って飲みに行けなかったけど、今ではまた三人で月一ペースで飲みに行っている。
くたくたで帰宅すると夕飯のいい匂いが私を待っていた。ドアを開けると雅樹がひょっこり台所から顔を出した。
「おかえりなさい。晩御飯できてるよ。お風呂も沸かしておいたけど、どうする?」
「ただいま、晩御飯はなに?」
「今夜はビーフシチューにしてみました」
「じゃあ晩御飯で!」
「何それ、じゃあ準備しとくから手を洗っておいで」
「はーい」
雅樹が転職した会社は残業が少ない。私の方が帰るのが遅いので雅樹は先に帰宅するといつも晩御飯の支度をして待っていてくれる。本当は私も晩御飯を作ってあげたいのだけれど最近は本当に忙しくて平日は全く台所に立てていない。
部屋着に着替えてリビングに行くとビーフシチューにシーザードレッシングがかかったサラダ、白ご飯がテーブルに並んでいた。雅樹は料理が上手い。家に帰ると温かい手料理があるってこんなに幸せな事なのだとしみじみと思う。
その日の出来事を話しながら私たちは夕食を食べる。夕食後は一緒にテレビを見ながらだらだらして、それから私が食器を洗って、洗い終わったら一緒にお風呂に入って、寝る。平日の帰宅後の過ごし方はいつもこんな感じだ。何の変哲もない過ごし方だけれど、私はこの過ごし方が好きだ。
土曜日、突然母から電話がかかってきて実家に呼び出された。雅樹は予定があるみたいだったので一人で実家に帰ると、肌がツヤツヤになった母が笑顔で出迎えてくれた。
「はいこれ、お土産」
「何これ、温泉プリン? どこ行ってたの?」
「ちょっと温泉に入りたくなってね。行ってきちゃった」
一泊二日の弾丸ツアーで温泉に入ってきたそうだ。自分だけ楽しむのは申し訳ないということでお土産を買ってきてくれたらしい。
「結婚式の準備は順調なの?」
「うん、月末の土曜日にお料理を決めてくるよ」
「あら、いいわね。私は洋食よりも和食の方がいいわ」
「わかってるって、ちゃんと考えてます」
母とは仲がいい方だと思う。父は私が生まれてすぐに亡くなった。だから私には父の記憶が全くない。でも母が私をすごく気にかけてくれたおかげで一度も寂しい思いをすることなく大人になることができた。
友だちと喧嘩したこと、初めて人を好きになったこと、好きな人に二股されたこと、私はどんなことも母に話してきた。母はいつも黙って私の話を聞いてくれた。今でも仕事の愚痴や雅樹に対する不満を黙って聞いてくれるのですごくありがたい。
私は母のことが子どもの頃からずっと大好きだ。
「結婚式が楽しみだわ」
「気が早いって。あと四か月も先よ」
「何言ってんのよ。四か月なんてすぐ過ぎるわよ。結衣が結婚するなんて。なんだか感慨深いわね」
「もうやめてよ、なんだか恥ずかしいじゃない」
「なによ、ちょっとくらいいいじゃないの」
母と過ごす何気ない休日。なんだかとても心が落ち着く。実家を出てからはこうして過ごす時間は減ってしまったけれど、私はこの時間をこれからも大切にしたいと思っている。
「なあ、なあそこのあんた、おーい聞こえてるか?」
夕暮れ時、実家からの帰り道、突然声が聞こえた。周りを見渡してみたが私以外誰もいない。
「こっち。こっちだって。あ、いいやおれが下りた方がわかりやすいな」
頭上から声が聞こえたかと思うとすぐそばのガードレールに一羽のカラスが止まった。
「こんばんは」
「え、カラスがしゃべってる……? なんで?」
よく見るとカラスは右目が潰れていた。片目の潰れたカラスは私の疑問を聞いてつまらなさそうな顔をした。
「あんた失礼な人間だなあ。カラスは賢いって一度くらい聞いたことがあるだろう? カラスが話せるのは常識だぞ」
「いやいやそんな常識知らないし、賢いとかの次元じゃないでしょ」
「まあ細かいことを言うなよ。細かい女は嫌われるぞ。そんなことよりもさ、あんた、代わってやろうか?」
「代わる? 何を?」
「人間でいるのをさ」
「は? 何言ってるの。意味が分からないんだけど」
私はカラスが話す現実も、カラスの提案の内容も意味がわからなかった。
