第108話 後の世に伝わりし、義妹革命である!後編(葵視点)
正直、わたしはまだぜんぜん気持ちが追いついていなかった。
消灯時間の後、ホテルを抜け出して縁結びの神社にいったのは、伊織くんとお別れしたことが哀しくて、辛くて、心が壊れてしまいそうだったから。
でもそこにまさかの伊織くんが現れて、追いかけっこになって、柱時計から助けてくれて、キスされて、告白されて、また恋人同士になれた。
で、さらにキスをしていたら、まさかの奏太兄ちゃんさんがいて、告白もキスも見られていて、さらには学校の人たちもいて、やっぱり告白もキスも見られていて、でも……みんなが祝福してくれている。
わたしはまだぜんぜん気持ちが追いついていない。
しかもみんなの輪に囲まれていたら、奏太兄ちゃんさんに呼ばれて、『致しちゃうつもりじゃないよな?』なんてセクハラっぽいことを言われた。本当に変態さんだと思います。
いくら『夜這い伝説』があるからって、伊織くんとわたしがこの後、どうにかなっちゃうなんて、そんなこと……あるわけないのに。
「あるわけない……よね?」
身じろぎしながら独り言をつぶやく。
でももし伊織くんに本気で求められちゃったら?
もし伊織くんが本気でオオカミさんになって襲ってきちゃったら?
それは……実はちょっとだけ嬉しいかもしれない。
だってあの優しい伊織くんが襲ってきちゃうような姿を目の当たりにできるのなんて、世界中でわたしだけかもしれないから。
あ、ダメだ。
伊織くんがオオカミさんになっちゃえばなっちゃうほど、わたしは心のどこかで喜んでしまいそう。口では『めっ』って言いながらも、何一つ拒否できる気がしない。
むしろ伊織くんには無理やり襲ってきてほしい……とすら思ってしまう。
「……っ!? な、何考えてるのわたし!? こんな変態さんみたいなこと、奏太兄ちゃんさんじゃないんだから……っ」
真っ赤になって慌てて首を降った。
いけない、自称お兄ちゃんの変態さんに悪い影響を受けちゃってる。しっかりしないと。
その奏太兄ちゃんさんはわたしの様子には気づかず、隣で何やら独り言をつぶやいていた。
「いかん、いかんぞ。このままだと、俺はこの歳でおじさんになってしまう……っ」
またワケの分からないこと言ってる。
かと思うと、奏太兄ちゃんさんはジャンパーからスマホを取り出して、誰かと喋りだした。
「――アー子さん、なんか間違った価値観を持った若者たちを正せる道具とかないか? え、洗脳できる周波数? よし、それでいいや! ……は? 俺に使うつもりだったって? またまた冗談ばっかり。じゃあ、よろしく! 頼りにしてるぜ、アー子さん!」
スマホの向こうから大きなため息が聞こえ、奏太兄ちゃんさんは突然、声を張り上げた。
「聞け、中学生たちよ!」
スマホが天高くかざされ、何やら……音波のようなものが響き始めた。
途端、学校のみんながビクッと反応し、目がグルグルし始める。
「ちょ、怖い! 何してるんですか、奏太兄ちゃんさん!?」
「よくぞ聞いてくれた。『夜這い伝説』などという不埒な伝承をここで終わらせるんだ。葵、俺の背中側に下がってろ。お前はお兄ちゃんとしてあとで俺が直々に説き伏せる。伊織、お前もだ! この周波数は指向性らしい。俺の後ろで音を聞かないようにしろ、早く!」
「分かった! 葵ちゃん、こっちに! 僕と一緒に退避しよう!」
「えっ、伊織くんの行動が迅速!? 奏太兄ちゃんさんが何しようとしてるのか、分かるの!?」
「いや分からない。僕に分かるのは、知らない方がいいこともあるってことだけ! 奏太兄ちゃんの不思議時空に巻き込まれないように距離を置こう!」
「不思議時空ってなに!? 奏太兄ちゃんさんって一体なんなのーっ!?」
疑問もそこそこに伊織くんに促され、わたしは奏太兄ちゃんさんの背後にまわる。
スマホを掲げたまま、奏太兄ちゃんさんの言葉は続く。
「いいか、中学生たち! 夜這いなんて格好いいことじゃないぞ! そんな一時の衝動に駆られた行動をするよりも、清く正しい交際の方が大切だ!」
「「「……清く……正しい交際……大切……」」」
