第159話 唯花とお父さんとお母さん
さて、幼気な義弟の目がなぜかハイライトを失ってしまうというハプニングはあったものの、無事に通学鞄は唯花の手元に戻ってきた。
俺たちはまだ二階の廊下にいる。
唯花が鞄の持ち方をあれやこれやと吟味しているので、その間に俺は伊織に言う。
「葵も来てるんだよな?」
「うん、玄関出たところで待っててくれてるよ。家のなかで待ってて、って言ったんだけど、ご家族との再会を邪魔したら悪いからって」
ああ、それは葵らしいな。
さすがは俺の義妹。気遣いのできる奴だ。
「良いカノジョを持ったな、伊織」
「えっ、あ、うん……っ」
真顔で言ってやると、伊織は虚を突かれたような顔をし、照れて視線を逸らす。
「僕にはもったいないくらい素敵な……あ、ううん、違う。こんな言い方したらきっと葵ちゃんを哀しませちゃうよね」
咳払いをし、伊織は言い直す。
「葵ちゃんはとっても素敵な恋人です。だから僕もいいカレシになれるように頑張るんだ」
こっちに目を見てさらに言う。
頬をちょっと赤くしながら。
「僕は葵ちゃんが大好きだから。人生のぜんぶ掛けて、葵ちゃんを幸せにしたいから」
おお、言いよるわい……!
俺、思わず悶絶。
危うく階段から落ちるところだった。
「? どったの、奏太? いきなり階段で楽しげにソロダンスなんかして」
「……いや、なんでもない。唯花にはまだ早い。お前はもう少し通学鞄でひとりファッションショーをしててくれ」
怪訝な顔をする唯花を制し、俺はふらふらと立ち上がる。
……くっ、なんというノロケ力だ、伊織。
まったくこんな恥ずかしげのないパワーをどこで覚えてきたんだか。
危うく聞いてるこっちが幸せになるところだったぞ。
まあ、それはともかくだ。
「伊織、先に玄関から出て、葵に唯花がくることを伝えてやっといてくれ」
「え、でもお姉ちゃん、これからお父さんとお母さんに会うんでしょ? 僕いなくて大丈夫?」
「ああ。たぶん葵の方が緊張してるだろうからな。そのケアをお前に頼みたい。こっちは俺に任せろ」
俺に考えがあると悟ったのだろう、伊織は迷いなく頷いてくれた。
「わかった。僕は葵ちゃんのところにいくよ。こっちは奏太兄ちゃん、お願いね」
「おう、任せとけ」
伊織は唯花に「先に外いってるね」と告げて、階段を駆け下りていく。
「奏太。伊織、なんか急ぎなの?」
「いや俺が先に出とけって言ったんだ」
「ふーん……」
唯花は少しの間、考えるような間を置いた。
苦笑を浮かべると、こてんと俺の肩にもたれてくる。
「何か色々考えてくれてるんだね」
「俺はただ道の舗装をしてるだけだ。歩いていくのは間違いなくお前の力だよ」
「うん」
そうして二人で階段を下り始めた。
唯花はきっと最初のテンションのまま突っ走っていきたかったのだろう。
それでも悪くはなかった。
ただ、小さな問題がある。
勢いだけでいくと、きっと……撫子さんが泣けないだろうから。
伊織を先にいかせたのも同じ理由だ。
唯花を大切にしようとするのなら、ちゃんと唯花の家族のことも考えないとな。
「お待たせ、誠司さん、撫子さん」
階段を下りると、そこはもう玄関だ。
伊織の靴はもうない。
代わりにリビングに続く扉の前に、唯花の両親が立っていた。
誠司さんはネクタイを外した、ワイシャツ姿。
撫子さんはゆったりとしたセーターにロングスカート。
普段は堂々とした大人の風格がある二人だが、今だけはやはり緊張感がどこかに漂っている。
撫子さんは心なしか小さく体をすぼめていて、その肩を誠司さんが抱いている。
俺はもう階段から下りているが、唯花はまだ姿を見せていなかった。
二段目辺りで壁に隠れ、ちょこんと俺のブレザーの端を摘まんでいる。
「…………」
誰も口を開かない。
俺は誠司さんの方へ視線を向けた。
目が合うと、深い頷きが返ってきた。
俺に任せてくれるようだ。
ありがたい。
階段の方を向き、促す。
「唯花」
ブレザーを摘まんでいる手がぴくっと震えた。
大丈夫。
俺たちはいくらでも待つ。
その気持ちは伊織がすでに伝えている。
ただ、俺は知っているんだ。
「撫子さんに伝えたいことがあるんだろ?」
部屋から連れ出して、と俺に頼んできた日。
唯花は確かに言っていた。
伊織に『おめでとう』を言いたいのと同じく、両親にも伝えたいことがあると。
「私に……?」
今度は撫子さんがぴくっと反応した。
俺はブレザーの端っこに腕を伸ばし、唯花と手を繋ごうとする。
だがその前に手が引っ込んでいった。
大丈夫、やれるよ、と言うように。
