第157話 唯花と伊織(唯花視点)
カーテンを勢いよく開くと、青空が広がっていた。
あたしは紺色の靴下を穿き、ブラウスに袖を通して、スカートのホックをつける。
胸元のリボンをキュッと結び、ブレザーを羽織って出来上がり。
鏡に映ったのは制服を着た、あたしの姿。
いつか奏太のために着てあげた、中学校のものじゃない。
一年半ぶりの高校の制服。
「……うむ、やっぱり唯花ちゃんは完全無欠の美少女なのです」
強がって軽口を叩いてみるけど、その声は震えていた。
嫌な汗がじっとり背中を伝う。
……怖い。
今日は学校にいくと決めた日。
奏太はもう部屋の外に出てもらっている。
ここから先はあたし一人で頑張らなきゃいけないことだから。
昨日の夜、奏太と指切りした小指にそっと触れる。
「……いかなきゃ。怖いけど……それでもいかなきゃ」
頑張るって、奏太に約束した。
お父さんやお母さんや伊織も待っててくれてるはず。
今日、頑張らなきゃ、きっともう頑張れない。
ほとんど新品同然の通学鞄を持って、ゆっくりと、恐る恐る足を進める。
そして、ドアの前に立った。
外の世界に繋がるドアだ。
あたしは大きく深呼吸。
「……大丈夫。いける。いけるよ。あたしは……大丈夫」
ドアノブを握った。
その途端、
「――っ!?」
猛烈な吐き気が込み上げてきた。
「あれ? え、え? あれ……!?」
通学鞄が床に落ち、その場に崩れ落ちる。
体に力が入らない。まるで本能が拒絶している感じ。
口元を押さえて、愕然とした。
……うそ。なんで……?
もう大丈夫だと思ったのに。
今度こそ頑張れるって思ったのに。
なのに、なんでまた動けなくなっちゃうの……?
じわっと涙が浮かんだ。
「……ああ、やっぱりあたし、駄目な子なんだ……っ」
自分に絶望しそう。
威勢のいいことを言ったって、結局、あたしが虚勢を張れるのは奏太が隣にいてくれる時だけなんだ。
頑張りたいのに。
頑張りたいと思ってるのは本当なのに。
結局、ここから飛び立てない。
吐き気はどんどん増している。
指先も見る間に冷たくなっていく。
……奏太を呼ばなきゃ。
頭の冷静な部分がそう告げた。
無理だと思ったらドアを叩けと言われている。
でもそれはギブアップすること。
自分の決意を諦めるということ。
「……嫌だ。嫌だよ……」
震えながらつぶやく。
「あたしはもうあたしを諦めたくない……っ」
でも体は動かない。
どこにも進めない。
――その時。
「『…………お姉ちゃん?』」
ふいにドアの向こうから声がした。
奏太じゃない。
伊織の声だった。
「……い、おり……?」
あたしの声が聞こえたのか、伊織は焦った様子の早口になった。
「『あ、あのね、お姉ちゃんがなかなか出てこないから、奏太兄ちゃんが僕に声を掛けてみろって。僕はぜったい奏太兄ちゃんの方がいいって言ったんだけど、いいからって言われて、それで……っ』」
言い淀み、言葉を探すような間。
「『僕、待ってるから! 何時間でも何十時間でもここで待ってるから! だから安心して。ゆっくり、お姉ちゃんのペースで大丈夫だから……っ』」
何十時間て。
それじゃ伊織、学校にいけないじゃない。
ウチのなかでソロキャンプでも始めちゃう気?
思わず噴き出した。
次の瞬間、気づいた。
……吐き気が少し楽になってる。
「……ねえ、伊織」
「『――! う、うん、そうだよ、伊織だよ! 中学二年生の如月伊織14歳だよ!』」
伊織はとってもテンパっている。
「あはは、自己紹介しなくても知ってるよ」
「『あ、そうか、そうだよね!』」
「そうだよー。だってお姉ちゃんだもん」
――だってお姉ちゃんだもん。
自分で言った瞬間、なぜかふわりと気持ちが軽くなったのを感じた。
吐き気がさらに楽になった。
どうしてだろう。
伊織と話していると、どんどん体調が戻っていく。
「……伊織、お父さんとお母さんはどうしてる?」
「『あっ、下にいるよ! お父さんは会社にいくの遅くしてくれて、お母さんも昨日からずっとそわそわしてお姉ちゃんのこと待ってる!』」
「……そっか」
どうして体調がよくなっていくのかがわかった。
あたしは伊織のお姉ちゃん。
お父さんとお母さんの娘。
この部屋の外には――ちゃんとあたしの居場所がある。
それがわかるから、どんどん怖い気持ちが消えていく!
