第51話 My Fair Lady-マイ・フェア・レイディー-
俺は床に座っていて、ベッドの方を向いていた。
そのベッドには唯花がいて、身を乗り出すようにして俺を押し倒しに掛かっている。
両頬には熱を帯びた唯花の手。俺が抱き留めてやらないと、ベッドから落ちてしまいかねない。
そうやって逃げ場を完全に排除し、唯花は告げたのだ。
あたし、奏太がいればもう何もいらない。これ、本気だから。
あたしたち、もう――恋人でいいよね?
その言葉を言うために一体どれほどの勇気が必要だったかのは、もちろん痛いほどわかる。
この1年半、付かず離れずだった距離をとうとうゼロにする言葉だから。
生まれてからの17年間、幼馴染として過ごしてきた関係にピリオドを打つ言葉だから。
俺の返事によっては、世界は瞬く間に色を変えてしまう。
唯花にとって、身を削るほどの覚悟が必要だったはずだ。
だからこそ。
そう、だからこそ。
俺は――。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
思いっきりため息をついた。
「なんでぇ!?」
大ショックッ、という顔で叫び、唯花がベッドから落ちてくる。
「なんでこの雰囲気でため息とかになるの!? 違うよね!? 今ぜったいそういうターンじゃないよね!? 深夜アニメの作画崩壊回だってそこまで落差激しくないよ!?」
「あー、わりぃ。ちょっとお静かに頼む。俺いま、今年一の勢いで落ち込んでるんだ」
「落ち込んでるのはこっちだよぉ!? ほとんど告白同然の発言をため息で返された乙女の気持ち分かるぅ!? 奏太のばかっ、ばかばかばかもがもがもが……もがっ!?」
ずり落ちてきた唯花を受け止めた……ものの、力が入りきらず、頭がずりずりと俺のみぞおち辺りまで沈んでいった。
ワイシャツが口に入って上手く喋れないようで、もがもが音が響いている。若干苦しそうだが、静かになったのでちょうどいい。
俺は今、わりとガチで落ち込んでいる。
理由と原因は『恋人でいいよね』発言じゃない。
重要なのはその前だ。
――あたし、奏太がいればもう何もいらない。
つまり外の世界なんて必要ない。意訳すれば『もう一生引きこもりでいい』。
唯花の発言はそういう意味を内包している。
一年半前から毎日、同じ部屋で過ごすようになり、お互いの気持ちなんてもうとっくに分かりきってるのに、俺たちはあえて一線を引いてきた。
ずっと付かず離れずの幼馴染関係を維持してきた。
それはひとえに唯花をこの心境に陥らせないためだ。
何もいらないなんて、あるはずない。
だってお前、言ったじゃないか。久しぶりにカワイイ伊織の顔を見られて嬉しかった、って。
もちろん唯花も自分でちゃんと分かっているはずだ。
この一年半の意味も、本来の自分の心の在り方も。
分かっているのに恋人発言なんてしたのは、気持ちが抑えきれなくなってしまったからだ。
つまりは俺のせいだ。
昨日今日の俺の行動が唯花の心と体に火をつけてしまった。
今年一の大失態である。
ここで『分かった、恋人になろう』なんて言えば、唯花はもう外に出なくなる。
出たいという気持ちさえ失くしてしまう。
返す返すも俺の大失態だ。
けど、いつまでも落ち込んでばかりはいられない。
失敗したならば取り返す。そうやってみんな生きていくんだ。
「なあ、もがもが姫」
「もが……っ、な、なによぉ? 胸ならもう絶対触らせてあげないんだからね?」
「その件については後ほど真摯に話し合うとして、一つ質問がある」
「あたしの質問には答えてくれてないのに? 質問に質問を返すのはギルティなんじゃなかった?」
「安心してくれ。この質問が答えになってる。唯花なら一発で気づく」
みぞおちから顔を上げ、むうと不貞腐れている唯花へ、俺は言う。
真っ直ぐに目を見つめて、一息で。
「お前、最近、小説書いてるか?」
その瞬間、ピキッと表情が固まった。
不貞腐れモードは一瞬で解除され、両目が猛烈に泳ぎだす。
うむ、どうやら正しく伝わったようだ。
滞りない意思疎通が確認できたので、俺は非常に爽やかな笑顔を浮かべ、同時にピキッと額に怒りマークを出してみた。
「お前が小説を書いて、それを投稿サイトに上げて、ネットの向こうの人たちに読んでもらえて、俺たち結構感動的なやり取りした記憶があるんだが覚えてるかな、マドモアゼル?」
「あ、あう……そ、そうだね。うん、覚えてるよ、もちろんマドモアゼルは覚えてますことよ、うん」
「それでこれからも頑張ってく、みたいな空気になった記憶があるんだが覚えてるかな、フロイライン?」
「な、なったね……うん、覚えてるよ、もちろんフロイラインは覚えてますことよ、うん」
「で、書いてるのか?」
「……………………えへ♪」
可愛い笑顔で誤魔化してきた。
大変とっても可愛らしい。が、それはそれとして俺はガシッとアイアンクロー!
