第84話 我は放つ、幼馴染のブラジャー
その昔、如月家の親父さんが教えてくれたことを俺は思い出していた。
『いいかい、奏太君? いつか女の子のブラジャーを外す時がきたら、ホックは片手で外すんだよ』
『え、なんでだ?』
『それはね……』
まだ子供だった俺は純粋に首を傾げた。
すると親父さんは無駄に格好良く教えてくれた。
真っ白な歯をキラッと輝かせて。
『さりげないこなれてる感で主導権を握れるからさ』
途端、そばにいる撫子さんが『もうやだぁ、あなたったらっ』と真っ赤になって照れまくり、当時から撫子さんに手も足も出なかった俺は『本当に主導権握ってるぞ、この人……っ』と親父さんを心底尊敬した。
ちなみにその時、唯花と伊織はブランケットにくるまってお昼寝中。この教えを知っているのは俺だけだ。
よって俺は心のなかで呼びかける。
親父さん、俺、出来たよ。偶然だけど、ちゃんとホックを片手で外せたよ。……まあ、相手はあんたの娘なんだけどな!
――というような回想で現実逃避をしてしまうほど、俺の脳内は大混乱に陥っていた。
なぜなら。
ホックが外れた瞬間、ブラ紐が瞬時に俺の指先からすべり落ちたから。こんな勢いで落ちていくなんて、一体どれほど大きなものを支えていたというのか。
「あ……っ」
ブラが外れた瞬間、唯花は小さく声を上げ、慌てた様子で胸を押さえた。パジャマの肩越しに見えたのは、腕で支えた瞬間、弾むように揺れたFカップ。拘束から解き放たれ、ワガママ放題に揺れていた。
俺はついワケの分からないことをつぶやいてしまう。
「……ラピュタはあったんだ」
途端、唯花が赤い顔で「むー……」とジト目を向けてきた。
「……奏太のムッツリさんめ」
なんとひどいレッテルか。
俺は慌てて言い返す。
「ム、ムッツリではないだろ? それは撤回を要求する。ムッツリなんて言われるのはあまりに不名誉だ」
「……だって事故を装って、あたしのブラジャー外すし」
「な……っ」
なんということだろう。
我が幼馴染は恐るべき誤解をしている!
「王よ、聞いてくれ! 民は嘆いているぞ! 今のは哀しい事故だ、誰にも予期せぬ天命だ! 俺はお前のブラジャーを外したかったら自分の意思と責任のもとに男らしく外す! 押し倒す時だって、転んだり階段から落ちたりのミラクルラッキースケベは使わず、ちゃんと真っ向から押し倒しているだろう!? だからムッツリなどという不名誉だけはやめてくれ!」
「民よ、落ち着いて聞きなさい。ぶっちゃけ男の子のそういうこだわりよく分かんない。そんなことより唯花ちゃんは外れちゃったブラジャーを早く直してほしいです。とても切実に」
「ぐ、ぐうの音も出ない……!」
反論の余地がなかった。確かに今は原因究明よりも現状の復旧が最優先だろう。唯花も早くブラジャーを直してほしいだろうし……ん?
「……俺が直すの?」
「他に誰がいると言うのであるか?」
「じ、自分で直せばよかろうなのだ!」
「それが出来たらしているのじゃ!」
「なにゆえ出来ぬのか!?」
「だからーっ、筋肉痛だって言ってるでしょー!?」
むきーっと怒る唯花さん。
「手を後ろにやるとビッキビキになるのー! 今だってこうして押さえてるだけで精一杯っ。早く直してくれないと、手が限界! 急がないとこぼれちゃうー!」
「何がこぼれちゃうの!? 何がこぼれちゃうの!? 何がこぼれちゃうんだよーっ!?」
「だから、あたしのお――」
「ああ待て待て言うな!? 言わなくていい! 今度こそ俺の理性さんが黒ひげ大爆発してしまう!」
「ちょっとリセイさんって誰!? どこの女!?」
「俺たちの平穏を守る女神だよ!」
「奏太が女神というほどの女があたしのハウスに!? なんてこと……っ、知らない間にあたしは『ここがあの女のハウスね』されてたの!? 許せない、どいて奏太! リセイさんをあたしの廬山亢龍覇で葬ってくれるーっ!」
「理性さんを葬るんじゃねえよ!? あと亢龍覇だとお前も葬られちゃうし、その技の時って高確率で上半身裸だろ!? わざと言ってんのか!? っていうか、理性さんが俺の理性だって分かってて言ってるよな!? 何度でも言うけど、余裕ない時にネタぶっ込んでくるんじゃねえよ!?」
「ネタでも言ってないと、恥ずかしくて死んじゃうの! それくらい察して!」
「――っ! そういうことか、すいません!」
全面的に俺が悪かった。
やたら無理やりネタをぶっ込んでくると思ったら、ただの強がりだったのか。くっ、可愛いな、こやつめ……っ。
って、そんな場合じゃない。唯花に恥ずかしい告白をさせてしまったせいで、空気がさらに変な感じになりかけている。
これでFカップがこぼれてしまったら、きっと俺が理性さんを廬山亢龍覇してしまうだろう。そうなれば世から理性の光は失われ、獣の時代が始まってしまう。何を言ってるか分からないだろうが、俺にもさっぱり分からねえ!
「こうなったら是非もない……っ。つけ直すぞ! 俺が! 唯花のブラジャーを!」
「宣言しなくていいから早くやりたまへ!」
「Yes sir!」
「唯花ちゃんは女の子だからそこはイエスマム!」
「Yes、ma'am!」
軍人のごとき鉄の精神を発揮し、俺は唯花の腰元に落ちていたブラ紐の端を手にする。
「やるぞ。ちょっと引っ張るからな?」
「……や、優しくしてね?」
………聞こえない、聞こえない。俺は鉄の精神の軍人だから、変な意味には聞こえない。
無心になり、紐の端が背中にくるように軽く引っ張る。
「んン……っ」
聞こえない、聞こえない! 俺は屈強なサージェント・ミカミだから、変な声なんて聞こえない!
あとブラの色が俺が似合うって言ったピンクなのも聞こえない! 紐を引っ張った拍子になんかすげえ柔らかいものの感触が間接的に伝わってきたことも聞こえない!
あれ、聞こえないってなんだっけ!? 聞こえないがゲシュタルト崩壊してきたぞーっ!
「くっ、もうちょっとだ……っ」
それでも怒涛の誘惑を跳ね除け、ついに紐の端と端を合わせるところまできた。
しかしそこで愕然とする。
……なんだこれ、ホックが上手くつかないぞ。
形状は日常生活のホックと変わらないはずだ。なのに紐が変に伸びるから上手く嚙み合わせることができない。
「ぬっ、あれ、この……ああ、ちくしょうっ」
徐々に焦りが忍び寄ってくる。
やっとここまできたのに、なぜ上手くできないんだ。
如月の親父さん、俺はどうすればいい? 外す時の話はしてくれたけど、つける時の話はしてもらってねえよ! 親父さん、あんたの娘のブラジャーがつけられません! 助けてくれ、親父さあああああん!
冷や汗を流しながら、俺は心のなかで絶叫する。
すると。
ふいに唯花が小さく噴き出した。
俺が追いつめられている分、逆に落ち着きを取り戻したらしく、どこか楽しげにつぶやく。
「すっごい焦ってる……奏太、なんか可愛い♪」
「……っ」
思いっきり顔が引きつった。
だ、誰のために苦労してると思ってんですかね、こやつはーっ!