なぜかグルグル目でみんなが復唱している。怖い、普通に怖い。
「そうだ! たとえば!」
奏太兄ちゃんさんは高らかに言い、自分の背中側を指差した。
「そこにいる、如月伊織! あいつの姉は――俺の嫁だ!」
伊織くんは目をぱちくり。
……いやいいんだけど、中学生相手に何を言ってるの? という顔だった。
わたしもそう思います。
でも奏太兄ちゃんさんはそんな視線をスルーして続ける。
「もちろんまだ学生なので、俺と伊織の姉はエロいことなど一切していない! まったく何一つこれっぽっちもしていない! 清い関係を貫いている! これは本当のことだ。とてもとても本当のことだ!」
「「へー……」」
今の声は伊織くんとわたしのもの。
なんだろう、大人って汚い。
奏太兄ちゃんさんはそんなツッコミをスルーしてさらに続ける。
「分かるか!? 若さに乗じて衝動的な行いをしてしまうよりも、学生の頃は清い交際を続けて信頼できる関係性を築くことこそが大切なんだ! 現にこの信頼関係によって、伊織は俺を実の兄のように慕っている!」
「……や、いいんだけどさ、奏太兄ちゃん。自分で言う? それ」
伊織くんのツッコミもスルー。
「そして! 伊織と恋人同士になった葵は将来を見越し、以前から俺を『お兄ちゃん』と呼んで慕っている!」
「え、以前から将来を?」
「ちょ!?」
驚いた顔で伊織くんに見られ、わたしはボォッと顔が熱くなる。
「何言ってるんですか、奏太兄ちゃんさん!?」
「ほらな、兄ちゃん呼びだろ?」
「ちがっ、これは違うやつで……っ」
「つまり葵はすでに俺の義妹だ!」
お目々グルグルのみんながザワッとざわめいた。
ここかっ、と手応えを感じたようにつぶやき、奏太兄ちゃんさんはさらに声を張り上げる。
「聞けぃ、中学生たちよ! ちゃんと清い交際をしていれば、この歳でこんな可愛い義妹も出来ちゃうんだぞーっ!」
何言ってんのこの人っ、何言ってんのこの人っ、何言ってんのこの人-っ!?
わたしの心の絶叫をよそに、おおおっ、とみんなにどよめきが走った。
男子も女子も目をグルグルさせながら感極まった顔をしている。
一方、奏太兄ちゃんさんは『やりがいのある仕事だぜ……っ』みたいな顔でこっちを振り返る。
「よーし、あと少しだ。この周波数はまだ開発中らしくてな。ちゃんと心を掴むような言葉で誘導しないと、完璧な洗脳はできないらしいんだ。もう一手、あと一押しがあれば『夜這い伝説』への幻想を上書きできるはずなんだが……葵、何か良い手はないか?」
「知りませんよぉ!? 謎の頑張りにわたしを巻き込まないで下さい!」
「事情はあとで説明する。それよりも今は義妹爆誕にキュンキュンきてる中学生たちにトドメを刺す方法を考えてくれ」
「いやわたしは今、何を頼まれてるですか!? ワケが分かりません!」
「葵ちゃん、不思議時空に巻き込まれかけてる! こっちにおいで。今の奏太兄ちゃんに近寄っちゃいけない!」
伊織くんに呼ばれて、はっとした。
ツッコんでるうちに奏太兄ちゃんのペースに飲まれそうになっていた。
危ない、本当に危ない。
距離を取るためにさらに数歩下がると、伊織くんが自分の背中にわたしを隠してくれた。
「僕も今回知ったんだけど、奏太兄ちゃんはよく分からない世界観に片足突っ込んでるみたいなんだ。あれに関わっちゃいけない。どうやら奏太兄ちゃんは『夜這い伝説』をどうにかしようとしてるみたいだから、とりあえず終わるまで待とう。ここは遠くから見ているのが一番だと思う」
「な、なるほど……」
君子危うきに近づかず。
わたしたちは奏太兄ちゃんさんの試行錯誤を後ろから見守る。
ただ、そうしていて……ふと気づいた。
背中越しにちらりと見える、伊織くんの横顔。
その眼差しがどこか浮かないことに。
「伊織くん……どうかしたの?」
「え、何が?」
「ちょっと元気がないように見えたから」
「あ、ごめん。……えっと」
伊織くんは苦笑を浮かべた。
少し悔しそうに、柱時計の方をチラリと見て。
「僕、奏太兄ちゃんを超えるって息巻いてたのに……結局、助けてもらっちゃったなって思って」
「あ……」
わたしの上に柱時計が倒れてきた時、伊織くんは覆いかぶさって庇ってくれた。