痛くない程度に唯花の顔を締め付ける。
「お、ま、え、と、い、う、や、つ、はーっ」
「怖わわわわわっ!? 怖い怖い怖いっ! 愛の鞭だって分かってるけど、アイアンクローは子供の頃観たエイリアン映画を思い出して怖いのー! 怒っちゃイヤーっ!」
ばたばたもがくが、離しはせずにしばらくお仕置き。
その間に説明しておこう。
唯花にとって、小説を読んでもらうという行為は外へと向かう鍵なんだ。
なんせ引きこもってからというもの、ついこないだまで俺以外とは一切コミュニケーションを取ってこなかったから。
最近になって伊織に手紙を出したり、偶然だが直接対面したりして、身内相手にはちょっとずつ進歩している。
だからあと必要なのは、はじめましての人たちと関わるという経験。
小説をアップしたことで、唯花はその大きな一歩を踏み出したはずだった。なのにこの体たらくである。
「今の誤魔化し方から察するに、お前、あれから一切書いてないな?」
「だ、だってーっ! 奏太に好きになってもらうぞ大作戦してたり、いきなり奏太がキスしてきたり、色々あって忙しかったんだもーん!」
「あほの子か! お前、引きこもりなんだから時間なんて無尽蔵にあるでしょーが!? そんな言い訳で誤魔化されんぞ、俺は!」
まったく。さっきとは違う意味でため息である。
いや別にな? 引きこもってるのが自分の幸せだ、って唯花が確信してるならそれでいいんだよ。俺がずっと養っていけばいいだけだし。
でも唯花はこないだまで『あたしのこと好きになったらダメだからね?』と俺に言い続けてきた。それはつまり引きこもってる自分に負い目があるということだ。
だったらどうにかしてやるのが惚れた男の仕事だろ。恋人になるのも養うのも、すべては唯花の心が救われてからだ。
「唯花、はっきり言っとく」
アイアンクローから解放した。
目を見て宣言する。
「俺たちは恋人じゃない。ただの幼馴染だ」
「えー……じゃあ、あたし今フラれたの?」
「おう、フッたぞ。思いきりフッた」
「ちぇー」
……なんかえらく軽い感じで拗ねられた。
ものすごい平常運転の顔で唇を尖らせている。
「……いやもうちょっと劇的な顔してくれてもいいんじゃね?」
「それ、恋人発言でため息つかれた時のあたしと同じ気持ちね? アンダスタン?」
「う……、Yes, I am」
唯花は体を起こし、俺の正面に座ると、「ふーんだ」と足を投げ出した。
「だってさ、奏太がなんでそんなこと言うのか、手に取るように分かるし、劇的になる要素がないですよーだ」
「それ、恋人発言でため息ついた時の俺と同じ気持ちな? アンダスタン?」
「むむ……、Yes, I am」
やれやれ、と俺は立ち上がる。
学校の課題をやらなきゃならん。こっからは平常運転だ。
そんな俺を目で追い、唯花はつぶやいた。
「……ね、じゃあさ、あたしたちってどうしたら恋人同士になれるの?」
「そうだな……たぶん唯花が自分自身を好きになれたら、じゃないか?」
「……あ、なんだろ。今すごく奏太に螺旋手裏剣を撃ち込みたくなった」
「なんで!? バラバラに刻まれちゃうぞ!?」
唯花はベッドに寄りかかり、視線を逸らす。
「奏太は強いから知らないんだよ……自分を好きになるってものすごく難しいことなんだよ?」
