第60話 ツッコみ不在のとんでもない世界④
俺と唯花はわしゃわしゃとぽかぽかの攻防を続けている。
最初はピンクのブラジャーを見る見ないの攻防だったが、俺の強固な理性と見事な戦略によって今の状況に移行したのだ。
ふふ、俺もなかなかの策士だな。ここ最近は微妙に良いとこなしだったが、これで名誉挽回、汚名返上といったところだろう。
と思っていたら、なんか隣の部屋から切羽詰まった声が聞こえてきた。
「『わ、わたし、えっちなシーンは……っ』」
ピタッと止まる俺&唯花。
だらだらと冷や汗が流れた。2人一緒に小声で絶叫。
「「(わ、忘れてたぁぁぁぁぁぁぁぁっ!)」」
しかし良心の呵責に苛まれて、すぐに全力で前言撤回。
「(いや忘れてない! 忘れてはいないぞ!? ただちょっと意識の外に出ちゃってたっていうか……な、唯花っ?)」
「(そうそうそう! 忘れてない! 大事な弟のピンチにお花畑モードになって忘れちゃってるなんてあるわけないじゃないっ。ね、奏太!)」
果てしなく言い訳をしながら、うむっ、と頷き合い、すべてなかったことにして、再び壁に耳をつける。
さっきは伊織が『このラノベ、えっちな展開が多いけど、葵ちゃんはどのシーンが好き?』とのたまったところだった。
あれから俺たちが現場に復帰するまで、それほど時間は経っていないと思うが……。
戦々恐々としつつ、声に集中する。
ほぼセクハラみたいな質問をされてしまった彼女はどう答えるのか。
一瞬深呼吸するような間が開き、直後、とんでもない返答が聞こえてきた。
「『わたしはシスターのヒロインが主人公に裸にされて、体に虹の絵を描かれちゃったところがえっちだなって思いましたーっ!』」
ひぃっ、と俺たちは青ざめる。
「「(まさかの真正面からのお返事ーっ!?)」」
あまりのショックに俺と唯花は手を握り合い、小鹿のように震え上がった。
「(なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!? 一体、どうしてこうなった!? 普通は伊織が前言撤回して、どうにか話題を変えるってのが定石だろ!? なのにあの子はどうして真正面からアンサーしちゃってるんだよ!?)」
「(姉の勘が囁いている……っ! たぶんこれ、伊織がしどろもどろになり過ぎて話題の転換に失敗したんだわ。それを葵ちゃんがどうにかフォローしようとして、さらに失敗。空気がすんごいことになり、焦った葵ちゃんが見事に自爆! ってところね!)」
「(すげえな、姉の勘! 突然、どうした!? でも言われてみれば、まさにそんな状況な気がするぞ……っ。くっ、星川葵、君ってやつは……っ!)」
どうやら彼女は焦って自爆するタイプの少女だったらしい。
だがウチの伊織のためにそこまで頑張ってくれたことに俺は心から敬意を表したい。
正直に言おう。
俺は今まで彼女のことをどう呼ぼうか迷っていた。実際、呼び方も二転三転していたと思う。
だってさ、フルネームで『星川葵』と呼ぶのは何やら事務的で冷たいし、かといって会ったこともない相手を『葵』と呼び捨てにするのも変だろう?
かといって俺がさらっと『葵ちゃん』とかいうのもキモいしな……。
しかし今、決めた。
勇気を出して、ここは『葵ちゃん』でいこう。伊織がそう呼んでいるんだ。ならば俺も敬意を表すためにそうしたい。
というわけで、呼び名もちゃんと決まったので。
「よし、そろそろ助けるか」
俺は表情を改め、向こうには聞こえない程度の声量で宣言。
隣で唯花が、お、という顔をする。
「見守りモードはもう終了?」
「ああ。伊織にとってはああいう失敗もいい勉強だけどな。今回は相手もいることだし、ここらで助け船を出そう」
俺もただ伊織のピンチを忘れていたわけじゃない。……いやまあ、一瞬忘れてはいたんだが、伊織にとってはいい経験になると踏んだんだ。失敗から学ぶのが男の子だからな。
ただ、そろそろ助けが必要だろう。待ってろよ、伊織、葵ちゃん。
「(唯花! 我が手にスマホを!)」
「(名案があるのねっ。心得た!)」
再び小声の大声に戻り、唯花に指示。
幼馴染の以心伝心ですぐさま動き、テーブルの上のスマホをシュバッと取ってきてくれた。
その間も俺は壁に耳を張りつけ、状況を把握し続ける。
部屋のなかには重苦しい沈黙。
伊織も葵ちゃんも二の句を告げずにいる。ならば――!