「よーし、我が弟よー!」
「『ふえっ!? え、なに? なに? どうしたの!?』」
「お姉ちゃんは今――」
とりゃーっという感じで立ち上がって、
「――スーパーお姉ちゃんになった!」
「『どういうことぉ!?』」
黒髪をかき上げ、スカートを揺らし、格好良いポーズ。
もちろんドアの向こうだから見えないけど。
「『え、なに? お姉ちゃんは髪が逆立って金髪になったの!? それとも電話ボックスに入って全身タイツのマント姿に変身するの!?』」
「ノンノン、お姉ちゃんはお姉ちゃんのまま、ゴッドな力を宿したスーパーな状態になったということよ!」
「『ああ、つまりブルーの方ってことだね……スーパーお姉ちゃんゴッドスーパーお姉ちゃんみたいな。うん、よく分からない!』」
「今は分からなくていい。いずれ分かる時がくるわ……」
「『永遠にそんな時はこない気がするけど、うん、お姉ちゃんがそれでいいなら僕はいいよ……』」
「良きかな。じゃあ、ドアを開けるよ?」
「『……っ』」
ドアの向こうから息をのむ気配。
あたしは大きく深呼吸する。
……うん、大丈夫。落ち着いてる。体も軽い。
この一年半、奏太があたしの心を守ってくれた。
だからみんなのことをちゃんと受け止められるようになった。
あたしはやれる。
そう信じる。
今こそ飛び立つ時だ。
ドアノブに手を掛ける。
伊織の修学旅行の夜、あたしはこのドアを開くために色んな物語の力を借りた。
だけど。
もう引きこもりの呼吸を使う必要はない。
オンリーフラワー・スターパンチも使わない。
あたしはあたしのまま、ありのままの如月唯花でドアを開く。
ドアノブを回し、前へ押した。
外の世界への扉が開いていく。
ドアの横に廊下の景色が現れ、それがどんどん広がっていく。
そして――。
「お姉ちゃん……」
――あたしの可愛い弟が待っててくれた。
中学校の制服姿。
入学する時に大きめのを買ったのだけど、相変わらずちょっとぶかぶか。
まだほんのちょっと袖が余ってるのが可愛い。
伊織の目元は潤んでいた。
だからお姉ちゃんのあたしは思いっきり両手を広げる。
「伊織、おいで!」
「……っ、お姉ちゃああああん!」
堰を切ったように飛び込んできた。
ぎゅーっと抱き留める。
怖くない。
怖いわけない。
むしろどんどん力が湧いてくる。
確信できた。
あたしはもう大丈夫だ。
大切な人たちが待っていてくれるから――あたしはもう大丈夫だ!
だから。
可愛い弟をぎゅっと抱き締めて、満面の笑顔で宣言。
「ただいま! お姉ちゃん、みんなのところに帰ってきたよ!」
伊織が息をのみ、大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれていく。
「……おかえりなさい。おかえりなさい、お姉ちゃん……っ」
堪え切れなくなったように伊織は泣きだした。
ししし、と笑い、あたしは頭を撫でてあげる。
「ほらほらー、泣かないの。カワイイ顔が台無しだよ?」
「だ、だって僕、お姉ちゃんのために何も出来なくて……っ。ずっと奏太兄ちゃんに任せることしか出来なくて……っ」
「そんなことないよ」
自然に柔らかい笑みがこぼれた。
「伊織はずっと待っててくれた。きっと辛かったよね? 苦しかったよね? ごめんね、ずーっと心配かけて。でも伊織が待っててくれたから、お姉ちゃん、こうして出てこられたよ。奏太が守ってくれて、伊織が待っててくれたおかげだよ。ありがとう、伊織は――あたしの誇りだよ」
そっと弟の頬を両手で挟む。
「お姉ちゃんね、ずっと伊織に伝えたかったことがあるの」
「僕に伝えたいこと……?」
「奏太から聞いたよ。葵ちゃんとお付き合いできることになったんだって?」
「あ……」
この言葉は伊織の顔を見て伝えたかった。
ずっとずっとそう思っていた。
この一言を届けたくて。
あたしは強くなりたいと思えたんだ。
ふいに部屋の窓から朝日が差し込んだ。
優しい光が廊下を包み、あたしはずっと心で温めていた言葉を紡ぐ。
「――おめでとう。伊織が幸せになってくれること、お姉ちゃんとっても嬉しいよ」
ああ、言えた。
やっと言えた。
「お姉ちゃん……っ」
泣き腫らした目があたしを見上げる。
