第97話 今、小さな勇気を握りしめて(唯花視点)
あたしはベッドの上で茫然としている。
隣の部屋に伊織が帰ってきていた。
誰かと電話をしているみたいで、くぐもった声が聞こえてくる。
電話の相手は……葵ちゃん?
「『……ごめん。いきなり電話して。どうしても葵ちゃんに謝りたくて。これが……最後だから』」
最後って……どういうこと?
何が起きてるんだか、ぜんぜん分からない。
「『ほ、本当にもう無理なのかな……? あ、ごめん。ううん、違う。悪いのは僕だよ。僕がちゃんと安心させてあげられなかったから……っ』」
しゃくり上げるような声。
「『……うん、これで……お別れなんだね。分かってる。ごめん、ごめんね。うん……』」
そして決定的な言葉が告げられた。
自分の身を裂くような痛々しさで伊織は言う。
「『……っ、さよなら』」
絞り出された言葉にあたしの動揺は加速した。
さよならって……っ。
伊織、まさか……葵ちゃんにフラれちゃったの!?
あたしはベッドから下りて、壁際に近づく。
通話はもう切れたみたいで、壁に耳を張り付けても、会話は聞こえてこない。
かすかに響いてくるのは、押し殺すような……泣き声。
「……っく…………う……ぅ……っ」
伊織が泣いてる。
まるでこの世の終わりみたいに。
思い出すのは、一年半前のこと。
状況はまったく違うけど、今にも窒息しそうなこの雰囲気はそっくりだった。
引きこもり始めたあの日のあたしと……本当にそっくりだった。
血の気が引く。背筋が凍りついた。
姉弟の直感で分かった。
このままじゃ伊織があたしと同じになっちゃう……!
気づいた瞬間、ベッドのサイドボードに駆け寄っていた。
スマホを手に取り、焦りながら奏太のアドレスをタップする。
あたしと奏太は普段、電話をしない。メールやメッセージも送らない。
そんなことしなくても奏太は毎日来てくれるから。
365日、欠かさず会いに来てくれるから。
この一年半、スマホを使って連絡をしないことが2人の絆の証明のようになっていた。
だからこそ、奏太はすぐに気づいてくれるはず。
今、あたしがどれだけ助けを必要としているかを。
電話はすぐに繋がった。
「『どうした!? 今そっちに向かってる!』」
思った通り、奏太はもう走り出してくれていた。
声を聞くだけで心底ほっとした。
もう大丈夫だ。
奏太が伊織を助けてくれる。何もかもすぐに解決してくれる。
まだ多少混乱を残しつつ、あたしは縋るように言う。
「あのね、伊織が帰ってきちゃってるの。葵ちゃんと何かあったみたい。すごく泣いてて、だから――」
早く来て、助けてあげて。
そう言おうとして、ふいに言葉が止まった。
心のなかに自分の声が響く。
――本当にそれでいいの?
気づけば唇を噛みしめていた。
心のなかで声は響き続ける。
奏太なら間違いなく伊織を助けてくれる。
伊織はあたしみたいなダメな子じゃないから、奏太の励ましできっと立ち上がってくれるはず。
でも……本当にいいの?
奏太に何もかもお願いして、任せて、解決してもらって、本当にそれでいいの?
外の世界に置いていかれるのは淋しい。
伊織に彼女が出来たって知った時も、置いていかれるみたいでやっぱり淋しかった。でもそれだけじゃない。
……強くなりたいって思った。
強くなって、伊織に面と向かって伝えたいと思った。
伊織が幸せになってくれること、お姉ちゃんは嬉しいよって。
……そうだよ、そのためにあたしは頑張るって決めたんだ。
普通の人なら笑っちゃうぐらい小さなことだろうけど、でも……毎日小説を書いて、筋トレして、どんな笑顔で伊織に伝えようかなってずっと考えてきたんだ。
あたしにも……出来ることがあるんじゃないかな。
奏太に頼らなくても……何かあたしが伊織にしてあげられることがあるんじゃないのかな。
だって伊織は……あたしの可愛い弟なんだから。
「……奏太」
声が震えていた。
スマホを持つ手も、ベッドに座っている足も、すべてが震えている。
でも指が真っ白になるくらいスマホを握り締めて、もう一度、さっきの言葉をなぞるように声を絞り出す。
「……あのね、伊織が泣いているの。だから――」
叫びたくなるような不安を押さえつけて囁く。
「――だから頑張ってみるね。上手くできたら、とびっきりのご褒美をちょうだい」
「『はっ!? 頑張ってみるってなにする気だ!? おい唯花、返事し――』」
通話を切った。
もう奏太の声は聞こえない。心底ほっとするような安心はもう得られない。
代わりに壁の向こうからはすすり泣く声が聞こえ続いている。
だから……だから、あたしは叫んだ。
震える肺を叱咤して、めいっぱいの大きな声で。
「伊織――っ!」
隣から驚いて何かを落とすような音が聞こえた。
重ねてあたしは叫ぶ。
「お姉ちゃんが助けにいったげるから、そこでいい子に待ってなさい――っ!」
腰を抜かして倒れるような音がさらに響いた。
スマホを放り投げて、あたしはサイドボードに勢いよく手をつく。
全身から脂汗が噴き出ていた。
歯の根が合わず、かちかちと音を鳴らしている。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……!
今にもパニックになりそうなほど怖い。
外の世界は嫌だ、怖い、近寄りたくない。
たとえ相手が可愛い弟であっても、外の世界に触れるのは泣きそうなほど怖い……!
でも『今のままじゃダメだ』って思ったの。
初恋だって奏太が言ってくれたから。
いつかプロポーズするって言ってくれたから。
海の見える家で一生幸せにするって言ってくれたから。
だから――!
「見てろよ、世界っ! これが唯花さんの筋トレの成果だーっ!」
――今こそ、あたしは立ち上がる。
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