第98話 その胸には輝く息吹が吹き込まれ(唯花視点)
ベッドのサイドボードに手をつき、あたしは勢いよく立ち上がった。
パジャマの襟をきっちり直し、唇を引き結ぶ。
隣の部屋では可愛い弟が泣いている。
さっきの電話の感じからすると……たぶん葵ちゃんにフラれちゃったんだと思う。
きっと京都で何かがあったんだ。それで別れ話が始まってしまい、伊織は傷心のあまりこっちに帰ってきてしまった……。
突拍子もない話かもしれないけど、お姉ちゃんには伊織の気持ちがよく分かる。
如月家の姉弟はそういう後ろ向きに全力疾走な行動力を持っているから。
あたしも中学生の頃、奏太が構ってくれないからむきーってなって、京都中を逃げ回ったし。
今、伊織は泣いている。
この世の終わりのような気持ちで塞ぎ込んでしまっている。
「きっとこのままじゃ……」
伊織はあたしみたいになっちゃう。
何もかもを怖がって、部屋に閉じこもるようになってしまう。
だから、いくと決めた。
弟のもとへ駆けつけるとあたしは決めたんだ。
「よし……っ」
見据えるのは、扉。
まずはあたし自身が自分の部屋から出ること。
さあ、歯を食いしばれ。
目をそらさずに前を見ろ。
戦いの火蓋はここに切られた。
ヒーローになんてなれないけれど。
弟を助けてあげるのはお姉ちゃんの役目なんだ。
だからあたしはこれでもかと虚勢を張って。
「とおおおうううぅぅぅ!」
お気に入りの航巡キャラの声真似をして、ベッドから飛び降りた!
天井近くまでフライハイ。ちなみに軽空母と二隻持ちしております。
自慢の黒髪をはためかせて、手のひら、膝、足裏で颯爽と三点着地。
キッと顔を上げ、睨むはあたしの部屋の扉。
いつもはみんなが寝静まった頃、この扉を開けてお風呂にいく。
それだって心臓が痛くなるくらい緊張する。
だから伊織に会いにいくという今、緊張はいつもの倍以上。喉がからからに乾いて、扉が鉄の城砦に見えてくる。でも怯んだら負けだ。
「……面白い。いざ尋常に勝負!」
不敵なキャラを装って、駆け出した。
パジャマの腕を大仰に振り上げて、ドアノブを掴む。
その瞬間。
「……っ」
ぞわっと胃の底から吐き気が込み上げてきた。
「い、嫌ぁ……っ!」
反射的に手を離してしまった。
恐怖で視界がぐらぐらと揺れている。
外の世界は怖い。
たとえ相手が可愛い弟でも、外の世界に触れるのは泣きたくなるほど怖かった。
歯の根が合わず、かちかちと音が響く。
いつも回しているはずのドアノブが牙の生えた獣のように思えた。
怖い。
ダメだ、怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……っ!
足が後退さりそうになる。
「……っ、下がったらダメ!」
太ももを思いっきり抓った。
後退しかけていた足が止まる。
「落ち着け、あたし……っ。怖いのなんて当たり前っ。こちとら気合いの入った弱虫毛虫、一年半モノの引きこもりなんだから! 怖いものは怖いんだから仕方ない!」
だから当たり前のことに怯えるな。
怖いことを承知でいこうって決めたんだから。
恐怖を振り払うように、あたしは両手でドアノブを握り締める。
固い。
重い。
でも離さない。
「あたしは知ってる……っ。こんなピンチなんてアニメで何度も見てきたんだから! マンガでも、ゲームでも、ラノベでも見てきた! あたしの大好きなキャラたちはこういう試練を乗り越えてきたの……!」
瞼を閉じれば、いくらでも思い出せる。
格好良くて可愛いキャラたちの大活躍を。
思い出せば成りきれる。
まるで自分がその主人公になったかのように。
そうだ、あたしは知ってる。
アニメとか漫画とかゲームとかラノベとか、たくさんの面白い物語は――いつだってあたしみたいな意気地なしに勇気をくれる! 今がその時だ!
「――全集中! 引きこもりの呼吸っ!」
カッと両目を開き、両手に力を込めた。
夏アニメ一番のお気に入りの真似をして、勇気を振り絞る。
「――壱ノ型、美少女大旋風・唯ノ花!」
ずっと考えていた技で、思いきりドアノブを回す。
もうほとんど転んじゃいそうな勢いだ。
でも効果はあった。
黒髪が風のように舞い、扉が――勢いよく開いた。
「やった……っ」
思わず笑みがこぼれ、汗の玉が舞い散る。
自分で自分を褒めてあげたい気分。
つまりは奏太に思いきりナデナデしてほしい気分。
でも本当の戦いはここからだ。
すぐに自分にキャラづけをし、あたしは不敵な笑みを浮かべる。
「ふっ、造作もない。楽勝で道は開かれたのじゃ……っ」
視界に広がるのは、真っ暗な廊下。
電気もついていない。まるで闇そのもの。
でも怖くない、怖くない、怖くない……!
そう自分に言い聞かせて、背筋を伸ばす。不敵キャラも続行!
「ふっ、敵が結界を張ったか。しかし愚かな。引きこもりにとっては光こそが脅威。暗いところなんて、むしろあたしのテリトリーなのじゃ!」
引きこもりの呼吸を使う唯柱たるあたしは、着物をひるがえすような気持ちで廊下に足を踏み入れる。




