第126話 伊織の帰還
俺は今、如月家のリビングにいる。
ソファーに座り、重々しく紅茶を一口。
時計をちらりと見る。
そろそろのはずなんだが……。
しかし待ち人はまだ来ない。
代わりにキッチンの方から撫子さんが顔を出す。
「奏ちゃん、紅茶のおかわりいるー? クッキーもまだまだあるわよぉ」
「……いやいいよ。もう十分だ。それより伊織が帰ってくるのって今日だよな?」
「二泊三日だからそのはずよー? 学校で解散だから、もうウチに向かってる頃じゃないかしら」
伊織が京都に修学旅行にいってから、今日で三日目。
そして唯花が『スキル:あざとさ』を手に入れてから二日が過ぎていた。
今日の俺は早めに如月家にきて、伊織の帰宅を待っている。
なんというか……軽い用事があるのだ。
ティーカップを傾け、残り半分程度になった紅茶をちびちびと飲む。
そうしていると、ふいに玄関の開く音がした。
「ただいまー」
「……きた!」
ソファーから立ち上がり、すぐさま玄関へ向かう。
「伊織! よく帰った……っ」
「あ、奏太兄ちゃん。ただいま」
「おう、おかえり! 帰って早々で悪いが、ちょっとお前に訊きたいことがあるんだ」
「僕に訊きたいこと?」
伊織は瞬きをして首を傾げる。
その格好はブレザーの制服姿で、荷物を入れたスポーツバックを肩に掛けている。
両手にはお土産らしき紙袋をいくつも持っていた。
「あ、その前にこれ。奏太兄ちゃんの分のお土産」
「ん? 俺にか?」
紙袋の一つを手渡された。
「気を遣わなくてもいいんだぞ。俺も京都いったしな」
「でも気持ちだから。あと三上のおじさんとおばさんの分もあるし」
「あー、まあウチの両親ズはいつ帰ってくるか分からんが」
「そう思って日持ちするものにしといたよ。嵐山のお煎餅」
紙袋を覗くと、言葉通り、中身は数種類の煎餅の詰め合わせのようだった。
これなら確かに日持ちしそうだ。
俺の親たちは海外を行ったり来たりなのでありがたい。
それにたまに帰ってきた時は煎餅みたいな純日本的な食べ物を欲しがるので、きっと喜ぶだろう。さすがウチの弟分は気が利く。
「ありがとな」
「あはは、お礼を言うのはこっちの方だよ」
伊織は深く頭を下げる。
「奏太兄ちゃん、今回は色々ありがとうございました」
「いいってことよ」
「あと追加のおこづかいも葵ちゃんから受け取ったよ。そんなことまでしてくれなくていいのに……でも助かりました」
「それもいいってこった」
俺は口元を緩め、肩を竦める。
京都のホテルを出る時、俺は葵にいくらか小遣いを預けておいた。
新幹線で一度こっちに戻ってきた伊織は金欠だったろうから、修学旅行中の軍資金だ。まあ、別に大したことじゃない。
「伊織」
俺は弟分を見つめ、ちょっとした締めのつもりで尋ねてみる。
「修学旅行は良い思い出になったか?」
「うん! おかげさまで一生忘れられない、最高の修学旅行になったよ!」
返事と共に、満面の笑顔。
こっちまで嬉しくなるような朗らかな笑みだった。
良きかな。この笑顔を見れただけで、京都を往復した甲斐があったというものだ。
学校のみんなやバイト先の店長にもあとで改めてお礼を言っておこう。
と感慨深く思っていたら……笑顔のままで伊織の額にピキッと怒りマークが浮かんだ。
「で、感謝はさておき、奏太兄ちゃんとお姉ちゃんのおかげで修学旅行の後半は葵ちゃんと大混乱の嵐だったけどね?」
はて、なんのことやら?
よく分からんので、そのまま口に出してみる。
「はて、なんのことやら?」
「な……」
途端、猛然とツッコんでくる弟分。
「なんのことやら、じゃないよぅ!? 女装写真とか二人のチュウ写真とか、中学生の僕らに一体何を送ってるのさ!? しかもあの後、一時間近くマシンガンみたいにメッセージ送ったのにぜんぶ未読スルーだし! その件のことだよーっ!」
「おお」
ぽんっと手を打つ。
なるほど、そのことか。
そうそう、一応そっちも確認しとかないとな。
俺は腕を伸ばしてガシッと伊織の肩を組む。
そしてヒソヒソ声で質問。
「伊織よ。お前、あの後、葵に夜這いとかされてないだろうな?」
「されるわけないでしょ!? 何言ってんのさ!?」
「じゃあ、お前も葵を夜這いなんてしてないだろうな?」
「するわけないでしょ!? っていうか、質問の順番が気になるんだけど!? なんでまず僕がされる方を訊いたの!?」
「いやー……男の勘?」
「うわぁ! びっくりするくらい根拠がない!」
「あー、そうだそうだ、そういえば唯花が『なんだかんだ言って、伊織は真面目だから葵ちゃんにそういうことしないだろう』みたいなこと言ってたんだよ。ってことは万が一があるとしたら葵からかな、と」
「お姉ちゃんとなんて話してるのさ!? そういうこと、実の弟の耳に入れないでよ!?」
「しっ! あまり大声を出すな。撫子さんに会話を聞かれるぞ? ――葵と付き合ってること、まだ言ってないんだろ?」
肩を強く掴み、制止を促す。
伊織はまだ言い足りなさそうにしつつも、「う……っ」と言葉を飲み込んだ。