「そのままの意味だ。人間なんて不自由な事ばかり。空も飛べない。平日は仕事ばかり。満員電車に揺られて会社に行って、帰るのは深夜。自分の時間なんてほとんどない。くだらない人間関係に悩み、世間の目を気にして生きる。人間として生きるなんて辛いことばかりだろう?」
「そんなことないわよ。私は今の生活が好きよ」
「あら、残念。そうかよ。せっかく代わってやろうと思ったのに。それに今代わっておけば辛い未来を経験せずに済むんだけどな」
「辛い未来? 私の未来を知ってるの?」
「それは言えない決まりなんだ」
「何よそれ。それにさっきから言ってるけど代わるって私がカラスになるってこと?」
「なんだ、あんた気になるのか? まあそれはあんたが人間でいることが嫌になった時に話してやるよ。じゃあな」
そう言ってカラスは飛び去った。何だったんだろう。飛び去る時、カラスが一瞬笑ったように見えた。なんだか嫌な予感がした。
嫌な予感というのは当たるものらしい。月曜日に会社に行くと朝から最悪な事態が私を待っていた。私が担当した新商品で不良品が見つかった。色落ちだ。サンプルの品質試験は問題なかった。もちろん販売前の抜き取り検品も。
しかし商品を買ったお客様から一度洗ったら変色したとクレームが入った。
原因を調べてみると製造工程に問題があり発注したロットのほとんどが不良品だった。今までこんなこと一度もなかったのに。私は朝から不良品の回収対応に追われた。
その日からだ。毎日私の担当商品で不良やトラブルが見つかった。朝から晩まで土日も関係なくいろんな人に謝り続けた。
週が明けてもトラブルは続いた。今まであんなに楽しかった仕事がだんだんしんどく嫌になってきた。今までこんなこと一度もなかったのに、一体何が起こっているのだろう。
クレーム対応のために社内を走り回っていると、今回の失敗による損失の件で私が左遷されるという話が至る所で囁かれているのを耳にした。私は聞こえないふりをして働き続けた。
こんな時に限って香代はずっと会社を休んでいた。こんなに話を聞いてほしいのに。そもそも香代が休むなんて珍しいことだ。心配だけれどメッセージを送る余裕が今の私にない。タイミングが悪い、いや悪すぎる。
「ごめん、明日の結婚式の打ち合わせの時間に予定が入っちゃった。申し訳ないけど打ち合わせの日程を変更するか一人で行ってきてくれない?」
最悪な二週間が終わった金曜日。連日の対応で擦り切れた私を待ち受けていたのは雅樹の謝罪の言葉だった。ここ最近終電帰りばかりしていたが、やっと落ち着き始め久々に雅樹とゆっくり話せると思って帰った矢先の事だった。
「え、嘘でしょ。こないだの打ち合わせも私一人で行ったじゃない。次は料理や装飾の打ち合わせがあるから一緒に来てって言ってたでしょう」
私は思わず不満げな声で本音をぶつけてしまった。雅樹は最初申し訳なさそうな顔をしていたが私の不満げな声を聞いた途端顔をしかめた。
「どうしても外せない案件が入っちゃって会社に出ないといけないんだ。仕事なんだから仕方がないだろう」
「それってそんなに大事な仕事なの?」
「大事な仕事だからこうして今謝ってるんだよ。結衣が食べたい料理で決めていいから。多少高くてもお金は大丈夫だから」
「すぐそういう事を言う。私は一緒に決めたかったの。今さら予定も変えられないし……わかった、一人で行ってくるわよ。その代わり私が好きなように決めさせてもらうからね」
「ごめん、ありがとう。……結衣」
「ん? なによ」
「……愛してる」
「ちょっと、そんな言葉じゃごまかされないから」
「愛してる」
「なんなのよ、もう」
「愛してる」
「わかった、わかったから。ありがとう、私も愛してる」
私はもやもやしていたが、仕方がないのでどんな料理のコースにしようか考え始めていた。雅樹は滅多に「愛してる」なんて言わない。言われ慣れていない言葉を言われて私はちょっとどぎまぎしてしまった。そしてそれ以上結婚式の話ができなくなってしまった。
土曜日、結婚式場での打ち合わせはスムーズに終わった。私のリクエスト内容にぴったりのコースが丁度いい予算であったためすぐに決まった。お花や装飾はちょっと奮発した。雅樹がいたら止められていただろう。でも、雅樹がいないのが悪いのだ。それに好きにしていいって言っていたし。
