第139話 ふたり、いつかの海で
――俺はヒーローじゃない。
自分がそう言い始めた時のことは今でも鮮明に覚えている。
たぶん唯花はきれいさっぱり忘れているだろう。
伊織もまだ生まれたばかりだったから、何があったかすら知らないはずだ。
三上家と如月家は昔から仲が良く、何をするにも大概一緒だった。
正月やクリスマス、子供たちの誕生日なんかの行事はもとより、普段からお互いの家を行き来していて、伊織なんてそこそこ大きくなるまで俺のことを血の繋がった本当の兄貴だと思っていたほどだ。
ウチの両親も今でこそ海外を飛びまわっているが、俺が子供の頃はまだ日本にいた。
おかげで色んな思い出を如月家の家族と共有している。
あれは俺と唯花が幼稚園に入りたての頃。
まだ赤ん坊だった伊織も連れて、三上家と如月家は海へ遊びに出かけた。
「ほへー」
幼女の唯花はワンピースの水着姿。
浮き輪もしっかり装備して、砂浜に到着。
「うみ、でっかーい!」
青い海を見て、めいっぱい目を丸くした。
うむ、可愛い。最高に可愛い。どう見ても天使だ。
幼い俺も海パン姿で「そらそうだ」と腰に手を当てる。
「なんたって、うみだからな!」
ちなみに俺は浮き輪はなし。
もう泳げたし、なにより唯花の前で格好つけたかった。
「ねーねー、そうたはぷかぷかいらないの?」
ぷかぷかとは浮き輪のこと。
待ってました、とばかりに俺は胸を張る。
「いらない。おれはおよげるからな!」
「ほへー」
「もう10めーとるもおよげるんだぜ!」
「ほへー」
「しかも『びーとばん』なしでだ!」
「ほへー」
よく分かってなさそうな顔。
しかし感心はしたらしく、唯花はぱちぱちと手を叩く。
「そうたってすごーい!」
「へっへー、そうだろーそうだろー」
俺、超ご機嫌。
ちなみにこの時からすでに唯花のことが好きだった。
ぱちぱちしたせいで唯花の浮き輪はストンッと砂浜に落ちていた。
それを掴んで「よっこらせ」と唯花に持たせてやる。
「ほら、ちゃんとうきわにつかまっとくんだぞ? うみはあぶないからな」
「うんっ、ちゃんとつかまってるー! うみはあぶないからー!」
「よし、いいこだ」
唯花は可愛い。とびっきり可愛い。
でもちょっとあほの子だ。
だから俺がしっかり守ってやるんだ。
子供の頃から俺は強くそう思っていた。
でも結局のところ、それは――子供の甘い願望でしかなかった。
親たちが砂浜にパラソルを差し、レジャーシートを敷いている間、俺と唯花は浅瀬でぱちゃぱちゃと遊んでいた。
みんなが気を遣うのはどうしても赤ん坊の伊織になる。
日光が直接当たらないように気をつけたり、潮風で体調を崩さないか気にしたり、親たちの目はどうしても伊織に向く。
俺はそれでいいと思っていた。
むしろそうあるべきだと考えていた。
伊織はまだ赤ん坊だ。
親たちがしっかり面倒を見てやらなきゃいけない。
その分、俺がしっかりと唯花を守ればいい。
適材適所というやつだ。
「そうたー、みてみてー。くるくるー!」
「おー、よくまわるなぁ」
浮き輪をつけた唯花がパシャパシャと波をかいて回転してみせる。
「くるくるー! どうどう? ゆいか、すごい?」
「おー、すごいぞ。ゆいかはだいかいてんだな」
「うんっ! ゆいか、だいかいてーん!」
キャキャッ言いながら、さらにくるくる回ってみせる。
うん、実に可愛い。天使だ。めっちゃ天使だ。
しかし、事態は突如、急変した。
何度目かの回転をした時、唯花が勢いで思いっきりバンザイしたのだ。
浮き輪は文字通り、輪っかの形をしている。
手を離して、バンザイなんてすれば、どうなるかは自明の理。
「ふひゃ――?」
変な声を上げたかと思うと、突然、唯花の姿がかき消えた。
輪っかのなかへ吸い込まれるようにいなくなり、ちゃぷんっと小さな水柱だけが上がった。
「え?」
俺は何が起きたのか分からず、茫然とした。
目の前には浮き輪だけが浮いている。
頭がまったく追いつかない。
とんでもないことが起きた――その感覚だけが毎秒ごとに加速していく。
「あ、あ、あ……」
俺はいまだにこの時以上の恐怖を知らない。
大好きな女の子が突然、目の前から消えてしまった。
今この瞬間、自分がどうにかしないと永遠にいなくなってしまう。
でも頭が混乱して、ワケが分からなくって、体が動かない。
時間は刻一刻と過ぎていく。
どんどん取り返しのつかないことになっていく。
恐怖が頂点に達した時、悲鳴という形でようやく体が動いた。
「ゆいかぁぁぁぁぁぁぁ――っ!」
その瞬間、脇目も振らずに動いてくれたのは、唯花の父親――誠司さんだった。
誠司さんは着ていたTシャツを脱ぎ捨て、一瞬で海に飛び込んだ。
そしてあっという間に俺のそばまで泳いでくると、大きく息を吸い、海へと潜る。
胸が圧し潰されるような静寂が再び訪れた。
目の前にあるのは持ち主を失った浮き輪だけ。
