第9話 今日も今日とて、風邪ひいた幼馴染が甘えてくる。
さてさて、今日も俺は幼馴染の家へいこうとしているわけだが。
学校の校門から出たところで、唯花の弟からメッセージがきた。
『奏太兄ちゃん、今日早くきて。お姉ちゃんが変かも』
お前のお姉ちゃんはデフォルトで変だぞ、とはさすがに身内には言えなかった。素早く返信を打つ。
『お前のお姉ちゃんはでふぉると――』
思わず打ち込んでしまい、「いやいやいや」と首を振った。言えないけれど、打つのはいいなんて理屈はない。誘惑を跳ねのけ、一旦デリート。打ち直す。
『今、学校出たところ。真っ直ぐ向かう。なんかあったのか?』
返信はすぐにきた。
『今帰ってきたんだけど、いつもみたいに部屋が物色されてないんだ』
……唯花、弟にこんなこと言わせちゃうのは変とか以上にお姉ちゃんとしてどうかと思うぞ?
っていうか、弟が学校いってる間に漫画漁りするの、まだやめてなかったのか。幼馴染として説教してやらねばなるまい。俺は手早く返信し、先を急いだ。
「……なるほど、こういうことか」
如月家に到着し、お袋さんと弟に様子見を任され、唯花の部屋に入った。
で、呆れ返る。
確かに唯花はいつもと違っていた。ベッドのなかでこほこほと咳き込み、頬が赤い。どうやら風邪をひいてるらしい。
「……奏太ぁ。待ってたよぉ。ここのまま一人で孤独死しちゃうかと思ったぁ……」
「あのなぁ、俺を待たなくたって、下にお袋さんがいるだろ。調子悪い時ぐらい引きこもりは休め」
「あたしをファッション引きこもりみたいに言わないでよぉ。奏太以外に頼れる人なんていないのぉ……」
「はいはい、それで熱は?」
「分かんない。体温計とかないし……」
「手の掛かる幼馴染め」
通学鞄を置き、足早にベッドへ近づく。額に手を当てようとすると、ふるふると首を振った。
「やっ」
「やっ、て……触らないと熱あるか分からないだろ」
「おでこでして」
「は?」
「おでことおでこを合わせて計って。じゃないと、やっ」
……いや、イカンでしょ。計ってる最中に咳でもしたら、一発で幼馴染ラインを壊す大事故になりかねん。
「ねー、おねがい。奏太ぁ……」
もぞもぞと布団から手を出し、潤んだ瞳で見つめてくる。
「奏太がいなくて朝からずっと淋しかったのぉ。だからお願い。そばにきて……」
甘えた声で手を広げてきた。もう熱を測るとかじゃなく、ハグを求める仕草だ。
確信した。こいつ絶対、熱がある。引きこもってから唯花が風邪をひくことなんてなかったからすっかり忘れてたが、昔からこいつは熱を出すと重度の甘えんぼうになるのだ。
そんで一度甘えだすと、絶対引き下がらない。
性質が悪いのは唯花が完全無欠の美少女だということ。
今も弱った雰囲気と潤んだ瞳が庇護欲をぐんぐんかき立ててくる。
……駄目だ。勝てん。
「口閉じてろよ。咳とかしたら駄目だぞ?」
「はい、奏太に風邪移したりしないようにします」
素直に両手でお口を閉じる。熱を出した時の唯花は甘えんぼうな上に従順なのだ。
心配してるのは風邪が移るとかの話じゃないんだが……。
心のなかでぼやきつつ、身を乗り出す。
「目、瞑った方がいい?」
「変な空気になりそうだからそれはやめた方がいい……」
「じゃあ、ずっと奏太の目を見つめてるね」
「それはそれで問題が出てきそうだが……」
唯花は寝かせたまま、顔の横に手を付く。体を起こすのは辛いだろうから、俺の方から覆い被さるように近づいていく。
空いてる方の手で唯花の前髪をそっとかき上げた。サラサラの髪の感触が心地良い。
「奏太ぁ……」
吐息のような甘い囁き。
水晶のような瞳に見つめられ、胸が高鳴っていく。
「じっとしてろよ……」
なぜかこっちの声まで小さくなった。
唯花の火照った肌へ近づいていく。まるで秘密のイタズラをしているような背徳的な気分だ。
「あ……」
額と額が触れた途端、唯花は小さく吐息をもらした。瞳が目の前にあって、長いまつ毛が触れそうだった。心臓が早鐘のように胸を叩く。