「ぜんぶお姉ちゃんのおかげだよ……っ。あの夜、お姉ちゃんが頑張って出てきてくれて、必死に僕の背中を押してくれたから、僕は葵ちゃんのところにいけたんだ。ぜんぶ、ぜんぶお姉ちゃんのおかげなんだ! 僕のお姉ちゃんは――世界一のお姉ちゃんだよぉ!」
「伊織……」
ああ、嬉しい。
こんなに嬉しい言葉はないよ。
あの時、頑張ってよかった。
今日、頑張ってよかった。
あたしの進んできた道は間違いじゃなかったんだ。
「僕もずっと言いたかったんだ」
伊織は自分の袖で涙をぬぐう。
泣いてちゃダメだと言うように、ゴシゴシと擦る。
「ありがとう、お姉ちゃん。あの時、僕の背中を押してくれて」
そうして見せてくれたのは、花が咲くような幸せな笑顔。
「僕と葵ちゃん、奏太兄ちゃんとお姉ちゃんに勝っちゃうぐらい幸せになるからね!」
不敵な宣言にあたしも笑みがこぼれた。
わざと悪役みたいに唇をつり上げ、伊織の頬っぺたをぐにぐにする。
「生意気な奴めー。奏太はともかくお姉ちゃんに勝とうなんて、百年早いぞよ?」
「目標はおっきく持たなきゃだもん。僕はがっつりばっちり本気だよ?」
えへへ、と伊織は照れ笑いをして、小さく肩を竦める。
「まあ、まだまだ先は長いけどね。お姉ちゃんに会っても泣かないって、奏太兄ちゃんに言ったのに、結局僕、泣いちゃった」
「あー、そゆことなら」
あたしは廊下の奥を指差す。
「伊織、もう奏太に完勝してるかもよ?」
「へ?」
目を丸くして伊織が振り向いた先。
そこでは奏太が漫画みたいに大号泣していた。
「なんで奏太兄ちゃんが僕より泣いてるのさ!?」
「しょ、しょうがねえだろ、バッキャロウ……!」
ほぼ逆ギレみたいに叫び、奏太はずずっと鼻水をすする。
「ついに唯花が部屋から出てきたんだぞ!? それも高校の制服姿だぞ!? そんでずっと言いたかった伊織へのお祝いを言ったんだぞ!? そんなん俺からしたら、もう目から塩が止まらねえっつの……!」
「いやだからって僕より泣くのはどうなのさ……」
「だからしょうがねえだろって、バッキャロウ……っ」
呆れる伊織と涙が止まらない奏太。
あたしは「しょうがないにゃー」と肩を竦め、伊織の手を引っ張りながら奏太のところへいく。
スカートのポケットからティッシュを取り出し、奏太の鼻に当てる。
「はい、ちーん」
「いやおま、子供か俺は」
「そんなぴーぴー泣いちゃってる子は子供でしょ? はい、ちーん」
「ぬう……っ。ちーん」
「よく出来ました。はい伊織、これ捨てといてー」
「僕に渡すの!? あーでもなんか懐かしい! お姉ちゃんが奏太兄ちゃんに世話焼きっぽいことしようとして、なぜか僕が痛い目を見る感じ、昔のまんまだ!」
鼻水ティッシュを渡されて、ばっちかったり、感動したりで、伊織は顔が忙しいことになっている。
奏太も「あー、そうだったなぁ。こんな感じったなぁ……」とあたしからティッシュを受け取ってまた鼻をかみつつ、しみじみしてる。
で、あたしは胸を張って腰に手を当てた。
「へへん、思い出したかね、チミたち。奏太と伊織はあたしの子分なのですぞ?」
「いやどっちかって言うと、お前はただのトラブルメーカーで……」
「奏太兄ちゃんがトラブル解決して、僕にとばっちりが当たっちゃうって感じだったと思うけど……」
子分たちが何か言ってるけど、聞く耳はナッシング。
完全復活した唯花ちゃんは忙しいのです。
あごに手を置き、キランッと目を光らせる。
「これにて如月四天王・序列四位は倒しにけりなのです」
「僕、倒されちゃった……」
「倒されちゃったみたいだな……」
「しかし序列四位は所詮、四天王のなかでも最弱」
「僕、最弱扱いされちゃってる……」
「されちゃってるみたいだな……」
「なので次は序列一位と二位の番だーっ!」
「へ?」
「は?」
高らかに宣言。
そしてあたしは、
「奏太!」
世界で一番頼もしい幼馴染の手を握り、
「伊織!」
世界で一番カワイイ弟の手も取って、
「あたしについてきたまえーっ!」
もう無敵状態で勢いよく走り出した。
右側から「いやお前、鞄っ。部屋に鞄忘れてるぞ!?」とかって声が聞こえてきたり、左側から「お姉ちゃん、廊下を走っちゃダメだよー!?」って声が聞こえてきたりするけど、きっぱりスルー。
だって、お父さんとお母さんに早く会いたいもん。
世界と仲直りしたあたしは、どんどん速度を上げていく――。




