第83話 くっ、大人しく普通の湿布にしていればこんなことには……っ
おお、神よ。仏よ。理性さんよ。
どうしてこの子はこんなに無邪気なのでしょうか。
俺はひそかに戦慄していた。
目の前には仰向けになっている幼馴染。
あぐらをかいた俺の足に頭を乗せ、あろうことか胸の谷間にスプレー缶を挟んでいる。
手には筋肉痛緩和薬のジェルを乗せ、口から出た言葉は『これ、塗ってー♪』である。
「……いや、あかんじゃろ」
「ほえ? なんで?」
「なんでって……」
大変エロいでしょうが!
と口で言うのも憚られるので、俺は通学鞄に手を突っ込んだ。
取り出したのは科学部特製の……じゃなかった、違う、こっちじゃない。これは封印だ。取り出したのはさっきリビングで撫子さんから渡された、普通の湿布。
唯花に必要だろうと思って、撫子さんも湿布を用意してたそうだ。
普通の湿布なので、当然匂いはする。俺はそれを慈悲深い笑顔で唯花の鼻先へ。
「少女よ。これをお使いなさい。この湿布を自分で好きなところに貼るのです。匂いはするけどな?」
途端、細い肩がビクーッと跳ね上がった。
「ふにゃー!?」
唯花はぐりんっと首を回し、うつ伏せに。
谷間に挟んでいたスプレー缶はその勢いで壁際まで飛んでいった。
え、壁際? 飛び過ぎじゃね? なにその投擲力!? 柔らかさで弾みがついたのか……っ!
「唯花、すごいなお前……」
「何がすごいのよ!? 奏太はすごいひどい! 唯花ちゃんはその匂いダメだって知ってるくせにっ。知ってるくせにぃ~っ!」
足をバタバタさせてお怒りである。
いかん、これは失策だった。唯花のお怒りはともかく、俺、今あぐらだから……この体勢でうつ伏せになられるのはその、色々危険である……っ。
「えーと、すまん、唯花。俺が悪かったから仰向けに戻ろうか?」
「なんでよー?」
「なんでも良いからとにかく仰向けになろう」
「やっ! 奏太、また湿布であたしのこといじめるもんっ」
「いじめない、いじめない。ほれ、湿布はもう鞄にしまった。ワタシ、アナタヲ、イジメナイデース」
分かりやすく湿布をしまい、分かりやすく両手を広げてみせ、分かりやすく先住民の優しさをアピール。
うつ伏せのまま、目元だけ顔を上げて、じとーっと睨んでくる唯花さん。
「次やったら噛むからね? がぶっといくからね? 慈悲はないぞよ?」
「……か、噛むのは勘弁して頂きたい。そこはお慈悲を頂きたい」
唯花が想定してるのは手とかなんだろうが、この体勢で言われると、想像しただけで、冷や汗がダラダラ流れてくる。
「ふみゅ? 奏太、そんなに噛まれるの嫌いだったっけ?」
「……好きな奴はなかなかいないと思うぞ。それが好きなのはおそらく気合いの入ったMなる者だけだ」
「? でも奏太、以前にあたしが噛んだ時、ちょっと嬉しそうにしてたじゃん?」
「それはケースが違う。あの時は肩だし、唯花の声を我慢させるためだったろ。だからその痛みはむしろ男して勲章みたいな……あ」
「……あ」
2人同時に気づいた。
とくに意識せずに話しているうちに、会話が非常に微妙なところへ転がっていってしまったことを。
唯花が俺を噛んだのは、耳関連でワケが分からなくなった時だ。
耳フーッされて思わず声が我慢できなくなり、隣の部屋の伊織に聞こえないように俺から肩を噛ませたのだ。
つまり面と向かって思い出すには、お互いに大変恥ずかしい事柄である。
「あー……」
「え、えと……」
お互い顔を見ていられず、赤くなって視線を逸らす。
「きょ、今日はいい天気だな?」
「う、うん。引きこもるには大変良い日ですね」
「……」
「……」
やばい。意識するとなんか間が保たん。
えーと話題、話題、なんでもいいからとにかく話題!