打ち合わせが終わり、結婚式場を出ると知らない番号から電話がかかってきた。一瞬躊躇ったが電話に出ることにした。電話は病院からだった。
母が死んだ。
病院に行くと母はもう息を引き取っていた。交通事故。即死だったらしい。母が横断歩道を渡ろうとした時、トラックが信号無視をして突っ込んできたらしい。突っ込んできたトラックは母を引いた後、電信柱にぶつかったみたいで運転手も即死だったそうだ。病院でいろいろ説明を受けたがほとんど頭に入ってこなかった。
母が死んだ。死んだ? ついこないだ一緒にお話ししていた母が? 死んだ? 信じられない。信じたくない。もっといっぱいお話ししたかったのに。花嫁姿を見て欲しかったのに。結婚式を楽しみにしてくれていたのに。
たくさんの感情が私の中でぐるぐる回った。気持ちが悪くなった私は病院のトイレで吐いた。吐いても気持ちの悪さからは解放されなかった。涙が溢れて止まらなかった。
日が暮れて家に帰ると家の中は静かだった。
いや静かすぎる。私は家にあがり電気をつけた。何がおかしい。私は家の中を見て回った。原因がわかった。家の中から雅樹のものが全てなくなっていた。
もともとあまり物を持たない人だったので雅樹のもの自体少ない。でも、服も本も、雑貨も。雅樹の痕跡が全て家からなくなっていた。
リビングテーブルの上に一枚の紙が置かれていた。
ごめんなさい。
雅樹の癖の強い字で一言だけ書かれていた。
私は意味が分からなくなった。どうして、どうして何も言わずに出ていくの? 何が嫌だったの? 愛してるって昨日言ってくれたのは何だったの? 私は急いで雅樹に電話をかけたが繋がらなかった。メールも送った。共通の知り合い全員に連絡をした。でも誰も雅樹の居場所を知っている人はいなかった。
こんなにもろいものなのか。これまで順風満帆だと思っていた私の人生はこんなにもあっけなく一瞬で壊れてしまうのか。私は短期間でいろんなことがありすぎて頭が付いてこれなくなっていた。
気が付けば日曜日の朝になっていた。
鏡を見ると酷い顔をしていた。一晩中泣いていたようだ。スマホを見たが雅樹からの連絡はなかった。もう限界だった。私はスマホを床に叩きつけた。画面が割れる音がした。
何もする気になれない私は一日中リビングでぼんやりと過ごした。母の葬式の事、結婚式のキャンセルの事を考えないといけないと思ったが動けなかった。気が付けば私はそのままリビングの椅子に座りながら意識を失っていた。
「久しぶりだな。お、いい顔しているなあ」
突然聞いたことのある声がした。気づけば私は外に出ていたらしい。夕暮れ時、見覚えのある景色。一瞬自分がどこにいるか分からず焦ったがすぐに場所を把握した。そうだここはこないだカラスに会った場所だ。
「おいおい、無視するなよ。どうだい最近の調子は?」
「……どうせ聞かなくてもわかってるくせに。知ってたんでしょうこうなることを」
「その質問への答えは想像に任せるとしよう」
「今日はいったい何の用なの? 私はあなたに用はないの。用がないなら失礼するわ」
私はそう言ってカラスの側を離れようとした。
「代わってやろうか?」
カラスは無機質な声で一言そういった。私は思わず足を止めた。いや、無意識に足を止めていた。
「もう一回聞いてやるよ。なあ、代わってやろうか?」
私はカラスの質問に対して何も言い返せなかった。気が付けば私はカラスの質問に対して否定ができなくなっていた。
「仕事で失敗し出世の道を断たれ、大切な母を亡くし、愛した恋人にも逃げられた。なあ、教えてくれよ。今のあんたには何が残っているんだ?」
「…………」
「だんまりか。まあいい。なあ、あんた今、人間として生きていて楽しいか? 楽しくないよな? やりがいがあった仕事はもう前のようにはいかない。家に帰ってもあんたを出迎えてくれる優しい彼氏はもういない。どんなに話を聞いてほしくても、いつでも話を聞いてくれた母もいない。今のあんたには何も残っていない。そんな人生が楽しいか?」