「だから小説を書くんだろ?」
「? どゆこと?」
ノートを二冊、ガラステーブルに広げる。
一冊は俺の課題用。もう一冊は唯花の小説用だ。
「中学の頃の先生が言ってたんだ。あの人、現国担当だからな。で、今は伊織の担任してくれてるその先生曰く『自分が嫌いな奴は小説を書け。上手い下手は関係なく、そういう奴が書いたものは必ず本物になる』ってさ。俺にはよく分からなかったが……」
「あたしは……ちょっと分かる気がする」
「だろ? だと思ったよ。だからお前は書くんだ――小説を」
ノートを向ける。
唯花はしばらく押し黙っていたが、やがておずおずとテーブルの前に移動してきた。そしてぽつりと言う。
「……まあ、改めて考えてみると、恋人発言はあたしが先走ってた気がする。……ごめん」
「いや俺の責任だ。気にすんな」
「……小説もね、本当は書きたい気持ちはずっとあるの。でもいざ書いてみようとすると、色々怖くなっちゃって……」
「そっか」
「だからね、ご褒美がほしいなって」
「ん?」
「だからご褒美」
「ご褒美?」
「そう!」
ずいっと身を乗り出してきた。こらこら、勢いをつけるな! ノーブラだってこと忘れんな! 俺の理性さんをこれ以上、追いつめないでくれ!
そんなこっちの気も知らず、唯花はぐいぐい来る。
「とりあえず書く気になったから、ご褒美にチューして!」
「はあ!? 初っ端からレートが高すぎんだろ!?」
「なによー。あたしの許可なく二回もしてきたくせにー」
「や、一回目はそうかもだが、さっきの頬っぺたのは事故だろ、事故っ」
「うるさーい! とにかくいいからチュー、チュー、チュー!」
なんかストライキのコールのように連呼してくる。
このまま言わせていたら、隣の部屋の伊織が今度はネズミ関連で召喚儀式を始めかねない。ああもうちくしょう、こうなりゃヤケだ!
「ほら!」
「――ぁ」
細いあごをクイッと横に向け、唯花の頬に口づけした。
……くっ、ムードがあればなんとかなるが、素でやるとこんなに恥ずかしいものか。
だが効果は抜群だったようだ。
唇じゃないことに文句を言うかと思ったが、唯花はぽっと赤くなって大人しくなった。
「……ほ、本当にしてくれるとは思わなかった」
「お、お前がしろって言ったんだろ?」
「うん、ありがと。…………嬉しいです」
ノートで顔を隠し、消え入りそうな声でお礼を言われた。
な、なんか変な空気だな。やっぱり恥ずい! 床に転がりたい!
その後はお互いに何を喋っていいか分からないまま、延々とノートに向き合い続けた。
さて、もしも俺たちの関係が物語だったとするならば。
一章は唯花が自分で道を見つけて、自ら踏みだしていく話。
二章は最後の最後で俺がやらかし、唯花を大きく後退させてしまった話、ってところだろう。
だから次の三章はもう間違えない。
2人で一緒に前へ進む。ここが俺たちの踏ん張りどころだ。
……ただなぁ、唯花が小説書く度にこんなご褒美を要求されてたら、そのうち俺の理性さんが保たなくなると思うんだが……本当、どうしよう。
あとさっきから隣の壁越しにやたらと謎の呪文が聞こえてくるんだが……それも本当、どうしよう。
色々問題を残しつつも、とにもかくにも唯花の引きこもり生活は次の段階へと進み始める――。




