第109話 主人公が目覚め、物語が始まる(三章エピローグ)
日が昇り、朝になった。
ここはホテルのロビー。昨日倒れた柱時計は壁にビス止めされ、周囲には衝突防止のパーテーションが置かれている。ホテルの皆さんの迅速なお仕事だ。
もちろん倒れたのはこっちのせいなので、ホテルの皆さんには昨夜のうちに平謝りしてある。
朝ちゃん先生と、なぜか俺で。
いやいいんだけどさ、伊織や葵のミスは俺の責任ってことでまったく構わないんだけどさ、ノータイムで俺を連れてく先生の判断はどうなのさ?
と思ってたんだが、さっきベルボーイの人に聞いたところによると、先生と俺が職員部屋に引っ込んだ後、伊織と葵も謝りにきたらしい。
で、ビス止めとパーテーションの設置を手伝わせてもらったそうだ。うむ、よくできた義弟と義妹でお兄ちゃんは鼻が高いぞ。
あと時間から逆算すると、2人が昨晩致しちゃったりしてないのも確実だ。
うむ、倫理観のしっかりした義弟と義妹でお兄ちゃんはほっとしたぞ。いやマジでほっとした。
そして俺はというと、結局、本当に一晩中説教されて今に至る。
ってか、職員部屋って言っても女性教師たちの泊まる部屋だから『いいのかよ?』と思ったんだが、どうやら卒業生はいくつになっても子供という扱いらしい。
他の女性教師たちも『うーわ、三上君じゃない! なんでこんなところにいるの? ひょっとして先生たちを夜這いにきたのかしらー?』とかすげえウザがらみされた。
最終的には朝までビールのお酌をさせられる始末である。
酔っぱらった独身教師たちに囲まれて、身に覚えのない女関係の説教を延々されるとか、控えめに言って地獄以外の何物でもなかったぞ……。
で、朝のロビーにはすでに中学生たちが私服姿で集合していて、先生たちも一緒にいる。朝まで飲んでたのにまったく酔いを感じせない。タフ過ぎるだろ……。
今は移動のバスを待っているとのことだ。
そして俺はというと、ロビーの端で中庭を眺めながら電話中。
相手は――唯花である。
「ま、そんなこんなで色々あって一件落着だ。こっから先は伊織と葵にとっても良い修学旅行になるだろうさ」
「『うみゅ、ご苦労。良き働きであったぞよ』」
やんごとなきお返事だった。
とりあえず唯花には『伊織を京都まで送って、柱時計が倒れてうんぬん』とかいつんだ説明をしておいた。俺の仲間たちとはあんまり面識がないからな。
……しかし唯花と電話で話すのは、なかなか新鮮な気分だった。
毎日会ってるのに、こうして電話越しに会話するのは一年半ぶりだ。
「『ふふ』」
「どうした?」
「『なんか奏太の声が耳元から聞こえてきてくすぐったい』」
どうやらあっちも似たようなことを考えていたようだ。
照れ隠しにちょっと混ぜっ返してみる。
「耳が刺激されるからって、エロいこと始めるなよ?」
「『え、だめかな? 奏太の声だからいいかな……って思ったんだけど』」
「なん、だと……っ!?」
甘えるように言われて、言葉に詰まった。
途端、からかい声が聞こえてくる。
「『うっそー♪ 本当えっちなんだから奏太は。程々にしないといけませんぞ?』」
「こ、こやつめ……っ」
伊織と葵のマシンガンキスを見てないからそんなことが言えるんだぞ、お前は!
今後の姉弟関係を慮って具体的な回数などは伏せてやったというのに、ぜんぶさらけ出してくれようか。いやもうちょっぴりさらけ出してくれよう。
「16回だ」
「『ん、何が?』」
「何かが、だ。いずれ分かる日がくる。震えて待つがいい」
「『よく分からんのです』」
「それは幸せなことなのだよ、お嬢さん」
ダンディに言って、ひっそりため息。
ひょっとしたらこの修学旅行中にも回数が増えるかもしれんし、本当に知らない方が幸せなことかもしれん。弟分に経験値で抜かれる兄貴分とか……本当につらい。
「ま、とりあえずだ」
電話したまま軽く伸びをして、気持ちを切り替える。
「せっかく久しぶりに京都にきたんだし、適当にぶらぶら観光してから帰るわ。幸い、今日は休日だし、バイト先の店長も休みでいいって言ってくれたからな」
「『何を言ってるのかね、チミは』」
通話先のジト目がありありと浮かぶ声。
「『超特急で帰ってきなさい。今回、スーパー頑張った唯花ちゃんをスーパー甘やかすためにスーパーマッハで帰宅するのです』」
「……ですよねー」
そうくると思った。
むしろそう言わせたくて言った感もちょっとある。
「じゃあ、土産だけ買ってとっとと帰るわ。何がいい? やっぱ八つ橋とかか?」
「『んー、お土産か。なんでもいいけど……あ』」
ふと何か思いついたような間。
唯花の声のトーンが少し変わった。
「『あのね、奏太。あたし、気づいちゃったんだ。ここ最近の奏太の隠し事がなんなのか』」
「俺の隠し事?」
そんなのあったっけ?