「……楽しい訳ない。楽しい訳がないじゃない! どうして私だけがこんな目に合わなきゃいけないの? 意味わかんない!」
「そう、そうだよな。楽しくないよな。どうしてお前にだけ不幸が続くのかね? おかしいよな、おかしいよな。この世界は理不尽な事ばかりだよな」
「そうよ! 理不尽なことばかり起きて、何なのよ。私はただ幸せになりたいだけなのに。私が何をしたって言うのよ! 幸せを望んで何が悪いって言うのよ!」
「そう、お前は何も悪くない。悪いのはこの世界。悪いのはお前の周り。そうお前は何も悪くない」
「…………私は何も悪くない」
「そうお前は何も悪くない。全てはお前の周りが悪い。周りの人間が悪いからお前に悪いことが降りかかっているんだよ。お前は巻き込まれているんだよ。事故だよ、事故。そう、これは巻き込まれ事故のようなもんだ。お前は何も悪くない」
「私は何も悪くない」
「ああそうだ。お前は何も悪くない。お前は救われるべき存在だ」
私の中で何かが弾けた。救われるべき存在と言われた途端、心の中の靄が消えた。視界が明るくなった。私は救われるべき存在だ。そう、そうだ! 私は救われるべきなんだ! 私は幸せにならないといけない。私は自分の顔に生気が戻り、体に血が巡るのを感じた。
「お、これはまたいい顔になったな。さて、もう一度言うがお前は救われるべき存在だ。そしておれはお前を救うことができる存在だ」
「え、カラスが?」
「そう、おれはお前を唯一救える存在だ」
「カラスのあなたに何ができるのよ?」
「お、聞く気になってくれたか。方法は簡単。おれとお前の体を入れ替えるんだよ」
「入れ替える? 体を? 本気?」
「もちろん。お前は人間からカラスに、おれはカラスから人間に体が入れ替わる。そうすりゃお前は救われる」
「どうして私がカラスになったら救われるのよ?」
「それは入れ替わったらすぐにわかる。安心しな、必ず救われる。それはおれが保証してやるよ」
「なにそれ、そんなので私が信じられると思う?」
「信じろ。お前は救われるべき存在なんだろう?」
「ええ、私は救われるべき存在よ」
「じゃあ簡単だ。お前を救えるのはおれだけなんだから、お前はおれを信じるしかないんだよ」
「……わかったわ。カラス、あなたを信じるわ」
「おお、よかった。じゃあ目をつぶってくれ。すぐに終わるから」
カラスはそう言うと不敵にほほ笑み私の頭の上に止まった。私は言われた通り目を閉じた。
「おれが目を開けていいって言うまで目を閉じていてくれ」
頭上からカラスの声が聞こえた。
「よし、目を開けていいぞ」
目を閉じて二分ほどしたときに声が聞こえた。目を開けていいと言われて目を開けながら気が付いた。今の声は私の声だった。目を開けると私は私の頭の上に立っていた。右目はどうしても開かなかった。
「どうだ、カラスになった気分は? 体が軽いだろう? おれは今人間の体の重さを感じている。なかなか人間の体は重たいんだな。慣れるのに時間がかかりそうだ」
元カラスが私の体で何か話している。しかし私は自分がカラスになったことに戸惑いそれどころではない。これは夢ではないのだろうか。本当に私はカラスになってしまったのだろうか。これで私は救われたのだろうか。私は聞かずにはいられなかった。
「ちょっと、これで私は本当に救われたの?」
「ああ救われたよ。気分はどうだ?」
「よくわからない。体は軽い気がする」
「そうだろう」
「でも、なんだか息が、苦しい……あっ……」
私はそう言いながら少し前まで私の体だった頭の上から地面に落ちた。
「ぎりぎりだったんだよ」
元カラスの私の体がしゃがみ込んで私を見下ろしながら言う。顔はなんだかにやけた顔をしている。
「いやあ、危なかった。おれ実は死にかけていたんだよ。病気で体が駄目になっていたんだ。それでとにかく誰かと体を入れ替えたかったのさ。なかなか丁度いい相手が見つからなくて諦めかけていたらお前がいた。本当に助かったよ」
「ちょっと待って……意味が……分からない」
「分からないか。もっと簡単に言ってやるよ。お前はもう少しで死ぬ。そのカラスの体は限界なんだ」
「私……死ぬ……の?」