まだ身を隠したまま、小さな声が聞こえてきた。
「…………お、お母さん……」
一年半ぶりの娘からの呼び声。
撫子さんはきゅっと唇を噛み締めた。
「あ……あた、あたしね…………」
何度か会っていた伊織と違い、両親と会話するのは本当に久しぶりのことだ。
唯花の声にも緊張感が満ちている。
でも精一杯、言葉を紡いでいく。
成長の証を見せるように。
「……お、お母さんと奏太の、リビングでの会話……い、いつも聞こえてたんだよ……? あれ、わざとでしょー……?」
引きこもっていたことを謝るでもなく。
待っていてくれたことに礼を言うわけでもなく。
かつての日常の延長のような会話。
だからこそ、撫子さんの心を射抜いた。
「……っ」
大きな瞳に涙の粒が浮かび、桜色の唇が震える。
しかしすかさず誠司さんが肩を抱く手にぐっと力を込め、撫子さんを支えた。
母は倒れない。
気丈に微笑んだ。
「あら、バレちゃってたのねぇ……奏ちゃんはずっと気づかなかったのに」
撫子さんはぽんっと手を合わせ、名前を呼ぶ
「やるわね、唯花」
その瞬間、黒髪が舞い、唯花が壁の陰から飛び出した。
大泣きしながら、撫子さんのもとへ走りだす。
「お母さん……っ!」
「唯花ぁ……!」
弾かれるように撫子さんも駆け出し、娘を受け止める。
今日までの時間を埋めるように、二人は泣きながら抱き合った。
唯花は外の世界を怖がっていただけで、伊織はもちろん撫子さんや誠司さんのことを嫌いになったわけじゃない。
だから本当はずっと淋しかったのだ。
大好きな両親に逢えなくて、逢いたくて、淋しかった。
だからその気持ちをちゃんと昇華させてやりたかったのだが……どうやら上手くいったようだ。
二人は昔のように仲睦まじく話し出している。
「あのねあのね、奏太ってば、ぜんぜんリビングとあたしの部屋の位置関係に気づかないの。毎日きてるのに本当、にぶちんなんだから」
「奏ちゃんってそういうところあるわよねえ。あと妙に絡め手に弱いわね。ちょっとカマかけると、なんでもすぐに白状しちゃうし」
「え、お母さん、奏太に色々喋らせちゃう方法とか知ってるの?」
「知ってるわよー? 聞きたい?」
「聞きたい聞きたーい!」
……おおい!?
仲睦まじく話すのはいいけど、話題に問題がありまくるぞ!?
そういや、そうだった。
久しぶりのことですっかり忘れていたが、この母娘は二人揃うとすぐ俺をダシにして盛り上がるのだ。
懐かしいが、止めなければこっちの今後に関わる。
口を挟もうとしたところで、唯花が今度は誠司さんの方を向いた。
「お父さんっ!」
子犬のように腕に飛びついていく。
その頭を誠司さんは優しく撫でる。
「唯花、制服……とても似合ってるよ」
「えへへ、ありがとっ」
少ない言葉のなかに様々な感情が込められているのを感じた。
一家の長として、気持ちを吐露せずに一番我慢していたのはきっと誠司さんなのだ。
静かな眼差しのなかには娘の慈しみが溢れていた。
「奏太君とちゃんと仲良くしてたかい?」
「うんっ、してたよ! それでね、お父さんにも伝えたいことがあるの」
「おお、何かな?」
「えっとねー」
チラリとこっちを見る。
そうそう、これも以前に聞いていた。
唯花は誠司さんに俺が強くなったと言いたいらしい。
かなりこそばゆいし、正直俺はまだまだ誠司さんには及ばないと思う。こないだの腕相撲だって、利き腕じゃない右腕でハンデをもらったくらいだ。
しかし唯花が言いたいのなら仕方ない。
恥を忍んで見届けておこう。
……と思っていたら、唯花の口から予想外の言葉が飛び出した。
「あのね、奏太ってば、一週間に一度はあたしにルパンダイブしてくるんだよー!」
実の父親になに報告してんだコイツ――ッ!?
驚きすぎてあごが外れそうになった。
とんでもない勢いで冷や汗が流れていく。
一方、誠司さんは「はて?」と首を傾げる。
「ルパンダイブ? なんとなく聞き覚えはあるけれど、具体的には何をすることなんだい?」
「そっ、そそそれはあれだっ、誠司さん! えっと、アルセーヌ・ルパン的な遊びで、ダイブをしながら怪盗ごっこをする的な、なんかそんな感じの――」
「えっちするためにハイジャンプで押し倒すことよ、あなた♪」
実の夫になに報告してんだこの人――ッ!?
全力で誤魔化そうとしたところに撫子さんがカットイン。
小悪魔笑顔で暴露した。
ゆらり、と誠司さんがこっちを向く。
「ほう……? ウチの大切な娘に性的行為をするためのハイジャンプをね……?」
「いや、それは、その、あの、ですね……!」
なんなんだこの状況!?
