第158話 唯花と伊織と奏太のチュー
ついに唯花が部屋から飛び出した。
俺も涙と鼻水が止まらない……んだが、調子に乗って階段を駆け下りていこうとするので、俺は慌てて唯花の手を引っ張った。
「待て待て待て、落ち着け、暴走娘」
「んにゃ!?」
つんのめって、後ろ向きに倒れそうになる唯花。
もちろん背中に手をまわして支えてやる。
が、暴走娘は不満顔。
「もうっ、何をするのかね? せっかくテンションMAXで宇宙まで飛び出しそうだったのにー」
「宇宙まで飛び出しそうだったから止めたんだっての。伊織、唯花の鞄、部屋から取ってきてやってくれ」
「だよね。お姉ちゃん、手ぶらでいく気かと思ったよ。ちょっと待ってて」
伊織がトコトコと廊下を戻り、唯花の部屋の方へいく。
今、一階では誠司さんと撫子さんが待っている。
俺から頼んで、そういう段取りにさせてもらった。
伊織だけ二階に連れてきたのは、唯花が立ち竦んだ時、最後の一歩を踏み出す鍵が伊織になると思ったからだ。
唯花は自分を弱虫だと思っているが、自分より弱い奴のためにはいつだって勇気を振り絞れる。
泣きそうになった伊織にお姉ちゃんらしく『おいで!』と言えたのがその証拠だ。
そして一階に下りるに当たっては、また段取りがある。
唯花が心置きなく外に出られるように、出来る限りのことをしておいてやりたい。
……というのが俺の考えなのだが、当のご本人、暴走娘なお姫様は何か勘違いをしたらしい。
なぜか頬を赤らめ、いきなり「……あ、そっか」とつぶやく。
「……そういうことなら素直に言ってくれればいいのに。わざわざ理由をつけて伊織をあっちに行かせちゃってさ。そんなあからさまなことされたら、こっちが照れてしまうのです」
「んん? なんのことだ?」
「なんのこと、って……」
黒髪を指でくるくるし、唯花は照れくさそうに。
「……奏太、高校の制服着たあたしのこと、ぎゅーってしたいんでしょ?」
「はい!?」
「わ、元気なお返事っ」
「いや違う! 今の『はい!?』はお返事の『はい!』じゃなくてだな……っ」
もー、と唇を尖らせ、上目遣いに見つめてくる。
「ちょっとだけだよ? 伊織がすぐ戻ってきちゃうから本当にちょっとね? あとチューは駄目だからね? チューは我慢するんだよ?」
「いやだから話を聞けって……っ」
「はいっ、ぎゅー……♪」
「――っ!?」
プリーツ付きのスカートがふわりと舞い、唯花が抱き着いてきた。
柔らかい感触が伝わってくる。それも制服のブレザー越しに。
パジャマとは違う感触。
もちろんメイド服や幼妻とも違うし、そして……中学の制服とも別の感触だ。
やば、すげえジンとくる……。
気づけば腰に手をまわし、力いっぱい抱き締めていた。
「あは、奏太ぁ……ちょっびっと痛いよー?」
「……我慢しろ。今だけは加減してやれる余裕がない」
笑みをこぼし、唯花が頬をすり寄せてくる。
「わかってるよー。いつも優しい奏太が、優しくなれないくらい余裕がなくなってるなんて、すっごく嬉しい」
……ああ、ちくしょう。可愛いこと言いやがって。駄目だ、我慢できない。
「唯花、キス……していいか?」
「えー……」
困ったように唯花は腕のなかで身じろぎする。
「ダメだよぉ。それは本当にダメだってば。伊織が戻ってきちゃうし……」
「でも我慢できないんだ」
グッと抱く腕に力を込める。
「はう!? そ、奏太がすっごくお猿さんになっちゃてる……っ。んんー、でも、あたしだってさせてあげたいけど、ほら、伊織が……」
「じゃあ、一瞬」
「一瞬? 本当に一瞬?」
「ああ、一瞬、ぱっと唇を重ねるだけだ」
「んー、だったら……」
唯花が顔を上げる。
頬を赤くした、しょうがないなぁという雰囲気の困り顔で、
「……いいですよー?」
照れくさそうに許可をくれた。
よっしゃあ!
心のなかでガッツポーズし、俺は唯花の頬に手を添える。
「よし、じゃあ伊織が戻ってくる前に……」
「うん、伊織が戻ってくる前に……」
「いや僕もうだいぶ前から戻ってきてるんだけどね?」
「なにぃ!?」
「はにゃあ!?」
「はぁ……」
二人一緒に飛び退くように離れ、同時にため息が聞こえてくる。
見れば、すぐそばに伊織が鞄を持って立っていた。
完全に目のハイライトが消えている。
まるでブラックホールのようだ。
「本当、ウチのお義兄ちゃんとお姉ちゃんはちょっと目を離すと、イチャイチャイチャイチャイチャ……なんなの? 万年発情期なの? 僕をおじさんにする気なの?」
「ち、ち、違うぞ、伊織! 今のは……そう! 唯花の目にゴミが入ってな! それを取ってやろうとしてたんだ。な、唯花!?」
「そうそうそう! ほらお姉ちゃん、お目々ぱっちりのウルトラ美少女だから! 誤解しないでね、伊織。お姉ちゃんは鉄壁ガードの清純派美少女だから!」
「いや今さら目にゴミとかそんな古典的なこと言われても……」
俺たちの誤魔化しはびっくりするくらい心に届いていなかった。
「あとお姉ちゃんの奏太兄ちゃんに対するガードの紙っぷりは、僕、骨身に染みて知ってるから。壁越しの一年半は伊達じゃないから」
「にゃ……!?」
弟のクリティカルな発言に唯花はぱっちりなお目々を見開いた。
そして猛然と俺に詰め寄る。いや俺に詰め寄られても困るんだが。
「ちょっと、奏太ぁ!? なんか伊織のなかのあたしの株が大暴落してるんだけども!? 『きれいで素敵で頼りになるお姉ちゃん像』が崩壊しかかってる気配がするんだけどー!?」
「あー……や、大丈夫だ。そんなお姉ちゃん像は最初から存在しない。そして俺の『頼りになる兄貴分像』もいつの間にか崩壊してたから、きっと誰もが通る道なんだ」
「いやぁぁぁ、そんな道通りたくないーっ!」
絶叫する唯花。
一方、伊織の目はいまだにハイライトが迷子になっている。
「本当、壁の大切さが今ごろになってわかったよ。壁越しのイチャイチャより、目の前で繰り広げられる濃厚な生のイチャイチャの方が100倍キツいんだね……。僕、これから毎日これを見て生きていくのかぁ……」
少年は空虚な目で遠くを見つめたのだった。
いやその、なんだ……正直すまん、義弟よ。