「とりあえず手に出しっぱなしのそのジェル、使ったらどうだ?」
「あ、うん、そうだね。じゃあ……はい」
唯花は体を起こすと、ジェルを無造作に俺の手にぺちょっと移してきた。
ちょっと残ってべたべたも、俺の指先にぬりぬりして、完全に移してしまう。
「よし」
「いや、よしじゃない。なにゆえ使えと言われて、俺の手に移すのか」
「だから塗ってってば」
「だからなにゆえ自分で塗らぬのか」
「背中とか自分じゃ塗れないじゃん」
「なる、ほど……!」
それは盲点だった。
唯花は体が硬い。前屈とかさせると爆笑できるほど体が硬い。自分で塗れというのは無理な話だった。
いかん、逃げ道が見つからない。
撫子さんも湿布を用意してる時点で、こういう展開は予期しておくべきだった。
しかも俺が持ってきたのはジェルタイプ。くそう、自分で自分の首を絞めてしまった。
……唯花的にはこれはエロ判定ではないのだろうか?
聞いておきたいが、今の雰囲気で下手な質問は藪蛇になる。
かくなる上はとっととミッションを消化してまうしかない。
「背中でいいんだな?」
「うん、とりあえず背中ー」
「分かった。後ろ向け」
「ほえ? ベッドじゃなくていいの?」
「良いです良いのです、だから早く後ろ向けハリィー! ハリィー!」
「はわー!?」
超早口で言いながら肩をガシッと掴んで、後ろを向かせた。
こんなことをベッドでなんてやれるか。ルパンダイブしたら俺の頭がベッドにめり込むだろうが。
唯花は体育座りで俺に背中を向けた状態。
とっとと終わらせてしまおうと思ったが、はたと俺は動けなくなった。
え、なにこれ? 背中に塗るって一体どうすりゃいいの……?
唯花も同じことに気づいたらしい。
ようやく戸惑いの気配を見せ、肩越しにぎこちなく振り返ってくる。
「あ、どうしよ……これ、すごい恥ずかしいね」
「だからあかんじゃろと言うたじゃろうが……」
「だって自分じゃ塗れないのは本当だもん」
「それはそうだが……」
「えっと、どうする? …………脱ごっか?」
「……っ!」
恥ずかしそうな囁きが俺の脳内でスパークした。
……やべえ! ダイブする! 体が半分ぐらいダイブモードに差し掛かってる! 馬車馬のようにもっと働いてくれ、理性さん! 血反吐を吐いてもいいから!
「ゆ、ゆい……」
「あっ! なんか押し倒してきそうな気配! 待って、奏太っ。あたし、筋肉痛だから今押し倒されたらバラバラになってしまう。ミート君みたいに!」
「くっ、いくら俺とて七人の悪魔超人と戦うのは勘弁願いたい……っ。ならば!」
俺は心を無にし、パジャマの裾から唯花の背中に手を突っ込んだ。
「ひゃうんっ!?」
「娘よ、変な声を出すでない!」
「だ、だっていきなり手を入れてくるし、ヒヤッとしたから! あとなんか口調が変!」
「ヒヤッとしたのはジェルだからだ! 口調は心を無にしてる証拠にござる!」
「なってない、それ無になってないと思う! 駄目よ、奏太。自分を偽ったらダークサイドに堕ちてしまうわ!」
「むしろ堕ちないように頑張ってる最中なのですが!? 余裕ない時にネタぶっ込んでくるんじゃない! そんな余裕ないっての!」
いかん、『余裕ない』と『余裕ない』が被ってしまった。本当に余裕がない。
なぜならスベスベの肌がムチャクチャ柔らかい。
だが駄目だ。無だ、無になるのだ。俺はただジェルを塗るだけのマシーン、マシーン、マシーン……ん?
心を無にして塗っていたら、指先に何かが触れた。
固い金具のようなもの……フック? と、紐?
「なんだこれ?」
つい口に出してしまい、直後に俺は己の浅はかさを呪った。
「あ、それは……っ」
唯花がぴくんっと反応する。
耳まで赤くして俯き、恥ずかしそうにつぶやく。
「……ブラ紐だよ、ばかぁ」
なん……っ、と俺は硬直。
だと……っ、で指先が震えて。
次の瞬間、ブラ紐のフックが外れてしまいました。
「「――っ!?」」
俺と唯花は同時に息をのんだ。
これは……大惨事だーっ!