「ああ、死ぬ」
「これが……救い?」
「ああ、これが救いだ。一人で死ぬ勇気もないお前が一番楽に死ぬ方法だ。よかったな、これでこの理不尽な世界とお別れできるぞ」
「そ……そんな」
「大丈夫。寂しくはない。カラスっていう生き物はカラスの死体が落ちていると集まってくる習性があるんだ。同胞が死んだ原因が何か、自分たちが生き残るために得られるものがないか学習するために集まってくるんだが、知ってたか?」
「なに……そ……れ」
「お前も死ねばたくさんのカラスが集まってくれるさ。良かったな、たくさんの同胞に弔ってもらえて。あ、もう駄目か。聞こえてないな」
私はカラスに文句を言いたいと思いつつも意識が途切れ始めて動けなくなっていた。死ぬなんてそんなのあんまりだ。救うだなんて嘘つきだ。
でも、考えてみると生きてやりたいことがあった訳でもない。大切な人も失った。それならたくさんの同胞たちに見送られるのも、もしかしたらそれはそれでありかもしれない。そんなことを思いながら私は永い眠りについた。
翌朝、一羽のカラスの死体が道路に横たわっているのが見つかった。死体の周りの街路樹や電信柱の上にはたくさんのカラスたちが集まり大きな声で弔いの言葉を上げた。それは壮大なカラスの葬式だった。
結衣とカラスが入れ替わって三日後、元カラスが町を歩いていると男性から声をかけられた。
「おいおい、お前何とか間に合ったんだな。心配してたんだぞ。無事に入れ替わっていたなら教えてくれてもいいだろう」
「ん? ああ、雅樹か。いや、雅樹はその体の前の持ち主の名前か」
声をかけた主は雅樹だった。
「名前なんて何でもいいさ。おれもお前もカラスの時は名前なんてなかっただろう」
「そうだな。いやあ本当にお前が動いてくれたおかげで助かったよ。前の体は本当にぎりぎりだったからさ」
「感謝しろよ? お前のためにいろんな奴らが動いたんだから。おれも少ない荷物とはいえ一時的に引っ越してるんだからさ」
「そうだお礼しなきゃいけないんだった。誰が手伝ってくれたんだ?」
「まずヘビの旦那には早めに唐揚げを持って行った方がいいぞ。あの旦那が香代って女を締め上げて仕事のトラブル仕込んでくれたんだから」
「え、そうだったのか。それは早めにお礼に行かないと厄介だな。入れ替わったことに浮かれ過ぎてた。ん? 締め上げたって旦那は何をしてくれたんだ?」
「女の人格を締め上げて一時的に破壊したんだよ。そうしたら操り人形にできるからさ。仕事のミスを仕込ませといて今は家に引き籠らせてる」
「相変わらずいい仕事するなあヘビの旦那は」
「後は会社を辞めさせてポイだってさ。たぶん来週ぐらいには人格が再生して自分が無意識下でした事を思い出して落ち込むんじゃないかな」
「なるほど、香代って人間には悪いがまあ仕方がないな」
元カラスはスケジュール帳を取り出しメモをとった。
「結衣のお母さんの交通事故はコウモリの夫婦が手伝ってくれたからあそこにもお礼しとけよ」
「何を渡せばいいと思う?」
「あそこはそうだな、最近は油揚げにハマってるらしいから油揚げでいいと思うぞ」
「そっか、わかった。そうだお前にも何かお礼させてくれよ」
「当たり前だ。まあでもお前が人間になってくれてよかった。お前と居酒屋で酒を飲んでみたかったからさ。お前カラスの体にこだわってなかなか人間にならないから待ちくたびれたぞ」
「いいじゃないか、カラスの体は軽くて便利なんだから」
「まあな、たまに懐かしく思う時があるよ。それにしても変な世界だよな。こんなにたくさんの動物が人間と入れ替わっているのに人間は全く気付いていないんだよな」
「まあな、人間は自分が見たいものしか見ないからさ。でもきっと中には気づいている人間もいると思うぞ。気づいていないふりをしてるんじゃないか」
「たしかに。分かる奴にはわかるだろうからな」
街中を歩く元カラスの二人の影は明らかに異様な形をしている。しかし、彼らと擦れ違う人間たちは皆、そのことに気づいていない。いや気づいていないふりをしているのかもしれない。何故なら大きな鳥の形をした二人の影が視界に入っていないはずがないのだから。