…………しまった。判断ミスった。
この近さは本気でヤバい。
それも理性が保てなくなるタイプのヤバさじゃない。
俺と唯花にとって一番危険な――本音が隠せなくなるタイプのヤバさだ。
「奏太ぁ……」
「な、なんだ?」
「――キス、したい?」
……っ!? 一瞬、心臓が止まりかけた。
「なんでそんなこと訊くんだよ?」
「……したそうな顔してたから」
そんな顔してない、とは言えなかった。こんな至近距離では取り繕うこともできない。
「唯花はしたいのか?」
「あたしは……」
こんな間近でさえ、ようやく聞こえるかどうかの囁き声。
唯花は恥ずかしそうに目を逸らして。
「…………どっちでもいいよ」
ぽつり、と言った。まるで内緒話のように。
い、いつもなら絶対ダメっていうところだろ……っ。
くそっ、落ち着け、俺。唯花は今、熱で判断力が無くなってる。俺が冷静にならなきゃ駄目だ……っ。
「あ、ああー……かなり熱ありそうだな。待ってろ。今、下いってお袋さんから体温計借りてく――」
「もしもね」
離れるためのワンクッションを置こうとしたところで、カットインするように言葉を挟み込まれた。
「今、奏太にこの手をどけられたら……あたし、きっと拒めない。何されても許しちゃう」
「……っ」
今、唯花は両手で口を押えている。さっき俺が言ったせいだ。
でも軽く添えられてるだけで、ほんの少し手首をどければ、そこには桜色の唇がある。
見たい。
触れたい。
奪ってしまいたい。
どうしようもない衝動が胸に沸き起こってくる。
だってしょうがないだろ。
俺は。
三上奏太は。
生まれてから17年間ずっと。
如月唯花が好きなんだから。
「でえええい! ハイパーエージェントばりの強さと理性を総動員!」
「わ、びっくりした。なんで夢のヒーローなの?」
「再放送見て毎週号泣してたからだよ! ヒーロー物に関してはお前より俺の方が思い入れがでかいんだ!」
俺は背骨が折れるんじゃないかってほどエビ反りし、ベッドから離れた。
唯花は目をぱちくりして驚いている。
その間に素早く移動し、ドアノブを手にした。
「下で体温計とか常備薬とかもらってくるから。どうせ医者にはいきたくないだろ?」
「あ、うん。あとポカリと氷枕とアイスもほしい」
「オッケー。病人サービスだ。全部揃えて持ってきてやる」
なんとか乗り切った。
そう思いながら部屋を出ていこうとすると、背後で唯花がぼそっと呟いた。
「……奏太の意気地なし」
「う……っ」
なんだろう。今回ばかりは正しいのは俺だよな? 弱ってる病人相手なんだから自制するのが正解だよな?
なのにこういう時の『意気地なし』には有無を言わせぬ威力がある。理不尽だ。
「……あと今日は泊まっていってね。熱ある時に独りで寝るの、怖くて嫌なの」
「はっ!? いやちょっと待ってさすがにそれは……っ」
反射的に振り向いたが、唯花はばっと布団を被り、それ以上、反論をさせてくれなかった。
幼馴染だから見なくても分かる。唯花は今、布団の下で死ぬほど真っ赤になっている。
熱が下がったら絶対後悔するくせに、ここぞとばかりに本能まっしぐらで甘えまくるつもりなのだ。
で、その場合、鬼のような我慢を強いられるのはこっちである。いやしかし。
「さすがに世間様が許さんだろ、そんなことは……」
極めて真っ当な常識のもと、俺は呆然と呟いた。
だが。
世間様は許さなくても、許す者たちがいた。
聞いて驚け、いや……聞いて同情してくれ。
俺から唯花の要求を聞き、二つ返事で許可したのは、なんと両家の親たちである。
俺の両親、唯花の両親、どちらも『ま、風邪なら仕方ないよな』という恐ろしく軽い理屈と共に、俺の宿泊を許可しやがった。
申し訳なさそうな顔をしてくれたのは、唯一真っ当な唯花の弟だけである。
そんなわけで誠に遺憾ながら――ここに、小学校低学年以来のお泊り会開催が決定された。…………正直、しんどい。