俺は素早くメッセージを打った。
隣の部屋からピロリロリーンと音が響く。
伊織のスマホはアプリを起動しなくても、画面に文面の一部が表示される。
それを見越して、俺が打ったのは『大和』という二文字。
唯花が手元を覗き込んできて、え、と眉を寄せる。
「(なにこれ? 大和……? 戦艦のこと?)」
「(違う。キャラソンだ。もしくは純粋に日本語の単語でもいい。伊織ならこの暗号に必ず気づく)」
その目論見通り、隣の部屋の空気が変わった。
「『あの、伊織くん、スマホ鳴ったよ……? 返信しなくていいの?』」
「『いや、いいんだ。一目で分かったから』」
「『分かった? ってなにが……あっ』」
葵ちゃんが驚きの声を上げる。
「『あ、頭ぽんぽんって……伊織くんがわたしの頭ぽんぽんって……っ! あ、あの、あわわわわっ』」
「『葵ちゃん、こうされるの好き?』」
「『き、嫌いじゃない、けど……え? え? あわわわわわっ』」
戸惑い気味の返事だが、実際嫌ではなさそうだ。むしろ嬉しそうである。
葵ちゃんは今ごろ赤くなっているに違いない。
突然の頭ぽんぽんで気まずい空気は霧散した。狙い通りだ。
俺は隣の唯花に向けてサムズアップ
「(ミッションコンプリート。兄貴分と弟分の連携で乗り切ったぜ)」
「(うみゅ、お見事。でもどういうことなの?)」
「(大和→大和撫子→撫→撫でろ。仲がいい女子との会話で雰囲気がおかしくなったら、とりあえず撫でとけってことさ)」
「(なーる)」
納得したように頷き、すぐさまジト目。
「女たらしめ」
「ぐ……っ」
「むしろ唯花ちゃんたらしめ」
「ぐぬう……っ」
手の内を晒してしまった。
唯花が拗ねた時、撫でて誤魔化す手はこれでもう使えないかもしれない。
でもいいんだ。可愛い伊織を助けられたのなら、俺にはなんの悔いもないぜ……。
ジト目を避けて明後日の方を向き、物思いに耽っていたら、壁の向こうからまた新たな話し声が聞こえてきた。
しかしなぜか妙に小声で、ちゃんと聞き取れない。
「『あの、伊織くん、これ……そろそろじゃないかな? えと、頭ぽんぽんはもういいので……嬉しいけど』」
「『あ、ああそうだね。結局、僕が本当に失言しちゃって、奏太兄ちゃんに助けてもらっちゃったけど……おかげでいい空気ができた。これなら……不自然にならないよね』」
ふし……? なんだって? なんて言ったんだ?
唯花に視線で尋ねてみたが、あっちも聞こえなかったようだ。
壁に耳を当てながら首を傾げている。
そして、次の瞬間。
予想外の展開に俺たちは度肝を抜かれた。
「『葵ちゃん』」
伊織が妙に声を張った。
そして今の今までエロ話をしていたとは思えないほど、堂々と――言う。
「『突然だけど……僕と付き合って下さい!』」
間。
空気が止まった。
思考も止まった。
もはや声を抑えるのも忘れて、
「「……は、はいいいいいいいいい――っ!?」」
もうワケが分からない。
ほ、本当に突然だな!? 一体どういうことなんだってばよ!?
俺たちの声は近所中に響き渡っており、窓の向こうではカラスがビクッと驚いて、電信柱から飛び立っていった。