浜辺の方では俺の父親がライフセーバーを呼んでいるのが見える。
波の音がやたらと大きく聞こえた。
歯の根が合わず、カチカチと音が響き、緊張で頭がおかしくなりそうだった。
次の瞬間、誠司さんが勢いよく海から顔を出した。
その腕には唯花が抱かれ、けほけほとせき込んでいる。
唯花だ。
生きてる。
息をしてる……っ。
色んな情報が一気に流れ込み、安堵するより先に頭が壊れそうになった。
そこへ伸びてきたのは、誠司さんの手。
ぶん殴られたっていい。むしろ歯が折れるくらい殴って下さい。
そう思った。
けれど。
大きな手のひらは頭を撫でてくれた。
告げられたのは、俺を安心させようとする優しい言葉。
「もう大丈夫だよ」
その瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
どんなに親に怒られた時だって、こんなに泣いたことはない。
俺は大号泣し、誠司さんは左手に唯花、右手に俺を抱えて浜辺に連れていってくれた。
力強い腕の安心感は今でも忘れられない。
ヒーローだと思った。
この人こそがヒーローだ。
そして……俺は違う。
あの瞬間、唯花のために動けなかった俺は……ヒーローじゃない。
その夜はコテージに泊まり、夕飯はバーベキューだった。
撫子さんがウチの母親と肉を焼いて持ってきてくれたが、俺はほとんど何も喉を通らなかった。
「もう気にしなくていいのよ、奏ちゃん。足の着く浅瀬で立てなかった唯花も唯花だし、そもそもちょっとお水を飲んでむせただけだもの。あれくらい溺れたうちにも入らないのよ?」
そう言って慰めてくれたが、頷くことなんて出来ない。
俺はコテージのテラスに出て、夜の海を見つめながら膝を抱えた。
「そうたー。おにくだよー? にくにくしないのー?」
しばらく水平線を眺めていると、唯花がひょっこりと顔を出した。
口のまわりにはバーベキューのソースがついている。
唯花は肉をにくにくして楽しんでいるらしい。良かった。その顔を見てるだけでほっとする。
「おなかいっぱいなんだ。ゆいかがおれのぶんもたべちゃってくれ」
「いいのー?」
「いいよ」
「うみゅ……」
頷いたものの、唯花はコテージのなかに戻らない。
俺の横に腰を下ろし、一緒に体育座りする。
「あのねー」
と、前置きし、唯花は言った。
「うみってたのしいのです」
「……まじか」
お前、今日溺れたんだぞ?
いや撫子さんは溺れたうちにも入らないって言ってたけど、けほけほしてたじゃないか。
しかしこの天使にはそんなもの些細なことらしい。
ニコニコしながら水平線を眺めている。
「だからねー、おとなになったら、すむのだー」
「すむ……? どこに?」
「あのねー」
唯花は続けて言った。
一点の曇りもない、キラキラした笑顔で。
「うみのみえる、おうち!」
こてん、と唯花の頭が肩に乗ってきた。
「そうたもいっしょにすむんだよー?」
「お、おれも?」
「そう! だって、ぜったいたのしいもん!」
「……そっか」
ずび、と鼻をすする。
泣きそうになり、慌ててしゃくり上げた。
好きな女の子がこんなふうに言ってくれているのに、泣いてたら男じゃない。
「……わかった。じゃあ、おれがいつかたててやる。そのいえ」
「ほんとっ」
「ほんとだ。うみのみえるいえな。たてたら、いっしょにすもう」
「すむすむ! おやくそくねっ」
肩にもたれかかったまま、小指が向けられる。
その指に俺はそっと小指を絡めた。
――こんな約束、唯花はもう覚えてないかもしれない。
でも俺はずっと覚えている。
この日、誓ったから。
俺はヒーローじゃないし、ヒーローにはなれなかったけど、それでも唯花を守る。
今度こそ、必ず。
その誓いを胸に幼稚園時代を過ごし、小学校時代を過ごし、中学校時代を過ごし、高校に入って、唯花が引きこもる原因になった事件も越えた。
そして1年半が過ぎ、唯花がどんどん前に進むようになって、ついに俺は――。
◇ ◆ ◆ ◇
「……奏ちゃんは唯花のヒーローになりたかったのね」
ここは如月家のリビング。
正面に座っていた撫子さんは立ち上がり、俺の隣に座ると、背中を優しく撫でてくる。
テーブルにはスマホが置いてあり、朝ちゃんに繋がっている。
その朝ちゃんにキツい現実を突きつけられたところだ。
唯花は今、言外にこう伝えようとしているらしい。
俺に対して、『もうヒーローじゃなくて大丈夫だよ』と。
正直、すぐには口が開けない。
すると隣の撫子さんが囁いた。
こちらを労わるように、心底優しい声で。
「大丈夫? 撫子さんのおっぱい揉む? 今日、セーターの下はノーブラだから」
「……まじで何言ってんスか、あんた」
「たまにチクチクする感じが好きなの」
「まじで何言ってんスか、あんた!?」
平常運転過ぎて度肝を抜かれる。
どんな時でも安定の撫子さんだった。
次回更新:2/23(日)予定
書籍1巻:3/1(日)発売