そもそもあんた、俺が泊まることも秒で許可してるじゃないですか!
言いたいことは色々思い浮かぶが、状況が悪すぎる。
何を言っても墓穴になる予感しかしない。
しかもなぜか唯花がゴリゴリに煽り始める。
「やっちゃえ、やっちゃえ、お父さん! えっちな奏太にお父さんのお仕置きだー!」
「お前、本当ちょっと黙って!? 俺を闇に葬るつもりなのか!? そうなのか!?」
「愛する娘の期待には応えないといけないね……?」
「待ってーっ! 待ってくれ、誠司さん!? せめて釈明の機会ぐらいくれよぉ!?」
誠司さんはワイシャツを腕まくりし、固く握った拳を掲げていく。
しかも利き腕の左手。
ゴリッゴリの本気だ。
「喰らえ、奏太ーっ! お父さんの必殺ぱーんち!」
唯花の煽りを受けて、
「歯を食いしばるんだ、奏太君。娘の要望に応えた、必殺パンチだ―ッ!」
「おおおおおい!?」
本当に拳を繰り出してくる。
そうだった。
久しぶりのことですっかり忘れていたが、この人、娘には激甘の父親だった。
俺や伊織にはひとりの男として接してくるのに、唯花の言うことには二つ返事で応えてしまう。
たとえルパンダイブが冗談以外の何物でもないとしても、唯花が『必殺パンチしてー』とお願いしたら、本当に全力の必殺パンチを繰り出すような人なのだ。
あの如月誠司の本気の一撃。
今の俺に受け止めきれる代物じゃない。――だが。
「ちくしょうめ……っ!?」
破れかぶれで手を突きだした瞬間、パアンッと乾いた音が響いた。
俺は目の前のことに言葉を失う。
「な……っ」
突き出した俺の右手。
その手のひらが誠司さんの拳を受け止めていた。
止めた。
止めることができた。
ジンと響く痺れが伝えてくる。
今の一撃が手加減のない、まぎれもない本気の一撃だったことを。
「僕の一撃を受け止めるとは……」
誠司さんの唇が上がる。
「奏太君、君はもう僕の背中を追わず、自らの道を歩みだしているんだね」
「あ……」
そういうことか、と気づくと同時、唯花が重なっている二人の手をぎゅーっと握り締めてきた。
「どう? お父さん! 奏太も強くなったでしょ? あたしが成長させたんだよ。ひょっとしたらもうお父さんにも勝っちゃうかもねっ」
唯花はこれを言いたくて、わざと誠司さんをけしかけたらしい。
いや意図はわかるが、方法が物騒過ぎて、こっちは本気で冷や汗をかかされたぞ……。
一方、誠司さんは穏やかに微笑んで、
「ああ、見事なものだよ」
俺の手を引っ張った。
耳元でつぶやく。
唯花や撫子さんには聞こえないくらいの小声で。
「今の君になら娘を任せられる。どうか唯花を末永くよろしく頼みます」
「……! 誠司さん……っ」
腕相撲の時、俺は『弱い男に娘は任せられない』と言われた。
しかし今こうして全力の一撃を受け止めたことで、覆された。許しが出たのだ。
「ありがとうございます……!」
俺は勢いよく頭を下げた。
唯花が「ほえ? なんで奏太がお礼言ってるの?」と首を傾げたが、撫子さんが「いいのよー。お姉ちゃんも近いうちにわかるわ」とその肩を抱いて誤魔化してくれた。
撫子さんの言う通り、俺が唯花にきちんと将来の話をするのはもうちょい先になるだろう。
とりあえず今は学校だ。
誠司さんと撫子さんに見守られ、唯花は玄関でローファーを穿く。
一旦俺に預けていた通学鞄を受け取り、くるっと反転。
両親を前にして、ひと呼吸置く。
玄関の扉を開ければ、その先は外の世界。
もう比喩じゃない。
部屋の外という意味でもない。
今、本当の意味で唯花は外に出る。
再び、深呼吸。
「……不思議。以前は怖くて仕方なかったのに。伊織に逢って、お母さんに逢って、お父さんに逢って、どんどん力が湧いてきて……今はもう無敵な感じ」
もう俺も二階の時にように止めはしない。
こっからは唯花の全力のテンションでオーケーだ。
「……よーし」
唯花は勢いよく顔を上げた。
黒髪が舞い、きれいな瞳が希望に輝く。
「お父さんっ」
唯花は父を見て、
「お母さんっ」
母を見て、
「じゃあ――」
解き放つのはこの一年半、決して発せられることのなかった言葉。
今日という日の幕開けを告げる言葉。
如月唯花は今こそ言う。
世界中に響けとばかりに高らかに。
「――いってきまーす!」
さあ、飛び出そう。
快進撃の始まりだ。
【お知らせ】
本作の学校メンツのアー子さんが登場する、新作がMF文庫J様から発売になりました。
奏太と唯花も名前だけ登場しているので、良かったらお手に取っていただければ幸いです。
詳しいことは作者の活動報告をご覧下さいませー!