「た、確かに……お母さんに知られるとすごく面倒なことになりそうだからまだ黙っておきたいけど……。最近、何かにつけて『また葵ちゃんをウチに呼ばないのー?』って探りを入れてくるし」
「だろ? だからここは一旦落ち着け。クールにいこう、クールに」
「誰がホットにさせたと思ってるのさ……」
はぁ、とため息をつく弟分。
「それで、奏太兄ちゃんが僕に訊きたいことって、その夜這いうんぬんの確認のことだったの?」
「いや違うんだ」
首を振り、俺は軽く唇を噛み締める。
ここにきて、どう尋ねたものかと迷いが生まれた。
やや探り探りで口を開く。
「伊織君や」
「唐突な君づけ……なあに?」
「その、だな……」
肩を組んだまま、尋ねる。
「葵は……あざといか?」
「はい……?」
まったく伝わっていない顔だった。
だが仕方のないことかもしれない。
意図が正しく伝わるように、慎重に言葉を重ねる。
「や、俺は思うんだ。ひょっとすると、葵もなかなかの『スキル:あざとさ』を有しているのではないかとな」
「まず『スキル:あざとさ』ってなに?」
「思い起こせば、俺を『奏太お兄ちゃん』と呼ぶ時の葵はなかなかの火力を叩き出す。あれは確実にスキルを有してる者の御技だと俺は睨んでいる」
「睨むのはいいとして、これは僕の勘だけど、たぶん奏太兄ちゃんは明後日の方向を睨んでると思うよ?」
「今こそ恥を忍んで訊きたいんだ! 伊織、お前は――葵の『スキル:あざとさ』にどう対抗している!?」
「あ、なんか分かってきた。これ、アレだね。お姉ちゃんのことで空回ってるいつものパターンのやつだね」
俺はグッと拳を握り締める。
「今こそ俺は知らねばならない! なぜあざとい女子はあんなにも可愛いのか!? どうすれば俺たち男はあざとい女子に振り回されずに済むのか!? その答えを知らなければ、俺はもう唯花に勝てる気がしないんだ……!」
「あー、うん、大変だねー」
そう、唯花が『スキル:あざとさ』を手に入れてから二日が経ち、この間、俺はまったく太刀打ちできないでいた。
それはもう振り回されるわ、振り回されるわ……。
唯花は調子に乗って事あるごとに俺をからかってきて、しかもこれが大変可愛いので、非常に性質が悪い。
さらにはお家デートの時に寝ている俺へ何をしたのか、今もどうにか聞き出そうとしているのだが、毎回あっさりとあしらわれてしまう。
正直、まったく歯が立たない。
このままではいかんのだ。
もちろん学校でも色んな奴らに相談したんだが……納得のいく答えは得られなかった。
露出多めなギャル副会長にいつも振り回されている生徒会長は『三上、振り回されない方法なんて私が知りたいよ……』と遠い目で言うし、女バスの部長と付き合っている元盗撮魔の一年坊主は『僕は振り回されてる今がとっても幸せです!』なんて胸を張っている始末。
他の男子たちも似たり寄ったりだ。
こうなればと言うことで、いよいよ恥を忍び、カノジョ持ちの我が弟分、伊織に白羽の矢を立てたというわけだ。
その辺の経緯をきちんと説明するため、俺は改めて伊織の目を見る。
だが『唯花があざとさスキルを手に入れて――』の『ゆ』の字を言おうとしたところで、伊織が先に口を開いた。
「とりあえず、奏太兄ちゃんがどうでもいい窮地に立たされてることは分かったよ。でもお姉ちゃんがあざとくなって困ってて、それを打破したいって言うんだったら、僕よりももっと的確な相談相手がいるんじゃない?」
「的確な相談相手……? いやいないだろ、そんなの……」
「ううん、いるよ。これでもかっていう適任者が」
「……誰だ? 一体、誰のことだ?」
「ええと、じゃあ紹介します」
伊織はリビングの入口へ手を向ける。
「ウチのお母さんです」
「はいはーい、お母さんです♪」
「な……!?」
言葉を失う俺。
なぜかそこにいる撫子さん。
「おかえり、いおりん。あと奏ちゃんは撫子さんに何か相談があるのかしらー? いいわよ、なんでも聞いてあげちゃうっ!」
横ピースで、きゅぴるんっ、と謎の効果音がしそうな笑顔とポーズ。
ウェーブの掛かった髪がふわっと揺れて、薄手のカーディガンに包まれた胸がたゆんっと波打つ。
あざとい、確かにあざとい……!
しかも綺麗で可愛い……!
恐ろしい、唯花の上位互換のようなあざとさだ。
唯花の母親であることを考えても、確かにこれほどの適任は他にいない!
だ、だが……っ。
「待ってくれ! 伊織の前で唯花のことを撫子さんに相談って、一体なんの罰ゲームだよ……っ!?」
「んー、僕と葵ちゃんを大混乱させた『罰』ゲームかな?」
小声で言い、にこっと微笑む伊織。
なっ!? い、伊織に嵌められた……!?
戦慄した。
伊織が強くなっている。
おそらくは葵と恋人同士になったことによる成長だろう。
お家デート中の何かによって急成長した唯花と同様に、伊織もまた新たなステージに到達していた。
それはさりげなく俺に意趣返しができるほどに。
前門の虎、後門の狼。
リビングの撫子さん、玄関の伊織。
まさかの如月親子タッグに挟まれ、俺はひたすらに震え上がった。
次回更新:1/15(水)予定