と一瞬考え、しかしすぐに思い至った。
振り返って視線を向ければ、そこには伊織と初々しい距離感で談笑している葵の姿がある。
そしてスマホの向こうで唯花が言う。
どこかおっかなびっくりしつつ、でも弾むような口調で。
まるで真っ白な雪原を進むように。
「『あのね、お土産は――あたしたちの義妹の写真がいいな』」
一瞬、虚を突かれた。
完全に予想外な言葉だったから。
だが昨夜の唯花の頑張りを思えば、まったく不思議なことじゃない。
……俺の過保護もここまでだな。
もう唯花にとって星川葵という少女は空想上の存在じゃない。伊織の恋人、つまりは義妹だ。
伊織と葵の交際から外の世界の変化を感じても、唯花がもう淋しさを感じることはない。そう思えるくらい成長したのだ。
俺は唇に弧を描く。
「よしきた、了解だ。すぐに送ってやるからちょっと待ってろ」
通話を切り、ロビーに向かって大きく手を振る。
「伊織っ、葵ーっ! あと朝ちゃん先生も! ちょっと手伝ってくれ!」
そう言って、俺は勢いよく駆けていく。
◇ ◆ ◆ ◇
あたしはベッドで布団にくるまり、画面をじっと見つめて待機中。
両手でスマホを握りしめ、ドキドキしながら待っている。
ちなみに昨夜はびっくりするくらいよく眠れた。
過呼吸のせいでほぼ気絶するみたいな寝落ちだったのに、スヤスヤ眠って元気いっぱい。
そうです。直前のご褒美のおかげです。
もう思い出すだけで頭から煙が出そう!
「……きゃ~っ! キスしちゃった、キスしちゃった、奏太とキスしちゃったんだよね、昨夜! にゃははは!」
ベッドのなかでバタバターっ。
と、ひとりでカーニバルしてたらスマホに通知がきた。
我に返って、がばっと起き上がる。
「き、来た!」
奏太からの『京都土産』というメッセージと共に、写真が添付されていた。
すぐにタップして拡大表示。
それはホテルのロビーで撮られた、3人の写真。
右側で奏太が伊織の肩に肘を置いて、ニッと歯を見せている。
真ん中の伊織は満面の笑顔。
左側にはふわふわ髪の可愛い女の子がちょっぴり緊張気味の笑みで立っている。
「この子が……葵ちゃん」
あたしたちの可愛い義妹。
よく見ると、伊織と葵ちゃんは奏太から見えない位置でこっそり手を繋でいた。『もう大丈夫だよ!』と言うように。
「あは……」
写真の2人を撫でるように指先で触れる。
すると写真の画像がスワイプして、少し横にズレた。
「あ……」
思わず声がこぼれた。
この写真って……。
と思うと同時にきたのは、奏太からの追加のメッセージ。
「『次は唯花も一緒にな?』」
その意味に気づき、苦笑が浮かぶ。
「もう、素敵な演出をしおって……」
奏太はあたしがすぐに拡大表示しちゃうと読んでいたんだろう。
追加のメッセージを不思議に思って写真のサイズをいじっていると、やがて気づくという仕掛けだ。偶然スワイプしたおかげでちょっと早く気づいたけどね。
通常表示にすると、写真は中心から少しずれて撮られていた。
具体的には伊織と葵ちゃんが真ん中になって、葵ちゃんの左隣がぽっかりと空いている。
まるで、ここにもうひとり来るぞ、と言うように。
あたしは改めて写真を見つめる。
伊織の満面の笑顔を。
葵ちゃんの緊張気味な、でも可愛い微笑みを。
お姉ちゃんここだよ、と言われた気がした。
お姉さん待ってます、と言われた気がした。
その瞬間、すごい勢いで涙が込み上げてきた。
あたしにも居場所があるんだ、って思えた。
ああ。
そうだ、そうだよ……。
あたしには待っててくれる人たちがいるんだ……っ。
ぽろぽろと涙がこぼれだす。
あとからあとから溢れて、止まらなくなっちゃいそう。
でもこんな日に泣くのはもったいない。
あたしはパジャマでごしごしと涙をぬぐい、ベッドから勢いよく跳ね起きる。
「よーし……っ!」
窓から朝日が差し込むなか、スマホを高く掲げた。
「決めた! いつかぜったいあたしもここに並ぶぞーっ!」
そして面と向かって言うのだ。
おめでとう、って。
嬉しいよ、って。
伊織と、そして葵ちゃんに!
朝日が写真を鮮やかに照らしている。
この輝きは明日への道しるべ。
頑張ってよかった。
勇気を振り絞ってよかった。
この写真はあたしの勲章だ。
奏太が帰ってきたら、うんと甘えて、充電して、また頑張る!
こうして。
凍えるような夜を越えて。
居場所があることを思い出して。
あたしの心は輝く明日へと走り始める――。