一方、奏太兄ちゃんさんは柱時計そのものを支えて、わたしたち二人が潰されないようにしてくれた。そのことを言っているのだろう。
伊織くんは奏太兄ちゃんさんを見つめ、どこか眩しそうにつぶやく。
「あの背中は……まだまだ遠いや」
わたしはすぐに『そんなことないっ』って言おうと思った。
実際どうだったかなんて、大した問題じゃない。わたしは伊織くんが来てくれたことが嬉しかったし、そのおかげでこうしてまた恋人同士になれた。
でもいざ口を開こうとすると、上手く言葉が出なかった。
これは……きっと男の子の意地の問題だから。
女の子のわたしが何を言っても、きっと慰めにはならない。
そう気づいた時、ふいに奏太兄ちゃんさんが肩越しに振り向いた。
「遠くなんてないさ」
紡がれたのは、とても自然な口調の言葉だった。
伊織くんの兄貴分さんは口の端を上げて言う。
「――格好良かったぜ、葵のヒーロー」
「あ……」
思わず声をこぼしたのは、わたし。
なぜなら奏太兄ちゃんさんがすごく優しい顔をしていたから。
伊織くんを見つめる瞳は、とても眩しそうだった。
小学校の頃から話を聞いていたわたしには分かる。
奏太兄ちゃんさんが弟分にこんな眼差しを向けるのは、たぶん初めてだ。
そして。
ヒーローと呼んだ声のなかには……ほんの少しだけ悔しそうな気持ちが含まれていた。
その悔しさは伊織くんがほんの少しでも背中に届いた証。
奏太兄ちゃんさんはすぐにまた前へ向き直り、同時に伊織くんがばっとわたしの方を振り向いた。
「あ、葵ちゃん、聞いた!? い、今っ、奏太兄ちゃんが僕に……っ!」
その場で飛び跳ねてしまいそうなほど嬉しそうな顔だった。
無邪気な笑顔に思わずキュンッとしてしまう。
男の子、可愛いなぁと思った。
伊織くんはまわりの人の気持ちには鋭いけど、意外に自分のことは気づかない。
だから彼だけが分かっていない。
わたしはとっくに気づいている。
奏太兄ちゃんさんも分かってるって、今の言葉ではっきり伝わってきた。
あのね。
伊織くんは『奏太兄ちゃんみたいにはなれない』って言ってたけど、それって絶対『違う選択をしたけど、それこそが理想への道だったんだ』って、あとで気づくパターンのやつだよ。
伊織くんは真っ直ぐ理想に向かっている。
そしていずれその理想すら超えていく可能性を秘めている。
じゃあ……わたしは?
心に問いかけ、でも答えはすぐに出た。
わたしは一緒に歩いていきたい。
迷いながら、怯えながら、それでも真っ直ぐ進んでいく――この人の隣で同じ景色を見ていきたい。
伊織くんが好き。
ずっと一緒にいたい。
それがわたしの叶えたい願い。
特別な人間にはなれないとか、まわりの目が怖いとか……そんなものはもうどうでもよくなってしまった。
真っ直ぐな『好き』が心にあれば、きっと女の子はいくらでも強くなれる。
心が羽のように軽い。
今ならなんだって出来る気がした。
「ね、伊織くん」
わたしは彼の手を握る。
「奏太兄ちゃんさんのお手伝い、してあげちゃおっか?」
「え、お手伝い?」
「うん」
奏太兄ちゃんさんはどうやら学校のみんなに『清い交際が正しい』って思わせたいらしい。
そのために自分やわたしたちを引き合いに出しているようだ。
だったらちょっとは役に立てるかもしれない。
わたしは伊織くんの手を握りながら言う。
「最初に付き合った時、伊織くんがお姉さんと奏太兄ちゃんさんに言ったこと、今度はわたしが言いたいの。みんなに!」
伊織くんは一瞬驚いた顔をし、でもすぐに手を握り返して「うん!」と頷いてくれた。
手を繋ぎ、わたしたちは同時に駆け出した。「お?」と目を瞬く奏太兄ちゃんさんを追い越し、学校のみんなの前へ躍り出る。
そこにはいつの間にかわたしの友達やクラスメートもいて、何十人という数になっていた。
でももう怖がったりしない。
繋いだ手を握り直し、胸を張って言う。
「みなさーん!」
あの時、伊織くんが壁の向こうのお姉さんと奏太兄ちゃんさんに言ったように。
堂々と。
わたしは宣言する。
「わたしたち、恋人同士になりましたーっ!」
「なったよーっ!」
声がロビー中に響いた。
途端、奏太兄ちゃんさんが「それだ! ナイスな最後の一手だ!」と叫び、みんなのグルグル目がぱちっと元に戻った。
男子も女子もそれぞれに顔を見合わせて言う。
「ああ、なんか手を繋いで微笑み合ってる、あの感じいいな……」
「夜這いだと得られない爽やかさよね、きっと……」
「そうだよな、夜這いなんて駄目だよ。俺たち、ちゃんと清い交際をすべきだよ!」
そんな声が次々に上がった。
奏太兄ちゃんがグッと拳を握り、感極まった顔でナレーションみたいに言う。
「ここに『夜這い伝説』は覆された。今夜を境に中学生たちは夜這いへの幻想を捨て、正しい交際を志すようになったのだ。これが――後の世に伝わりし、義妹革命である!」
よく分からないけれど、奏太兄ちゃんさん的にも満足のいく結果になったらしい。
そして拍手が巻き起こった。
伊織くんと、わたしに向かって。
「如月君、星川さん、おめでと!」
「おめでとうーっ!」
そう言ってくれたのは、伊織くんのクラスメートの男の子たちと、女バスの女の子たち。拍手はどんどん広がり、やがてここにいる全員が喝采を送ってくれた。
胸が熱くなる。みんなが祝福してくれていた。
伊織くんだけじゃなく、わたしのことも。
勇気を出して踏み出して、そのおかげで――伊織くんと同じ世界に来られた気がした。
「……伊織くん」
「なあに?」
彼は優しく微笑みかけてくれた。
ぐすっとしゃくり上げ、わたしは言う。
「ありがとう、わたしを迎えにきてくれて」
そう囁くと同時、背後でボーンボーンと穏やかな音が響いた。
12時の鐘。
今日が終わった音。そして新しい一日が始まる音。
わたしは15歳になり、そして――これから新しい日々が始まる。
……と感慨深く思っていたら、朝倉先生がふらふらと目の前を通っていった。なぜかトレードマークのポニーテールがほどけ、足取りもおぼつかない感じ。
その手が奏太兄ちゃんさんの肩をガシッと掴む。
「み~か~み~っ!」
「うわっ、朝ちゃん先生!? どうした!? なんで俺に怒りに眼差しを向けてんの!?」
ビクッとする奏太兄ちゃんさん。
一方、ゴゴゴッと効果音が響いてきそうな朝倉先生。
「そうかそうか、お前、私に気づいてなかったのか。そうだよな、お前はそういうところがあるよな。……三上、お前には信頼している女を雑に扱うクセがある!」
「はぁ!? どういうことだってばよ!?」
目を剥く奏太兄ちゃんさん。
スマホから誰かが「『本当だよ! 三上ちゃんはそういうところがあるよ!』」と同意している。
朝倉先生はそのまま奏太兄ちゃんさんを引きずっていく。
「とにかく職員室に来い! 朝まで説教だ!」
「なんで説教!? あと職員室なんてないだろ!? ここホテルなんだから!」
「だったら職員部屋に来い! 如月弟が覚醒するなんて、由々しき事態だ。くっ、こうならないように教師として大事に大事に見守ってきたのに……っ。半分は私の責任だ。だがもう半分はお前の責任だからな、三上!」
「なんで!? いや聞いてくれよ、先生! 俺も唯花の時の反省を活かして上手くやったんだぜ? 本当なら今回は京都から関東圏に掛けての騒ぎになってたかもしれないんだからな!? それをこのホテルのロビーだけに留めたんだから、むしろ褒めてくれよ!?」
「生温い! その程度で満足するようならお前はまだまだひよっ子だ。如月家に関わる先輩として説教してやる。――ほら、お前たちも何時だと思ってる!? 部屋に戻りなさい!」
先生の一言で生徒たちは蜘蛛の子を散らすように解散した。
で、奏太兄ちゃんさんは本当に朝倉先生に連行されていく。
よく分からないけど、今夜のことはぜんぶ奏太兄ちゃんさんが罪を被ってくれるみたい。ありがとうございます、奏太兄ちゃんさん。
「いや葵!? そんな『恩義に感じてます的な顔』でぺこっとして俺を見捨てるな、おーい!?」
そんな声を華麗にスルーし、伊織くんとわたしも他の生徒にまぎれて駆けだす。
なんだか映画のワンシーンみたいですごく楽しい。
こんな楽しい毎日がきっとこれからも続いていく。
そう確信しながら、わたしは新しい日々へと走りだした――。




